2019年02月27日

【回想録】スパムメールの思い出

 今となっては「スパムメール」も珍しいものではなくなった。どころか、これほど身近になったものもそうあるまい。わたしが受信しているメアドをすべて総計すれば、毎日、百通を優に越えるスパムを受信している。

 最初にスパムを受け取ったのは、まだパソコン通信の頃、ニフティサーブでだった。

 ご存じの方も少なくなったとは思うが、当時のパソコン通信は会社ごとに内閉的で、他社の会員からのメールは受信できなかった。ニフティサーブならニフティサーブ内でメールは完結していて、例えば、PC-VANの会員がニフティサーブの会員にメールを送ることはできない。名刺にニフティ、PC-VANの両方のIDを載せている方も珍しくなかった時代である。
 インターネットが隆盛になり、ニフティ内、PC-VAN内から外へ向けてメールを出せるようになったのは、かなり後になってからだ。

 そんなシステムであるから、ニフティサーブは強固な中央集権主義であり、今と違って、スパムメールなどを送ろう、というメンバーはそうそういなかった。そんな行為をすれば、すぐに強制退会させられるのが目に見えていたからである。

 しかし中には、「退会上等」とか、あるいは、いわゆる「ネチケット」そのものを知らずに、スパムメールを送ってくる猛者もいたわけだ。

 ニフティサーブのメールアドレスは、そのまま会員IDである。英字三文字と数字五文字。たとえば「AAA01234」。こんな感じ。というか、フォーラムなどの発言には必ずID表示がともなうから、それを抽出すれば、スパムを送るのはたやすかったはずだ。

 最初に送りつけられたスパムの内容は、実は覚えていない。アダルトビデオ関係だったかなぁ?
 当時はスパムメールの方が珍しくて、私的ネットの方で「スパムメールもらった」「自分も」「初めてスパムをもらって感動」というような反応が多かった。迷惑というより、みな面白がっていた、というのが正直な感想。

 言うまでもなく、スパムメールの「スパム」の由来は、アメリカの缶詰「スパム」のテレビCMが「spam, spam, spam, spam, spam」と連呼してウザいことからとられたわけだが、当時ののんびりとした日本のネットワーク事情だと、スパムがくることの方が珍しかったのである。

 実に牧歌的な時代であった。

 あれから二十五年、四半世紀が経って、今やスパムの中に大事なメールが埋もれてしまう情勢である。本当にスパムは腹だたしい。
 プライベートで使っているメアドは強力なスパムフィルタをかけられるし、いざとなったらメアドそのものを変更して、友人にその旨BCCすればいいが、仕事で使っている会社のco.jpメアドはそうはいかない。名刺に刷って配っているから変更はできないし、強力なスパムフィルタをかけて、大事なメールを受信しそこなうと、先方に礼を逸してしまう。

 最近、特にスパムメールにムカッとくるのは、右腕にアクティビティ・トラッカー、MiBand3をつけているからである。これは便利な代物で、スマホにメールが来ると、ブルッと震えて受信を教えてくれる機能がついている。
 出先で、大事なメールを受信し逃さないよう、これを身につけていて、ブルッときて腕を返すと――

Subject:アカウント情報検証を完成してください。
Appleをご利用いただきありがとうございます。アカウント情報を保護し、確認するために簡単な手順を完了するようにお願いいたします。


 ムキーッ! 詐欺メールかよ。まったく、腹が立つ。

 不思議なことに、スパムには波がある。同じ詐欺メールが数日続くと、次はエロ系の出会い系メールの期間があり、それが終わると英語のトロイ添付メールが二、三日。
 同じ業者がクライアントの注文を受けて送っているのかとも思ったが、ヘッダを見ても特徴がまちまちで絞り込めない。

 なんにしろ、スパムを送りつけてくる連中はどうにかならないものだろうか。ひとりひとりの思いは小さくとも、集まれば呪詛になると信じ、削除するたびに「うぜぇ」と呪うことにしている(クリスチャンにあるまじき行為)。

 ニフティサーブで「きたきたスパムー」とやっていた頃を懐かしく思いつつ、おや、ブルッときたぞ。

Subject:添付がコストです
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いつもお世話になります。
詳細は下記添付ファイルをご覧ください。
ご確認の程、よろしくお願い致します。
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 ぬっころ(怒)!
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年02月16日

