2018年07月21日

【回想録】飽きっぽい

「恭介は飽きっぽいからなぁ」というこの言葉、中学時代に畏友H君から、それこそ飽きるほど聞かされたものだ。

 どうも、当時のわたしは「マイブーム」がやってきてから去るスパンが、ほかの子より短いらしく、周りから見ると「飽きっぽい」と思われていたらしい。
 本人からすると、そんなに「飽きっぽい」とは感じていなかった。それだけ、当時は時間が圧縮されていたのだとも言える。オトナが一日と感じる時間を、極端な話、一時間で体験していたのだ。
 ようするに、それだけ、同級生より子どもぽかった、ということかもしれない。

 確かに言われてみると、中学時代に長く続けた趣味趣向というものがそう思い当たらない。一時、電卓集めにハマったことがあったが、振り返ってみると、これも数ヶ月くらいだったのかなぁ。

 言葉を選ばなければ、根気がないのだとも言える。「継続は力なり」と言うが、継続できないから、なにをやってもろくな力がつかなったというのはありそうだ。

 読書量は多かったと思う。平井和正先生や横溝正史先生、星新一先生、筒井康隆先生、山田正紀先生の本などは、当時出版されているほとんどの本を読んでいたはずである。
 読書は日常に組み込まれていたので、趣味という感じではなかった。これは今でもそう。「趣味は読書です」、というのはどこか抵抗がある。「趣味は食べることです」というのと同じような感じで。

 これは自慢話ととられてしまっては本意ではないのだが(実際に自慢できることではないし)、わたしの場合、物事の習熟曲線が初期はとても高いのである。他の人が三カ月かかって習得することを、三日で習得できる。しかし逆に、ほかの人が三年かかって習得できるレベルには、三年かかってもたどり着くことができない。極端な「広く浅く」なのである。

 長く続けられていることは、日常生活に組み込まれて習慣化されていることばかりである。読書や日記書きのような。
 逆に、習慣化されていたのに、今はすっかり無縁になってしまったものもある。テレビ視聴がそれだ。わたしはひとりでいるときはまったくテレビを見なくなってしまった。

 習慣というものは大事なものなのだなぁ。おそらくわたしはゾンビになっても、日記を書き続けるのだろう。

かゆい
うま


 ブログの「毎日更新」は、残念ながら二年で止まってしまった。この「二年」という期間は微妙だなぁ、と自分でも思う。「三年」なら「卒業」という感じだったのにね。中途半端だ。しかし「一年」だとさすがに飽きっぽいと自分でも思うし、難しいところだ。
 それこそ、日常の日記を垂れ流すようなブログならいくらでも書ける。しかしわたしは、ブログは日記と違うのだから、読者がいることを想定して、読んだ時間分、楽しんでほしいと思って書いているのである。
 日常生活の垂れ流しはツイッターでやればいい(実際には匿アカでもやっていないけど)。

 最近ハマっているキューブは、五月の連休後にはじめて、七月の今でも、まだブームが続いている。タイムは縮まなくなってしまったが、そんなに簡単にsub60いけてしまう趣味では、きっとすぐに飽きてしまう。これでいいのだと思って、まだがんばっている最中。
 問題は、これが日常に組み込めるかどうか、だな。きっと。日常に組み込めないと、そのうち飽きてしまうだろう。

 あとはそうだな、結婚生活は銀婚式を過ぎるほど続いている。これは日常だから。しかし、日常に組み込むまではなかなか大変だったかもしれない。
 離婚にいたってしまう夫婦は、何年経っても、結婚生活が日常に組み込めなかったからではないかな?
 前にも書いたかもしれないが、結婚というものは、「港の見える高層レストランでワイングラスで乾杯する」ような非日常的なことではないのだ。それこそ「カップラは高いから袋の素ラーメンを二人ですする」ような、そんないじましい日常が続くのが結婚生活である。それに慣れることができない人が「港の見える――」ような非日常に憧れて浮気したり不倫したりして、結婚という日常を壊すのである。

 数段前に、自分が中学時代は「オトナが一日と感じる時間を、極端な話、一時間で体験していた」と書いたが、自分が相応なオトナになってみると、逆に一日が短くなってくる。やらなければいけないことも多いし、子どものころのように無責任に生きてはいけない。それが幸いして、ひとつのことが長続きしているような気がする。

