2020年06月03日

【回想録】東京タワーの思い出

 緊急事態宣言解除にともなって、東京タワーも営業再開。しかも、平日・祝日問わず、外階段を上ってメインデッキへ行けるという。これはうらやましい。確か以前は、平日はエレベータのみで、外階段ウォークはなかったと記憶している(今調べたら、例外の期間もあるようだが)。

 東京タワーには、小学生低学年の頃、学校の遠足で上ったはずなのだが、そちらはまったく記憶にない。このときはエレベータだったはず。東京タワーの刻印メダルをつくろうかどうか迷ったというような、おぼろな記憶があるくらいだ。

 次に上ったのは1989年の1月である。このときは細君とデートで。
 祝祭日だったので、外の階段が使えた。細君はハイヒールだったが、「せっかくだから」というので、二人で階段を上ったのである。痩せていはいたが、運動不足の自分にはなかなかつらい600段で、上に行く前に何度か休憩をとった覚えがある。

 まだミノルタだったオートフォーカス一眼レフ、α3700iを持って上ったのだが、さすがフィルムカメラ、シャッターを押すのがもったいなく、東京タワーの写真は4枚しかとっていない。全部、細君が映っているので、ここには載せない。

 このときは、階段を上りきったとき、ノートをもらったと思う。今は「昇り階段認定証」をもらえるらしい。

 そして東京タワーに上る機会もなく、次に上ったのは、2009年の1月。ちょうど20年後である。というか、20年後だからこそ、デートで東京タワーにいくかー、と向かったわけである。

 時代は変わり、デジカメになったので、今度はたくさん写真が残っている。


(曇天の空に立つ東京タワー)

 今回は平日に行ったため、階段は使えなかった。エレベータでメインデッキへ。いやあ、あっという間だ。階段が使えなかったのは残念だが。


(メインデッキから階下を眺める)


(ちょっと歪んでしまったが、メインデッキのパノラマ写真)


(脚の部分を眺めてみる)



 メインデッキには、床のところどころにこういう格子をはめたガラス部分があり、下をのぞき込むことができる。
 わたしは高所恐怖症だが、ここまで高いと現実感がないので、あまり怖いという感じはしない。

 前回は覚えていないのだが、今回も「せっかくだから」トップデッキへエレベータで上ってみた。別料金である。今は三密を避けるためか、「トップデッキ専用エレベーターツアー」となっていて、なんと1〜4名で8,000円である。うわ高っ!



 これはトップデッキから見下ろして撮った、眼下の高校の校舎。また上ったときには同じ構図で撮ってみようと思っている。

「クレヨン社」というユニットに「東京夜景」という、失恋を描いた名曲があり、それのモチーフがクリスマスの東京タワーなのだった。

 それを聞きながらこの記事を書いているのだが、次に上るのはきっと、2029年1月のような気がする。わたしもとっくに還暦を過ぎている歳だ。
 わたしにとって、東京タワーはゲンのいい場所である。2029年1月までわたしが生きていて、このブログが続いていたら、またレポートをしたい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2020年05月23日

【回想録】テレホーダイの思い出

 このところ、夜になるとネットが重い。
 Zoom飲みが流行しているのか、動画視聴、生配信が多いのか、自粛のせいでネット需要がうなぎ上りになったせいはもちろんあるだろう。とにかく、夜10時頃を過ぎると重い。そして午前4時頃になると急激に軽くなる。
 この感じ、ああ、テレホーダイ時代を思い出すな、と、ネット老人会のひとりとして筆を執った次第。

 NTTのテレホーダイの発表は衝撃的であった――と書きたいところだが、ネットずっぷりの連中にとっては、「やっとかよ」というため息とともに始まった、というところである。

 テレホ以前は当然、ネット老人会の皆は、従量課金でパソコン通信・インターネットにつないでいたのである(この時代を知らない者はインターネット中年会ね)。
 インターネットプロバイダはともかく、パソコン通信の方はこちらも従量課金である。パソコン通信のチャットなどは、60分もやれば通信料(通信会社+NTT)で1,000円以上かかってしまうのであった。

