コンビニのレジ列へ並んでいると、前のお客さんがレジへの入金に手間取ってしまい、少々、待たされることになった。
その方はかなり老齢の女性。手も震えていて、見ていて痛々しい。
店員さんはジレ気味。買い物済みの商品を入れたマイバッグを、そのお客さんのカートへ入れてあげたりしている。
わたしは「こちらは待たされても大丈夫ですよ」と微笑を浮かべて待っていたのだが、後ろについたお客さんは少しイラついていたようだ。
やがてもうひとつのレジに店員さんがつき、流れはスムーズになったのだが、その帰り道、ふと頭に「老醜」という言葉がよぎり、自分もその歳になっていることも自覚して、複雑な気持ちになった。
老いが醜いことなどない。歳を重ねることはビューティフル。白髪は誉れ、などと慰めるのは簡単だ。
老齢化時代、そういう言葉は街にあふれている。
わたしもその甘言の魅力に負けそうになる。
しかしやはり、老いは醜い。
これを認めなければ、本当の意味で老いを楽しむことはできないのだ、と。
18歳で小説家となったわたしが、当時、「稚拙」を自覚しなければ先へ進めなかったように。
おそらく、人は勘違いしやすいのだ。
老醜ではあるが、醜いことは悪いことではない。
稚拙であっても、つたないことが悪いことではないように。
還暦に見えない、などと言われて喜んでいるようではダメだ。それは結局、若さに価値を置く視点である。本物の若さにかなうわけがない。
アンチエイジングは虚しい。
ふてぶてしく、醜さを習得しながら、わたしは今日も、日々、老いていく。
2025年10月29日
【昭和の遺伝子】稚拙と老醜
posted by 結城恭介 at 23:59| 昭和の遺伝子