 ブログも「不定期更新に変更――」と言いつつ、一週間に二回、水曜、土曜の更新に落ち着きつつある感じ。このあたり、やはり自分は「タイトが好き」なんだなぁ。

 二年間のブログ毎日更新卒業に、ねぎらいメールをくださったみなさん、ありがとうございます。ボチボチお返事を書きますので、もうしばらくお待ちくださいませ。

「人生は、あの世までの暇つぶし」という言葉があるか、あるいは自分で作ったのかは覚えていないが、まぁ、そんなもんだと思っている。これまでの人生で、やりたいことはやりつくしたなぁ、と――人生にもちょっと飽いてきた? やっぱりわたしは飽きっぽいのかも!?
 なんてことを書いていくと、細君に怒られてしまうので、この話はこのへんで。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年07月11日

【回想録】タイプライターの思い出

 ミレニアル世代のみなさまは「和文タイプ」というものをご存じだろうか? むかしは学校の印刷室とか、図書館に置いてあった。

「タイプ」といっても、キーボードはついていない。漢字そのほか、文字の活字がつまった箱の上に、それを拾う機構のついたレバーがあり、一文字一文字、活字を拾っては、プラテンに打つ。プラテンに巻くのは普通の紙ではなく、謄写版用のロウ原紙である。

 むかしは、一般の日本人が書いた文章を「活字」にするには、こんなに苦労が必要だった。一文字一文字拾っては、打つ。そしてロウ原紙を完成させたら、謄写版またはローラー印刷機で印刷するのである。

 なので、自分の書いた作文が活字になって、学校の文集に載るのは、それはそれはうれしいことだった。自分の書いた文章が活字になる。それだけで、天にも昇るような気分になれたのだ。

 PCのメモ帳でちょっと書いて、レーザープリンタで印刷、それだけできれいな「活字」の印刷物ができてしまう世代には、なかなか理解できない喜びだろう。
 ワープロのように、日本語が簡単にきれいに印刷できるプロダクトができるとは、当時、誰も夢見てさえいなかった。
 中学のときの理科教師は「日本語を英語のタイプライターのように打つ機械の出現は不可能だろう」と言い切っていた。そういう時代であった。

 だから、洋画で見る、外国人記者がタイプライターを機関銃のように打って記事を仕上げる、というシーンは実にうらやましかった。日本人には無理だなぁ、と誰しもが思っていたから。

 日本の新聞の現場といえば、初代「ゴジラ」を見ればわかるように、原稿用紙に万年筆を走らせて、タバコの煙がモウモウのなか、みな、ペンだこを作って書いていたのである。
 マンガ原稿もPCで描く時代、「ペンだこ」も過去の遺物になっていくのかもしれない。

 戦後、英文タイプのような「ひらがなタイプライター」というものができ、日本語をひらがな書きにしようという運動もあったが、現実的ではなかった。また、ローマ字書きにしようという運動もあったが、これも上記に同じであった。

 さて、そんなこんなで、わたしにはずっと、英文タイプに対するあこがれがあった。
 最初に打ってみたのは、小学生のころ。家になぜかタイプライターが来たとき。父か母の仕事の関係だったと思う。それをイタズラさせてもらったのだ。確か、オリベッティではなかったかなぁ。
 以前にも書いたが、機械式のタイプライターはフィジカルに指の力が必要である。小学生の指の力では、なかなかきれいに打つことができなかった。
 もちろん、タッチタイプなどはできない。いわゆる人さし指だけで打つ「雨だれ打ち」である。
 間違えて打ったときは、バックスペースし、ホワイトの転写用紙を挟んで、間違えた文字を打つと、白く消えるのである。
 自分用のタイプライターができたのは中学上級生のとき。お小遣いをはたいて買ったのであった。レッテラだったと思う。
 わたしはこれで、タッチタイプを覚えた。
 タイプライターがあったからといって、英語の成績が特別良かったわけではないのはご愛嬌ということで(笑)。
 当時、このタイプライターは、洋楽のカセットや、ビデオテープのケースの文字打ちに大活躍してくれた。
 みなが手書きのなか、タイプで打った文字のタイトルはうらやましがられたものだ。そうそう、まだ、インスタントレタリングが現役のころの話である。

 高校に入り、マイコンMZ-80Bを使うようになったとき、このときのタッチタイプの経験は非常に役に立った。機械式タイプライターと違って、軽く、速く打てる。プログラミングにすんなり慣れていけたのは、このタッチタイプ経験があったからという面もあったと思う。

 予備校生だったころ、Brotherが「電子タイプライター」というものを発売した。タイプ自体はテプラのように小さく、液晶画面も小さかったが、印刷もできた。ただ印刷は8x4ドットではなかったかなぁ。アルファベットだけだったので、それで十分だったのだ。
 神田三省堂で、実機を「欲しいなあ。けど値段がなぁ」と思いながら、いろいろいじっていた記憶を思い出す。
 あれはいわば「英語版ポメラ」の初号だった気がする。

