2019年05月11日

【回想録】プラモデルを完成させたことがない

 10日間の連休は平成最後の日に、10年来の仲間と畏友R氏の家に集まってオフをしたのだった。
 畏友R氏はこのブログにもたびたび登場願っているが、とにかくいろいろなもののコレクターである。そのときそのときでコレクションのベクトルが変わっているのだが、今は部屋の一面にうずたかく積み重ねられたプラモデルの箱がものすごい。

 以前、「【日記】老後の楽しみ」の記事で、若い方に「コレクションしないで今を楽しみなさい」とアドバイスしたが、考えてみると、プラモデルは箱のままつくらず残しておいて、年を取ってから作るという楽しみができる趣味かもしれない。わたしにはプラモづくりの経験がろくになかったから、プラモ収集は息の長い趣味になるという視点に気づかなかったのだ。

 そう、わたしはプラモづくりの経験がほとんどない。ほとんど、ということは、二、三個くらいは作ったことがあるのである。それで、自分の才能の限界を理解して、手を出さなくなったのだ。

 最初の記憶は、小学校一年生のとき。スポーツカーのプラモデルだったと思う。これはプラモとは言え、中にモーターを入れて走らせることができるという、プラモとしてはちょっと邪道なしろものだった。この頃から「動くものでないと興味がわかない」という自分の性格が出ていたのである。
 とにかく、説明書を見い見い、セメダインを使って組み立てたが、これの出来が、自分でも見ても不格好なしろものだった。セメダインははみ出し、ぴったりはまるはずのパーツはずれ、ところどころ塗装は溶けていた。自分の不器用さが具現化したようなもので、子ども心にも「下手だなぁ」と思ったものである。

 次に作った覚えがあるのは、小学校高学年の頃、JALに搭乗したとき、記念にもらった飛行機のプラモデルであった。
 もらったからには作るのだが、数年年を取ったからといって不器用さが治っているわけはなく、できた飛行機は滑走路から飛び立つのは無理そうな出来栄えであった。
 怒りのあまり、虫メガネで日光を集め機体を焼いてみたら(さすが小並感)、プラスチックが溶けて存外におもしろく、JALが好意で少年にプレゼントしたプラモデルは、まるでテロリストの攻撃にあったかのようにボロボロにされたのであった。

 最後の大物は宇宙戦艦ヤマトのプラモデル。これは迫力を出すために、艦主が太く、艦尾が小さくデフォルメされており、正直、もとからあまり格好の良いものとは思えなかった。確か中学の頃だったから、それまでよりはまともに作った――というか、もとから簡単なつくりになっていたのだと思う――覚えがあるが、やはりセメダインが接合部からニロニロはみ出しているという仕上がりで、しばらく部屋に飾っていたが、見るたびに自分の不器用さをつきつけられる気がして、そのうち捨ててしまったと思う。

 こんなわたしだが、人の作った美しいプラモデルは「すばらしいなぁ」と感じる感性はある。プラモ屋の店頭ディスプレイに飾ってある完成品は息をのむような美しさをたたえており、「凝る人は凝るのだなぁ」といつも嘆息している。

 振り返ってみると、どうにもわたしは、細かい手作業を根気よくやるのが苦手らしい。気が急きすぎるのである。
 そんなわけで、趣味としてのプラモ、コレクターとしてのプラモからも縁遠い人生を送ってきている。

 ところでR氏は、なんにつけても「買ったはいいが箱を開けるのを忘れている」ことが得意な人で、オフのとき、仲間が箱を開けるのがひとつの様式美にもなっているのである。
 どうだろう、R氏、このままプラモは積み重ねておいて、お互い還暦を過ぎたらいよいよ箱を開け、わたしに作らせていただけませんか?
「不器用とはこういうものだ!」という真骨頂(というか絶望感)をお見せしますぜ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年04月27日

【回想録】「メイドインヘブン」の思い出

 あぁいかん。最近、どうも妙な曲が頭に常駐しているのである。気づけば脳内でその曲がリフレインしている。この常駐ソングについてはそのうちにまた。

 で、「常駐ソング」で連想して思い出したのが、アダルトゲーム「メイドインヘブン」なのであった。

 このゲームは、確かPILLというブランドが出していたソフトで、とても能天気な内容だった。
 特にネタバレするストーリーがあるようなゲームでもないので、遠慮なく書いてしまう。もう記憶も曖昧だが、ここは検索などせず自分のそれを頼りにいこう。