【回想録】停電の思い出

 先日の夕方のこと――
 雨戸を閉めた寝室のベッドで横になり、スマホをいじっていると、一瞬、フワッと蛍光灯が暗くなり、また点灯。アレッ? と思っていると、次の瞬間、スマホの光を残して、部屋中が真っ暗になってしまった。
 ちょうど細君がキッチンでホットプレートを使った夕食の支度をしていることもあり、これはブレーカーが落ちたかな? と、ベッド脇に常備してあるレッドレンザーを取って明かりをつけ、階下へ。
 外は夕闇近く、キッチンも薄暗くなっている。

 わたし「ブレーカー落ちちゃったかな?」
 細君「んー、でもまだホットプレートに電源いれてもないんだよ」

 ううむ、それに、確かにここ十数年、ブレーカーが落ちて停電になったことはなかった。
 ブレーカーボックスを開けてみると、主スイッチも副スイッチも、すべてオンになっている。あれ、これって――。

 サンダルをひっかけて、玄関から家の外に出ると、ちょうど隣家の方も扉から顔を出したところだった。
 わたし「ひょっとして、電気ですか?」
 隣家の方「そうそう! お宅も? 家だけじゃなかったんですね」
 わたし「ということは、どうやら、このあたり一帯が停電なんですかね」

 家に戻り、その旨を細君に伝え、とにかく東京電力に連絡してみるか、と、ブレーカーボックスに貼ってある電話番号に携帯から電話してみる。
 数秒「この番号は混雑して――」というアナウンスが流れたので、もう電話ラッシュかな、と思ったら、すぐにつながった。
 出てきたサービスの方に、こちらの住所名前電話番号を伝え、家だけでなく、隣家も停電であること、ブレーカーはもちろん落ちていないことなどを伝えると、ホニャララ(聞き取れなかった)に問い合わせてから、折り返し電話をくれる、ということになった。
 停電からここまで、五分くらいだろうか。まだ復旧せず、細君は料理の続きができずに困っている。

 いったいどのあたりまで停電なのだろうか。もし、電柱のトランスが壊れた等の、ここら二、三軒だけの停電なら、むしろちょっと復旧には時間がかかるかもしれないな、などとも思う。

 再び家を出て、少し歩いて公園へ。近所の人々が集まっている。情報交換してみると、なんと、二、三軒どころか、隣町の中規模ホームセンターやファミレスまで停電している、という話を聞けた。どうやら、市町村規模の停電らしい。

 わたしは正直、びっくりしてしまった。
 というのも、わたしの住んでいる町は、東京電力の送電上の要所≠ノなっているらしく、過去、東日本大震災のときの計画停電でも、予定には組み込まれつつ、一切停電が起きなかった地域であったのだ。
 病院が多いからとか、送電線網の基幹であるらしいとか、いろいろな噂はあったが、とにかく、わたしの町は大規模停電に強い(送電網のうちにある)と思っていたのだ。

 家に戻り、このままではラチがあかないので、モバイルバッテリに、書斎にあるUSB給電のデスクライトをつないで、細君に料理の準備を続けてもらおう、とゴソゴソ準備していたそのとき――

 パッ!

 部屋中が明るくなった。IoT機器が再起動するピーピー音がそこかしこから鳴り、さらには、無停電電源からアラーム音(バッテリ老化警告)。それを解除してキッチンへ。

 わたし「復旧したね」
 細君「わりと長かったね。珍しい」
 わたし「だねぇ。昔はこういうこと、よくあったんだけどねぇ」

 そう、長いマエフリになってしまったが、わたしが子どもの頃、停電はよくあった。年に一回くらいは、この規模の停電があったように記憶している。
 ただ、今ほど24時間365日通電している電子機器はなかったので、それほど生活に影響はなく(冷蔵庫くらい)、停電しているなら寝るしかないねー、と、のんびり過ごしていたのだ。牧歌的な時代であった。
 当時はテレビの「しばらくお待ちください」画面も、そう珍しいものではなかった。

