2019年06月08日

【回想録】カイコの思い出

 あれは小学校二年生のときだっただろうか。学校でカイコの幼虫が配られたことがあった。いや、全員にではなく、欲しい者にだけ、だった気がする。

 配られたカイコの幼虫は、本当に小さく、一匹が一センチにも満たない茶色の小虫であった。それをビニールの小袋に入れて家に持ち帰った。

 全部で50匹程度はいたのではなかったかな。

 家で飼うことに父母は反対しなかった。わたしの教育のためにいいと思ってくれたのだろう。姉は気持ち悪がっていた。

 翌日から、箱に入れて、成長を見守った。

 ご存じのとおり、カイコは桑の葉以外は食べない。ウチの庭には桑の木はなく、父が近所の家(といっても、少し離れていた。そこしか桑がなかったのだ)に頼んで、毎朝、わたしと桑の葉をもらいに行くことにした。

 特に飼育書のようなものは読んだ記憶がない。今、調べてみて、4回脱皮をするということを、改めて知ったくらいだ。

 毎日飼育箱を清潔に保ち、新鮮な桑の葉を与え、あまりいじくりまわさなかったのが良かったのかもしれない。50匹のカイコはすくすくと育ち、どんどん大きくなり、箱も徐々に大きい物に変えていって、姉はさらに気持ち悪がるのであった。

 5令になるまでに死んだカイコは、二匹だけであった。一匹は病死で、黒くなって死んでいた。もう一匹は、わたしが不注意で物を落とし、それでつぶして死んでしまった。この不注意は本当に残念だった。庭に死んだカイコのお墓をつくってあげた。

 5令をすぎて一週間くらいたち、夜、父母が呼ぶので行ってみると、カイコが箱の隅にマユをつくろうとしていた。
 器用な父が早速紙で格子状のマユ棚をつくり、そこに次々とカイコを乗せていくと、皆きれいにマユをつくっていくのである。
「本当にマユをつくるんだねぇ」と、父母とわたしは感動していた。その場に姉がいたかどうかは記憶にない。部屋でキモがっていたのかもしれない。

 翌日、学校から帰ってみると、どの格子にも、りっぱなマユができているのであった。

 さてそれからが困りどころであった。養蚕業者ではないウチでは、マユから絹糸を取る設備もない。
 試しにひとつ、マユをカッターで切ってみると、中からはサナギが出てきた。
「ぎゃー」とわたし。「気持ち悪い!」
 あれほどカイコのときはかわいいと思っていたのに、マユの中に入っているサナギは気持ち悪く感じたのだ。不思議なものである。
 結局、ほとんどを記念に残して、あとの十個ばかりを観察に回そうということになり、マユたくさんをグラグラと鍋で煮て(ごめんねサナギさん)、箱に取っておくことにした。
 姉にもひとつあげた。振ると中でサナギの音がするのが不気味だが、まあ死んでるしということで、姉もマユ自体はキモくないらしくもらってくれた。

 煮なかった数十個からは、無事にカイコの成虫が出てきた。茶色い液をマユに吹きかけ、穴をあけて出てくるのである。
 出てきたおカイコさんは、サナギ時代とは違い、とても可憐でかわいかった。
 しかも雄雌同士は勝手にお尻をくっつけあい、交尾をするのであった。
 このお尻同士をくっつけている様子がほほえまし、わたしは二匹を離してやるのである(ひでぇ)。すると、雄のほうからピューッとなにか液体が出て、また雌とお尻をくっつけようとする。で、また離してピューッ。

 今思うと、とんでもなくかわいそうなことをやっていたのだが、ま、子どものすることだからね……この頃から「リア充爆発しろ」だったわけだな。

 雌のほうは、産卵までしてくれたような記憶がおぼろにあるが、これ以上は育てられない、と家族会議で一致を見て、卵とおカイコさんはそのツテにもらわれていった。

 それと前後して――

 姉「ぎゃー!」

 なんと、姉にあげた、湯がいたマユのサナギが死んでおらず、中から成虫が出てきたのであった。

 というわけで、結城家の養蚕記録は、わりとうまくいったという楽しい記憶で結ばれている。唯一、自分のミスでつぶして死なせてしまった一匹だけが心残りだ。
 それと、その期間、散々な目ばかり遭わせてしまった姉には、この場を借りて謝っておきたい。ゴメンナサイ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録