2019年10月05日

【回想録】おねしょの思い出

 わたしは幼児期、二回、引っ越しをしている。つまり三カ所、家を変わったわけだが、三カ所目に移ったときは小学校二年生で、三カ所目の家でのおねしょの経験はない。
 ということは、推察するに、小学校一年生くらいまではおねしょをしていた可能性があるということだ。
 卒おねしょが小学校一年生というのは、ちょっと遅いほうなのかもしれない。実際には幼稚園で卒おねしょをしていたのかもしれないが、このあたりはわからない。

 おねしょにまつわる思い出と言えば、母が「おねしょのクスリだよ」と言って、ギンナンの実を炒って食べさせてくれたことである。もちろん、なんの根拠もないプラシーボなのだが、不思議と、ギンナンを食べた晩はおねしょなしでいられるのだった。

 もっともっと小さい頃、本当に記憶リミットの思い出としては、一晩に二回、おねしょをしてしまい、さすがの母もキレてわたしの布団をはぎ取り、泣くわたしを、父が自分の布団にいれてくれたことがある。このときの父母は、今のわたしより若かったはずだ。この子はどうなるのだろう、と頭を抱えていたに違いないが、わたしは父の布団の温かさで、すぐに眠ってしまった。

 そんな父母の心配をよそに、大きくなったら自然におねしょなど治ってしまう。まあ、そんなもんである。

 さて、それが最近、歳を取って、だいぶ就寝中のトイレが近くなってしまったのである。
 夢の中で、トイレを探して、ジャーッとやる。たいていそれは汚いトイレで、イヤだなぁ、と思いながら放尿する夢だ。
 そこでハッとして目覚め、「この歳で寝小便してないだろうな!?」と慌てて確認して、無事なことにホッとしつつ、現実のトイレへ行く、と、まあこんな感じである。
 ひどいときなど。この「現実のトイレへ行く」ところまで夢だったりするから気が抜けない。それでいて、実際に出る尿量は多くないのだから、歳を取るというのはやっかいなものだ。

 などということを繰り返すようになった頃、リアルにトイレで放尿しているのに、妙に寝小便をしている感覚≠味わうようになった。

 このときわたしは確信したね。この世界は創られたものだと。アンダーソン君。君は実は、現実世界ではケーブルに繋がれて眠っており、放尿もそのまま垂れ流ししているのだよ――そんな感じ。

 この奇妙な感覚は一ヶ月くらいで消えてしまったが、依然として就寝時の小用衝動は消えず、夢の中でトイレを探したり、汚いトイレで用を足してハッとして起きる、というようなことは続いている。

 夜中に起きてトイレへ行くのが面倒くさいので、細君に、世の中にたくさんいるという「ペットボトル尿」推進派の話をし、「どうだろう?」と提案したら、無碍に却下されてしまった(あたりまえだ)。

 うちは結婚以来ダブルベッドで、いつも細君が横に寝ている。
 仕方ない。もし、おねしょをしたら、そっちに細君を転がして、朝、細君のせいにしようっと。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年07月06日

【回想録】シャーペンの思い出

 今日はISOTでビッグサイトへ来ている。ISOTについては「【日記】ISOT」の記事ですでに書いている。「国際 文具・紙製品展」である。あれ? 去年はどうしたのかな? と思って日記を見てみたら、去年はなぜか(わたしが)お休みしていたのだった。
 30周年記念だという今年は、なのに西館一階でのみの開催。キングジムもコクヨも出展していない。うーむー。正直、ショボくなったなぁ(ごめんね開催社のリード・エグジビション・ジャパンさん。VIP招待券もらっておいて)。

 今回は呉竹のブースが大きかったのが印象に残った。「令和」の筆書きで毛筆ブームがきているのだろうか。毛筆の達筆にはあこがれるが、河合克敏先生の「とめはねっ」を読むと、基本から着実に身につけていかなければならないようで(当たり前だ)、ちょっとハードルが高い。とはいえ、自分が適当に毛筆で書いた文字はけっこう好きだったりする。

