2019年10月16日

【日記】台風19号の被害に遭われた方にお見舞い申しあげます

 台風15号が、わたしが住む千葉県を中心に猛威をふるって、まだ一カ月も経っていないというのに、今度はこちら側が皆さまの心配をする事態になるとは思わなかった。

 10月12日に日本を通り過ぎていった台風19号の被害に遭われた読者の方がいらっしゃいましたら、深くご同情申しあげます。
 なによりお体とご家族のご無事と、これからのトラブルが少ないことを神さまにお祈りすることしかできないわたしですが、もし15号のときにお見舞いをくださった方の中に被害に遭われた方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。せめて個別にお返事をさしあげたい次第です。
 それ以外にも「おまえの駄文の愛読者だけど被害にあったよ(怒)」という方がいらっしゃいましたら、ぜひフォームメールから。

 わたし自身の被害としては、今回の台風は根城である千葉市にあまり爪痕を残すことはなく、停電も一回、それも短時間で復旧したので、ちょっと拍子抜け、という感じであった。もちろん台風がくる前に、今回は抜かりなく準備をしておいた成果が出たからこそではあるが。
 ただ、ケーブルテレビのジェイコムが、台風の情報が一番ほしい時間帯に放送停止するという事態に陥り、これはけっこう不安であった。
 日頃、テレビはもう見ない、とか言っていても、やはり災害時にはNHKが頼りになる。ま、受信料払っていわけだから、こういうときにこそNHKにはがんばってもらわなければ。

 台風15号は千葉県南部を中心に、猛烈な風を原因とする被害が多かったわけだが、今回の19号は風よりも雨、それも堤防が決壊したりあふれたりの水害が多かったようだ。

 わたしがまだ小学生低学年だった頃、こういう水害は決して少なくなかった。テレビで流れる、水害に遭い、街がプールのようになっている光景を、子どものわたしは、不謹慎ながら少しわくわくしてそれを眺めていたものだった。
 そして、一緒にテレビを見ていた母に言ったのだった。

 わたし「もしこの町がこんなになったら、ぼく、水着に着替えて泳ぎたいな」
 母「やめなさい!」
 わたし「え、なんで?」
 母「こういう水はね、雨水だけじゃなくて、下水もまざってるの。とても汚いの。病気になっちゃうよ」

 はえ〜そうなんだ(粉みかん)。
 その会話で、水害都市で泳ぎたいという衝動ルーチンがあったわたしのファームウェアに、災害で街に満ちた水は汚いので泳げない。というバグフィクスアップデートがあったのである。

 今回、汚水が満ちた街で浮輪を使って泳ぐという蛮勇をふるっていた方がいて、Twitterなどでプチ炎上したようだが、わたし的には、わたしの小学生低学年時代の夢をかなえてくれたヒーローなのであるw。

 ま、その発想自体が、小学校低学年並だという証左でもあるよね。
 でも、でも、でも――ほんとはみんな、小さい頃、やりたかったんじゃないの(笑)。

 冗談はともかく、今回、東日本を襲った台風19号のの爪痕が、少しでも早く癒えることを祈るばかりである。

 台風の思い出を回想録に記そうと思ったが、正直、人生半分終わっている歳だというのに、今回の15号、19号以上に(身の回りの環境で)猛威をふるった台風を経験したことがないことに気づいた。
 もう秋のこの季節に、一カ月の間に連続二発というのも初めての体験である。

 地震も怖いが台風も怖い。願わくば、皆さまがこれからの人生で、これ以上の大きな台風にみまわれませんようにと祈り、筆を置く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年10月12日

【日記】ネットの「被害者叩き」

 パソコン通信の頃にはあまりみかけなかったのだが、インターネットの時代になって、ネットに不思議な力学が見られるようになったような気がする。

 それが、%title%の「被害者叩き」。
 たとえば、歩行者が青信号の横断歩道を渡っていて、クルマにはねられたというような、明らかに歩行者に非がないような事件であっても、一定数「周りに気をつけていない歩行者にも責任がある」、「どうせゆっくり歩いていたんだろう」というような意見が出てくるのである。

