2019年07月31日

【映画評】天気の子(ネタバレあり)

「君の名は。」でスマッシュヒットどころか場外大ホームランをかっ飛ばした新海誠監督の新作ということで、とても注目されている作品。わたしも楽しみに、さっそく細君と観賞してきた。

 これだけの話題作となると、どうしても評者は「作品から見る監督論」、「作品を通しての世界観論」などを論じたくなると思うのだが、「天気の子」においてそれをやることは、むしろ新海監督の罠なのでは、と感じる。作中に「君の名は。」のキャラクターが出てくるのは、スターシステムを取っているだけで、それ以上の意味はない。
 なので、本記事では、「天気の子」以外の新海作品には一切触れない。監督論も意図的に避けようと思っている。

 ざっとあらすじ――西暦2021年の夏。東京は梅雨があけることなく、毎日、ひどい雨が降り続いていた。
 家出して東京へやってきた男子高校生ホダカは、東京で野良生活を送った末に、旅中で知り合った男性、スガのところに居候することになる。またひょんなことから「100パーセントの晴れ女」ヒナと、その弟ナギとも知り合いになっていた。
 インターネットを使い、彼女の能力を使ってイベントなどで「晴れ」を呼ぶ商売を始めた三人。
 だが、その能力は使えば使うほど「晴れ女」の存在を贄としていたのである。
 警察に追われ、雨の街を走り回り、やっとのことでラブホテルに泊まる三人。そこで、ヒナの能力が贄の代償であることを知ったホダカ。そして翌朝、ヒナは消えてしまう。そして東京に突然の夏が訪れる。
 ホダカは警察から逃げ、ヒナが「晴れ女」の能力を得たという廃ビル屋上の神社へ走る。スガの姪ナツミの協力もあり、ホダカが廃ビル屋上神社の鳥居をくぐると、天上でヒナと再会することができた。ヒナの両手を握り、彼女を救うホダカ。
 気がつくと二人は神社の鳥居のところに横たわっている。
 三年後――その間、東京には雨が降り続き、水没している。大学進学のため東京へ出てきたホダカは、ヒナと再会を果たした。
 ホダカは思う。「僕たちは世界のありかたを変えてしまった。でも、僕たちは大丈夫だ」、と。


 東京が長雨で水没する、というモチーフは、けっこうストーリーテリングでは珍しくないように思う。30年以上前、場末の小劇場で観た芝居も、東京が長雨で水没し、最後は雪になるという話であった(細君は「有名な脚本なんだけど」というが、このネット時代でも見つからない)。
 また、安部公房も「水中都市」で都市水没を描いているし、「第四間氷期」も近いかもしれない。
 マンガでも似たモチーフの作品はあったはずだが、パッとは思い出せない。似たようなものとしては――


(大石まさる「環水惑星年代記」より引用)


(吉富昭仁「地球の放課後」2巻より引用)

 などなど。都市が水没するというアイデアは、それだけストーリーテラーには魅力あるモチーフなのだということなのだろう。
 そういえば、こんなアンソロジーも――


(鶴田謙二ほか「日本ふるさと沈没」中表紙より引用。日本の各地が沈没するストーリーを、いろいろなマンガ家がギャグありシリアスありで描いている)

 ということなので、「長雨で東京が水没する」というアイデアは、そうオリジナリティのあるものではない。
 そういうわけではないのだが、「天気の子」を観終わった後の感覚は、どこか既視的な印象であった。
 いやしかし、これは印象であって、「ストーリーがナニナニに似ている」、「設定がアレコレに似ている」というものではない、なにかボワッとした印象の既視感なのである。

 それを言語化するのにしばらく手間取っていたのだが、やがて、ハッと気づいた。
「天気の子」は「18禁エロゲーを全年齢向けに手直しした作品の、ノーマルエンドのストーリー」を体験したときの印象なのだ。「ベストエンド」でも「バッドエンド」でもない。なにかモヤモヤが残る、でも「まあこれでもいいか」という気分にさせるストーリーである。

