2019年04月17日

【回想録】2000年問題の思い出

 新元号も「令和」になるとわかり、改元までの残りわずか数週間、キーボードを懸命にたたいて過去のソースを手直ししているプログラマは少なくないのかもしれない。なんとも、お疲れさまでございます m(_ _)m

 うちの会社が使っているアプリケーションは、一部がメーカーの対応待ち中だが、会社の決算月が三月なので、今年の確定申告と税納付(5月末)では大きな間違いはないだろうと思われる。
 弊社で製作する書類で元号変更が必要なのは税務関係の書類だけ。社内文書を作成するプログラムはたいていわたしが書いているが、そのたぐいは創立時から西暦で計算するよう統一してあるので、今回の改元で問題は起こらない、はず、はず、ハズ……。

 と、ちょっと弱気なのは、2000年問題のとき、思いもかけないプログラムで、自分の作ったアプリケーションが誤動作したことがあったからだ。
 今年が2019年だから、あれはもう19年も昔の話になる――というわけで、もう十分「回想録」カテゴリなのだな。

 若い人はご存じないかもしれないが、西暦が1999年から2000年に変わるとき、コンピュータ関係で「2000年問題」というものがあったのだ。
 想像すればすぐおわかりいただけると思うが、当時はまだ、西暦を納める変数に2bytes(0x0000〜0xFFFF)を使わず、1byteでごまかしている(0x00〜0xFF)システムが稼働していたのである。
 こういうプログラムは、表示のところだけ、19≠先にプリントし、残りの二桁だけで年数を表示したり、計算したりしていた。
 2bytesで表現できる数字は、十進数だと0〜65535だが、1byteだと0〜255までとなる。

 そんな設計のシステムが2000年を迎えるとどうなるかと言うと、単純に言えば、見た目、「1900」年に戻ってしまうのである。内部的にはちゃんと計算できていたりするが、表示はあくまで1900年代のままだったり、内部計算もおかしくなったりするシステムがあったりと、それはまちまちであった。

 変数を1byteで取っていたプログラマを責めることはできない。なにしろ、古いシステムではメモリ環境もプアで、1byteも無駄にできないプログラムというのがあったのである。かの祝一平氏も「1バイト入魂」という名言を残している。

 さらには、自分の書いたプログラムが、2000年まで使われているはずがあるまいよ。と思っていたプログラマも珍しくはなかったはず(笑)。
 しかし、そういうプログラムも、誰もメンテをせず、ひっそりと何十年も使われ続けていたりしたのである。

 1999年の時点で、世の中のいろいろなものを動かすシステムの多くはコンピュータに依存するようになっており、実際、2000年になってみないと、そんな過去のプログラムがどう動くかわからないという怖さがあった。これが「2000年問題」なのであった。

 例えば、2000年になったとたん、ガスが止まるかも、電気が止まるかも、と、不安をあおる報道などもあり、1999年年の年末には、ポータブルガスコンロなどが飛ぶように売れたのであった。

 市井のいちプログラマであったわたし自身は、人命に関わるようなコードを書いていたわけでもなく、気楽なものであった。実際、それほど混乱は起こらないだろうな、という楽観的な感触も持っていた。
 配布していたフリーソフトに関しても、振り返ってみて、カレンダーを計算するソフトはなく、少なくとも自分が書いたプログラムは2000年問題とは無縁だと思っていたのである。

 ところが、年が明けて2000年になって、誤動作するフリーソフトがひとつあったのだ。
 それは、ニフティサーブの会議室ログを整合化し、削除発言のダミー挿入や、親発言の根を自動生成して、ログビュアーで見るときに不整合が起きないようにする、という、かなりマニアックなソフト、「ログロジカライザ」であった。
 生ログを整合して、今で言うなら、Androidのchmateのように美しくログを読めるようにするソフトなのである。
 ログのアペンドミスで逆行している発言を自動的になおしたり、ファイルのタイムスタンプも操作し、その会議室の最初の発言のそれにあわせたりもできる。かなり凝ったものであったと自負している。
 Cソースコードのコンパチビリティにも挑戦し、X68kのGCCでも、MicrosoftのQuickCでも同じソースでコンパイルでき、MS-DOS環境下では同じエグゼバイナリで使えた。
 ちゃんとしたログをきちんとライブラリに残したいというsysopさんは重宝したはず。残念ながら、インターネットが一般化しつつある頃に公開したので、あまり人気はなかったが……。

