2018年09月15日

【回想録】ダイナビーの思い出

 中学に入った頃から、自分の手首の細さにコンプレックスがあった。なぜ中学からかというと、腕時計をするようになったからである。それまでは、自分の手首が細いことに気づかなかったのだ。

 腕時計の金属製のバンドを最狭にしても、まだゆるい。当時、というか、小学校の頃からわたしは、背の順で並ぶと必ず一番先頭になるくらい、身体が小さかった。
 それまでは、あまり気にしたことはなかったが、入学祝いにいただいた時計がゆるゆるだったのはちょっとショックで、自分はクラスメートにくらべて脆弱な身体なんだなぁ、と、改めて認識させられたのである。
 そのコンプレックスを克服するために、中学入学当初は運動部に入ってがんばってみたが、小さな身体に当時の運動部の苛烈なシゴキは耐えられず、一年保たずにやめざるをえなかった。
 当時の運動部の常識は「部活中、水を飲むな」が当然のような非科学的な根性論が幅をきかす世界である。
 今でも、あのとき、運動部をやめたのは仕方ないと思っているが、今、わたしがオリンピックとかワールドカップとかにまったく興味がなく「健全な精神は健全な肉体にやどる」とかのたまうスポーツ界に不祥事が連続するのをゲラゲラ笑っているのは、そういうチャレンジした上での下地があるのである。

 ところが、誰にでも成長期というものはあるもので、皮肉なことに運動部をやめたあたりから、わたしの背は伸びて、クラスの最前列ではなくなった。それにともない、最初に触れた手首も多少は太くなって、腕時計が限界までバンド調整してもゆるゆる、ということもなくなったのであった。

 さて、話は大きく飛んで――
 わたしが住んでいる地方都市には、以前、パルコがあったのだが――


(閉店して看板を外しているパルコ。ドナドナな哀愁漂う)

 その中に、これもさらに以前、「王様のアイデア」というお店があった。これはとても面白い店で、基本的には雑貨屋になるのだろうが、ショウ・ウィンドウの中に、さまざまなアイデア商品が並べられ、見ているだけでも楽しく、わくわくしてくるようなラインナップであった。
 今で言えば、「ビレッジバンガード」を、もっと整然とさせた感じかな。並べられている商品はけっこうピンキリで、実用品からオモチャまで多種多様であった。

 その中に「ダイナビー」という一品があったのである。

 オレンジ色をしたリンゴ大の「トレーニング用品」で、「これを回すことで手首や腕を鍛えられる」とうたっていた。
 高校生の自分は、もう身体を鍛えることに興味を失っていたが、何度か「王様のアイデア」に通ううち、これは面白そうだなぁ、と、心惹かれてしまったのである。
 値段はおぼろな記憶だが、3,500円くらいではなかったかなぁ。思い切って買って、ホクホクと家に帰った覚えがある。やはり、手首の細さというコンプレックスが後押ししたことは否めない。

 ダイナビーの構造を文章で記すことは難しい。リンゴ大の筐体の中には回転するオモリが入っており、これの一部が外側に出ている。回転するオモリはさらにリンゴ筐体の中で水平に回るようにできており、筐体を手で持って、うまく手首のスナップを利かせてオモリを水平軸にかけて回すと、コリオリ力によりオモリの回転が増し、ダイナビー自身がダンベルのように手首に荷重をかける。それで手首と腕が鍛えられる、とこういうわけだ。

 このとき、ダイナビーは「ブーン」という蜂のような音を立てる。力学的(Dyna)な蜂(Bee)という名前はここから取ったのだろう(と書いたが、確証はない)。

 先にネタバラシしてしまうと、この「ダイナビー」、実は今でも売っている。売っているどころか進化している。ただ、商品名は「ダイナビー」ではない。「パワースピナー」という名称だ。ちょっと前に流行した「ハンドスピナー」とは別物なのでヨロ。

「ダイナビー」は、一度オモリをコリオリ力で回転させることに成功すると、あとは簡単に回し続けることができる(体力が続く限りね)のだが、その最初の回転をかけるのが難しかった。
 説明書はあったかな? 確か、慣れると親指で最初にオモリへ回転をかけ、五指でぶら下げるように持ってダイナビー自体をクルクル回せば徐々にオモリを加速できる、などというようなことが書いてあったと思うが――できないのだ、これが。
 キックスタートに成功しない、バイクのエンジンみたいな感じ。

