2019年06月12日

【日記】キラキラネームと没個性

 昭和時代の遺物「ツッパリ」というと、皆さん、どんなものを想像するだろうか?

 男子ならリーゼントにボンタンと呼ばれるダブダブズボン、隠れてタバコにバイク。女子ならパーマに地面までつきそうな長いスカート。そしてそろってだらしない胸元にペッタンコの学生カバン。

 わたしの通っていた高校は、こういうことができないよう、制服をブレザーにする施策のはしりだったが、それでもこのペッタンコの学生カバンを持っていた学友がいて、どうやってそんなものを作るのかと思って見せてもらったら、わざわざボンドで貼って薄くするのであった。莫迦じゃないかと思ったが学力も相応で、留年し、退学していった。根は良いやつだったので、今でも元気にしていれば良いがと思う。

 さて、こういうツッパリがどうしてこういう「いかにもなツッパリ様相」になってしまうかというと、彼らには「俺ら(あたしら)はフツーとは違うんだよ。このヘアスタイルや服装は個性なんだ。個性をなくしたほかの連中とは違う。俺らが俺らである証拠がこれなんだ」という、彼らなりの矜持があったわけである。
 彼らから見れば、ごくフツーにブレザーを着て、カバンに教科書と辞書をつめ、毎日、遅刻することもサボることもなく高校に通い続けたわたしなどは、没個性の最たる者だったのかもしれない。

 しかし、当時から感じていたのだが、「人は個性的であらんとすればするほど没個性になっていく」性質があるのである。

 例えば、上記ツッパリ。彼らは個性的であろうと髪型や衣服や行動を普通とは違う&面に向かわせたあげく、結局、ツッパリ≠ニいう記号で表現できる集合になってしまった。

流行≠見ればわかるだろう。最初にそれをやったパイオニアは確かに個性的だが、それをイイと思ってまね(これ自体がもう没個性なのだが)する者が増えていくにしたがって、その流行モノは一般化し、その時点で、逆に没個性になってしまうのである。

 さて、あるきっかけがあって、最近の子どもの名前を多く見る機会があった。ご想像難くないとおり、今やフリガナなしでは読めない「キラキラネーム」ばかりである。
 ところが、それを流し読みしている自分が、特に批判的な気分になっていないことにことに気づき、あぁ、キラキラネームもすでに没個性になってしまったのだなぁ、と感じたのだった。

 少し前は、フリガナがなければ読めない子どもの名前は、DQNネームとか珍奇ネームとか呼ばれ、つけた親の常識を疑われるものだった。世間一般の評価も推して知るべしで、決して好意的ではなかった。

 親がその子に、特別な名を与えてやりたい、と思う気持ちはよくわかる。名前こそが、親が最初に子どもに与えられるプレゼントだからである。
 その特別さが、「俺ら(あたしら)の子どもはフツーとは違うんだよ。これからつける名前は個性なんだ。個性をなくしたほかの親の子とは違う。俺らの子である証拠がこれなんだ」と、暴走した結果がDQNネームだったわけだ。

 余談だが、同じ気持ちでカトリック信徒は子どもに幼児洗礼をして、洗礼名を与えるのである。洗礼名があるせいか、カトリックの子には普通≠フ名が多く、幼児洗礼や洗礼名のないプロテスタントは、子どもに聖書由来のキラキラネームをつけることが多い、という話もあったりする。

 話を元に戻して、キラキラネームに違和感を抱かなくなった、ということは、キラキラネームが「ツッパリ」と同じような記号になってしまった、畢竟、没個性の証しになってしまったということなのである。

 上に書いた「人は個性的であらんとすればするほど没個性になっていく」という一文を思い出していただきたい。

 人生も半分終わってみると、「本当に個性的な人は、個性的に生きようなどとは思っていない。自分らしく生きようなどとも思っていない。その人はその人として、ただ、生きているだけなのだ」ということがわかるようになる。
 他人との比較性の中に個性はない。個性は特別なものではないのだ。だから、特にキラキラもしていない。大地にしっかり根っこを生やして、ゆったりと悠然に生きている。

 令和の時代に「梅子」や「松子」のようなシワシワネームをつける(梅子さん松子さんごめんなさい)のがむしろいい、とも思わない。それも個性は特別≠フ回帰でしかすぎない。
 そういう意味では、子どもの名づけはハードルが高くなった。それでも、一見同じように見えるキラキラネームの中に「おっ、これは違うな」というセンスを持った名前があったりすると、親御さんの教養がわかって楽しい。

 ところで、わたしの名は、祖父が「これから宇宙時代だからそれにちなんだ名前にしたい」と提案し「宙太郎」になる予定だったのだという。
 発想はいい! 発想はいいんだが……おじいちゃん、男だからなんでも太郎をジョイントというセンスはいかがなものか。
 ひょっとしたら、わたしは「結城宙太郎」になっていたかもしれないのだ。
 名は体を表すというとおり、未来も変わっていたかもしれない。なんか、柔道かなにかやってそうな名前だよね。

 というわけで、令和の時代に赤ちゃんの名づけ親になる皆さんは、ほんと、よっぽどセンスが良くないと、「昭和のツッパリ」と同じように、記号的な没個性になっちゃうよ、という結論で、この記事はまとめとしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記