 これが上記のような「あからさまな」事件でなければ、「被害者叩き」は妄想の翼を広げてエスカレートすることになる。

 深夜に女性が被害にあうような通り魔事件があったとすれば、「そんな時間に歩いている被害者が悪い」、「どうせ誘うような服装だったのだろう」、「被害者の方にも隙があった」、「実はなにか、加害者と関係があったのではないか?」、「恋愛関係のもつれじゃないの?」と、報道からはまったくわからない事実までモヤモヤと勝手に頭の中で捏造し、「被害者叩き」をしてしまう人々がいるのである。

 彼らはどういう人々なのだろうか。悪意の固まりなのだろうか。弱者をさらに叩いて楽しむサディストなのだろうか。

 わたしはそう考えない。むしろ、まったく逆の、本当は善人で、真実の正義を信じる、ごくふつうの、善良かつ優しい一般市民であると思うのである。

「公正世界仮説」あるいは「公正世界信念」と呼ばれる概念がある。これは、我々の住む世界は、基本的に正しく正義が行われるようにできており、正しい行いをすればそれは報われ善い果報として実を結び、悪い行いをすれば、かならず因果が巡ってひどい仕打ちを受ける、という誤った#F知バイアスのことである。
 要するに、この世界は「水戸黄門」や「遠山の金さん」のような、見えない勧善懲悪のシステムによって動いていて、正義は必ずことをなし、悪が滅びることは必須であるという固定概念のことだ。

 これは古代の書物である聖書の中にも、同じ誤謬として残されている

煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。
神に従う人は誇らかに喜び祝い 御前に喜び祝って楽しむ。
(詩編68:3-4)


 もちろん、そして、残念なことだが、世界はこの聖書記者が書いたような、正義のシステムで動いてはいないのである。
 聖書というのは奥の深い書物集であるので、それについても触れられている。

何事も同じで 同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも 清い人にも不浄な人にも いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり 誓いを立てる人に起こることが 誓いを恐れる人にも起こる。
(コヘレトの言葉 9:2)


 いわゆる「敬虔な信者」ほど、この「コヘレトの言葉」を忌避する傾向があるのはおもしろい(というか、当然ではある)。
 宗教指導者にとって、「公正世界仮説」ほど、護教に役立つ誤った#F知バイアスはない。信じる者は救われる≠ナある。これは明らかな誤りである。

 わたしは敬虔なカトリック信者とよく言われるが、上記の言葉は、正しくは信じる者は救われている≠ネのである。このニュアンスの違いを明確に教えている宗教は本物である。曖昧にしてごまかす宗教、あるいは宗教指導者はニセモノだ。
 イエスもたびたび、似たようなことを口にしている。

イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
(マタイによる福音書 9:22)


 信じる者に「いいこと」が起きるのではない。信じることそれ自体がすでに「いいこと」なのだ。

 話を、ネットの「被害者叩き」に戻すと、被害者を叩く人々の多くに悪意はなく、むしろ、「この世界は正義で成り立っていてほしい」と思っている善意の人々なのである。だから、「なんの非もない無辜の被害者」というものが存在しては困るのだ。それで、被害者のあら探しをする。小さな傷があれば、針小棒大にそれを拡大解釈して、被害者にも落ち度があったのだとホッとする。そうしないと、この世界が正義で動いているという信念にヒビがはいってしまうからである。

 しかし、繰り返すが、残念なことに、この世界は公正ではない。非常に悲しく、腹立たしいことだが、必ずしも正義で動いてはいない。そうであってほしいものだが、正しい者が莫迦を見て、狡いものが益を得ることが珍しくない社会なのである。

 被害者叩きをする人に「そういう社会なんだからオトナになれ!」と言いたいわけではない。ただ、被害者叩きをする前に、ひとつ、深呼吸をして、「シンプルに一番悪いのは誰か・何か」を考えてほしい、そう思う。

     *     *

 この記事は、ポメラの奥、平成時代にほぼ完成稿として残していたものに手を入れたもの。当時は、書いてみたものの、あまり気にいっていなかったのだろう。
 今回、掘り返して読み直してみると、まあ文意は伝わるかな、とアップしてみることにした。