 一人暮らしの主人公のところに転がり込んできた(幼なじみの?)美少女なぎさちゃん。彼女、なぜか最初から主人公のメイドとして過ごすことになるのである。主人公は別に良家の坊ちゃんというわけではないフツーの男。ただ違うのはちょっと(かなり?)エッチで鬼畜で、なぎさちゃんに毎晩アレコレしまくるのである。
 大人のおもちゃ屋に行って怪しげな道具を買ってはそれを試したり、夜、屋外に連れ出して露出プレイをしたりとやりたい放題。なぎさちゃんには好感度レベルなどというものはなく、ひたすらされるがままである。そんな感じで、毎日毎日毎日毎日、ただ愛欲にただれた生活を送る二人なのであった。ちゃんちゃん。

 ひとつだけ、ゲームオーバーになる条件がある。なぎさちゃんの誕生日に結婚届にサインしてしまうこと。これだけを避ければ、ゲーム時間で何年でもなぎさちゃんをいじめることができるのだ。

 このゲーム、オープニングが(今だと珍しくもないが)なぎさちゃんのライブアニメ動画で、そこにつけられていた曲が、なんとも常駐しやすいそれだったのであった。



 その歌詞がまた、とてもお上品とはいえないので、ここには転記できないのである(笑)。
 ゲームには一緒にCDも入っていて、そちらは全曲版が含まれていたような。オープニングアニメの方は、ヤバゲな歌詞のあたりが観客の「ワーッ」という声援でかき消してあるあたりもおかしかった。

 そして、そして――この「メイドインヘブン」にはさらに伝説がある。インストールすると、なんと、有無を言わさず起動ドライブのルートに――

 C:\巨乳メイド


 というディレクトリを掘ってくれるのである!
 これはもう決めうちで、Program Filesの下にしてくれたりはしない。
 もうこれだけで、私的ネットの仲間うちでは大爆笑のアダルトゲーだったのであった。

「メイドインヘブン」は好評だったのか、後にAV女優を使ったリアル写真版のリメイク版が発売されたと思う。しかしこちらには食指が動かなかった。

 ゲームとしては上記の通りなので、それほど面白いわけではなかったが、なぎさちゃんのかわいらしさと、常駐する曲、さらに「C:\巨乳メイド」のインパクトで、今でも心に残る一作となっている。



 HDDから掘り出してきた、当時、「メイドインヘブン」公式サイトよりいただいた壁紙を貼ってみる。
 スタッフのみなさま、良作をありがとうございました。

     *     *

 さて、気づけばこれが、平成最後の記事となる。
 えっ、いいの? 平成最後の記事が「メイドインヘブン」でいいの!? 他にもっと、叙情的で感動的な記事を書くべきではないの? えっ、えっ、本当に平成最後の記事が「メイドインヘブン」でいいの?

 まぁいいか(笑) 前述の通り、このゲーム、その気になればゲームオーバーのないストーリー。なぎさちゃんよ、平成の世で永遠なれ、なのだ。
タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年04月17日

【回想録】2000年問題の思い出

 新元号も「令和」になるとわかり、改元までの残りわずか数週間、キーボードを懸命にたたいて過去のソースを手直ししているプログラマは少なくないのかもしれない。なんとも、お疲れさまでございます m(_ _)m

 うちの会社が使っているアプリケーションは、一部がメーカーの対応待ち中だが、会社の決算月が三月なので、今年の確定申告と税納付(5月末)では大きな間違いはないだろうと思われる。
 弊社で製作する書類で元号変更が必要なのは税務関係の書類だけ。社内文書を作成するプログラムはたいていわたしが書いているが、そのたぐいは創立時から西暦で計算するよう統一してあるので、今回の改元で問題は起こらない、はず、はず、ハズ……。

 と、ちょっと弱気なのは、2000年問題のとき、思いもかけないプログラムで、自分の作ったアプリケーションが誤動作したことがあったからだ。
 今年が2019年だから、あれはもう19年も昔の話になる――というわけで、もう十分「回想録」カテゴリなのだな。

 若い人はご存じないかもしれないが、西暦が1999年から2000年に変わるとき、コンピュータ関係で「2000年問題」というものがあったのだ。
 想像すればすぐおわかりいただけると思うが、当時はまだ、西暦を納める変数に2bytes(0x0000〜0xFFFF)を使わず、1byteでごまかしている(0x00〜0xFF)システムが稼働していたのである。
 こういうプログラムは、表示のところだけ、19≠先にプリントし、残りの二桁だけで年数を表示したり、計算したりしていた。
 2bytesで表現できる数字は、十進数だと0〜65535だが、1byteだと0〜255までとなる。