 当時、ニフティサーブには各フォーラムにリアルタイム会議というものが2チャネル用意されていたが、なかなか(課金的に)入りにくいサービスではあった。
 インターネットならばデータをダウンしながらチャットなどもできるが、パソコン通信は単機能である。チャットならばずっとチャットしかできない。普通の会議室と、リアルタイム会議室では、メンツがだいぶ違うので、フォーラムに対する意見がだいぶ違う、などということも良くあった。

 わたしが最初に、テレホーダイの情報を私的ネットに書き込んだのは、1995年7月19日のことであった

 われわれネットワーカにとっては、切っても切れないみかか代の話です。

 噂の「定額料金制」ですが、みかかはついに、郵政省に認可申請したよ
うです。以下は [ GO NTTR ]で拾った情報の要旨――

●月極定額料金サービス「テレホーダイ」(ださ(^^;))

2.料 金



 というわけで、遠距離通話に関しては、完全に無視という感じですね。
しかも、2電話番号ってのは少なすぎるなぁ(`_') NIF の ROAD 2/4 だ
けで埋まってしまふ。

 わたしが登録するとしたら、市内で NIF の ROAD 2 と、インターネッ
トプロバイダの番号でしょうか。
 しかし、中途半端な感じはいなめませんねぇ、このサービス。


 こんな感想である。当時は、二大プロバイダのリムアーツとベッコアメ、どちらも私の住む地方都市にブランチがなかったので、テレホーダイ3600の選択しかなかった。

 そして実際にテレホが適用されたのが翌1996年1月26日と記してある。
 二番号が指定できたので、わたしはひとつをニフティサーブに、ひとつをベッコアメに指定した。

 さて、テレホがネットワーカに普通に使われるようになると、当然、夜11時からは皆がログインしてくるので激重になる。
 そこで、夜11時ちょっと前からログインしておく、というテクニックが使われるようになった。もちろん、その分電話料はかかるが、テレホタイムになってしまうとログインすらできなくなってしまうのだから、これはこれで有用なテクニックと言えた。

 また、朝は8時まで、となっているが、正確には8時3分まではテレホタイムなのである。そこでギリギリまでねばってテレホを使う、というセコいテクニックもあった。

 その後わたしはISDNを導入し、ISDNテレホーダイを使うようになる。こちらは64Kbpsなのだが、二回線を同時に束ねて(バルク転送)128Kbpsとして使うことができ、わたしはそちらを愛用していた。

 私的ネットの仲間もだんだんとインターネットへ移っていき、テレホの間、チャットもヤフーメッセンジャーで、定額でできるとなれば、ニフティのチャットに拘泥する必要はなくなる。このころから、だんだんと私的ネットのメンツもバラバラになっていったという感じだ。

 それでも、数年間、密度濃く、ネットで交流した皆様のことは忘れられない。もしこれをお読みの方がいらっしゃいましたら、ぜひ、ご連絡をください。
 もちろん、当時の仲間で、今でも交流が続く人々もたくさんいる。ズッと、ネッ友だョ♥

 インターネットの隆盛に従って、チャットソフトは、まずウェブのCGIチャット、そしてヤフーメッセンジャーになり、Skypeに変わった。初期の頃、流行したICQは、あまり性に合わずそれほど使わなかった。

 テレホ全盛期には、当然、夜型になってしまうのであった。朝8時過ぎに寝て、昼起きるという、モノカキだからこその怠惰な生活を送らせてもらったものだ。
 いったいそれで、今より貧弱なネットの海でなにをやっていたのか、今となっては不思議なのだが、とにかく、いろいろとウェブサーフはしていた。Netscapeがまだ有料だったころである。国内のページはほとんど見つくして、学生さんが授業で作ったページまで覗いていたりした。

