2018年12月22日

【日記】超絶簡単なキリスト教入門

 クリスマス直前ということで、たまにはこんな記事を。

 クリスチャンというと、あの厚い聖書を何度も読み、聖句を覚え、日曜日ごとにミサや礼拝で神父さまや牧師先生の説教を聞き、毎週、勉強会もあったりして、なんとも小難しい宗教だ、というイメージをお持ちの方がいらっしゃるかもしれない。

 クリスチャンの書いているものを読めば、必ず「罪」、「救い」といった言葉が出てきて、「クリスチャンは殺人という罪≠犯しても懺悔をすればチャラ。それが救い≠ネんだろう?」といったような誤解をしている方もおられるようだ。

 実際、「神学」などという文化系学問のジャンルもあり、その奥は深く、底が知れない。

 しかし、本当の宗教というものは、もっと簡単なものでなければいけないのではないだろうか。
 実際、ユダヤ教の変革者であったイエスが宣教対象としたのは、律法学者――当時のユダヤ教は法律でもあった――たちなどではなく、ただの漁師や、イスラエル人たちに嫌われていたローマ帝国の犬であった徴税人。律法学者から忌まわしく扱われていた疾病持ち、身体・精神障害者。そして多くの、貧しく学のない普通の人々相手だったのである。

 さて、ユダヤ教における罪≠フ概念は簡単であった。それはモーセの教え(トーラー)を守れない者である。前述したとおり、当時のユダヤ教はイスラエル人にとって法律でもあったからだ。
 対して、イエスの提唱したキリスト教における罪≠フ概念はちょっと違う。それは法律からは分離しているのである。

 キリスト教における罪≠フ概念は「神と離れてしまうこと」なのだ。

 この世の中では、独り立ち≠キることが良いこと≠ニされている。親から独り立ちし、一人暮らしをして、自分一人の働きで食べ、生きていくことが良いことだと。
 キリスト教は、それを頭から否定し罪≠セと断罪するのである。神さまの目から見たら、人間なんて、誰しもニート。神から離れて生きてはいけない。それを忘れて「自分一人でなんでもできる」と思うことこそが罪≠セというのである。

 何億も稼いでたくさんの税金を払う人も、家に引きこもるネトゲ廃人も、神さまの目から見たら誤差範囲にもならない。同じ愛する子なのである。

 クリスチャンのスポーツ選手が、記録を出したとき、マイクを差し出したインタビュアーへ、最初に「神に感謝します」と言う意味が、これでおわかりになられるだろう。記録を出せたのは、自分の手柄ではない、神の加護があったからこそできたこと、それを自覚しているのである。

 では「救い」とはなにか。それはイエスが身をもって体現したことである。つまり、十字架につけられ磔刑死した者でも、復活することができる、ということなのだ。
 もっと単純に言えば、死は終わりではなく、復活の始まりである、ということ。死の先は無ではなく、なにかまだ先がある、という希望。それが「救い」なのである。
 その「救い」を衆目に納得させるために、完全な人間でもある神の子イエスは――逃げる機会は何度もあったのに――十字架上に釘付けされることを自ら受け入れ、「確実に死んで見せた」のである。

「復活」は「生き返り」とは違う。
 イエスが死人を蘇らせたという逸話も聖書に記されている。「ラザロの生き返り」がそれだ。しかし、生き返ったラザロはいつかはまた死ぬ。そこが「復活」との違いなのである。
 イエスを信じる者は救われる、というのは、要するに「イエス(の復活)を信じる者は(死んでも)救われる」ということなのだ。

 これが非常にシンプル、超絶簡単な「罪」と「救い」の解説である。このふたつを理解できれば、他のもろもろの教義は「教派の違い」と言ってしまってもいいぐらいだ(と、わたしは思っている)。

 ただし、こんなキリスト教ジョークがある(出どころ不明なのでうろ覚え。どなたかポインタをご存じでしたらお教えください)。

 信徒「神父さま。復活の日には、すでに天の国へ行った人たちと再会できるのですね」
 神父「左様。キリストを信じることです」
 信徒「良かった。大好きだった人たちとまた会えると思うと、死ぬのも怖くありませんね」
 神父「うむ。しかし心しておきなさい。あなたが嫌いだった人もまたその日には復活して、再会することになるのですよ」


 というわけで、皆さまに「メリー・クリスマス!」
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記