「天気の子」は、いわば「完成された未完成」作品なのである。
 さらに印象を深めると「エッシャーのだまし絵を立体化したもの」にも見える。一か所(観劇者の視点)から見ると、このだまし絵はたしかにだまし絵として見えるのだが、ちょっと脇にズレて見ると、そのトリックがわかる、というような。


(千葉市科学館にある「立体だまし絵」を許可をいただいて撮影。撮影位置からでのみ、三次元ではあり得ない「だまし絵」が完成する)

 もし、この「天気の子」を「ハッピーエンド」にしようと考えたのなら、ストーリーには、もっと大掛かりな仕掛けが必要になってしまう。たとえばこんな物語――

 東京の天候を自由に操ることを目的とした組織が存在し、その研究所が廃ビルの地下にある。そこで実験中、装置が暴走し、たまたま廃ビルの屋上にいた少女ヒナにエネルギー体が宿ってしまった。それにより、彼女は願うだけで天気を限定的に晴好にする能力を得てしまっていた。
 特異体として彼女を追う組織と、それに巻き込まれて彼女を守るホダカ。ラブホテルで一泊し(ここで18禁版はエッチ)、彼女を組織に奪われてしまう(警察官に組織のスパイがいてもよし)。
 スガの姪ナツミの協力もあって、敵の本拠地廃ビルでヒナと再会するホダカ。ヒナはエネルギー体を変換しないと存在が消えてしまう。


(えすのサカエ「ビッグオーダー」9巻より引用。こんなイメージね)

 すったもんだがありまして(組織自体は悪でも、実はヒナを救おうと動いていたという設定でもよし)、ヒナを普通の女の子として取り戻したホダカ。東京にも晴天がもどり。大団円。


 いやぁ、つまらない話だ(が、どんな名作でも、最初の発想はこんなもの)。ここでは「謎の組織」とか「研究」とかの言葉を使ったが、これは別にオカルティックな別の概念でも良い。為念。

 さて、「天気の子」でも、どこかでホダカの選択肢を違えれば、こういうルートに入って、全貌が見えてきたのである。
 ところが、ストーリーは、わざと「日常の延長線上」を選択し、「100パーセントの晴れ女」という眉唾な設定をだんだんと現実のものにしていくだけで、やがてヒナが消失するという明らかな超常現象からストーリーが急転直下していく。

 もちろん、これはすべて、わざとやっていることなのだ。「完成された未完成」である。

「天気の子」では、主人公を含め、思春期の少年少女の描き方がうまい、と感じた。思春期の少年少女は「完成された未完成」である。彼らはなんでもできる(そう、銃を撃つことだって)。しかし、現実にはホテルに泊まるという簡単なことさえ断られてしまう、なにもできない存在だ。

「完成された未完成」――それこそ、青春そのものではないか。

 結局、ホダカもヒナも、東京が水没したのは自分たちのせいだと思いながら生きていくことになるが、オトナのスガはそんな戯言をとりあったりしない。これも、子どもは自分たちの見ている視界でのみ世界を完成しているが、実際は現実の仕組みを知らず、世界はただそのままに動いている、ということを表しているシークエンスなのではないか。

 おそらく、ホダカとヒナは、将来的には結ばれない。それは二人がオトナになり、二人のせいで東京が水没した、という共同幻想が崩れていくからである。その予感があるからこそ、ホダカは今、「僕たちは大丈夫だ」と言わなければならないのである。

 他作品と比べて論じない、と冒頭に書いたが、わたしは「君の名は。」より、本作「天気の子」を気に入った。だが、興行的には成功するだろうが、評価はどうだろうか。上記の「完成された未完成」ゆえに、本作の持つ魅力が逆にくさされるのは残念に思う。

 ところで、劇場はリュックを背負った中高生でいっぱいであった。ふだん映画館にこないような層が、おとなしくスクリーンを見ているさまは微笑ましい。誰もスタッフロール中に立たなかったのも好ましく感じた。

 でもね、中高生の男子諸君! ヒナちゃんみたいに、手足の長い美少女には、そうそう巡りあえないのだよ。
 だからそういうチャンスがあったら、ノーマルエンドの選択肢を選ばず、勇気を出してベストエンドの選択肢を選ぶのだぞ。


(映画館の立て看より。ヒナちゃんカワヨ)
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評