2018年05月11日

【昭和の遺伝子】夜歩く

 賞をいただいたハイティーンの頃から、20歳前半にかけては、夜、歩くのが好きだった。
 と言っても、夜の繁華街に繰り出して、というわけではない。そういう夜の街とは無縁の生活を送ってきた。
 誰もいない、深夜の住宅街や商店街を、ひとり、ウォークマンを聞きながら歩く。特に目的地があるわけではない、ただ、気ままに深夜の散歩を楽しむのである。

 歩きながら、いろいろと小説のストーリーを考え、構築する。当時のわたしは、家の中にこもっていて、突然なにかアイデアがひらめいて降りてくる、といようなことはあまりなかった。たいていは、歩きながら考えていた。

 歩くことは苦にならなかった。免許も持っていない頃である。移動手段は自転車か歩くしかなかった。そしてわたしは、昼でも、夜でも、歩くのが好きだった。
 予備校生時代は、毎日のように、予備校のある水道橋と、神田の古書店街、そして、秋葉原への道を歩いていたくらいだった。

 酒と煙草がたしなめる歳になると、チョビチョビと酒を飲みつつ、煙草を吸いながら、夜の散歩を楽しむようになった。ちょうど、缶チューハイが流行し始めた頃である。ビールはまだ子ども舌の自分にはうまくなく、瓶の日本酒はアルコール臭が生々しすぎて駄目だった。
 煙草は以前も書いたが、初期はキャビンマイルド、中期はキャスターマイルド、後期はマイルドセブン。吸い殻はちゃんと、吸い殻入れに入れて持ち帰る。当時はやっと「吸い殻は吸い殻入れに」という運動が始まり、カートンで買うとサイフのような吸い殻入れを専売公社がつけてくれたのであった。

 夜の街は、シンと静まり、みなが夢を見ている、その時空間を、ひとり、のんびりと歩いている。寂寞感がよかった。

 そういえば、当時は風営法がまだなかったので、深夜でも開いているゲームセンターがあり、そこで普通のテレビゲーム(確かマッピー)をしていると、店のマスターが寄ってきて、「あちらの台で儲けられますよ」という。覗いてみると、テレビゲームの筐体にお札が入るようになっていて、そこでポーカーだかなんだかができるようになっているのである。違法ギャンブルマシンであった。
 元来、ギャンブルとは無縁のタイプであったので「ほぉ、こういう世界もあるのだなぁ」と感心して、手は出さなかった。

 数年間、毎日ではないが、気が向くと夜歩く習慣を通していて、一回もトラブルに巻き込まれたことはなかった。酔っ払いにからまれたこともなければ、警察官に職質されたこともない。

「夜」ということを抜かせば、よく歩いたのはいい習慣だったと思う。
 今でも歩くのは嫌いではないのだが、やはり歳のせいか、どこまでも歩いて行ける、というような気持ちがなくなってしまった。
 会社を作って営業に回っていた頃は、若い頃に負けないくらい歩いていたものだが、そのうち膝を痛めてしまい、無理がきかなくなってしまった。

 若い頃は、歩きながら、自分はこの二本の足で、どこまでも歩いて行ける。そんなふうに思っていた。

 人生も、そんなものなのかもしれない。
 ふと立ち止まって、後ろを振り返ると、これまで歩いてきた道程のいろいろが思い出されて、あの深夜の寂寞感とはまた違った、喜びと、悲しみと、笑顔と、涙がないまぜになった、不思議な感情に、目を伏せる。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子