 ダウンロードはよくしていた。これはNetNewsである。広義の「ネット発ニュース」の意味ではない。そのむかし、そういうプロトコルの掲示板があったのだ。日本では言わずと知れた「fj」とかがある。
「fj」はクセの強いメンツばかりで、参加する気にはなれなかったが、海外のnewsgroupには、バイナリをuuencodeで投稿できるNetNewsがあり、そこのalt.binaries.pictures.tastelessという掲示板からよくダウンしていた。
 ダウンといっても、webのようにバイナリが通るプロトコルではないから、上記のとおりuuencodeして、分割して上げられている。それをテレホタイムいっぱい使ってダウンして、テレホタイムが終わるとuudecodeして画像化するのである。

 え、どんな画像かって? そりゃわたしも、当時は健康な男性でしたから……って、残念。tastelessというのは、「グロ画像」のアップロード掲示板であったのだ。
 ダイアナ妃の事故現場という写真も、そこで最初に拾った。これはあとでフェイクとわかったが。
 当時はミステリを書いていたので、そういうグロ写真も参考になるかと思っていたというところもあるが、まあ、普段見られない画像だから興味津々、というのが強かった。

 それが今となっては、グロ画像はけっこう苦手である。人間、歳を取ると涙もろくなって、このグロ画像が親族、友人、知人だったら……と思うと、自然に目をそむけるようになってしまうのだな。

 NetNewsもインターネットの世界的流行で消えていったサービス(というよりプロトコル)だと思う。今でも残っているのかもしれないが、興味がない。

 そんなわたしのテレホタイムは、2000年8月14日、フレッツISDNの登場とともに幕を下ろすことになる。

 フレッツISDN、開通しました〜。いや〜、やっぱり常時接続はいいっす。とはいえ、しょせんダイヤルアップなんですけどねー。
 WebView なんかをのんびり眺められるのがいいです。いままではテレホ
タイムに、夜景ばかり見ていましたから(^^;)


 などという感想を私的ネットに書き込んでいる。
 そういえば、fjについて書くことはあったかな。これはそのうち、なにか思い出したら書くことにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2020年03月14日

【回想録】「復活の日」の思い出(ネタバレあり)

 毎朝通っていたフィットネスジムチェーンが、10日の臨時休業をとるという同報メールを送ってきた。理由は言わずもがな、例の新型コロナウイルスの、もしもの感染を防ぐため、である。
 その心配はよくわかる。もしひとりでも感染者が出てクラスタ認定されてしまったら、休業どころではなく、風評被害で閉業になってしまうだろうから。

 そしてWHOもついにパンデミック宣言を出した。小松左京先生の「復活の日」のファンとしては、現実に疫病が流行るとこういうふうに各国、各組織が対応していくのか、と興味深い。

 そう、「復活の日」。これについては、以前も書いた憶えがある。風邪を引くといつも読んでいたというような内容で(「【回想録】風邪の思い出」)。

 あらすじは書く必要があるのかな? 書評、映画評ではないから、いらないかもしれないが、一応、読んだことも、映画を観たこともない方のために――

 おおざっぱなあらすじ――イギリスが開発していた細菌兵器MM88が、スパイによって持ち出され、事故によってアルプス山中にばらまかれる。春になり、MM88は空気中で増殖。同時に起こっていたインフルエンザの流行を隠れ蓑にしてMM88は蔓延し、地球上の人類は夏には滅んでしまった。ただ一帯、南極に住む観測隊員たちを残して。
 4年後、日本の観測隊員吉住は、アメリカ大陸の巨大地震を予測する。その報に、南極大陸に新しくできた組織の幹部たちは青ざめた。無人の大陸に大地震が起きたところで何の被害もないだろうという吉住に、驚くべき事情が話される。
 アメリカには、他国からの核攻撃にそなえて、ARS(オートリベンジシステム)――自動報復装置――というものが作られており、それが稼働しているというのだ。そして同じようなシステムがソ連にもある。アメリカで地震が起こると、それを核攻撃とみなしてアメリカが報復のミサイルをソ連に打ち、ソ連もそれに応えて打ち返す。そのうちの一発が、なんと、南極を向いている「可能性がある」というのである。
 吉住は、ホワイトハウス地下にあるというARSを止めるための、「消防士計画(ファイアマン・オペレーション)」に自ら名乗りを上げ、死地となったホワイトハウスへ向かう。