 その「ログロジカライザ」が、ばっちり2000年問題に引っかかっていたのである orz

 もうよく覚えていないのだが、引っかかったのは、先にも書いた、ログの最初の発言日時をファイルのタイムスタンプに反映させる機能だったと思う。
 しかもX68k版は大丈夫で、QuickCでコンパイルしたDOS汎用版の年が異常になってしまったように記憶している。つまり、QuickCの、ファイルのタイムスタンプを変更するライブラリに問題があったのだ。

 つまるところ、純粋にわたしの責任ではないが、少なくとも、わたしが書いたプログラムは2000年問題にばっちり引っかかっていたのである。

 こういうふうに「プログラマ自身は責任がないと思っていても、また、ソースを見ても問題はないのに、他の要因依存で2000年問題に引っかかることがあるのだなぁ」というのは、いい経験になった。

 今現在、税務署のOCR提出書類では、生年月日の年号を数字で書くことが少なくない。明治を1=A大正を2=A昭和を3=A平成を4≠ニ書くわけだ。当然、令和は5≠ノなるだろう。そしてこの欄は1桁しか用意されていない。
 あと元号が5つ変わったら二桁にするのか、それとも、そんな頃は明治大正昭和の人間は生きていないだろうからまた1≠割り振るのか、興味あるところだが、その頃、わたしはこの世にいないだろう。残念である。

 今、そのOCR処理を書いているプログラマも「どうせその頃、俺、生きてないし」と思っているのだろうな(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年04月03日

【回想録】ゲーム「吊」の思い出

「令和」――令和かぁ。うーん、まだいまいちしっくりしないが、そのうち慣れてくるでしょう。平成のときもそうだった。

 昭和から平成になったときのことは「【昭和の遺伝子】昭和の終わり」に書いた。
 昭和の終わりと平成の始まりは、昭和天皇陛下のご崩御が前提であったから、世間は自粛ムードで、今回のようなお祭り騒ぎになりようがなかった。みな粛々と「平成」を受け入れるしかなかったのだ。

 一カ月後の改元をめでたい気分で、日本国中が祝えるこの雰囲気を迎えることができたことを、生前退位のご英断をなされた平成天皇陛下に感謝したい。

 我らがカトリックの総本山バチカンでも、前パパ様でいらっしゃったベネディクト16世猊下が2013年に、719年の伝統を破って生前退位している。
 天皇陛下も教皇様も、宗教的シンボルという点では同じである。
 わたしも心の奥のどこかには、「そういう天に選ばれた方は、自由意志で退位せず、命の限り職位についていてほしい」という気持ちが、ほんのわずかでもないではない。

 しかし、パパ様の代替わり、天皇陛下の生前退位(の予定)を経験してみて、このお祭り騒ぎも悪くはないな、という気分になっている。
 なにか、新しく、これから日本が良い方向に向かっていく期待がもてる春になりそうだ。

 さて、「平成」のときの第一印象は「平等になる」だったと、先の記事には書いた。
 では今回の「令和」はというと――あぁ、なんたることか、わたしは一本のアダルトゲームを最初に連想してしまったのである。

 それは、「D'z」というメーカーが1998年に出した「吊(つるし)」というゲームなのであった。

 今、検索してみると、なんと、DMM GAMESで買うことができる。なんとも便利な時代である。
 ゲームはいわゆる「鬼畜・陵辱系」になるのだろうか。主人公がクズ中のクズで、愛情が重くなってきたヒロインをうとく思い、あれこれひどいことをする&させるという話。実を言うと細部はもう覚えてはいない。

 それなのになぜ「令和」でこのゲームを連想したのかというと、このゲームのヒロイン名が「レイナ(麗奈)」だったからなのだ。

 いや、それだけで、今まで何百本とプレイしてきたゲームのうちの一本を瞬時に思い出すというのはどうかしていると自分でも思う。実はそれにはわけがある。
 このゲーム、音声つきだったのだが、DMMのレビューなどでは触れられていないが、声優さんが――なんというか、個性的というか、ありていに言ってしまえば、すごくヘタだったのである。
 ゲームそのものは、そう面白いものではなかったのに(というか、わたしは鬼畜・陵辱系は嫌い)、当時、パソコン通信(NIFTY SERVEのFCGAMEX)やインターネットでは、その声優さんのヘタさがむしろウケてしまい、「脳天とろけそう」、「常駐してしまう」、「むしろこの声以外考えられなくなってきた」と、妙な方向でウケてしまったのだ。