 毎年、日本文具大賞というイベントもやっていて、今年の大賞がシステム手帳だったのにはちょっと驚いた。わたしもシステム手帳愛用者だが、最近はスマホのメモやジョルテでスケジュール管理をすることの方が多くなってしまっている。
 しかもこの手帳は女性向けを意識してつくられていた。ライフログをつける女性が多くなっている傾向から、システム手帳も復権していくのだろうか。えっ「恭介くんとガンダム」w いや、わからない方はわからないままでいいから、大丈夫だから。安心して。約束するから。

 思い出に残る文房具は多々あるが、振り返ってみると性格がらか、わたしは実用本位、質実剛健な文具が好きで、「ロケットペンシル」とか「差し替え式色鉛筆」とか「多機能筆箱」とかは、それほど好きではなかった。でももちろん、ここに名が出るということは、一度は買ってみているのだな。

 今回はその中でも、シャーペンの思い出を追ってみた。
 ちなみに、わたしの行っていた学校は自由な校風だったので、小学生でもシャーペンの使用は特に禁じられていなかった。なので、うろ覚えだが、鉛筆を使っていたのは一年生のときくらいである。
 多くの小学校でシャーペン禁止なのは、生徒が分解整備をして授業に集中できないから、という理由らしいが、鉛筆の方がナマったら鉛筆削りを使わなければいけないし、授業に集中するならシャーペンの方がいいという合理的な考え方が、わたしの行っていた小学校にはあった。

 そんなわけで、最初はふつうのノック式の、安いシャーペンを使っていたが、これはいい、と最初に思ったのは、たしか小学校二年のときに売り出された、ノック部分が軸部についているシャーペンであった。
 たしかオレンジ色をしたこのシャーペンで、早朝の誰もいない教室で、何度も漢字の書き取りをしたことを覚えている。
 次に気に入ったのも、やはり小学生時代。四年だったかな? 軸を折り曲げると芯が出てくるシャーペンだった。これは画期的だと思った。書いていて実にテンポよく芯を出していける。
 前後して、ペンを上下に振ることで芯が出るシャーペンも出てきたが、こちらは試験中にカシャカシャやるのがはばかられ、自分はあまり使わなかった。

 中学に入ると、あまりギミックにはこだわらなくなり、シンプルなシャーペンが好きになる。
 時代もそういう波だったのか、一見六角形の鉛筆そっくりなシャーペンが売り出され、しばらくそれを愛用していた。

 当時の男の子なら誰でも一度はハマッた、製図で有名なロットリング社が出していたシャーペンや、これはシャーペンではないが、ステッドラーの芯ホルダーを使っていた頃もある。しかしロットリングのものはすぐに壊れてしまった。

 その後は長く、どこかの国産ブランドもののシャーペンを利用していた。さすが当時の国産ブランドものだけあって、故障することもなく、長く使っていられた。

 高校生当時から小説を書いていたのだが、原稿用紙に走らせるのは、下書きでも鉛筆は使わず、ぺんてるの水性ボールペンと決めていた。これは下書きを削除したり、訂正したり、段落を入れ替えたりと、そういう「悩んだ」痕跡を残しておきたかったから。
 その下書きの清書はモンブランの万年筆でやっていたのは、以前も書いた通り。

 今のわたしは、シャーペンをめっきり使わなくなってしまった。普段のメモ書きや手帳は万年筆だし、長文はポメラやPCを使ってしまう。
 わたしがシャーペンを離れているあいだに「クルトガ」という、常に先端がとがっているという製品が出て心惹かれたが、「でもシャーペン使わないしなぁ」ということで購入には至っていない。

 これからもシャーペンはまだまだ進化していくのだろう。
 振り返ってみて、シャーペンで漢字の書き取り練習を何度も何度もやっていたあの少年の日々を懐かしく思う。
 文房具がいつの時代も「わくわくするもの」なのは、みな、こういった経験をしているからではないだろうか。