 24時間365日の給電が当然になり、停電が珍しい≠烽フになったのは、昭和後期くらいからだと思う。
 その頃はむしろ、家電の使いすぎで契約アンペアを越えてしまい、ブレーカーを落としてしまうことの方が多かった。
 家電品も、ワープロからパソコンへ。ビデオデッキからHDDレコーダーへと進化していき、東京電力が原因の停電はなくなったというのに、自宅ブレーカーが落ちては閉口することに。

 契約アンペアを上げるには追加工事が必要、とのことで、それを躊躇しているうちに年号は平成になり、結局、PC周りなど「電源が落ちて困るもの」は、すべて無停電電源で固めることになった。一時は五台の無停電電源が稼働していたほどだ。
 エアコンの使いすぎ、炊飯器の電源が入った瞬間などでブレーカーが落ちると、早急にブレーカーボックスへ飛んでいきスイッチを上げる。それでPCのデータは守られる、と、こういうわけ。

 ある初夏、今年は猛暑が予想される、と、気象庁が予報した年、一念発起して工事し、家全体のアンペア数を上げた。工事は思っていたより高くはなかったが、安いものでもなかったと記憶している。ついでに、部屋のいくつかにLANを物理的に通したので、そういう費用も入っており、「高い」という印象になっているのかもしれず。

 アンペア数を上げてから、ブレーカー落ちで停電することはなくなった。五台運用していた無停電電源も、バッテリの老化で使えなくなるとお払い箱になっていき、今、残っているのは、通信関係の機器のバッテリをバックアップしている一台だけ。それもバッテリが老化してアラームが鳴る状態である。

 話は現代、先の停電の話に戻って、電気が復旧し、細君がホットプレートで調理を始めた頃、東京電力のサービスから折り返しの電話があった。ホニャララ(やはり聞き取れない)に連絡したところ、今回の停電は大規模なもので、一軒一軒は回れないとか、どれくらいで復旧できる予想がつかないとか、そういうお返事。いやもう、それはわかってますって。それにウチはもう復旧しているし。

 ツイッターで情報を集めてみると、今回の停電はかなり大規模で、信号なども消え、大デパートも真っ暗になっているとか。
 自家発電設備を備えている施設はけっこう少ないものなのだな、というのも、今回知った驚きであった。

 わが町が停電していたのは10分くらいであったろうか。やはり送電網上の要所≠セったのか、復旧も早かったようだ。

 計画停電のときも停電がなかったせいか、この十数年で、「電気は24時間365日通じていて当然のもの」という意識が、わたしの中に生じてしまっていたなぁ、と、IoT機器の再設定をしながら思ったものだった。

 送電網の整備をしている皆さま方のご苦労に敬意を払いつつ、筆を

 あー、上の段を書き終えようとしたそのとき、ポメラのバッテリがあがってしまった。

 というサゲは以前、別の商業誌でも使ったネタ。
 皆さまも、お出かけ前には、モバイル機器の充電を忘れずに。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年01月30日

【回想録】万歩計(歩数計)

 あれはまだ、わたしが小学二年生だった頃。学校で先生が使うストップウォッチが欲しくてたまらなくなってしまった。
 まあ子どもだから、明確な使用用途を想定して「欲しい」と思ったわけではない。体育の時間に先生がカチッ、カチッとやって計測している姿が格好良く、自分でもやってみたいとか、そんな理由。

 当時のストップウォッチは、当然、クォーツではない針式であった。今のように、百均でデジタルのストップウォッチが買える時代ではない。
 もちろん高額で、小学生の小遣いを貯めてなんとかなるような代物ではなく、わたしは母におねだりしたのであった。

「お母さん、僕、ストップウォッチが欲しい」
「いいよ、買ってあげる」

 ふたつ返事をした母は、当時のストップウォッチがかなり高額なものだとは知らなかったらしい。翌日、すまなそうな表情で「似たようなもの」をわたしにプレゼントしてくれて、言った。

「ごめんね、ストップウォッチは高くて買えなかったから、これで我慢してね」

 それがわたしと万歩計の出会いであった。紺色のボディ。針が二本ついた、時計のような顔。裏のネジを回して針を十二時にセットし、身につけて歩くと、歩いただけの歩数分、針が回る。
 はぇー、すっごい(まさに小並感)。わたしはたちまち、ストップウォッチのことなど忘れ、この万歩計のとりこになってしまったのである。

