2019年05月22日

【日記】Oさんの孤独死

 数年前、教会の勉強会でいつも一緒だった、かなりお年を召されていたOさんが帰天された。

 特に事前の予告もなく、日曜のミサにいらっしゃらなかったので、心配した勉強会仲間のTさんが連絡をとろうとしたが、電話が通じなかった。そこでTさんはOさんと懇意だったHさんとOさんの自宅へ。するとOさんはベッドで亡くなられていたのだという。
 Oさんは独り暮らし。いわゆる、孤独死であった。

 持病があった、という話は聞いたことがなかったが、Oさんはわりとお酒がお好きで、その晩もけっこうな量を召し上がっていたらしい。

 もうちょっとなにか異変に気づいていられれば、孤独死のような目に遭わせずすんだのに、と、優しいTさんは悔しがっていたが、これははっきり言って突然死である。仕方のないことだったのだと思う。なにしろ、先週のミサには、元気な姿でいらっしゃっていたのだ。

 そのような経緯もあり、同時に、わたしの中で「こういう孤独死もそう悪くないな」という気持ちが、正直わいていたのも事実である。

 いわゆる、「ピンピンコロリ」というやつだ。前日まで元気に暮らし、ある日、朝になってみると、天国へ行っている。そんな死に方。

 孤独死というが、人間、死ぬときはみな孤独なのである。
 映画などでは、息を引き取る直前に、なにか感動的な言葉を(「ありがとう」とか)を周りの人にポツリと残して、ガクッと死ぬ、というシーンが多いが、実際の臨床の臨終場面だと、人の最期はもう意識を失っていて、なにかを話せる状態ではないのだという。
 確かに、わたしが知っている現実の臨終場面でも、みなそうだった。

 これがたとえ心中でも、やはり死は「一緒」に体験できることではない。死は究極的に個人的な出来事なのだと思う。

 自分がこの先、どのように死ぬかはわかるわけもないが(これを書いているネットカフェからの帰り道で轢かれて死ぬかもしれないし)、もし選べるとしたら、Oさんの死に方は、けっこう上々の部類に入るなぁ、と、その葬儀ミサで先読みを担当しながら、感じたのであった。

 葬儀ミサにやってきた、Oさんの親類には、勉強会でOさんが笑っている写真をさしあげた。
 事情があったのだろうか、Oさんのお骨はその親族のお墓には入らず、しばらく主任司祭が預かったのち、カトリックの共同墓地に安置された。

 今でもGoogleアドレスブックに、Oさんの笑顔つきで、電話番号を登録してあるものだから、スマホを新しくしても、電話帳を確認すると、Oさんがひょっこり顔を出す。わたしの電話帳には、かけても出ないのに、消せない人が増えていくばかりだ。

 ミサが終わったあと、Oさんが「夢にあなたが出てきたわよ」と言っていたことを思い出す。
 永い眠りについているOさんは、天国で夢を見ているだろうか。わたしの電話帳にOさんが残っているように、Oさんも、わたしの夢を見てくれているのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記