 追記:今回、ISOTと同時開催の「国際 雑貨EXPO」も観ていったのだが、会場がビッグサイト西館二階と、新しくできたという「青海展示棟」に分かれていた。両会場には無料バスがひっきりなしに運行しているので、行き来は大変ではないが、距離がかなりあってびっくりしてしまった。青海展示棟はほとんどビーナスフォートの裏である。
 青海展示棟には、ルービック・キューブの商標を使える正規販売社の「メガハウス」が出展していたので、それを目的に行ったのだが、今回は「九谷焼ルービック・キューブ」のようなものはなく、「キャラクションキューブ」という、フィギュアの立体パズルの展示であった。ちょっと残念。



 あと、コーヒー用品で有名なハリオのところで、ジオン軍仕様のミルとドリッパーを見かけた。撮影禁止なのが残念である。まだテスト品らしいが、そのうち話題になるだろう。

 ところでこのブログ、去年ハマっていたルービック・キューブの話題がめっきりなくなったと思いませんか? か? か……? あのね、あのね……。それについては、また今度、ね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年06月08日

【回想録】カイコの思い出

 あれは小学校二年生のときだっただろうか。学校でカイコの幼虫が配られたことがあった。いや、全員にではなく、欲しい者にだけ、だった気がする。

 配られたカイコの幼虫は、本当に小さく、一匹が一センチにも満たない茶色の小虫であった。それをビニールの小袋に入れて家に持ち帰った。

 全部で50匹程度はいたのではなかったかな。

 家で飼うことに父母は反対しなかった。わたしの教育のためにいいと思ってくれたのだろう。姉は気持ち悪がっていた。

 翌日から、箱に入れて、成長を見守った。

 ご存じのとおり、カイコは桑の葉以外は食べない。ウチの庭には桑の木はなく、父が近所の家(といっても、少し離れていた。そこしか桑がなかったのだ)に頼んで、毎朝、わたしと桑の葉をもらいに行くことにした。

 特に飼育書のようなものは読んだ記憶がない。今、調べてみて、4回脱皮をするということを、改めて知ったくらいだ。

 毎日飼育箱を清潔に保ち、新鮮な桑の葉を与え、あまりいじくりまわさなかったのが良かったのかもしれない。50匹のカイコはすくすくと育ち、どんどん大きくなり、箱も徐々に大きい物に変えていって、姉はさらに気持ち悪がるのであった。

 5令になるまでに死んだカイコは、二匹だけであった。一匹は病死で、黒くなって死んでいた。もう一匹は、わたしが不注意で物を落とし、それでつぶして死んでしまった。この不注意は本当に残念だった。庭に死んだカイコのお墓をつくってあげた。

 5令をすぎて一週間くらいたち、夜、父母が呼ぶので行ってみると、カイコが箱の隅にマユをつくろうとしていた。
 器用な父が早速紙で格子状のマユ棚をつくり、そこに次々とカイコを乗せていくと、皆きれいにマユをつくっていくのである。
「本当にマユをつくるんだねぇ」と、父母とわたしは感動していた。その場に姉がいたかどうかは記憶にない。部屋でキモがっていたのかもしれない。

 翌日、学校から帰ってみると、どの格子にも、りっぱなマユができているのであった。

 さてそれからが困りどころであった。養蚕業者ではないウチでは、マユから絹糸を取る設備もない。
 試しにひとつ、マユをカッターで切ってみると、中からはサナギが出てきた。
「ぎゃー」とわたし。「気持ち悪い!」
 あれほどカイコのときはかわいいと思っていたのに、マユの中に入っているサナギは気持ち悪く感じたのだ。不思議なものである。
 結局、ほとんどを記念に残して、あとの十個ばかりを観察に回そうということになり、マユたくさんをグラグラと鍋で煮て(ごめんねサナギさん)、箱に取っておくことにした。
 姉にもひとつあげた。振ると中でサナギの音がするのが不気味だが、まあ死んでるしということで、姉もマユ自体はキモくないらしくもらってくれた。