 ちなみに「万歩計」は、山佐の登録商標で、今は一般には「歩数計」というのが普通だ。が、わたしがこのとき、母からプレゼントされた歩数計は、まごうことなき、山佐の「万歩計」であった。というか、当時は歩数計の競合企業などなかったような気がする。

 さっそくこの万歩計と一緒の生活が始まった。小学生のわたしはバス、電車通学だったが、小学校の最寄り駅からはけっこう歩く(と、子どもの自分は思っていた)。
 一万歩というのはどのくらいのものなのだろう。子どもなのでその感覚はよくわからない。初日、一日、身につけていて、家に戻ってみると、なんと、四千歩しか針が進んでいない。

「一万歩って、なんて途方もない数字なんだ……」

 と、小学生の自分は途方に暮れたことを覚えている。
 それから毎日、朝、リセットしては帰宅して確認する日々を続けたが、やはり、四千歩がいいところ。まあそりゃ、同じルートを通って通学しているのだから当然ではある。

 ある日、どうしても一万歩までチャレンジしてみたくなり、帰宅してランドセルを置き、そのまま再び家を出て、行くあてもなく歩き出してみた。
 太陽はどんどん傾き、日が暮れてくる。家からかなり遠い、送電線のあるグリーンベルトのところまで歩き、そこで初めて、針が一万歩を越えた。このときのうれしさは、送電塔が落とす長い夕日の影の風景とともに、よく覚えている。

 その日はかなり遅く家に帰ったわけだが、母は怒ることもなく、「一万歩歩けたよ」と伝えたわたしと一緒に喜んでくれたのであった。

 この万歩計は、壊れるまで使った覚えがあるが、最後にどうしたかは記憶にない。

 次に歩数計を買ったのは、歳も三十を過ぎ、ちょっと腹に肉がついてきた頃だった。ダイエット目的である。細君と一緒にオムロンのものを購入。当然、デジタル歩数計である。
 しかもこれは、同社の体組成計からデータを拾うことができ、PCと接続していろいろなデータを記録していけるという、高機能な代物であった。

 インターネットを通して、皆で毎日の歩数を競いあったり、歩数で日本一周のシミュレートもできた。確か「ウォーカーズインデックス」という名のサービスで、月額300円だったかな。
 わたしは毎日、マメに歩き、わたしの住む地方都市で上位の常連になり、最後は二位まであがったのだが、どうしても一位にはなれなかった。一位の方は、一日六万歩くらい歩いていたような覚えがある。とにかく、この方だけはずばぬけて数字がすごいので、なにか歩くのに特化した特殊な職業についていらっしゃるのかなぁ? と思わずにはいられなかった。

 この歩数計はお気に入りだったが、ちょうど日本一周シミュレートを完遂した頃、体組成計のデータを転送できないという故障が発生し、ダイエットも成功したので、お蔵入りとなった。

 今はまたダイエットを始めたので、オムロンの一番ベーシックな歩数計を身につけている。違うのは路上を歩くのではなく、ジムのトレッドミル上をウォーキングするときの目安として使っていること。
 それともうひとつ、スマホの歩数計も使っている。これは以前も書いたが、Coke Onアプリというコカ・コーラ社のアプリが入れてあり、歩けば歩いただけスタンプを集められて、貯まるとCoke On対応自販機で飲料をもらえるから。今は「累計250万歩」までもう少し、というところである。

 実はさらにもうひとつ、「アクティビティ・トラッカー」である。XiaomiのMi Band3も身につけている。24時間身につけるのはしんどいかと思っていたが、本体が軽いので、慣れてしまえばどうということはなかった。
 このデバイスはなかなかおもしろいので、機会があれば別記事で。

 そんなこんなで、三台もの歩数計を身につけて歩いている毎日だが、数字がそれぞれまちまちなのがなんとも、である。二千歩くらいの誤差は平気で出てしまう。
 今は日々、オムロンの歩数計で二万歩以上を目標にしている。トレッドミルだと、映画を観たり、読書をしながら歩けるので実に楽だ。