 私的ネットの中でも、この「吊」は上記の理由でウケにウケてしまい、わたしはオフで、ヒロイン麗奈の「レイナはね、レイナは○○なのぉ〜」という口癖を披露して笑いを取ったのであった。

 それが、ああそれが、今回の新元号発表の「令和」で最初に連想してしまう事象になってしまうとは。
 管官房長官が「レイワです」と言ったとたん、頭の中で「レイワはね、レイワは新元号なのぉ〜」と、あの声優さんの声がひらめいてしまったのである。

 おそらく日本国民一億二千万人の中で、あの瞬間に「レイワはね、レイワは新元号なのぉ〜」と脳内でニューロン発火し「吊」の記憶がシナプス結合していたのはわたしだけに違いない。
 いやひょっとしたら「吊」の声優さんや、スタッフの方は、ちょっとは連想してくれたかなぁ……。

 そんなわけで、リリカルに始まった「平成」に比べ「令和」はわたしの中でもスラップスティック気分である(笑)。

 しかし、新元号が「令和」でなかったら、わたしの脳の長期メモリ領域から「吊」の記憶は消えていたかもしれなかったのに。
 しかもここにこうやって書いてしまって、もう消えない記憶になってしまったのである。

「吊」には確か続編もあって、そちらでは声優さんがうまくなってしまっており、いまいちそちら方面では盛り上がらなかったというような覚えがある。
 ううむ、DMM GAMESで買って、ひさびさにあの声を堪能してみようか、な。

 追記:私的ネットの過去ログを検索してみると、D'sはまず一作目に「嫉」という作品を出していたようで、「吊」は二作目だったらしい。FCGAMEXの過去ログがあればもっと詳しいことがわかるのだが、十年前以上前に焼いたCD-Rが読めなくなってしまっていた。残念である。
タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年03月27日

【回想録】映画を立ち見

 このところ、毎朝のフィットネスジム通いで、毎日トレッドミルでウォーキングしながら、DVDビデオを見ている。
 だいたい三時間くらいウォーキングしているので(早朝でガラガラだから、誰の迷惑にもならない)、一本映画を見て、タブレットで読書をして、NHKの連ドラを見て、Youtubeで動画を見て、その日のワークアウトをおしまいに。

 この映画のチョイスが難しい。歩きながら見ているものだから、つまらない映画だとかなり苦痛である。逆にアタリ映画だったりすると、歩いている時間も忘れて熱中できる。
 一度見て面白かった映画は、再度見ても面白いのがわかっているが、なるべくなら、まだ見ていない作品を見たいという気持ちは強い。ハズレ作品を引いてしまったときは、見ながら同時にタブレットで検索して、みなさんの感想を読み「そうそう、そうなんだよなー」などと「歩き」ながら「映画を見」つつ「ネットサーフ」という「三重ながら」で時間をつぶすはめになる。

 そんな「三重ながら」で過ごしているとき、「そういえば、昔は映画の立ち見をしたなぁ」と思い出して、そんな昔語りをひとくさり。
「昭和の遺伝子」カテゴリにしようかと思ったのだが、最後に立ち見で見た記憶がある映画は「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」だったことを思い出し、調べてみるとBTF2の日本公開は1989年12月9日となっている。バリバリ平成元年である。そうか、平成初期の頃は、まだ劇場もシネコン形式ではなく、「シアターにお客が入れるだけ詰め込む」方式であったのだなぁ。

 そう、BTF2は細君と立ち見で見た。1990年1月2日のことだ。この頃の映画館は元日営業もしていたがその日はガラガラ(なので映画好きの父は元日に映画を見に行くことを楽しみにしていた)、反面、1月2日はぎゅうぎゅう詰めになるほど混んでいたのである。
 この頃の映画館は途中入場ができたので、上映中でもそっと劇場内に入り、立ち見をしつつ、席が空いたら座る、というようなこともあった。
 BTF2は人気作であったので、席もなかなか空かず、けっこう長い時間、席の一番後ろの手すりに寄りかかってみていたような記憶がある。
 また、人気作であっても、当時は「一本だけロードショー」ということはなく、必ず併映があった。BTF2もそうだったはずだが、併映がなんだったかはとんと思い出せない。

 トレッドミルで歩きながら映画を見る話に通じるが、面白い映画は立ち見していても熱中できるので、「この映画は丸々一本立ち見していたなぁ」という記憶は刻まれることがないのであった。
 BTF2も、結局、途中から細君と座って見られたのかどうか覚えがない。