 煮なかった数十個からは、無事にカイコの成虫が出てきた。茶色い液をマユに吹きかけ、穴をあけて出てくるのである。
 出てきたおカイコさんは、サナギ時代とは違い、とても可憐でかわいかった。
 しかも雄雌同士は勝手にお尻をくっつけあい、交尾をするのであった。
 このお尻同士をくっつけている様子がほほえまし、わたしは二匹を離してやるのである(ひでぇ)。すると、雄のほうからピューッとなにか液体が出て、また雌とお尻をくっつけようとする。で、また離してピューッ。

 今思うと、とんでもなくかわいそうなことをやっていたのだが、ま、子どものすることだからね……この頃から「リア充爆発しろ」だったわけだな。

 雌のほうは、産卵までしてくれたような記憶がおぼろにあるが、これ以上は育てられない、と家族会議で一致を見て、卵とおカイコさんはそのツテにもらわれていった。

 それと前後して――

 姉「ぎゃー!」

 なんと、姉にあげた、湯がいたマユのサナギが死んでおらず、中から成虫が出てきたのであった。

 というわけで、結城家の養蚕記録は、わりとうまくいったという楽しい記憶で結ばれている。唯一、自分のミスでつぶして死なせてしまった一匹だけが心残りだ。
 それと、その期間、散々な目ばかり遭わせてしまった姉には、この場を借りて謝っておきたい。ゴメンナサイ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年06月01日

【回想録】レコードの思い出

 友人の家で初めてコンパクトディスクを聴いたとき「これで、趣味のオーディオは終わった」と思った話は以前も書いた。こんなに簡単に上質の音が出るのならば、もう、いろいろ工夫する余地はない。そう一瞬で悟ったのだ。
 そしていまでも、もう、趣味のオーディオは「ない」と思っている。

 もちろん、数千万円の資金をかけて、オーディオ専用の部屋をつくったり、電柱から取り出す電気にまで気を遣うのなら別だが、それはもう、趣味と言うより、なんだろう、「人生をかけた信念」とでも呼んだ方がいいような気がする(ほめ言葉である)。

 オーディオが趣味であった時代、一般人が手に届く一番のオーディオソースはレコードであった。このレコードの音をいかによく響かせるか、が、趣味の範疇だったのである。

 そして、このレコードには苦労させられた。そんな四方山話をひとくさり。記憶を頼りに気楽に書いていくので、間違っている部分もあるかもしれない。詳しいことが知りたかったら検索だ。

 レコードには、まず、スクラッチノイズがつきものであった。溝をダイヤモンドの針が走るのである。本当の無音というものは再生できなかった。
 さらに、レコードは傷つきやすい。傷がつくと、すぐ音に反映する。回転する円盤に傷がつくわけだから、定期的にプチ、プチとノイズが乗ってしまう。

 針にはMC(ムービングコイル)型とMM型(ムービングマグネット)型というのがあって、一般的にMC型の方が繊細でいい音が出ると言われた。

 レコードは回転する円盤だが、回転数は内側も外側も変わらない。角速度一定、ということである。つまり、外側より内側の方が情報量(ダイミックレンジ)が少ないのだ。
 ポップスなどではあまり問題にならないが、クラシックなどでは、曲の後半に盛り上がりがあることがあり、それがために、内側から針を落として、外側に向けて再生していくという珍品レコードも存在していた。

 音が大きい部分は溝が大きく波形を描いているので、すぐにわかる。しかし実際には、小さい音と大きな音の波形をリニアに記録していくわけにはいかない。波形の差が大きすぎるからである。
 そこでレコードプレイヤーには、RIAAカーブというイコライザをかましてあった。小さい音は大きく、大きな音は小さく、波形を変形させていたのである。
 だからレコードで「原音再生」などというのは、実は最初っから「絵に描いたモチ」なのであった。

 高校生当時、レコードの貸し借りは大変であった。CDと違って、カバンに放り込んで持っていける代物ではない。なにしろ、物理的にでかい。満員電車の中では割れないよう気を遣わなければいけない。