 そんな設計のシステムが2000年を迎えるとどうなるかと言うと、単純に言えば、見た目、「1900」年に戻ってしまうのである。内部的にはちゃんと計算できていたりするが、表示はあくまで1900年代のままだったり、内部計算もおかしくなったりするシステムがあったりと、それはまちまちであった。

 変数を1byteで取っていたプログラマを責めることはできない。なにしろ、古いシステムではメモリ環境もプアで、1byteも無駄にできないプログラムというのがあったのである。かの祝一平氏も「1バイト入魂」という名言を残している。

 さらには、自分の書いたプログラムが、2000年まで使われているはずがあるまいよ。と思っていたプログラマも珍しくはなかったはず(笑)。
 しかし、そういうプログラムも、誰もメンテをせず、ひっそりと何十年も使われ続けていたりしたのである。

 1999年の時点で、世の中のいろいろなものを動かすシステムの多くはコンピュータに依存するようになっており、実際、2000年になってみないと、そんな過去のプログラムがどう動くかわからないという怖さがあった。これが「2000年問題」なのであった。

 例えば、2000年になったとたん、ガスが止まるかも、電気が止まるかも、と、不安をあおる報道などもあり、1999年年の年末には、ポータブルガスコンロなどが飛ぶように売れたのであった。

 市井のいちプログラマであったわたし自身は、人命に関わるようなコードを書いていたわけでもなく、気楽なものであった。実際、それほど混乱は起こらないだろうな、という楽観的な感触も持っていた。
 配布していたフリーソフトに関しても、振り返ってみて、カレンダーを計算するソフトはなく、少なくとも自分が書いたプログラムは2000年問題とは無縁だと思っていたのである。

 ところが、年が明けて2000年になって、誤動作するフリーソフトがひとつあったのだ。
 それは、ニフティサーブの会議室ログを整合化し、削除発言のダミー挿入や、親発言の根を自動生成して、ログビュアーで見るときに不整合が起きないようにする、という、かなりマニアックなソフト、「ログロジカライザ」であった。
 生ログを整合して、今で言うなら、Androidのchmateのように美しくログを読めるようにするソフトなのである。
 ログのアペンドミスで逆行している発言を自動的になおしたり、ファイルのタイムスタンプも操作し、その会議室の最初の発言のそれにあわせたりもできる。かなり凝ったものであったと自負している。
 Cソースコードのコンパチビリティにも挑戦し、X68kのGCCでも、MicrosoftのQuickCでも同じソースでコンパイルでき、MS-DOS環境下では同じエグゼバイナリで使えた。
 ちゃんとしたログをきちんとライブラリに残したいというsysopさんは重宝したはず。残念ながら、インターネットが一般化しつつある頃に公開したので、あまり人気はなかったが……。

 その「ログロジカライザ」が、ばっちり2000年問題に引っかかっていたのである orz

 もうよく覚えていないのだが、引っかかったのは、先にも書いた、ログの最初の発言日時をファイルのタイムスタンプに反映させる機能だったと思う。
 しかもX68k版は大丈夫で、QuickCでコンパイルしたDOS汎用版の年が異常になってしまったように記憶している。つまり、QuickCの、ファイルのタイムスタンプを変更するライブラリに問題があったのだ。

 つまるところ、純粋にわたしの責任ではないが、少なくとも、わたしが書いたプログラムは2000年問題にばっちり引っかかっていたのである。

 こういうふうに「プログラマ自身は責任がないと思っていても、また、ソースを見ても問題はないのに、他の要因依存で2000年問題に引っかかることがあるのだなぁ」というのは、いい経験になった。

 今現在、税務署のOCR提出書類では、生年月日の年号を数字で書くことが少なくない。明治を1=A大正を2=A昭和を3=A平成を4≠ニ書くわけだ。当然、令和は5≠ノなるだろう。そしてこの欄は1桁しか用意されていない。
 あと元号が5つ変わったら二桁にするのか、それとも、そんな頃は明治大正昭和の人間は生きていないだろうからまた1≠割り振るのか、興味あるところだが、その頃、わたしはこの世にいないだろう。残念である。

 今、そのOCR処理を書いているプログラマも「どうせその頃、俺、生きてないし」と思っているのだろうな(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年04月03日

【回想録】ゲーム「吊」の思い出

「令和」――令和かぁ。うーん、まだいまいちしっくりしないが、そのうち慣れてくるでしょう。平成のときもそうだった。

 昭和から平成になったときのことは「【昭和の遺伝子】昭和の終わり」に書いた。
 昭和の終わりと平成の始まりは、昭和天皇陛下のご崩御が前提であったから、世間は自粛ムードで、今回のようなお祭り騒ぎになりようがなかった。みな粛々と「平成」を受け入れるしかなかったのだ。