 とんでもないところで、映画の後半を最後まで立ち見してしまったことはある。電気屋の量販店の一角で、レーザーディスクを流していたのだ。
 映画のタイトルは「遊星からの物体X」。言わずと知れた名作だが、これは劇場で見ることができず、当時、見たいと思っていた一本だったのだ。
 著作権のうるさい今、店頭で映画を流す、などということは絶対にできないだろうが、当時はそういうこともなくおおらかで、売り物の映画のディスクをそのままデモで流していたりしたのであった。
 レーザーディスクだから、A面、B面があり、流れていたのはB面。なかなかに佳境に入ったところであり、後半を全部、店頭で立ち見してしまったのであった。
 見ていたわたしもわたしだが、ハタキでポンポンもせず(今の世代にはわからないマンガ的表現か?)、エンドテロップまで見させてくれたお店も実に鷹揚であった。

 十数年経ってから、オフでこの話をしたら妙に受けてしまい、だんだん尾ひれがついて「結城さんは店頭のレーザーディスクで『遊星からの物体X』を見た」、「A面とB面を店員にひっくり返させて見た」、「いや自分で勝手にひっくり返して再生した」、「とにかく一本店頭で見た」となってしまい、なんとなく自分も過去のことなので「そうだったかなぁ?」と思いこむようになってしまった。

 しかしこうやって思い出しつつ書いてみると、やはりA面B面のひっくり返しを店員さんに頼んだり自分でやったりはしなかったと思うので、これは話半分である(笑)。

 本当に面白く作品に熱中できた小説やマンガは、その媒体が冊子体か電子書籍だったか、後で思い出せないことがある。
 映画の立ち見も同じで、昭和の時代、丸々一本立ち見した映画もあったはずだが、その状況は思い出せない。

 今はシネコンで完全入れ替え制の代わりに、座れることは約束されている。さらには遊園地のアトラクションのように椅子が動いたり、水しぶきや匂いまで漂うプログラムもある。
 併映がなくなってしまったのは寂しいが、映画好きとしては昭和の時代より楽しくなったな、と感じている。

 でもね、3Dは何度やっても流行らないから。これは先生との約束だぞ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年02月27日

【回想録】スパムメールの思い出

 今となっては「スパムメール」も珍しいものではなくなった。どころか、これほど身近になったものもそうあるまい。わたしが受信しているメアドをすべて総計すれば、毎日、百通を優に越えるスパムを受信している。

 最初にスパムを受け取ったのは、まだパソコン通信の頃、ニフティサーブでだった。

 ご存じの方も少なくなったとは思うが、当時のパソコン通信は会社ごとに内閉的で、他社の会員からのメールは受信できなかった。ニフティサーブならニフティサーブ内でメールは完結していて、例えば、PC-VANの会員がニフティサーブの会員にメールを送ることはできない。名刺にニフティ、PC-VANの両方のIDを載せている方も珍しくなかった時代である。
 インターネットが隆盛になり、ニフティ内、PC-VAN内から外へ向けてメールを出せるようになったのは、かなり後になってからだ。

 そんなシステムであるから、ニフティサーブは強固な中央集権主義であり、今と違って、スパムメールなどを送ろう、というメンバーはそうそういなかった。そんな行為をすれば、すぐに強制退会させられるのが目に見えていたからである。

 しかし中には、「退会上等」とか、あるいは、いわゆる「ネチケット」そのものを知らずに、スパムメールを送ってくる猛者もいたわけだ。

 ニフティサーブのメールアドレスは、そのまま会員IDである。英字三文字と数字五文字。たとえば「AAA01234」。こんな感じ。というか、フォーラムなどの発言には必ずID表示がともなうから、それを抽出すれば、スパムを送るのはたやすかったはずだ。

 最初に送りつけられたスパムの内容は、実は覚えていない。アダルトビデオ関係だったかなぁ?
 当時はスパムメールの方が珍しくて、私的ネットの方で「スパムメールもらった」「自分も」「初めてスパムをもらって感動」というような反応が多かった。迷惑というより、みな面白がっていた、というのが正直な感想。

 言うまでもなく、スパムメールの「スパム」の由来は、アメリカの缶詰「スパム」のテレビCMが「spam, spam, spam, spam, spam」と連呼してウザいことからとられたわけだが、当時ののんびりとした日本のネットワーク事情だと、スパムがくることの方が珍しかったのである。