 わたし自身は、レコードの貸し借りはほとんどしなかった。借り手が大ざっぱな人だと、レコードにヒゲがつけられてしまうからである。
 ヒゲというのは、真ん中の穴の部分あたりに傷がつけられてしまうことを言う。ちゃんとスピンドルに穴をゆっくり挿してくれる人ならよいが、中にはスピンドルの上にレコードのレーベル部分を乗せて、ダロカンで動かしてレコード穴を挿す人がいるのだ。すると、スピンドルの突起で穴のあたりに傷がついてしまう。これが「ヒゲ」。こういう人は、レコードそのものの扱いも悪い。ので、貸したくないのであった。

 レコードはほこりにも弱かった。なのに静電気を呼ぶ材質でできているものだから、再生中、針がほこりをひっかけて、音がなまることもないではなかった。
 レコード用の細長いほこり取りアイテムなどや、静電気よけのスプレーも販売されていた。スプレーは愛用したこともあったが、ムラなく塗るのがわりと難しく、音も濁る気がして、後期にはあまり使わなかった。

 アナログな回転機構に頼る機器であるから、回転数にもムラがあり、これを一定に保つために、ターンテーブル(レコードを回す台)には一定の刻みがつけられており、これをストロボライトで照らして静止して見えるよう調整する。つまり、回転数を一定に保つよう、人間が微調整するのであった。
 回転方法も、DD(ダイレクトドライブ)か、プーリーで回す方法のどちらがいいかで、けっこう論争があった気がする。
 なんにしろ、回転を完全に一定に保てるわけはなく、ワウフラッターと呼ばれる、回転に起因したノイズとレコードは切っても切れない関係であった。

 さらに、ヘッドホンリスニングならば問題にならないが、スピーカーで再生すると起こる問題があった。音とは空気の振動であるから、振動がレコードプレイヤーに伝わり、ハウリング状態になるのである。これを避けるのに、レコードプレイヤーやスピーカーにインシュレーターを履かすのは常識であった。

 レコード自体の振動を押さえるために、スピンドルに乗せる重しもあった。
 中にはレコード針のついているカートリッジの上にコインを張り付けて重くして再生している人もいた。アイデアはいいが、レコードの溝が傷むのではないかなぁ、と思ったものだ。

 そうやって気を遣って再生環境をつくっても、レコードのカッティングが甘いと、なんと、隣のトラックの音を拾ってしまうこともないではなかった。
 そして、レコードも針も消耗品であった。保存状態が悪いとレコードはすぐに変形したりカビたりするし、針はなまっていくので定期的に交換しなければならなかった。

 こうやって、工夫に工夫を重ねて、「いい音」を出していた時代の経験者からすると、それらを一瞬で必要ないものにしてしまったコンパクトディスクの登場は、「いままでの努力はなんだったんだ!?」と思わされる機器だったのである。

 最近は懐古趣味で、レコードがいい、あの暖かさがいい、という奇特な人が出てきているようだが、レコードで散々苦労してきた者からすると、とんでもない話である。

 いまこの記事は、スマホに入れたmp3のモーツァルト・コンプリート・ワークスを、Bluetoothで完全ワイヤレスイヤホンに飛ばして聴きながら書いている。ワウフラッターも皆無。ノイズに悩まされることもない。実に快適だ。しかも、指先大のマイクロSDに、モーツァルトだけでなく、バッハ全曲集、ショパン全曲集を入れてもまだ余裕がある。

 ほかの回想録記事だと「懐かしい、また使ってみたい」と締めるところだが、レコードだけは、もう二度とあの苦労はしたくないなぁ、と思う機器である。
 こうやって記憶を掘り起こしながら書いてみても、やっぱり、もうレコードはこりごりだ、と思う。

 でも、あの大きなジャケットはよかったかな。ジャケットからLPを取り出すときのわくわく感は、CDよりはちょっとだけあったような気もするのだ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年05月18日

【回想録】セガサターンの思い出

 先日、ハードオフへ行ったら、セガサターンがたくさんラッピングして売られていたので、懐かしく思い、筆を執った次第。

 当時はプレイステーションとセガサターンのシェア争いが激化していたが、わたしが最初に買ったのはセガサターンの方だった。
 激化といっても、ゲームフリークの多くは両機種を買っていたわけで、それほどハード間対立があったという感じはなかったように思う。