 一カ月後の改元をめでたい気分で、日本国中が祝えるこの雰囲気を迎えることができたことを、生前退位のご英断をなされた平成天皇陛下に感謝したい。

 我らがカトリックの総本山バチカンでも、前パパ様でいらっしゃったベネディクト16世猊下が2013年に、719年の伝統を破って生前退位している。
 天皇陛下も教皇様も、宗教的シンボルという点では同じである。
 わたしも心の奥のどこかには、「そういう天に選ばれた方は、自由意志で退位せず、命の限り職位についていてほしい」という気持ちが、ほんのわずかでもないではない。

 しかし、パパ様の代替わり、天皇陛下の生前退位(の予定)を経験してみて、このお祭り騒ぎも悪くはないな、という気分になっている。
 なにか、新しく、これから日本が良い方向に向かっていく期待がもてる春になりそうだ。

 さて、「平成」のときの第一印象は「平等になる」だったと、先の記事には書いた。
 では今回の「令和」はというと――あぁ、なんたることか、わたしは一本のアダルトゲームを最初に連想してしまったのである。

 それは、「D'z」というメーカーが1998年に出した「吊(つるし)」というゲームなのであった。

 今、検索してみると、なんと、DMM GAMESで買うことができる。なんとも便利な時代である。
 ゲームはいわゆる「鬼畜・陵辱系」になるのだろうか。主人公がクズ中のクズで、愛情が重くなってきたヒロインをうとく思い、あれこれひどいことをする&させるという話。実を言うと細部はもう覚えてはいない。

 それなのになぜ「令和」でこのゲームを連想したのかというと、このゲームのヒロイン名が「レイナ(麗奈)」だったからなのだ。

 いや、それだけで、今まで何百本とプレイしてきたゲームのうちの一本を瞬時に思い出すというのはどうかしていると自分でも思う。実はそれにはわけがある。
 このゲーム、音声つきだったのだが、DMMのレビューなどでは触れられていないが、声優さんが――なんというか、個性的というか、ありていに言ってしまえば、すごくヘタだったのである。
 ゲームそのものは、そう面白いものではなかったのに(というか、わたしは鬼畜・陵辱系は嫌い)、当時、パソコン通信(NIFTY SERVEのFCGAMEX)やインターネットでは、その声優さんのヘタさがむしろウケてしまい、「脳天とろけそう」、「常駐してしまう」、「むしろこの声以外考えられなくなってきた」と、妙な方向でウケてしまったのだ。

 私的ネットの中でも、この「吊」は上記の理由でウケにウケてしまい、わたしはオフで、ヒロイン麗奈の「レイナはね、レイナは○○なのぉ〜」という口癖を披露して笑いを取ったのであった。

 それが、ああそれが、今回の新元号発表の「令和」で最初に連想してしまう事象になってしまうとは。
 管官房長官が「レイワです」と言ったとたん、頭の中で「レイワはね、レイワは新元号なのぉ〜」と、あの声優さんの声がひらめいてしまったのである。

 おそらく日本国民一億二千万人の中で、あの瞬間に「レイワはね、レイワは新元号なのぉ〜」と脳内でニューロン発火し「吊」の記憶がシナプス結合していたのはわたしだけに違いない。
 いやひょっとしたら「吊」の声優さんや、スタッフの方は、ちょっとは連想してくれたかなぁ……。

 そんなわけで、リリカルに始まった「平成」に比べ「令和」はわたしの中でもスラップスティック気分である(笑)。

 しかし、新元号が「令和」でなかったら、わたしの脳の長期メモリ領域から「吊」の記憶は消えていたかもしれなかったのに。
 しかもここにこうやって書いてしまって、もう消えない記憶になってしまったのである。

「吊」には確か続編もあって、そちらでは声優さんがうまくなってしまっており、いまいちそちら方面では盛り上がらなかったというような覚えがある。
 ううむ、DMM GAMESで買って、ひさびさにあの声を堪能してみようか、な。

 追記:私的ネットの過去ログを検索してみると、D'sはまず一作目に「嫉」という作品を出していたようで、「吊」は二作目だったらしい。FCGAMEXの過去ログがあればもっと詳しいことがわかるのだが、十年前以上前に焼いたCD-Rが読めなくなってしまっていた。残念である。
タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年03月27日

【回想録】映画を立ち見

 このところ、毎朝のフィットネスジム通いで、毎日トレッドミルでウォーキングしながら、DVDビデオを見ている。
 だいたい三時間くらいウォーキングしているので(早朝でガラガラだから、誰の迷惑にもならない)、一本映画を見て、タブレットで読書をして、NHKの連ドラを見て、Youtubeで動画を見て、その日のワークアウトをおしまいに。