 大人となったわたしに、一万歩は日常のこととなってしまったが、それでも、子どもの頃、あんなに遠いと思っていた一万歩を取れた夕方のあの日の喜びをときたま思いだすと、懐かしさに胸が暖かくなる。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年09月15日

【回想録】ダイナビーの思い出

 中学に入った頃から、自分の手首の細さにコンプレックスがあった。なぜ中学からかというと、腕時計をするようになったからである。それまでは、自分の手首が細いことに気づかなかったのだ。

 腕時計の金属製のバンドを最狭にしても、まだゆるい。当時、というか、小学校の頃からわたしは、背の順で並ぶと必ず一番先頭になるくらい、身体が小さかった。
 それまでは、あまり気にしたことはなかったが、入学祝いにいただいた時計がゆるゆるだったのはちょっとショックで、自分はクラスメートにくらべて脆弱な身体なんだなぁ、と、改めて認識させられたのである。
 そのコンプレックスを克服するために、中学入学当初は運動部に入ってがんばってみたが、小さな身体に当時の運動部の苛烈なシゴキは耐えられず、一年保たずにやめざるをえなかった。
 当時の運動部の常識は「部活中、水を飲むな」が当然のような非科学的な根性論が幅をきかす世界である。
 今でも、あのとき、運動部をやめたのは仕方ないと思っているが、今、わたしがオリンピックとかワールドカップとかにまったく興味がなく「健全な精神は健全な肉体にやどる」とかのたまうスポーツ界に不祥事が連続するのをゲラゲラ笑っているのは、そういうチャレンジした上での下地があるのである。

 ところが、誰にでも成長期というものはあるもので、皮肉なことに運動部をやめたあたりから、わたしの背は伸びて、クラスの最前列ではなくなった。それにともない、最初に触れた手首も多少は太くなって、腕時計が限界までバンド調整してもゆるゆる、ということもなくなったのであった。

 さて、話は大きく飛んで――
 わたしが住んでいる地方都市には、以前、パルコがあったのだが――


(閉店して看板を外しているパルコ。ドナドナな哀愁漂う)

 その中に、これもさらに以前、「王様のアイデア」というお店があった。これはとても面白い店で、基本的には雑貨屋になるのだろうが、ショウ・ウィンドウの中に、さまざまなアイデア商品が並べられ、見ているだけでも楽しく、わくわくしてくるようなラインナップであった。
 今で言えば、「ビレッジバンガード」を、もっと整然とさせた感じかな。並べられている商品はけっこうピンキリで、実用品からオモチャまで多種多様であった。

 その中に「ダイナビー」という一品があったのである。

 オレンジ色をしたリンゴ大の「トレーニング用品」で、「これを回すことで手首や腕を鍛えられる」とうたっていた。
 高校生の自分は、もう身体を鍛えることに興味を失っていたが、何度か「王様のアイデア」に通ううち、これは面白そうだなぁ、と、心惹かれてしまったのである。
 値段はおぼろな記憶だが、3,500円くらいではなかったかなぁ。思い切って買って、ホクホクと家に帰った覚えがある。やはり、手首の細さというコンプレックスが後押ししたことは否めない。

 ダイナビーの構造を文章で記すことは難しい。リンゴ大の筐体の中には回転するオモリが入っており、これの一部が外側に出ている。回転するオモリはさらにリンゴ筐体の中で水平に回るようにできており、筐体を手で持って、うまく手首のスナップを利かせてオモリを水平軸にかけて回すと、コリオリ力によりオモリの回転が増し、ダイナビー自身がダンベルのように手首に荷重をかける。それで手首と腕が鍛えられる、とこういうわけだ。

 このとき、ダイナビーは「ブーン」という蜂のような音を立てる。力学的(Dyna)な蜂(Bee)という名前はここから取ったのだろう(と書いたが、確証はない)。

 先にネタバラシしてしまうと、この「ダイナビー」、実は今でも売っている。売っているどころか進化している。ただ、商品名は「ダイナビー」ではない。「パワースピナー」という名称だ。ちょっと前に流行した「ハンドスピナー」とは別物なのでヨロ。