 これでもかなり原作小説からするとはしょっている。実際のMM菌は菌ではなく「核酸兵器」という、小松左京先生の超絶的な発想を反映したものだし、各国がどのように滅んでいったかも省いてしまった。

 角川映画が作った映画版「復活の日」は、もちろん劇場へ観にいった。高校生の時だったと思う。誰かと一緒に行った記憶もないから、ひとりで鑑賞したのだろう。まだレンタルビデオなどない時代の話である。
 当時、角川は「映画界初の南極ロケを敢行」ということで、かなり力を入れて宣伝していた。主題歌のジャニス・イアン「You are love」もレコードを買った。映画版のシナリオ文庫本も。それだけ、原作「復活の日」が好きだったのだ。
 しかし、映画版は、わたしにとって、とても残念な出来であった。

 小説版の「復活の日」のストーリテリングは「アイロニー」に満ちている。エンディングで明かされるのだが、「実はソ連のミサイルは南極へ向いていなかった!」のである。映画では、このミサイル・ビリヤードは完遂されて、南極にも水爆が落ちるというシーンがあり、これは原作を知っていると、口あんぐりの結末であった。
 そしてMM菌も、映画版では「ワクチンができた」で済まされているが、原作小説では、「落ちてきたミサイルのほとんどが中性子爆弾であった」、「高速中性子によってMM菌が変質し(細かくは違うが)、無毒になった」という、ミサイル・ビリヤードこそが死地となった地球全体を救った、という流れになっていたのである。

 この、アイロニーに満ちた最後のどんでん返しなくして、「復活の日」の良さはないと思う。
 それだけに、角川映画の「復活の日」は、見終わったあと、「違うんだよなー」という感想ばかりが残ったのであった。
 後日、映画を観ていなかった中学時代の畏友H君に、いろいろとこぼしたことを思い出す。

 その後、テレビ放映やWOWOW、CSなどで何度も映画版「復活の日」は観たが、やはりそのたびに「違うんだよなー」という思いをぬぐえない。
 第一、英語版のタイトルが、「VIRUS」だしね。なんとも、つまらない。

 この新型コロナウイルス禍は、虚構の「復活の日」とは違って、まあかなりマシな状況ではあると思うが、それでも人類全体が後手後手に回っている感は否めない。

 カトリック東京大司教区は、ミサ中止を3月29日まで延長した。4月5日の「枝の主日」は行うところが、4月8日までのミサ中止を決定しているバチカンと違うところだ。
(正確なところを言うと、四旬節は4月9日の聖木曜日直前で終わるので、バチカンは四旬節全体をミサ中止したということ)

 果たして、それまでに日本の新型コロナウイルス禍が治まるか、あるいは罹患率のベクトルが下がってくれるかはわからない。「復活の日」ならぬ、4月12日の「復活の主日」で、信徒皆が全員元気で、主の復活をお祝いできれば良いのだが……。

 これをお読みの読者の皆様も、お体、ご自愛ください。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年10月05日

【回想録】おねしょの思い出

 わたしは幼児期、二回、引っ越しをしている。つまり三カ所、家を変わったわけだが、三カ所目に移ったときは小学校二年生で、三カ所目の家でのおねしょの経験はない。
 ということは、推察するに、小学校一年生くらいまではおねしょをしていた可能性があるということだ。
 卒おねしょが小学校一年生というのは、ちょっと遅いほうなのかもしれない。実際には幼稚園で卒おねしょをしていたのかもしれないが、このあたりはわからない。

 おねしょにまつわる思い出と言えば、母が「おねしょのクスリだよ」と言って、ギンナンの実を炒って食べさせてくれたことである。もちろん、なんの根拠もないプラシーボなのだが、不思議と、ギンナンを食べた晩はおねしょなしでいられるのだった。