 実に牧歌的な時代であった。

 あれから二十五年、四半世紀が経って、今やスパムの中に大事なメールが埋もれてしまう情勢である。本当にスパムは腹だたしい。
 プライベートで使っているメアドは強力なスパムフィルタをかけられるし、いざとなったらメアドそのものを変更して、友人にその旨BCCすればいいが、仕事で使っている会社のco.jpメアドはそうはいかない。名刺に刷って配っているから変更はできないし、強力なスパムフィルタをかけて、大事なメールを受信しそこなうと、先方に礼を逸してしまう。

 最近、特にスパムメールにムカッとくるのは、右腕にアクティビティ・トラッカー、MiBand3をつけているからである。これは便利な代物で、スマホにメールが来ると、ブルッと震えて受信を教えてくれる機能がついている。
 出先で、大事なメールを受信し逃さないよう、これを身につけていて、ブルッときて腕を返すと――

Subject:アカウント情報検証を完成してください。
Appleをご利用いただきありがとうございます。アカウント情報を保護し、確認するために簡単な手順を完了するようにお願いいたします。


 ムキーッ! 詐欺メールかよ。まったく、腹が立つ。

 不思議なことに、スパムには波がある。同じ詐欺メールが数日続くと、次はエロ系の出会い系メールの期間があり、それが終わると英語のトロイ添付メールが二、三日。
 同じ業者がクライアントの注文を受けて送っているのかとも思ったが、ヘッダを見ても特徴がまちまちで絞り込めない。

 なんにしろ、スパムを送りつけてくる連中はどうにかならないものだろうか。ひとりひとりの思いは小さくとも、集まれば呪詛になると信じ、削除するたびに「うぜぇ」と呪うことにしている(クリスチャンにあるまじき行為)。

 ニフティサーブで「きたきたスパムー」とやっていた頃を懐かしく思いつつ、おや、ブルッときたぞ。

Subject:添付がコストです
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いつもお世話になります。
詳細は下記添付ファイルをご覧ください。
ご確認の程、よろしくお願い致します。
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 ぬっころ(怒)!
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年02月16日

【回想録】停電の思い出

 先日の夕方のこと――
 雨戸を閉めた寝室のベッドで横になり、スマホをいじっていると、一瞬、フワッと蛍光灯が暗くなり、また点灯。アレッ? と思っていると、次の瞬間、スマホの光を残して、部屋中が真っ暗になってしまった。
 ちょうど細君がキッチンでホットプレートを使った夕食の支度をしていることもあり、これはブレーカーが落ちたかな? と、ベッド脇に常備してあるレッドレンザーを取って明かりをつけ、階下へ。
 外は夕闇近く、キッチンも薄暗くなっている。

 わたし「ブレーカー落ちちゃったかな?」
 細君「んー、でもまだホットプレートに電源いれてもないんだよ」

 ううむ、それに、確かにここ十数年、ブレーカーが落ちて停電になったことはなかった。
 ブレーカーボックスを開けてみると、主スイッチも副スイッチも、すべてオンになっている。あれ、これって――。

 サンダルをひっかけて、玄関から家の外に出ると、ちょうど隣家の方も扉から顔を出したところだった。
 わたし「ひょっとして、電気ですか?」
 隣家の方「そうそう! お宅も? 家だけじゃなかったんですね」
 わたし「ということは、どうやら、このあたり一帯が停電なんですかね」

 家に戻り、その旨を細君に伝え、とにかく東京電力に連絡してみるか、と、ブレーカーボックスに貼ってある電話番号に携帯から電話してみる。
 数秒「この番号は混雑して――」というアナウンスが流れたので、もう電話ラッシュかな、と思ったら、すぐにつながった。
 出てきたサービスの方に、こちらの住所名前電話番号を伝え、家だけでなく、隣家も停電であること、ブレーカーはもちろん落ちていないことなどを伝えると、ホニャララ(聞き取れなかった)に問い合わせてから、折り返し電話をくれる、ということになった。
 停電からここまで、五分くらいだろうか。まだ復旧せず、細君は料理の続きができずに困っている。

 いったいどのあたりまで停電なのだろうか。もし、電柱のトランスが壊れた等の、ここら二、三軒だけの停電なら、むしろちょっと復旧には時間がかかるかもしれないな、などとも思う。

 再び家を出て、少し歩いて公園へ。近所の人々が集まっている。情報交換してみると、なんと、二、三軒どころか、隣町の中規模ホームセンターやファミレスまで停電している、という話を聞けた。どうやら、市町村規模の停電らしい。

 わたしは正直、びっくりしてしまった。
 というのも、わたしの住んでいる町は、東京電力の送電上の要所≠ノなっているらしく、過去、東日本大震災のときの計画停電でも、予定には組み込まれつつ、一切停電が起きなかった地域であったのだ。
 病院が多いからとか、送電線網の基幹であるらしいとか、いろいろな噂はあったが、とにかく、わたしの町は大規模停電に強い(送電網のうちにある)と思っていたのだ。

 家に戻り、このままではラチがあかないので、モバイルバッテリに、書斎にあるUSB給電のデスクライトをつないで、細君に料理の準備を続けてもらおう、とゴソゴソ準備していたそのとき――

 パッ!

