2019年10月12日

【日記】ネットの「被害者叩き」

 パソコン通信の頃にはあまりみかけなかったのだが、インターネットの時代になって、ネットに不思議な力学が見られるようになったような気がする。

 それが、%title%の「被害者叩き」。
 たとえば、歩行者が青信号の横断歩道を渡っていて、クルマにはねられたというような、明らかに歩行者に非がないような事件であっても、一定数「周りに気をつけていない歩行者にも責任がある」、「どうせゆっくり歩いていたんだろう」というような意見が出てくるのである。

 これが上記のような「あからさまな」事件でなければ、「被害者叩き」は妄想の翼を広げてエスカレートすることになる。

 深夜に女性が被害にあうような通り魔事件があったとすれば、「そんな時間に歩いている被害者が悪い」、「どうせ誘うような服装だったのだろう」、「被害者の方にも隙があった」、「実はなにか、加害者と関係があったのではないか?」、「恋愛関係のもつれじゃないの?」と、報道からはまったくわからない事実までモヤモヤと勝手に頭の中で捏造し、「被害者叩き」をしてしまう人々がいるのである。

 彼らはどういう人々なのだろうか。悪意の固まりなのだろうか。弱者をさらに叩いて楽しむサディストなのだろうか。

 わたしはそう考えない。むしろ、まったく逆の、本当は善人で、真実の正義を信じる、ごくふつうの、善良かつ優しい一般市民であると思うのである。

「公正世界仮説」あるいは「公正世界信念」と呼ばれる概念がある。これは、我々の住む世界は、基本的に正しく正義が行われるようにできており、正しい行いをすればそれは報われ善い果報として実を結び、悪い行いをすれば、かならず因果が巡ってひどい仕打ちを受ける、という誤った#F知バイアスのことである。
 要するに、この世界は「水戸黄門」や「遠山の金さん」のような、見えない勧善懲悪のシステムによって動いていて、正義は必ずことをなし、悪が滅びることは必須であるという固定概念のことだ。

 これは古代の書物である聖書の中にも、同じ誤謬として残されている

煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。
神に従う人は誇らかに喜び祝い 御前に喜び祝って楽しむ。
(詩編68:3-4)


 もちろん、そして、残念なことだが、世界はこの聖書記者が書いたような、正義のシステムで動いてはいないのである。
 聖書というのは奥の深い書物集であるので、それについても触れられている。

何事も同じで 同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも 清い人にも不浄な人にも いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり 誓いを立てる人に起こることが 誓いを恐れる人にも起こる。
(コヘレトの言葉 9:2)


 いわゆる「敬虔な信者」ほど、この「コヘレトの言葉」を忌避する傾向があるのはおもしろい(というか、当然ではある)。
 宗教指導者にとって、「公正世界仮説」ほど、護教に役立つ誤った#F知バイアスはない。信じる者は救われる≠ナある。これは明らかな誤りである。

 わたしは敬虔なカトリック信者とよく言われるが、上記の言葉は、正しくは信じる者は救われている≠ネのである。このニュアンスの違いを明確に教えている宗教は本物である。曖昧にしてごまかす宗教、あるいは宗教指導者はニセモノだ。
 イエスもたびたび、似たようなことを口にしている。

イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
(マタイによる福音書 9:22)


 信じる者に「いいこと」が起きるのではない。信じることそれ自体がすでに「いいこと」なのだ。

 話を、ネットの「被害者叩き」に戻すと、被害者を叩く人々の多くに悪意はなく、むしろ、「この世界は正義で成り立っていてほしい」と思っている善意の人々なのである。だから、「なんの非もない無辜の被害者」というものが存在しては困るのだ。それで、被害者のあら探しをする。小さな傷があれば、針小棒大にそれを拡大解釈して、被害者にも落ち度があったのだとホッとする。そうしないと、この世界が正義で動いているという信念にヒビがはいってしまうからである。

 しかし、繰り返すが、残念なことに、この世界は公正ではない。非常に悲しく、腹立たしいことだが、必ずしも正義で動いてはいない。そうであってほしいものだが、正しい者が莫迦を見て、狡いものが益を得ることが珍しくない社会なのである。

 被害者叩きをする人に「そういう社会なんだからオトナになれ!」と言いたいわけではない。ただ、被害者叩きをする前に、ひとつ、深呼吸をして、「シンプルに一番悪いのは誰か・何か」を考えてほしい、そう思う。

     *     *

 この記事は、ポメラの奥、平成時代にほぼ完成稿として残していたものに手を入れたもの。当時は、書いてみたものの、あまり気にいっていなかったのだろう。
 今回、掘り返して読み直してみると、まあ文意は伝わるかな、とアップしてみることにした。

 令和に入ってから、悲惨な事件、事故が続き、ネットの空気がちょっと変わったかな、と感じることがある。「被害者叩き」も、あまりに悲惨な事件、事故だとやりにくいようだ。

 実際がそうでないからこそ、世界を公正なものにする努力を惜しんではならない。
 ある悲惨な事故における被害者家族の署名運動の結果などを見てもそう思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記