 さて、果たして「ダイナビー」は回るのか?
 この記事、長くなったので次回(「【日記】パワースピナー」)に続く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年08月22日

【回想録】高校野球

 自分が小学生の頃は、夏の暑い日に、扇風機の風で生ぬるい部屋の空気を攪拌しながら、祖父母と「夏の甲子園」を見るのが楽しみであった。

 別にわたしは野球少年ではなかったし、野球が好きでもなかったが、プレイヤーの真剣さというものは画面越しにでも伝わるものなのである。

 プロ野球と違って、一試合一試合で勝敗が決まる高校野球には、鬼気迫る迫力があり、地元の高校が出ていたりすれば、なんとなくやはり、応援したりするものであった。
 当時、高校球児たちは、確かに自分にとってオトナであった。

 自分が高校生になってみると、不思議な気分である。残念ながらわが校は甲子園どころか一回戦、二回戦敗退ばかりだったが、市民球場に応援に行き、見知ったクラスメイトが、格好良くバッターボックスに立っていたりすると、妙な感じであった。

 たとえて言えば――中学校の同級生が運転するクルマに初めて乗ったときのような違和感、である。わかっていただけるかな?

 わたしは特に同じクラスのM君と仲が良く、M君はバッターボックスで、まるでホームラン予告のようにバットをビシッと前方に向けるのである。なかなか、格好良かった。

 高校を卒業すると、高校野球の少年たちが、自分より年下、ということにびっくりするようになる。いやぁ、みんな、オトナだなぁ、と。丸坊主であどけない表情でも、目標を目指す真剣さがまぶしく、だらけた生活を送っている自分がとても幼く感じたものだ。

 それからしばらくは、高校野球に興味なく過ごし、夏もテレビで応援、というようなことはしなかった。
 ある年、自分が相応に歳を取ってから、高校野球を見て、びっくりしてしまった。
 みんな、子どもなのである。
 いや、当たり前の話なのだが。

 念のために言っておくが、子どものように見えるから悪い、オトナに見えるから良い、というわけではない。これは単に、わたしの立ち位置が変わっただけなのだ。

 子どもの頃は、高校野球の選手たちはオトナだった。同級生のときは、彼らのオトナの一面を見せられてドキッとして、その後しばらくはそれが続くが、自分が完全にオトナになってしまうと、高校球児たちはまぶしいほど、目標一直線の子どもになってしまうのである。

 そう、おそらく、わたしは汚れてしまったのだな。オトナというものに。


(画:中原裕/原作:神尾龍「ラストイニング」44巻より引用。「敗れて悔いなし?」とインタビュアーに訊ねられたときの鳩ヶ谷監督の答え。印象的なシーンだ)

 高校野球というのは、不思議な日本の伝統だなぁ、と思う。それはひとつのサンクチュアリ――聖域――だ。熱射病で倒れても、ケガをしても美談になってしまう。
 高校野球という試練を通ることで、本当は才能があったのに、体を壊してプロに行けなくなってしまう選手もいると聞く。

 特に暑かった今年の夏は、果たしてドーム球場ではない甲子園でこれからも続けるべきか、という議論も出てきたようだが、おそらく高校野球は、灼熱の甲子園のもとで、来年も、再来年も、十年後も行われているに違いない。
 それは前述したが、夏の甲子園、高校野球が聖域だからである。わたし自身(老害発想であることを自認しながら)、夏の高校野球がドーム球場で行われたらちょっとなぁ、と思うところがないではないのだ。

 なんにしろ、日本の夏はここ最近、暑すぎる。夏の風物詩である高校野球が、この先、若い選手たちのために、なにかしら、良い方向に改善されれば、とも願う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年08月04日

【回想録】パンダの思い出・その2

「その1」は2017/09/30、シャンシャンちゃんの名前を当てたときに書いている(「【回想録】パンダの思い出」

 わたしは、日中国交回復の記念として贈られた、上野動物園の初代パンダ、ランラン、カンカンを生で見た世代である。

 といっても、子どもの頃だったので、本当におぼろな記憶しかない。
 なんとなく、暑い季節ではなく、小雨が降っていたような覚えがある。

 とにかく、列は長かった! 子どもだからそう感じたのかもしれないが、感覚としては、古い時代の東京ディズニーランドでスペースマウンテンに並ぶほどの時間である。
 ディズニーランドのように、並ぶ人の目を楽しませるような工夫はしていない、昭和の上野動物園である。つまりはただの列であるから、これがまた暇で暇でしかたない。