 今、この文章は、出先のスタバで、ポメラDM30で打っている。和文タイプからはじまって、タイプライターをいじって、数十年経ち、今や日本語タイプライターがこうやって当たり前の現実になったことに、感慨を覚えずにはいられない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年06月27日

【回想録】「家庭の医学」の思い出

 ネットの出現によって消えたモノは少なくないが、その中のひとつに「家庭の医学」がある。おそらく、ミレニアル世代の人には「家庭の医学」がなんだかわからないのではないかな?

「家庭の医学」とは、辞書のように分厚く、いろいろな病気の症状、症例、治療法などが載っている本の総称である。「家庭の医学」という名のベストセラーがあったわけではなく、各社がいろいろと出していた。まだ印刷機が高い時代で、どの社もパートカラーだったと記憶している。

 そして、そこに載っている医学写真が、またグロテスクなのである。「家庭の医学」と銘打ってはいても、中身は奇病珍病不治の病のオンパレードで、「もしこんな病気にかかったらどうしよう」と、恐る恐るページを繰るのが、当時の子どものホラーのひとつであった。

 体にできたデキモノの写真とか、顔が崩れた性病患者の写真とかは、特に恐怖の対象であった。
 そんな心配をするようなことをしていたわけではない中坊どもが、みな、「もし自分が性病になったらどうしよう」と、恐怖におののいたものだ。

 手塚治虫の名作「ブラックジャック」を知らない人はいないだろう。神業のようなメスさばきで人を救い、人間愛をうたいあげる名作である。マンガのカバーには「ヒューマン・コミックス」と銘打たれていた。
 これが初期の数巻は、「恐怖コミックス」となっていたのである。
 版数を重ねて、それが変更されたかどうかは知らないが、子ども心にも、「このマンガが恐怖コミックス≠ニいうのは違和感あるなぁ」と思ってはいた。
 しかし、最初「恐怖コミックス」にカテゴライズした編集者の頭の中には、やはり「家庭の医学」というホラー本の存在があったからこそなのだろう、と思う。

「家庭の医学」は中学の図書館にも置いてあり、みなでわいわいと見たこともあった。
 やはり中学生ということで、興味は性♀ヨ係のことになっていく。

 っと、ここから先は、ちょっとアダルトなお話。お子さまはお休みください。ねーむれ、よい子よー。

 ある日の放課後、中坊が頭を寄せて、必要もないのに、避妊のページをみなで読んでいたのであった。当時の我々は悪ガキで、スキンを自販機で買って水を入れ、ベランダから投げて炸裂させ喜んでいるような子どもであった。別段深い理由でもない。校舎の三階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても……いやそれは違う話。

 こんな連中なので、避妊法というものがいくつかあることは知っていた。
 さて、みなで繰っていた「家庭の医学」の避妊の項目中には、当時「膣外射精」というものもあり、そのデメリットとして「心理面のみ」と記されていた。
 われわれ悪ガキは、頭でっかちだったので、この「心理面のみ」という一文がよくわからなかった。
「これさ、心理的によくないってことは、精神的に、なにかまずいことが起きるってことだよな?」
「やっぱりそういうことになるよなー」
「そうだよ、膣外射精し続けてると、きっと発狂しちゃうってことじゃね?」
 悪ガキどもは震え上がった。「膣外射精こえぇー」

 この病、ブラックジャックでも治せまいよ。

 当時、震え上がった連中のほとんどが、今は数児の父親になっているということは、みな、発狂するようなことはしなかった、ということなのかな(笑)。

 今は珍しい「家庭の医学」を書斎の片隅で見つけ、こんなもん、もういらないな、スキャンもせずに捨てるかな、と思ったので、この記事を代わりに書いてみた。

 なお、当時はともかく現代において「膣外射精は避妊法ではない」というのが常識になっていることは、最後につけくわえておこう。
 やっぱり心理的に悪影響があったからなんだ。発狂しちゃうからなんだ。こえぇー(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年06月20日

【回想録】「まとめサイト」の思い出

 今、「まとめサイト」というと、5ちゃんねるの面白い書き込みを抽出して編集し転載、それでアフィリエイト収入を得ているサイトのことを指すことが多い、というか、そういう意味しかなくなってしまった。しかし、もともと「まとめサイト」はそういう意味のものではなかった。