 令和に入ってから、悲惨な事件、事故が続き、ネットの空気がちょっと変わったかな、と感じることがある。「被害者叩き」も、あまりに悲惨な事件、事故だとやりにくいようだ。

 実際がそうでないからこそ、世界を公正なものにする努力を惜しんではならない。
 ある悲惨な事故における被害者家族の署名運動の結果などを見てもそう思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年10月09日

【日記】腎臓バンク

 細君のおともで、献血センターに来てこれを書いている。昔はわたしも、スケジュールを組んで献血可能回数の限界ギリギリまで献血をした「献血マニア」だったのだが、病気をして、献血ご遠慮のクスリを毎日飲むようになってしまったため、ここにくるのは、細君が献血をするときのおともばかりになってしまった。

 本当は早く病気を寛解させてクスリをやめ、また献血ができればと願っているのだが、こればかりはなかなか思うようにならない。
 献血センターでは、おともでついてくる人を邪険にしたりはせず、暖かく「お待ちくださいね」と言ってくれるが(なにしろ、献血一回であちらは数万円? のもうけになるとかの話。キイハナ)、やはり肩身は狭いので、隅っこの方でチビチビと無料コーラを嘗めながら、こうやって書き物をしている。

 そんなこんなでツラツラと過去を振り返っていたら、自分は高校生の頃、腎臓バンクに登録していたことを思い出した。
 今でこそ、免許証の裏に「臓器提供の意志」を記入する欄がある時代だが、当時は今のように医療全体の移植システムが統一されておらず、腎臓バンク、角膜バンクのように、組織がバラバラになっていた。
 腎臓バンクの仕組みも簡単で、特に医療機関で適合型などを調べることもなく、ただ、「死後、腎臓を提供する意志がある」というカードを発行するだけだった。

 わたしは、別に自分の死後、カラダがどうされても構わないと思っていたので、少しでも人の役に立てるならと、この腎臓バンクに登録し、カードをいただいたのである。
 このカードは硬質カードで、安っぽいものではなく、まだなにもしていないのに、若いわたしはなんとなく、人の役に立てたような気がしてうれしかったものだ。

 さて、細君とおつきあいを始め、結婚を意識しはじめた頃、「自分はこんなものに入ってるんだよ」と、腎臓バンクのカードを見せたところ、彼女が、「えっ」という表情を見せたのである。
 聞いてみると、わたしが死んだあとに、カラダを解剖されて臓器を見知らぬ誰かに提供される、ということに、説明できない不安を感じる、ということらしい。
 そんなことに頓着しないわたしはびっくりしてしまった。当時はカトリックではなかったが、死後の世界があるとしても、それに死んだ肉体が関係してくるとは思っていなかったし、なによりこれは善行であるという確信があったから、褒められこそすれ、否定的な思いを抱かれると思っていなかったからである。

 ただ、このことでなにか言い争ったり、姿勢の違いでケンカになったという覚えはない。
 わたしは、愛する細君が「いやだなぁ」と思うのなら、と、素直にカードにハサミを入れて、それを捨てたのであった(登録、と言っても、こうすれば無効になる程度のシステムであった)。

 まだ、脳死判定や、それに付随しての臓器移植の問題がマスコミの俎上に乗る前の出来事であった。
 それが、上にも書いたが、今や免許証の裏に臓器移植の意志を記せる時代になったのだから、ずいぶんとわれわれの意識も変わったのだと思う。

 わたしは、脳死は人間の死であると思っているし、それにともなって臓器移植のドナーとなることに、賛成の立場である。
 逆に細君は、今でもちょっと(かなり?)抵抗があるという考え。
 わたしは、もし自分が死んだとして、その臓器のひとつでもが、どこかの誰かの中で生きているとしたら、それは細君の生きる希望にもなると思うのだが(逆もまた同じで、細君が死んだ場合に、誰かの中で細君の臓器が生きていたら、わたしの希望になると思う)、細君はそうは感じないのだという。

 これはどこまで行っても平行線になると思う意見の相違なので、互いに相手を説得しようとはしていない。わたしも細君の意見を無視してまで自分の臓器移植をと願っているわけではないので、現状、免許証の裏に、なにもチェックを入れていない状態だ。