 もちろん、一人で行ったのではない、両親に連れられての見物であった。
 パンダ舎は、今は入り口のすぐそばにあるが、当時、どこにあったのかはぜんぜん覚えていない。実は、パンダ以外に動物を見たかどうかすら、記憶に残っていないのだ。

 さて、並んで並んで並んでならんらんかんかんリュウエン、リンリンランランリュウエン、リュウエン行って幸せ食べるほど並んで見たパンダは――一頭は舎内の部屋に引きこもっていて見ることができず、もう一頭は、こちらに尻を向けて微動だにせず眠っていた。なんとも大物である。


(玖保キリコ「バケツでごはん」1巻より引用)

 並んで並んでやっとガラス越しに見たパンダは、こちらにケツを向けてぴくりともしない。これには、一緒に並んでいた大人たちも、わたしの両親たちも、がっかりのなかに苦笑い。わたしはまあ「生パンダ(の尻)が見られた!」と、ちょっと興奮して嬉しかった。ま、子どもだからね。
 係員に急かされて、列はどんどん進み、パンダの尻は遠くなっていったのであった。

 これがわたしの「パンダ初体験」。それ以来、一回も生パンダは見たことがなかったと思う。

 今年はじめ、上野動物園で、赤ちゃんパンダ「シャンシャン」が抽選制で公開されたので、実は何度も何度もWeb応募していたのだが、ことごとくハズレ。

 シャンシャンが「ピンクピン太郎」のうちに見たかったのだが、そうこうしているうちにもう赤ちゃんパンダから子パンダになり、公開も抽選制から、並べば見られるようになったので、「ミラクル・エッシャー展」の帰りに、細君と寄ってきた。細君もランラン、カンカンの動かない尻を見てきた記憶があるという。

 さて、今回は炎天下のもとで並ぶことになった。申し訳のテントなどもあるが、テントが切れるところでは直射日光がきつい。前と違うのは、自分が大人になったので、まあおとなしく待てること。それと大玉レンズをつけたカメラを持った人が多いことにも驚いた。



 列は粛々と進み、やがて、まずはガラス越しのパンダ舎の中にいる、父親パンダのリーリーが見えてきた。

 わたし「あっ、いた。パンダだ」
 細君「寝てる!」
 わたし・細君「お尻向けて寝てる!」



 なんということであろうか、数十年を経て見た生パンダは、またしてもケツをこちらに向けて寝ていやがったのであった。

 わたし「まだお母さんパンダとシャンシャンちゃんがいるよ」
 細君「モニターに写ってるね」
 わたし・細君「……」



 パンダ舎の上の方にモニターが設置してあって、母親パンダ、シンシンとシャンシャンの様子が写っているのだが……。
 列はさらに進み、生シンシンと生シャンシャンをガラス越しに見られるようになった。

 わたし・細君「……」
 わたし「寝てるね」
 細君「向こう向いて寝てるね」
 わたし「こっちにお尻むけて寝てるねぇ……」



 なんと、なんということであろうか。シンシンとシャンシャンちゃんまで、こちらに尻を向けて寝ていて、しかも微動だにしないのであった。

 係員にせかされて、列はどんどん進み、シャンシャンの尻も小さくなっていった。

 というわけで、わたしの人生でみた生パンダは、今のところ――

「尻だけ」

 という思い出なのである。


(玖保キリコ「バケツでごはん」1巻より引用)

 くっそう。いつかはリベンジ、動いているかわいいところを見てやるからなー、と思いつつ、細君と二人、熱射病手前になりつつパンダ舎を後にしたのであった。
 どっとはらい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年07月21日

【回想録】飽きっぽい

「恭介は飽きっぽいからなぁ」というこの言葉、中学時代に畏友H君から、それこそ飽きるほど聞かされたものだ。

 どうも、当時のわたしは「マイブーム」がやってきてから去るスパンが、ほかの子より短いらしく、周りから見ると「飽きっぽい」と思われていたらしい。
 本人からすると、そんなに「飽きっぽい」とは感じていなかった。それだけ、当時は時間が圧縮されていたのだとも言える。オトナが一日と感じる時間を、極端な話、一時間で体験していたのだ。
 ようするに、それだけ、同級生より子どもぽかった、ということかもしれない。