 セガサターンを買った日のことはよく覚えている。その日は細君と一緒に街へ出かけ、サターンと一緒にソフトを二本買い、映画を観て帰ったからだ。当時はまだ映画館も二本立てで映画を観られ、一本はハリソン・フォードが出ていたリメイク版の「サブリナ」であった(もう一本は忘れてしまった)。

 サターンと一緒に買ったソフトは「結婚」と「闘神伝」だったと思う。
 実はこの「結婚」というゲームが遊びたくてサターンを買ったようなものだった。

 当世は、結婚しない人生という選択も許される時代になりつつあるが、それだけ、実は結婚≠ニいう事象は大変だ、ということが世に知れ渡ってきたという証左なのだろうか。
 誰でも結婚することが当然だった時代であっても、結婚≠ヘ大変なことだった。日本においては結婚はやはり家と家とのつながりという面もあり、百組の男女がいれば、プロポーズしてから結婚式を迎えるまで、百組のドラマがあるのが結婚である。仲人はどうするか? 主賓は? 招待客は? 食事はどうする? 引き出物は? 衣装は? お色直しは? 二次会は? その司会は? ざっと表面的なものを振り返るだけで、これだけ多くの問題が挙げられるくらいだ。これに人間関係の機微がからみ、結婚というのは、表面的な祝い事というメッキをそげば、確かに人間としての通過儀礼という面もあったのである。

 だからこそ(当時は)、人間、結婚して一人前という風潮があったのである。あの苦労を越えて結婚したのね、という了解が社会の中にあったわけで。

 で、ゲーム「結婚」もそういうシミュレーションゲームだと思って買ったわけだ。とても期待大だったのである。
 確か四組(記憶薄)の男女の結婚にいたるまでのストーリーを追えたのではなかったかな。

 ところが――このストーリーが一本道で、シミュレーションどころではない、ただのキャラ萌えゲームだったのである。
 どんな選択肢を選んでも、破局もない、本当につまらない一本道ゲームだったように思う。あまりのつまらなさに、もうほとんど「つまらなかった」という感想しか残っていないくらいだ。

 その後、FF5と一緒にプレイステーションも買い、両機でゲームを楽しんだが、ゲームとして一歩踏み込んだところで、けっこうハマッたものが多かったのはセガサターンの方だったなぁ、と振り返って思う。

 オモチャの銃を買った「バーチャコップ」に、ハンドルを買った「セガラリー」。それと「スーチーパイ」に「ゲーム天国」と、今でも思い出に残る、かなりやりこんだゲームが少なくない。

 プレイステーションの方は、いまいちローディングエラーが多く、そのあたりでも、サターンの重厚な作りはハードなゲーマー好みだったような気がする。ただ、すぐ消えるメモリカートリッジだけは不評だったが。

 ゲームハードのシェア争いでは負け組ハードになってしまったが、わたしの気持ちは、プレイステーションよりもサターンの方が好きだった。
 同じタイトルが出ていたら、サターンの方を買っていたことも多いように思う。

 サターンでは、別売りカートリッジをつけると、今は知る人も少ないVideo-CDを再生できるのも特徴であった。Video-CDは良い規格だと思っていたが、消えてしまったのが残念である。

 サターンもプレイステーションも、ハードはとっくに捨ててしまったが、ソフトだけはなぜか手放す気にならず、書斎の本棚の隅でほこりをかぶっている。
 今でも、機会があったら「スーチーパイ」や「ゲーム天国」を遊びたい。

 いや、本当にその気なら、最初に触れたハードオフでサターンを買ってくればいいのだけれどね。
 それができないのは、きっと、サターンの面白さを、懐かしさフィルタにかけたままにしておきたい気分なのだろう。

 ところで、プレイステーションはプレイステーションで(今は違法の)チートができたので楽しかった。その思い出は、またそのうちに。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録