 カトリック的にはどうなのだろうな、と、ザッと調べたことがあるが、脳死による臓器移植を、良い、と断言している文献も、悪い、と一刀両断している教義もなかった。
 信仰宣言の中には「からだの復活を信じます」という一文があり、日本の火葬文化も特別に赦されているものだと聞いたことがあるのだが、そのあたりで、あまり触れられたくはない事象なのかもしれない。

 ちなみに、献血、輸血に関して、カトリックはなんら禁忌はない。
 昔はJW(エホバの証人)をからかって「エホバの商人」などというショートショートを書いていたわたしだが(最後に「ただし、一滴の血も輸血してはならぬ」というオチw)、今は、JWはJWでそれなりに見識があると思っているので、いちがいに揶揄したりはしない。
 わたしもそれだけ、オトナになったのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年10月02日

【日記】早食い

 大食いではないが、早食いである。
 親族と会食すると、最後にオーダーが来ても、最初に食べ終わっているくらい早食い。
「もっと味わって食べなさいよ」と老父母には言われるが、逆だ逆。味わうために早食いしているのである(と、わけのわからない言い訳をしている)。

 わたしの偉いところは、自分で皆の食卓を用意しても、やはり早食いなところである。自分で作ったからといってゆっくり味わったりはしない。やっぱり最初に皿を片づけるのはわたしである。

 早食いならば、早食い大会の地方予選参加くらいならばできるのではないかな?
 でもきっと、そこで落ちる程度の早食い。なんとなれば、ネット仲間と外食をすると、みんな同じくらいの早食いなんだよねぇ……。

 つまり、結城家基準で言うと「早食い」なのだが、友人基準で言うと「標準」なのである。
 これは、結城家が食べるのが遅い……というより、世代的なものもあるのではないかな、と感じている。

 総じて、給食世代≠ヘ、早食いになってしまうのではないだろうか。
 今は違うのかもしれないが、わたしの時代、給食の時間は短かった。四時間目が終わって、給食があり、その後、平日は昼休み、土曜日は掃除(昔は土曜も半ドン登校だったのだよ、若者諸君)というタイムスケジュール。
 そこで、遅くまでゆっくり食べていると、片づけを待っている給食係に急かされたり、掃除が始まってもモグモグやっていることになってしまう。
 実際、わたしより食べるのが遅い細君は、いつも食べ終わる前に掃除が始まってしまい、気まずい思いをしていたそうだ。

 こういう訓練を小学校一年生からやっているのである。我々と同世代の給食世代≠ェ早食いになるのは仕方ない一面もあるのである。


(徳弘正也「狂四郎2030」5巻より引用。「遠慮するな。今までの分食え」)

 早食いだが大食いではないので、二郎のロットバトルには参加できそうにない。
 度を越した大食いはそれだけでタレント(才能)たりうるが、早食いはあまり評価されはしない。むしろ、それが原因で食道が気管を潰してしまい死亡事故に繋がるなど、世間的にも白い目で見られる悪癖のようである。

 わたし自身、早食いで得したことなど、振り返って考えてみてもなにもない。
 そこで一時期、ゆっくり食べ≠ノチャレンジしてみたことがあった。口に食べ物を含んだら、箸を置いて、三十回噛む。そして飲み込んで、次の一口を食べる。
 そこで得た結論は――こんなうざったいことをやっていると、メシがまずくなる! ということであった。最初に「わけのわからない言い訳」と書いたが、メシをうまく食うために早食いしているというのは、半ば真実なのだ。

 誰しも、生活のリズム、そのプロシジャをやるためのテンポというものがあるのである。コンピュータでいうクロックのようなものだ。そのテンポを崩されると、むしろ精神衛生上良くない。ひいてはライフスタイル自体が乱れてしまう。

 そんなわけで、わたしは早食いをやめない(というか、やめられない)。これはもう、しかたがないことなのである。

 ああしかし、しかしである。
 世の中には「速読法」などというものがあり、「わたし、本を読むの速いですよ」という人がいる。こういう人はねぇ、あのね、モノカキってのは、命削って文章を書いているのですよ。そういうことを承知の上で、もっとゆっくり、味わって読んでいただきたい!