 確かに言われてみると、中学時代に長く続けた趣味趣向というものがそう思い当たらない。一時、電卓集めにハマったことがあったが、振り返ってみると、これも数ヶ月くらいだったのかなぁ。

 言葉を選ばなければ、根気がないのだとも言える。「継続は力なり」と言うが、継続できないから、なにをやってもろくな力がつかなったというのはありそうだ。

 読書量は多かったと思う。平井和正先生や横溝正史先生、星新一先生、筒井康隆先生、山田正紀先生の本などは、当時出版されているほとんどの本を読んでいたはずである。
 読書は日常に組み込まれていたので、趣味という感じではなかった。これは今でもそう。「趣味は読書です」、というのはどこか抵抗がある。「趣味は食べることです」というのと同じような感じで。

 これは自慢話ととられてしまっては本意ではないのだが(実際に自慢できることではないし)、わたしの場合、物事の習熟曲線が初期はとても高いのである。他の人が三カ月かかって習得することを、三日で習得できる。しかし逆に、ほかの人が三年かかって習得できるレベルには、三年かかってもたどり着くことができない。極端な「広く浅く」なのである。

 長く続けられていることは、日常生活に組み込まれて習慣化されていることばかりである。読書や日記書きのような。
 逆に、習慣化されていたのに、今はすっかり無縁になってしまったものもある。テレビ視聴がそれだ。わたしはひとりでいるときはまったくテレビを見なくなってしまった。

 習慣というものは大事なものなのだなぁ。おそらくわたしはゾンビになっても、日記を書き続けるのだろう。

かゆい
うま


 ブログの「毎日更新」は、残念ながら二年で止まってしまった。この「二年」という期間は微妙だなぁ、と自分でも思う。「三年」なら「卒業」という感じだったのにね。中途半端だ。しかし「一年」だとさすがに飽きっぽいと自分でも思うし、難しいところだ。
 それこそ、日常の日記を垂れ流すようなブログならいくらでも書ける。しかしわたしは、ブログは日記と違うのだから、読者がいることを想定して、読んだ時間分、楽しんでほしいと思って書いているのである。
 日常生活の垂れ流しはツイッターでやればいい(実際には匿アカでもやっていないけど)。

 最近ハマっているキューブは、五月の連休後にはじめて、七月の今でも、まだブームが続いている。タイムは縮まなくなってしまったが、そんなに簡単にsub60いけてしまう趣味では、きっとすぐに飽きてしまう。これでいいのだと思って、まだがんばっている最中。
 問題は、これが日常に組み込めるかどうか、だな。きっと。日常に組み込めないと、そのうち飽きてしまうだろう。

 あとはそうだな、結婚生活は銀婚式を過ぎるほど続いている。これは日常だから。しかし、日常に組み込むまではなかなか大変だったかもしれない。
 離婚にいたってしまう夫婦は、何年経っても、結婚生活が日常に組み込めなかったからではないかな?
 前にも書いたかもしれないが、結婚というものは、「港の見える高層レストランでワイングラスで乾杯する」ような非日常的なことではないのだ。それこそ「カップラは高いから袋の素ラーメンを二人ですする」ような、そんないじましい日常が続くのが結婚生活である。それに慣れることができない人が「港の見える――」ような非日常に憧れて浮気したり不倫したりして、結婚という日常を壊すのである。

 数段前に、自分が中学時代は「オトナが一日と感じる時間を、極端な話、一時間で体験していた」と書いたが、自分が相応なオトナになってみると、逆に一日が短くなってくる。やらなければいけないことも多いし、子どものころのように無責任に生きてはいけない。それが幸いして、ひとつのことが長続きしているような気がする。

 ブログも「不定期更新に変更――」と言いつつ、一週間に二回、水曜、土曜の更新に落ち着きつつある感じ。このあたり、やはり自分は「タイトが好き」なんだなぁ。

 二年間のブログ毎日更新卒業に、ねぎらいメールをくださったみなさん、ありがとうございます。ボチボチお返事を書きますので、もうしばらくお待ちくださいませ。

「人生は、あの世までの暇つぶし」という言葉があるか、あるいは自分で作ったのかは覚えていないが、まぁ、そんなもんだと思っている。これまでの人生で、やりたいことはやりつくしたなぁ、と――人生にもちょっと飽いてきた? やっぱりわたしは飽きっぽいのかも!?
 なんてことを書いていくと、細君に怒られてしまうので、この話はこのへんで。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年07月11日

