2018年06月08日

【日記】聖書とネットの微妙な距離

 どうも。「ラブライブ!」を「ヘブライ部!」と空目した結城です。なんでやねん。

 唐突だが、「カトリック教会のカテキズム」、第1部第3項、「聖書」の段には、次のように書かれている。

105 神が、聖書の作者です。「聖書に含まれ、かつ、示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものです」


 聖書の本来の著者は神である――この明快な真実が、この現代においては軽視されているきらいがあるのかもしれない。

 知っている人は知っているが、旧約聖書はラブライ……ヘブライ語で、新約聖書はコイネーと呼ばれる当時の一般的なギリシャ語で書かれている。しかし、これを各国語に翻訳した時点で、翻訳した人や、法人に「著作権」が生じるのである。

 実は、今の日本の主流の聖書である「新共同訳聖書」をウェブサイトに引用する場合、日本聖書協会は「引用は250節以内(下位ディレクトリ全体を含む)」という制限を課している。
 下位ディレクトリ全体を含む、というのは、「そのウェブサイト全体で」と同じ意味のようなものだ。
 例えばこの「いまさら日記」でも、新共同訳聖書を何カ所も引用しているが、実際、合計何節引用しているかは把握していない。将来的に日本聖書協会からクレームがきたら、過去に書いた日記の書き直しをしていかなければいけないかもしれない。

 1954、1955年に発行された口語訳聖書は、公表から50年を経過しているため、日本の国内法により、2005年に日本聖書協会の著作権が切れている。ウェブサイトへの掲載にも制限がないため、過去の日記は口語訳聖書へと書き換えすれば問題はない。

 もちろん、250節うんぬんは、日本聖書協会が呈している「マナー」である。日本の現行法に照らしあわせるなら、「引用」ならば何節だろうが、まったく問題はない。

 このあたりは、日本聖書協会も、ある意味(宣教のため)見て見ぬふり、というところもあるのではないだろうか。

 プロテスタント福音派が用いている「新改訳聖書」になると、もっと条件が厳しく、ウェブサイトに限らず全メディアで「引用聖句は250節以内(表示、非表示に限らず、ネット上、ソフト上などに掲載するテキストデータすべてを含む)」となっている。
 それを超える引用がある場合、出版元に使用料を払わなくてはいけないとのこと。引用で使用料を取るというのは、日本の現行法において「ありえない話」だが、まあ、福音派だからね。
 しかしま、他教派ながら、窮屈すぎやしないかな、と、心配になったりしないでもない。

 話を戻して、新共同訳聖書を口語訳聖書に書き換えるという話だが、これもまた問題があって、カトリックの言葉にそぐわない箇所もあるのである。例えば、「エフェソの信徒への手紙4章5節」。口語訳では――

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。(エペソ人への手紙 4:5)


 となっている。新共同訳では、「洗礼」に「バプテスマ」とフリガナをふっているが、口語訳ではカタカナの「バプテスマ」のままなのだ。
 カトリックでは「洗礼」とは言っても「バプテスマ」という言葉を(英語ミサでもなければ)使わないので、この節を引用するとしたら口語訳は使えない。口語訳聖書には、こういった教派の違いを吸収できない箇所がいくつかある。

 ではこういうときどうするか――わたしが以前、Web制作で関わったカトリック教会のサイトでは、「フランシスコ会訳聖書」を引用することでしのいだ。上の箇所は、フランシスコ会訳聖書だと――

主はひとり、信仰は一つ、洗礼は一つです。


 となるので、違和感はない。

 フランシスコ会訳聖書は、1984年発行改定版では主イエスを「イエズス」と記してあるなど、他の聖書訳との違いがあらわになることもあったが、2011年に発行された「原文校訂による口語訳」では「イエス」に統一され、この点でも引用に使いやすくなった。
 フランシスコ会は、現在、引用にあたって特別なルールを課していないため、日本の国内法に沿っていれば問題が発生しないのも良い点である。
 願わくばこの先、フランシスコ会訳聖書が、電子書籍化などされることがあっても、上記のような妙なルールを課さないことを、聖書の本来の著作者たる神様にお祈りするところだ。

 以上、たかが「聖書の引用」でも、実はけっこう気を遣うのだということがおわかりいただければ幸い。

 今年(2018年)11月末に出版される、日本聖書協会の新訳「聖書協会共同訳聖書」も、すぐデジタル化したものをだす予定、とのこと。
 こういうネット時代である。願わくば、あまりきつい「マナー」を課すようなことがないように、と、こちらも聖書の原作者である神様にお祈りして、筆を置くことにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記