2019年06月05日

【日記】「ひとりで死ね」の正解は

 川崎で痛ましい通り魔殺人事件が起こってしまった。
 亡くなられた男性と少女には、安らかなお眠りを祈り、また、被害者となられた方々には、一刻も早く体と心の健康を取り戻せるようにと、神に願うしかない。

 犯人がその場で自殺してしまったため、動機のほとんどの部分が不明なままというのも、事件のやるせなさを拡大しているように思える。
 犯人の中学時代から、50代の今までの写真はもちろん、職歴情報すら出てこないというのも、なにやら不気味で、まるで、誰もが見ないようにしていた現代の黒い深淵を無理やり覗かされているような感じだ。

 犯人は、いわゆる拡大自殺と呼ばれる、自殺の巻き添えにするために犠牲者たちを襲ったのだろうか。わたしは個人的には、この点にまだ懐疑的でいるのだが、もうその正解がわかることもない。

 さて、この事件について、その日のうちに、ある識者から「(犯人に対し)ひとりで死ねと言わないでほしい」という緊急提言がなされ、またたくまに炎上し――

「いや、やっぱりひとりで死ね」
「指摘どおり、ひとりで死ねというのは間違いかもしれない」
「いや、やっぱりひとりで死ね」
「それは犯人と同じ境遇の人々を追い込む一言になりかねない」
「いや、やっぱりひとりで死ね」
「その言葉は新たな拡大自殺の呼び水になりかねない」
「いや、やっぱりひとりで死ね」

 と、ネットやマスコミが混然となって議論している状態だ。

 なんとも、むずかしい問題だと思う。被害者の方々の側に立てば「ひとりで死ね!」と叫びたくなるのは当然だ。
 同時に犯罪防疫の面から言えば、確かに「ひとりで死ね」というのは、新たな拡大自殺を招く可能性がある危ない風潮になりかねない。

 しかし、一歩下がって冷静にこの問題を考えてみると、正解はこの両者のどちらでもないのではないか、と、ふと思い当たった。
 この問題の正解は――

「自殺は決してするな」

 ではないだろうか。両者とも「自殺」という殺人が「あって仕方ないこと」と見ている点が間違っている。そう、自殺はまごうことなき殺人行為なのである。

 まず「ひとりで死ね」派は、自殺という殺人を肯定している点で、実は殺人自体は肯定している。これは社会正義的に許されることではない。
「ひとりで死ねとは言わないで」派も、一歩踏み込んで、今、苦しんで自殺しようとしている人を救わんとする意図がいまいち伝わってこない。どことなく、自殺しようとしている人を刺激しないで、というような、腫れ物に触るような言い回しだ。

 わたしはカトリックなので、言う。言ってしまう。これが自分にとって、実は苦しいことであることも承知の上で、言う。

「自殺は決してするな」

 そして、為政者たちに向かって叫びたい。これからの日本は、自殺しようとまで苦しんでいる人々を救うセーフティシステムをつくらなければ、どんどん似たような事件が起こっていくのだ、と。

 それでなくても、日本は「自殺」が美化される国である。ミスを犯した責任をとって切腹することが美談とされる国なのだ。

 そうこうしているうちに、川崎の事件が引き金になって、自分の息子を父親が殺すという、これまた悲惨な事件があった。
 その息子に、ある意味社会的な問題があったがゆえに、「父親よくやった」という声があがっているということを憂う。

 刑法には「殺人は、これをしてはならない」といった条文はない。ただ、殺人をしたら罪に問われる、となっているだけだ。
 それだけに「殺人はいけない」と子どもたちに教え、社会の常識とするには、われわれおとなの意識と、意志と、意力が必要なのである。

「自殺は決してするな」――そして、それをサポートするシステムを、カトリックとして(ひとりの人間として、と書きたいところだが、それは違うのでできない。「【日記】ヒューマニストではない!」参照)、これからも模索していきたい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記