 もっともっと小さい頃、本当に記憶リミットの思い出としては、一晩に二回、おねしょをしてしまい、さすがの母もキレてわたしの布団をはぎ取り、泣くわたしを、父が自分の布団にいれてくれたことがある。このときの父母は、今のわたしより若かったはずだ。この子はどうなるのだろう、と頭を抱えていたに違いないが、わたしは父の布団の温かさで、すぐに眠ってしまった。

 そんな父母の心配をよそに、大きくなったら自然におねしょなど治ってしまう。まあ、そんなもんである。

 さて、それが最近、歳を取って、だいぶ就寝中のトイレが近くなってしまったのである。
 夢の中で、トイレを探して、ジャーッとやる。たいていそれは汚いトイレで、イヤだなぁ、と思いながら放尿する夢だ。
 そこでハッとして目覚め、「この歳で寝小便してないだろうな!?」と慌てて確認して、無事なことにホッとしつつ、現実のトイレへ行く、と、まあこんな感じである。
 ひどいときなど。この「現実のトイレへ行く」ところまで夢だったりするから気が抜けない。それでいて、実際に出る尿量は多くないのだから、歳を取るというのはやっかいなものだ。

 などということを繰り返すようになった頃、リアルにトイレで放尿しているのに、妙に寝小便をしている感覚≠味わうようになった。

 このときわたしは確信したね。この世界は創られたものだと。アンダーソン君。君は実は、現実世界ではケーブルに繋がれて眠っており、放尿もそのまま垂れ流ししているのだよ――そんな感じ。

 この奇妙な感覚は一ヶ月くらいで消えてしまったが、依然として就寝時の小用衝動は消えず、夢の中でトイレを探したり、汚いトイレで用を足してハッとして起きる、というようなことは続いている。

 夜中に起きてトイレへ行くのが面倒くさいので、細君に、世の中にたくさんいるという「ペットボトル尿」推進派の話をし、「どうだろう?」と提案したら、無碍に却下されてしまった(あたりまえだ)。

 うちは結婚以来ダブルベッドで、いつも細君が横に寝ている。
 仕方ない。もし、おねしょをしたら、そっちに細君を転がして、朝、細君のせいにしようっと。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年07月06日

【回想録】シャーペンの思い出

 今日はISOTでビッグサイトへ来ている。ISOTについては「【日記】ISOT」の記事ですでに書いている。「国際 文具・紙製品展」である。あれ? 去年はどうしたのかな? と思って日記を見てみたら、去年はなぜか(わたしが)お休みしていたのだった。
 30周年記念だという今年は、なのに西館一階でのみの開催。キングジムもコクヨも出展していない。うーむー。正直、ショボくなったなぁ(ごめんね開催社のリード・エグジビション・ジャパンさん。VIP招待券もらっておいて)。

 今回は呉竹のブースが大きかったのが印象に残った。「令和」の筆書きで毛筆ブームがきているのだろうか。毛筆の達筆にはあこがれるが、河合克敏先生の「とめはねっ」を読むと、基本から着実に身につけていかなければならないようで(当たり前だ)、ちょっとハードルが高い。とはいえ、自分が適当に毛筆で書いた文字はけっこう好きだったりする。

 毎年、日本文具大賞というイベントもやっていて、今年の大賞がシステム手帳だったのにはちょっと驚いた。わたしもシステム手帳愛用者だが、最近はスマホのメモやジョルテでスケジュール管理をすることの方が多くなってしまっている。
 しかもこの手帳は女性向けを意識してつくられていた。ライフログをつける女性が多くなっている傾向から、システム手帳も復権していくのだろうか。えっ「恭介くんとガンダム」w いや、わからない方はわからないままでいいから、大丈夫だから。安心して。約束するから。

 思い出に残る文房具は多々あるが、振り返ってみると性格がらか、わたしは実用本位、質実剛健な文具が好きで、「ロケットペンシル」とか「差し替え式色鉛筆」とか「多機能筆箱」とかは、それほど好きではなかった。でももちろん、ここに名が出るということは、一度は買ってみているのだな。