【回想録】タイプライターの思い出

 ミレニアル世代のみなさまは「和文タイプ」というものをご存じだろうか? むかしは学校の印刷室とか、図書館に置いてあった。

「タイプ」といっても、キーボードはついていない。漢字そのほか、文字の活字がつまった箱の上に、それを拾う機構のついたレバーがあり、一文字一文字、活字を拾っては、プラテンに打つ。プラテンに巻くのは普通の紙ではなく、謄写版用のロウ原紙である。

 むかしは、一般の日本人が書いた文章を「活字」にするには、こんなに苦労が必要だった。一文字一文字拾っては、打つ。そしてロウ原紙を完成させたら、謄写版またはローラー印刷機で印刷するのである。

 なので、自分の書いた作文が活字になって、学校の文集に載るのは、それはそれはうれしいことだった。自分の書いた文章が活字になる。それだけで、天にも昇るような気分になれたのだ。

 PCのメモ帳でちょっと書いて、レーザープリンタで印刷、それだけできれいな「活字」の印刷物ができてしまう世代には、なかなか理解できない喜びだろう。
 ワープロのように、日本語が簡単にきれいに印刷できるプロダクトができるとは、当時、誰も夢見てさえいなかった。
 中学のときの理科教師は「日本語を英語のタイプライターのように打つ機械の出現は不可能だろう」と言い切っていた。そういう時代であった。

 だから、洋画で見る、外国人記者がタイプライターを機関銃のように打って記事を仕上げる、というシーンは実にうらやましかった。日本人には無理だなぁ、と誰しもが思っていたから。

 日本の新聞の現場といえば、初代「ゴジラ」を見ればわかるように、原稿用紙に万年筆を走らせて、タバコの煙がモウモウのなか、みな、ペンだこを作って書いていたのである。
 マンガ原稿もPCで描く時代、「ペンだこ」も過去の遺物になっていくのかもしれない。

 戦後、英文タイプのような「ひらがなタイプライター」というものができ、日本語をひらがな書きにしようという運動もあったが、現実的ではなかった。また、ローマ字書きにしようという運動もあったが、これも上記に同じであった。

 さて、そんなこんなで、わたしにはずっと、英文タイプに対するあこがれがあった。
 最初に打ってみたのは、小学生のころ。家になぜかタイプライターが来たとき。父か母の仕事の関係だったと思う。それをイタズラさせてもらったのだ。確か、オリベッティではなかったかなぁ。
 以前にも書いたが、機械式のタイプライターはフィジカルに指の力が必要である。小学生の指の力では、なかなかきれいに打つことができなかった。
 もちろん、タッチタイプなどはできない。いわゆる人さし指だけで打つ「雨だれ打ち」である。
 間違えて打ったときは、バックスペースし、ホワイトの転写用紙を挟んで、間違えた文字を打つと、白く消えるのである。
 自分用のタイプライターができたのは中学上級生のとき。お小遣いをはたいて買ったのであった。レッテラだったと思う。
 わたしはこれで、タッチタイプを覚えた。
 タイプライターがあったからといって、英語の成績が特別良かったわけではないのはご愛嬌ということで(笑)。
 当時、このタイプライターは、洋楽のカセットや、ビデオテープのケースの文字打ちに大活躍してくれた。
 みなが手書きのなか、タイプで打った文字のタイトルはうらやましがられたものだ。そうそう、まだ、インスタントレタリングが現役のころの話である。

 高校に入り、マイコンMZ-80Bを使うようになったとき、このときのタッチタイプの経験は非常に役に立った。機械式タイプライターと違って、軽く、速く打てる。プログラミングにすんなり慣れていけたのは、このタッチタイプ経験があったからという面もあったと思う。

 予備校生だったころ、Brotherが「電子タイプライター」というものを発売した。タイプ自体はテプラのように小さく、液晶画面も小さかったが、印刷もできた。ただ印刷は8x4ドットではなかったかなぁ。アルファベットだけだったので、それで十分だったのだ。
 神田三省堂で、実機を「欲しいなあ。けど値段がなぁ」と思いながら、いろいろいじっていた記憶を思い出す。
 あれはいわば「英語版ポメラ」の初号だった気がする。

 今、この文章は、出先のスタバで、ポメラDM30で打っている。和文タイプからはじまって、タイプライターをいじって、数十年経ち、今や日本語タイプライターがこうやって当たり前の現実になったことに、感慨を覚えずにはいられない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録