 この映画のチョイスが難しい。歩きながら見ているものだから、つまらない映画だとかなり苦痛である。逆にアタリ映画だったりすると、歩いている時間も忘れて熱中できる。
 一度見て面白かった映画は、再度見ても面白いのがわかっているが、なるべくなら、まだ見ていない作品を見たいという気持ちは強い。ハズレ作品を引いてしまったときは、見ながら同時にタブレットで検索して、みなさんの感想を読み「そうそう、そうなんだよなー」などと「歩き」ながら「映画を見」つつ「ネットサーフ」という「三重ながら」で時間をつぶすはめになる。

 そんな「三重ながら」で過ごしているとき、「そういえば、昔は映画の立ち見をしたなぁ」と思い出して、そんな昔語りをひとくさり。
「昭和の遺伝子」カテゴリにしようかと思ったのだが、最後に立ち見で見た記憶がある映画は「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」だったことを思い出し、調べてみるとBTF2の日本公開は1989年12月9日となっている。バリバリ平成元年である。そうか、平成初期の頃は、まだ劇場もシネコン形式ではなく、「シアターにお客が入れるだけ詰め込む」方式であったのだなぁ。

 そう、BTF2は細君と立ち見で見た。1990年1月2日のことだ。この頃の映画館は元日営業もしていたがその日はガラガラ(なので映画好きの父は元日に映画を見に行くことを楽しみにしていた)、反面、1月2日はぎゅうぎゅう詰めになるほど混んでいたのである。
 この頃の映画館は途中入場ができたので、上映中でもそっと劇場内に入り、立ち見をしつつ、席が空いたら座る、というようなこともあった。
 BTF2は人気作であったので、席もなかなか空かず、けっこう長い時間、席の一番後ろの手すりに寄りかかってみていたような記憶がある。
 また、人気作であっても、当時は「一本だけロードショー」ということはなく、必ず併映があった。BTF2もそうだったはずだが、併映がなんだったかはとんと思い出せない。

 トレッドミルで歩きながら映画を見る話に通じるが、面白い映画は立ち見していても熱中できるので、「この映画は丸々一本立ち見していたなぁ」という記憶は刻まれることがないのであった。
 BTF2も、結局、途中から細君と座って見られたのかどうか覚えがない。

 とんでもないところで、映画の後半を最後まで立ち見してしまったことはある。電気屋の量販店の一角で、レーザーディスクを流していたのだ。
 映画のタイトルは「遊星からの物体X」。言わずと知れた名作だが、これは劇場で見ることができず、当時、見たいと思っていた一本だったのだ。
 著作権のうるさい今、店頭で映画を流す、などということは絶対にできないだろうが、当時はそういうこともなくおおらかで、売り物の映画のディスクをそのままデモで流していたりしたのであった。
 レーザーディスクだから、A面、B面があり、流れていたのはB面。なかなかに佳境に入ったところであり、後半を全部、店頭で立ち見してしまったのであった。
 見ていたわたしもわたしだが、ハタキでポンポンもせず(今の世代にはわからないマンガ的表現か?)、エンドテロップまで見させてくれたお店も実に鷹揚であった。

 十数年経ってから、オフでこの話をしたら妙に受けてしまい、だんだん尾ひれがついて「結城さんは店頭のレーザーディスクで『遊星からの物体X』を見た」、「A面とB面を店員にひっくり返させて見た」、「いや自分で勝手にひっくり返して再生した」、「とにかく一本店頭で見た」となってしまい、なんとなく自分も過去のことなので「そうだったかなぁ?」と思いこむようになってしまった。

 しかしこうやって思い出しつつ書いてみると、やはりA面B面のひっくり返しを店員さんに頼んだり自分でやったりはしなかったと思うので、これは話半分である(笑)。

 本当に面白く作品に熱中できた小説やマンガは、その媒体が冊子体か電子書籍だったか、後で思い出せないことがある。
 映画の立ち見も同じで、昭和の時代、丸々一本立ち見した映画もあったはずだが、その状況は思い出せない。

 今はシネコンで完全入れ替え制の代わりに、座れることは約束されている。さらには遊園地のアトラクションのように椅子が動いたり、水しぶきや匂いまで漂うプログラムもある。
 併映がなくなってしまったのは寂しいが、映画好きとしては昭和の時代より楽しくなったな、と感じている。

 でもね、3Dは何度やっても流行らないから。これは先生との約束だぞ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録