 今回はその中でも、シャーペンの思い出を追ってみた。
 ちなみに、わたしの行っていた学校は自由な校風だったので、小学生でもシャーペンの使用は特に禁じられていなかった。なので、うろ覚えだが、鉛筆を使っていたのは一年生のときくらいである。
 多くの小学校でシャーペン禁止なのは、生徒が分解整備をして授業に集中できないから、という理由らしいが、鉛筆の方がナマったら鉛筆削りを使わなければいけないし、授業に集中するならシャーペンの方がいいという合理的な考え方が、わたしの行っていた小学校にはあった。

 そんなわけで、最初はふつうのノック式の、安いシャーペンを使っていたが、これはいい、と最初に思ったのは、たしか小学校二年のときに売り出された、ノック部分が軸部についているシャーペンであった。
 たしかオレンジ色をしたこのシャーペンで、早朝の誰もいない教室で、何度も漢字の書き取りをしたことを覚えている。
 次に気に入ったのも、やはり小学生時代。四年だったかな? 軸を折り曲げると芯が出てくるシャーペンだった。これは画期的だと思った。書いていて実にテンポよく芯を出していける。
 前後して、ペンを上下に振ることで芯が出るシャーペンも出てきたが、こちらは試験中にカシャカシャやるのがはばかられ、自分はあまり使わなかった。

 中学に入ると、あまりギミックにはこだわらなくなり、シンプルなシャーペンが好きになる。
 時代もそういう波だったのか、一見六角形の鉛筆そっくりなシャーペンが売り出され、しばらくそれを愛用していた。

 当時の男の子なら誰でも一度はハマッた、製図で有名なロットリング社が出していたシャーペンや、これはシャーペンではないが、ステッドラーの芯ホルダーを使っていた頃もある。しかしロットリングのものはすぐに壊れてしまった。

 その後は長く、どこかの国産ブランドもののシャーペンを利用していた。さすが当時の国産ブランドものだけあって、故障することもなく、長く使っていられた。

 高校生当時から小説を書いていたのだが、原稿用紙に走らせるのは、下書きでも鉛筆は使わず、ぺんてるの水性ボールペンと決めていた。これは下書きを削除したり、訂正したり、段落を入れ替えたりと、そういう「悩んだ」痕跡を残しておきたかったから。
 その下書きの清書はモンブランの万年筆でやっていたのは、以前も書いた通り。

 今のわたしは、シャーペンをめっきり使わなくなってしまった。普段のメモ書きや手帳は万年筆だし、長文はポメラやPCを使ってしまう。
 わたしがシャーペンを離れているあいだに「クルトガ」という、常に先端がとがっているという製品が出て心惹かれたが、「でもシャーペン使わないしなぁ」ということで購入には至っていない。

 これからもシャーペンはまだまだ進化していくのだろう。
 振り返ってみて、シャーペンで漢字の書き取り練習を何度も何度もやっていたあの少年の日々を懐かしく思う。
 文房具がいつの時代も「わくわくするもの」なのは、みな、こういった経験をしているからではないだろうか。

 追記:今回、ISOTと同時開催の「国際 雑貨EXPO」も観ていったのだが、会場がビッグサイト西館二階と、新しくできたという「青海展示棟」に分かれていた。両会場には無料バスがひっきりなしに運行しているので、行き来は大変ではないが、距離がかなりあってびっくりしてしまった。青海展示棟はほとんどビーナスフォートの裏である。
 青海展示棟には、ルービック・キューブの商標を使える正規販売社の「メガハウス」が出展していたので、それを目的に行ったのだが、今回は「九谷焼ルービック・キューブ」のようなものはなく、「キャラクションキューブ」という、フィギュアの立体パズルの展示であった。ちょっと残念。



 あと、コーヒー用品で有名なハリオのところで、ジオン軍仕様のミルとドリッパーを見かけた。撮影禁止なのが残念である。まだテスト品らしいが、そのうち話題になるだろう。

 ところでこのブログ、去年ハマっていたルービック・キューブの話題がめっきりなくなったと思いませんか? か? か……? あのね、あのね……。それについては、また今度、ね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録