2018年08月22日

【回想録】高校野球

 自分が小学生の頃は、夏の暑い日に、扇風機の風で生ぬるい部屋の空気を攪拌しながら、祖父母と「夏の甲子園」を見るのが楽しみであった。

 別にわたしは野球少年ではなかったし、野球が好きでもなかったが、プレイヤーの真剣さというものは画面越しにでも伝わるものなのである。

 プロ野球と違って、一試合一試合で勝敗が決まる高校野球には、鬼気迫る迫力があり、地元の高校が出ていたりすれば、なんとなくやはり、応援したりするものであった。
 当時、高校球児たちは、確かに自分にとってオトナであった。

 自分が高校生になってみると、不思議な気分である。残念ながらわが校は甲子園どころか一回戦、二回戦敗退ばかりだったが、市民球場に応援に行き、見知ったクラスメイトが、格好良くバッターボックスに立っていたりすると、妙な感じであった。

 たとえて言えば――中学校の同級生が運転するクルマに初めて乗ったときのような違和感、である。わかっていただけるかな?

 わたしは特に同じクラスのM君と仲が良く、M君はバッターボックスで、まるでホームラン予告のようにバットをビシッと前方に向けるのである。なかなか、格好良かった。

 高校を卒業すると、高校野球の少年たちが、自分より年下、ということにびっくりするようになる。いやぁ、みんな、オトナだなぁ、と。丸坊主であどけない表情でも、目標を目指す真剣さがまぶしく、だらけた生活を送っている自分がとても幼く感じたものだ。

 それからしばらくは、高校野球に興味なく過ごし、夏もテレビで応援、というようなことはしなかった。
 ある年、自分が相応に歳を取ってから、高校野球を見て、びっくりしてしまった。
 みんな、子どもなのである。
 いや、当たり前の話なのだが。

 念のために言っておくが、子どものように見えるから悪い、オトナに見えるから良い、というわけではない。これは単に、わたしの立ち位置が変わっただけなのだ。

 子どもの頃は、高校野球の選手たちはオトナだった。同級生のときは、彼らのオトナの一面を見せられてドキッとして、その後しばらくはそれが続くが、自分が完全にオトナになってしまうと、高校球児たちはまぶしいほど、目標一直線の子どもになってしまうのである。

 そう、おそらく、わたしは汚れてしまったのだな。オトナというものに。


(画:中原裕/原作:神尾龍「ラストイニング」44巻より引用。「敗れて悔いなし?」とインタビュアーに訊ねられたときの鳩ヶ谷監督の答え。印象的なシーンだ)

 高校野球というのは、不思議な日本の伝統だなぁ、と思う。それはひとつのサンクチュアリ――聖域――だ。熱射病で倒れても、ケガをしても美談になってしまう。
 高校野球という試練を通ることで、本当は才能があったのに、体を壊してプロに行けなくなってしまう選手もいると聞く。

 特に暑かった今年の夏は、果たしてドーム球場ではない甲子園でこれからも続けるべきか、という議論も出てきたようだが、おそらく高校野球は、灼熱の甲子園のもとで、来年も、再来年も、十年後も行われているに違いない。
 それは前述したが、夏の甲子園、高校野球が聖域だからである。わたし自身(老害発想であることを自認しながら)、夏の高校野球がドーム球場で行われたらちょっとなぁ、と思うところがないではないのだ。

 なんにしろ、日本の夏はここ最近、暑すぎる。夏の風物詩である高校野球が、この先、若い選手たちのために、なにかしら、良い方向に改善されれば、とも願う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録