 例えば2ちゃん(当時)で祭りが起こる。祭りには最初から参加している者ばかりではないので「今北産業(今、祭りに気がついてこのスレに来た。三行くらいで要約してくれ)」の人も多くなる。
 そういう人に「過去ログ読め」というのはちょっと無理な話。2ちゃんねるは999カキコで過去ログ入りしてしまうし、過去ログは「●」がないと読めない。なにより、スレ番号が二桁行くような祭りの過去ログを読んで、それまでの流れを把握するのは大変だ。

 そこで、ここまでの経緯や、各種資料、情報などを集約したサイトを、だれかがボランティアでつくることになる。それが、本来の意味の「まとめサイト」だったのである。

 祭りも活気がつき始めると「だれかまとめサイト≠ツくってよ」という声が上がってくることは珍しくなかった。

 当時はまだジオシティやトライポッドなどの「無料サイト」が活発に稼働しており、匿名でサイトをつくることが容易であった。また、ネットが今ほど普及していたわけではないので、自然、htmlに詳しい人も多く、ゼロから「まとめサイト」をつくることができる人材も少なくなかったのである。。

 そして、実はわたしも、いくつかの祭りで、匿名で「まとめサイト」をつくっていたことがあったのである(笑)。
 思い出に残るその祭りのひとつは、最初、専門板で起こり、やがてマスコミが取り上げたことで、2ちゃんのメインストリートである「ニュー速プラス」にスレが立ち(ニュー速プラスはマスコミソースがなければスレが立てられない)、加速度的に、いつもは過疎板であるその専門板のスレにニュー速プラスからきました≠ニいう人が多くなっていく。そして祭りはさらに活気づき、騒ぎは拡大再生産されていく、ということになった。

 なんだかんだいっても、ニュー速プラスでスレになるのは強いものだなぁ、と思ったものである。あそこにはいろいろルールがあり、マスコミソースが連続して上がらないと記者さんがスレにしてくれない。スレにしてくれないと、祭りが収束してしまう。
 そのときの祭りはテレビのある番組がもとであったので、テレビ番組のワイドショーレベルでは、同業者に遠慮してか、延焼を恐れてかほとんど取り上げなかったと記憶している。
 しかし、テレビをたたく週刊誌は、例のごとく「週刊新潮」と「週刊文春」が記事にしてくれた。そのソースをもとにニュー速プラスでは連続してスレが立ち、専門板の該当祭りスレも次々と番号を増していった。

 わたし自身は、その祭りについてもちろん自分の意見はあったが、「まとめサイト」の管理人としては、あくまで冷静に、賛成派、反対派、懐疑派、確信派などの意見、資料を集め、右にも左にもそれることなく、公平に読者に提供し、判断は読者が持てるように、と努めていたつもりである。

 ところが、ニュー速プラスからのお客さん≠ェ多くなってくると、本当にいろいろな意見を持つ人が多くなってくる。当然荒らし≠熨揩ヲ、スレがだんだんと機能しなくなってくるのである。
 そしてあろうことか、(結果的には)祭りの終盤にスレが分断し、それをボヤく地下スレまでできてしまい、賛成派、反対派の意見もごちゃまぜになっていき、どうまとめていったらいいものやら困ってしまった。

 それを見ていた名無しさんのひとりが「まとめサイトの管理人さんが困ってるよ(藁」と書いてくれたのが慰めである。

 ちょうど前後して、それまで倒れたことがなく健康に自信を持っていた自分に、初めての持病の発作が起こった。
 これはちょっと、急を争う病状であったので、急遽、わたしのまとめサイトは更新停止すると書き込んで、スレ住人の皆さんには許していただいた(同じ事件を扱うまとめサイトは、わたし以外にもつくっていらっしゃる方がいたので、わたしひとりが更新停止しても大丈夫だったのである。というか、もともとアフィリエイトもなく、匿名無償のボランティアでやっているものであるから、当時の「まとめサイト」の管理人にはそれなりの敬意を払うのがスレ住民の総意であった時代だった)。

 そんな感じで、尻切れトンボで終わってしまったその祭りのわたしの「まとめサイト」だが、確かジオシティでつくって、ずいぶん長い間残っていたという記憶がある(今は消えている)。

 今でも振り返ると、少なくとも「祭り」の効果はあった、と思っている。ネットがテレビにケンカを売った序開きの事件ではなかったかなぁ。

 そして今や、ネットもひとつの勢力として無視できない大きな力となった。オリンピックのエンブレムの盗作を見抜いた祭りなど、実に感慨深い。

 そしてわたしは、めっきり、テレビを見なくなってしまった。白黒テレビとともに幼少期を送り、カラーテレビとともに育ち、プロフィールプロでテレビをつけなかった日がなかったわたしが、今やテレビをまったくつけない日の方がほとんどだ。
 テレビでいくら有名な芸人でも、知らない人ばかりである。