 と、食事とは矛盾したことを思ったりするのも確かなのだ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年09月28日

【日記】シャワータイム

 通っているフィットネスジムは、早朝コースにしては珍しくシャワーが使えるようになっており、ひと汗かいたあとはシャワーを浴びて、サッパリとジムから帰れるようになっている。

 シャンプー、石鹸などのアメニティは自分で用意しての持ち込みであり、大きなフィットネスジムの風呂とは比べものにならないが、汗を流せる設備があるとないとでは大違いだ。
 最近、フィットネスジム産業は24時間ジムを中心に上り坂産業だが、この「早朝コースでもシャワーが使える」というのが、わたしら夫婦がここを選んだ一番の理由であった。

 みなが順番に使う狭いシャワー室だけあって、いろいろとルールがある。清潔に使うのはもちろんだし、ここでの髪染め厳禁は最初からスタッフに注意事項として伝えられていた。

 ある日、このシャワー室に、新しいラミ掲示が貼られていた。

「シャワー室のご利用は、一回、30分を目安にお願いいたします」

 それまで、制限時間のルールはなかったのだが、一回30分なら、まあそんなもんかという数字かな、と思った。
 わたしは「カラスの行水」の人である。パッパとトレーニング着を脱いでシャワー室へ入り、サッサと洗髪、ボディソープを使って、タオルで水滴を拭い、またパッパと外着に着替えて、だいたい15分から20分くらい。ドライヤーは使わない。30分なら余裕のよっちゃん。シャワーが長い人でも、そのくらいなら大丈夫じゃないかなぁ、と感じた。

 ところが、そのラミ掲示が貼られて三日後くらいに、新しいラミ掲示に変えられていたのである。

「シャワー室のご利用は、一回、15分を目安にお願いいたします」

 なんと、数字が一挙に半分になっていた。30分が15分である。

 実際の話、わたしが通っている「早朝の部」の会員は少ないので、ふたつある男子シャワー室が混雑することはまずない。わたしの経験でも、シャワー室待ちをしたことはこの一年で二回だけ。それもすぐに空いたので、ぜんぜん困りはしなかった。
 なので、この掲示が最盛時間の20〜22時をターゲットにシャワー室を回すため、ということは明らかだ。
 おそらくひとり30分リミットでは混雑が解消されなかったのだろう。それにしても、いきなり半分の15分になったのはびっくりだった。

 とはいえ、15分を目安に、というルールができたのだから、それからは、毎回、ストップウォッチを回して、なるべく早め早めにシャワー室を出るようにしている小心者のわたしなのだが――けっこうこれが難しいのだ。16分とか、17分とか、数分はリミットオーバーしてしまう。
(上にも書いたが、早朝会員は少なく、他の方をシャワー待ちさせることはまずないので、それほど気を遣う必要はないのだが)

 それからというもの、他の会員さんはどのくらいの時間でシャワーをするのかなぁ、と気になって、さりげなく様子をうかがっていたのだが――驚いたことに、みんなわりと出入りが速いのである。人によっては10分を切る人もいたりする。しかも、トイレに行くついでに物音を聞いてみたりすると、ちゃんとドライヤーを使っている音もする

「わたしはカラスの行水の人」のつもりであったが、体育会系の人々は、足だけでなく、行水のスピードもめっちゃ速いのであった……。

 ちなみに、細君の話によると、女子用シャワー室は15分ということはなく、もうちょっと長めらしい。早朝会員は男子より輪をかけて少ないが、女子用シャワー室はひとつしかないので、ときどきシャワー待ちがある。そして細君もシャワータイムが長いw

 文化会系と体育会系では、こんなところでも差がついてしまうのであろうか……。

 そこはかとない敗北感の中、みなさんのシャワータイムはどのくらいですか? と、ちょっと聞いてみたい気がする。服を脱ぎ始めてから、ふたたび着終えるまでにかかる時間、である。

 けっこう体育会系のみなさんは、「リミットタイム」などを設けられると、体育系魂に火がついて、時間短縮に燃えてしまうのかな。
 そう考えると、ジム側の「リミットタイムを設ける」という作戦はバッチリ当たったな、とも思ったりするのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記