2019年04月20日

【日記】汝、神≠ニ呼ぶなかれ

 サッカーのことはよくわからないのだが、メッシ選手が神≠ニ呼ばれていることについて、パパ様(ローマ教皇)がスペインのテレビ局でそれをやめるようにと言ったとのこと。

 カトリックであるわたしは、正直、驚いてしまった。
 パパ様の発言に、ではない。カトリック国であるスペインで、メッシ選手が神≠ニ呼ばれている、という事実に、である。

 日本でなら、比喩表現として、この神≠ェ使われていることはよく理解している。わたしも2ちゃんねる全盛期には、神≠ニ呼ばれたことがあった(厨房、アスペと罵られたこともあったがw)。

 しかし、日本の神♀T念と、スペインの神♀T念は、本来、全然違うものなのである。
 ご存じのとおり、日本には神≠ェたくさんいる。根本的にヤオロズの神≠ナあるし、モノも長いこと使っているとツクモガミ≠ノなる。神社≠ェそこかしこにあるように、日本の神≠ヘ身近で珍しくないものなのだ。

 よく葬式で間違われるのが、神道と仏教の混同である。さっきまで木魚でポクポクやっていたというのに、喪主あいさつで「亡くなった○○も草葉の陰で見守ってくれていると思います」と神道発言をしたりする。
 つまり、「死んだらホトケになる」という言い方があるように「死んだら神になる」という混同もまた、日本人は無意識にやっているのだ。クリスチャンから見ると滑稽な先祖信仰≠ネどは、故人が神≠ノならないとありえないのである。

 対して、カトリック国であるスペインの神♀T念はキリスト教のそれであるはずなのである。唯一無二の唯一神。父と子と聖霊の三位一体ではあるが、日本の神概念と違って「誰かがなれる」という存在ではない……はずなのだ。

 それが、才能に恵まれ成果をあげているからといって(いや、よくはしらないのだが)、メッシという個人を、スペイン人が神∴オいしている、ということに仰天なのである。

 以前から何度か書いていることだが、もう「キリスト教国」のキリスト教は、宗教ではなく、文化としての意味しかなくなっているのかもしれない。

 メッシを神≠ニ呼ぶこと。これを日本人にたとえて言うと、天皇陛下になるのである。成績優秀な人を、例えば「サッカーの天皇=vと呼ぶようなものだ。こう書けば、メッシを神≠ニ呼ぶスペイン人の異常さ、パパ様が「やめなさい」という理由がおわかりいただけるだろう。それは不敬で、間違っており、言っていいことではないのだ。
(もちろん、日本の天皇陛下を指すのではない、「すめらぎ」としての皇≠ニいう表現はありだろう。マンガ「ワンピース」にも四皇≠ニいうキャラクターたちがいるが、これは無理がない)

 わたし自身は、日本人でもあるがカトリックのキリスト信者でもあるので、やはり個人に神≠冠したり、神ってる≠ネどの気味悪い表現は使いたくない。

 かつて戦国時代に日本を訪れたカトリックの宣教師たちは、日本の神≠ニ三位一体の神の違いを表すため、キリスト教の神を天主≠ニいう呼び方にした。カトリックも天主公教≠ニ称していたのである。
 それが戦後のプロテスタントの隆盛時、布教のときに日本の神≠ニいう呼び名をそのまま流用したものだから、日本人はキリスト教の神までヤオロズの神に組み入れて、間違った理解をするようになってしまったのである。

 あぁ、なんと嘆かわしく、日本人にとって不幸な出来事であったことか。

 このパパ様の発言に対し、日本人の多くの人が「ケチくさいこと言うなや」という感想を持っているようだが、バックグラウンドには上記のような理由がある、ということを知ってほしいと思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記