 部屋中が明るくなった。IoT機器が再起動するピーピー音がそこかしこから鳴り、さらには、無停電電源からアラーム音(バッテリ老化警告)。それを解除してキッチンへ。

 わたし「復旧したね」
 細君「わりと長かったね。珍しい」
 わたし「だねぇ。昔はこういうこと、よくあったんだけどねぇ」

 そう、長いマエフリになってしまったが、わたしが子どもの頃、停電はよくあった。年に一回くらいは、この規模の停電があったように記憶している。
 ただ、今ほど24時間365日通電している電子機器はなかったので、それほど生活に影響はなく(冷蔵庫くらい)、停電しているなら寝るしかないねー、と、のんびり過ごしていたのだ。牧歌的な時代であった。
 当時はテレビの「しばらくお待ちください」画面も、そう珍しいものではなかった。

 24時間365日の給電が当然になり、停電が珍しい≠烽フになったのは、昭和後期くらいからだと思う。
 その頃はむしろ、家電の使いすぎで契約アンペアを越えてしまい、ブレーカーを落としてしまうことの方が多かった。
 家電品も、ワープロからパソコンへ。ビデオデッキからHDDレコーダーへと進化していき、東京電力が原因の停電はなくなったというのに、自宅ブレーカーが落ちては閉口することに。

 契約アンペアを上げるには追加工事が必要、とのことで、それを躊躇しているうちに年号は平成になり、結局、PC周りなど「電源が落ちて困るもの」は、すべて無停電電源で固めることになった。一時は五台の無停電電源が稼働していたほどだ。
 エアコンの使いすぎ、炊飯器の電源が入った瞬間などでブレーカーが落ちると、早急にブレーカーボックスへ飛んでいきスイッチを上げる。それでPCのデータは守られる、と、こういうわけ。

 ある初夏、今年は猛暑が予想される、と、気象庁が予報した年、一念発起して工事し、家全体のアンペア数を上げた。工事は思っていたより高くはなかったが、安いものでもなかったと記憶している。ついでに、部屋のいくつかにLANを物理的に通したので、そういう費用も入っており、「高い」という印象になっているのかもしれず。

 アンペア数を上げてから、ブレーカー落ちで停電することはなくなった。五台運用していた無停電電源も、バッテリの老化で使えなくなるとお払い箱になっていき、今、残っているのは、通信関係の機器のバッテリをバックアップしている一台だけ。それもバッテリが老化してアラームが鳴る状態である。

 話は現代、先の停電の話に戻って、電気が復旧し、細君がホットプレートで調理を始めた頃、東京電力のサービスから折り返しの電話があった。ホニャララ(やはり聞き取れない)に連絡したところ、今回の停電は大規模なもので、一軒一軒は回れないとか、どれくらいで復旧できる予想がつかないとか、そういうお返事。いやもう、それはわかってますって。それにウチはもう復旧しているし。

 ツイッターで情報を集めてみると、今回の停電はかなり大規模で、信号なども消え、大デパートも真っ暗になっているとか。
 自家発電設備を備えている施設はけっこう少ないものなのだな、というのも、今回知った驚きであった。

 わが町が停電していたのは10分くらいであったろうか。やはり送電網上の要所≠セったのか、復旧も早かったようだ。

 計画停電のときも停電がなかったせいか、この十数年で、「電気は24時間365日通じていて当然のもの」という意識が、わたしの中に生じてしまっていたなぁ、と、IoT機器の再設定をしながら思ったものだった。

 送電網の整備をしている皆さま方のご苦労に敬意を払いつつ、筆を

 あー、上の段を書き終えようとしたそのとき、ポメラのバッテリがあがってしまった。

 というサゲは以前、別の商業誌でも使ったネタ。
 皆さまも、お出かけ前には、モバイル機器の充電を忘れずに。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録