 とは言え、ツイッターとかを眺めていると、テレビの話題が多かったりして、テレビもまだまだ大衆にとって現役なのだなぁ、とは思う。

 話がちょっと飛んでしまったが、もともと「まとめサイト」というのは上記のようなものだったのですよ、と、こうして文字にして、記録に残しておきたいと思って筆を執った次第。

 最近の「祭り」は「まとめサイト」をつくるだけの人がいなくなってしまったので、ネットの歴史にログとして残っていないのが残念である。
 それだけ、ネットも広く、浅くなってしまったということか。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年06月07日

【回想録】「べっかん」の思い出

 わたしの行っていた小学校には、子どもたちの間で「べっかん」とよばれる、特殊学級――Just Right!6からは「特別支援学級」と訂正せよ、とアカが入るが、わたしはこの呼び方で育ったので特に訂正はしない――があった。「別館」にあったから、通称「べっかん」。
 要するに、ダウン症などの障害児が通う学級であった。

「べっかん」の子たちと、わたしたち普通学級の子たちは、通常、まったく交流はなかった。唯一、接触があったのは、運動会のときぐらい。
 子どもの感想だから許してほしいが、正直、奇声を発して人を振り回してダンスする「べっかん」の子たちは苦手であった。

 あとは、学校の行き来で一緒になることもあった。
「べっかん」の子たちは妙に人懐こく、というよりは、他人のパーソナルエリアを侵すことを躊躇せず、人のカバンを勝手に開けて中身を持っていこうとしたりするのに閉口したものだった。

 不思議だったのは、こちらがどんどん大きくなって、卒業していくのに、「べっかん」の子たちは、いつまでもずっと同じ子がいるのである。
 のちに、ダウン症の子は(これも子どもの感想だから許してほしい)、表情がみな似通っているので区別がつかず、卒業した子も新入生もみな同じ顔に見えていたのだということを知る。

「べっかん」の子について、友人たちと「なんか自分たちと違うよね」と話していたら、それを聞いていた先生がカンカンになって怒り、「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらったことがあった。
 小学二年生に「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらわす教師というのも、脳に障害がある教師だと思うが、当時はそういう教師がいい教師≠ニ言われたのも確かな時代だった。
 今のわたしは、おそらく、そのときの教師より十何歳も上の年齢になったが、今でもその教師が言いたかった「本物のべっかん」がなんなのか、よくわからない。

 話はコロッと変わるが、出生前診断で胎児がダウン症であることがわかるようになりつつある現在、人工妊娠中絶で堕胎する、ということが「わりと当然」のように言われているが、これはおかしな文言である。
 というのも、人工妊娠中絶が許される条項の中に「胎児がダウン症であること」というのは含まれていないからである。
 胎児がダウン症で人工妊娠中絶が行えるのは、あくまで「経済的に問題がある場合」であり、「ダウン症イコール堕胎の許可」ではない。

 わたしはカトリックなので、基本は人工妊娠中絶に反対の立場である。それを置いても、「出生前診断で胎児がダウン症だったから人工妊娠中絶する」のは「ウチは貧乏だから」とイコールなのだと肝に銘じるべきだ。

 逆に言えば、ダウン症の子がいる家庭、ダウン症の本人に、手厚い金銭的補助をしない政府のせいとも言える。
 簡単にまとめられる問題ではないが、少なくとも、胎児がダウン症で人工妊娠中絶した夫婦は、自分たちは貧乏人を見下せるほど裕福ではないのだと自戒するべし。「ナマポ」なんて絶対言うんじゃないよ。あなたたちも似たようなものなのだから。

 そんなわけで、わたしは子どもの頃、ダウン症の子と深い交流をしたことは一度もない。
 あの頃「べっかん」の子と、運動会で、通学の行き帰りで、もっと交流を深めることができたらよかったのかもしれない。

 今も、わたしの卒業校に「べっかん」があるのかどうかは知らない。もしかしたら、普通学級に統合されているのかもしれない。ちょっとググってみれば、検索欄に「障害児 お世話係 迷惑」などというサジェストが出てくる時代である。

 小学校二年生の?をビンタして「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」と叫んだO先生。本物のべっかんて、なんですか?
 今でもそう問いたい気分である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録