「ダイナビー」は、一度オモリをコリオリ力で回転させることに成功すると、あとは簡単に回し続けることができる(体力が続く限りね)のだが、その最初の回転をかけるのが難しかった。
 説明書はあったかな? 確か、慣れると親指で最初にオモリへ回転をかけ、五指でぶら下げるように持ってダイナビー自体をクルクル回せば徐々にオモリを加速できる、などというようなことが書いてあったと思うが――できないのだ、これが。
 キックスタートに成功しない、バイクのエンジンみたいな感じ。

 さて、果たして「ダイナビー」は回るのか?
 この記事、長くなったので次回(「【日記】パワースピナー」)に続く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年08月22日

【回想録】高校野球

 自分が小学生の頃は、夏の暑い日に、扇風機の風で生ぬるい部屋の空気を攪拌しながら、祖父母と「夏の甲子園」を見るのが楽しみであった。

 別にわたしは野球少年ではなかったし、野球が好きでもなかったが、プレイヤーの真剣さというものは画面越しにでも伝わるものなのである。

 プロ野球と違って、一試合一試合で勝敗が決まる高校野球には、鬼気迫る迫力があり、地元の高校が出ていたりすれば、なんとなくやはり、応援したりするものであった。
 当時、高校球児たちは、確かに自分にとってオトナであった。

 自分が高校生になってみると、不思議な気分である。残念ながらわが校は甲子園どころか一回戦、二回戦敗退ばかりだったが、市民球場に応援に行き、見知ったクラスメイトが、格好良くバッターボックスに立っていたりすると、妙な感じであった。

 たとえて言えば――中学校の同級生が運転するクルマに初めて乗ったときのような違和感、である。わかっていただけるかな?

 わたしは特に同じクラスのM君と仲が良く、M君はバッターボックスで、まるでホームラン予告のようにバットをビシッと前方に向けるのである。なかなか、格好良かった。

 高校を卒業すると、高校野球の少年たちが、自分より年下、ということにびっくりするようになる。いやぁ、みんな、オトナだなぁ、と。丸坊主であどけない表情でも、目標を目指す真剣さがまぶしく、だらけた生活を送っている自分がとても幼く感じたものだ。

 それからしばらくは、高校野球に興味なく過ごし、夏もテレビで応援、というようなことはしなかった。
 ある年、自分が相応に歳を取ってから、高校野球を見て、びっくりしてしまった。
 みんな、子どもなのである。
 いや、当たり前の話なのだが。

 念のために言っておくが、子どものように見えるから悪い、オトナに見えるから良い、というわけではない。これは単に、わたしの立ち位置が変わっただけなのだ。

 子どもの頃は、高校野球の選手たちはオトナだった。同級生のときは、彼らのオトナの一面を見せられてドキッとして、その後しばらくはそれが続くが、自分が完全にオトナになってしまうと、高校球児たちはまぶしいほど、目標一直線の子どもになってしまうのである。

 そう、おそらく、わたしは汚れてしまったのだな。オトナというものに。


(画:中原裕/原作:神尾龍「ラストイニング」44巻より引用。「敗れて悔いなし?」とインタビュアーに訊ねられたときの鳩ヶ谷監督の答え。印象的なシーンだ)

 高校野球というのは、不思議な日本の伝統だなぁ、と思う。それはひとつのサンクチュアリ――聖域――だ。熱射病で倒れても、ケガをしても美談になってしまう。
 高校野球という試練を通ることで、本当は才能があったのに、体を壊してプロに行けなくなってしまう選手もいると聞く。

 特に暑かった今年の夏は、果たしてドーム球場ではない甲子園でこれからも続けるべきか、という議論も出てきたようだが、おそらく高校野球は、灼熱の甲子園のもとで、来年も、再来年も、十年後も行われているに違いない。
 それは前述したが、夏の甲子園、高校野球が聖域だからである。わたし自身(老害発想であることを自認しながら)、夏の高校野球がドーム球場で行われたらちょっとなぁ、と思うところがないではないのだ。

 なんにしろ、日本の夏はここ最近、暑すぎる。夏の風物詩である高校野球が、この先、若い選手たちのために、なにかしら、良い方向に改善されれば、とも願う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録