ミレニアル世代のみなさまは「和文タイプ」というものをご存じだろうか? むかしは学校の印刷室とか、図書館に置いてあった。
「タイプ」といっても、キーボードはついていない。漢字そのほか、文字の活字がつまった箱の上に、それを拾う機構のついたレバーがあり、一文字一文字、活字を拾っては、プラテンに打つ。プラテンに巻くのは普通の紙ではなく、謄写版用のロウ原紙である。
むかしは、一般の日本人が書いた文章を「活字」にするには、こんなに苦労が必要だった。一文字一文字拾っては、打つ。そしてロウ原紙を完成させたら、謄写版またはローラー印刷機で印刷するのである。
なので、自分の書いた作文が活字になって、学校の文集に載るのは、それはそれはうれしいことだった。自分の書いた文章が活字になる。それだけで、天にも昇るような気分になれたのだ。
PCのメモ帳でちょっと書いて、レーザープリンタで印刷、それだけできれいな「活字」の印刷物ができてしまう世代には、なかなか理解できない喜びだろう。
ワープロのように、日本語が簡単にきれいに印刷できるプロダクトができるとは、当時、誰も夢見てさえいなかった。
中学のときの理科教師は「日本語を英語のタイプライターのように打つ機械の出現は不可能だろう」と言い切っていた。そういう時代であった。
だから、洋画で見る、外国人記者がタイプライターを機関銃のように打って記事を仕上げる、というシーンは実にうらやましかった。日本人には無理だなぁ、と誰しもが思っていたから。
日本の新聞の現場といえば、初代「ゴジラ」を見ればわかるように、原稿用紙に万年筆を走らせて、タバコの煙がモウモウのなか、みな、ペンだこを作って書いていたのである。
マンガ原稿もPCで描く時代、「ペンだこ」も過去の遺物になっていくのかもしれない。
戦後、英文タイプのような「ひらがなタイプライター」というものができ、日本語をひらがな書きにしようという運動もあったが、現実的ではなかった。また、ローマ字書きにしようという運動もあったが、これも上記に同じであった。
さて、そんなこんなで、わたしにはずっと、英文タイプに対するあこがれがあった。
最初に打ってみたのは、小学生のころ。家になぜかタイプライターが来たとき。父か母の仕事の関係だったと思う。それをイタズラさせてもらったのだ。確か、オリベッティではなかったかなぁ。
以前にも書いたが、機械式のタイプライターはフィジカルに指の力が必要である。小学生の指の力では、なかなかきれいに打つことができなかった。
もちろん、タッチタイプなどはできない。いわゆる人さし指だけで打つ「雨だれ打ち」である。
間違えて打ったときは、バックスペースし、ホワイトの転写用紙を挟んで、間違えた文字を打つと、白く消えるのである。
自分用のタイプライターができたのは中学上級生のとき。お小遣いをはたいて買ったのであった。レッテラだったと思う。
わたしはこれで、タッチタイプを覚えた。
タイプライターがあったからといって、英語の成績が特別良かったわけではないのはご愛嬌ということで(笑)。
当時、このタイプライターは、洋楽のカセットや、ビデオテープのケースの文字打ちに大活躍してくれた。
みなが手書きのなか、タイプで打った文字のタイトルはうらやましがられたものだ。そうそう、まだ、インスタントレタリングが現役のころの話である。
高校に入り、マイコンMZ-80Bを使うようになったとき、このときのタッチタイプの経験は非常に役に立った。機械式タイプライターと違って、軽く、速く打てる。プログラミングにすんなり慣れていけたのは、このタッチタイプ経験があったからという面もあったと思う。
予備校生だったころ、Brotherが「電子タイプライター」というものを発売した。タイプ自体はテプラのように小さく、液晶画面も小さかったが、印刷もできた。ただ印刷は8x4ドットではなかったかなぁ。アルファベットだけだったので、それで十分だったのだ。
神田三省堂で、実機を「欲しいなあ。けど値段がなぁ」と思いながら、いろいろいじっていた記憶を思い出す。
あれはいわば「英語版ポメラ」の初号だった気がする。
今、この文章は、出先のスタバで、ポメラDM30で打っている。和文タイプからはじまって、タイプライターをいじって、数十年経ち、今や日本語タイプライターがこうやって当たり前の現実になったことに、感慨を覚えずにはいられない。
2018年07月11日
【回想録】タイプライターの思い出
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録
2018年06月27日
【回想録】「家庭の医学」の思い出
ネットの出現によって消えたモノは少なくないが、その中のひとつに「家庭の医学」がある。おそらく、ミレニアル世代の人には「家庭の医学」がなんだかわからないのではないかな?
「家庭の医学」とは、辞書のように分厚く、いろいろな病気の症状、症例、治療法などが載っている本の総称である。「家庭の医学」という名のベストセラーがあったわけではなく、各社がいろいろと出していた。まだ印刷機が高い時代で、どの社もパートカラーだったと記憶している。
そして、そこに載っている医学写真が、またグロテスクなのである。「家庭の医学」と銘打ってはいても、中身は奇病珍病不治の病のオンパレードで、「もしこんな病気にかかったらどうしよう」と、恐る恐るページを繰るのが、当時の子どものホラーのひとつであった。
体にできたデキモノの写真とか、顔が崩れた性病患者の写真とかは、特に恐怖の対象であった。
そんな心配をするようなことをしていたわけではない中坊どもが、みな、「もし自分が性病になったらどうしよう」と、恐怖におののいたものだ。
手塚治虫の名作「ブラックジャック」を知らない人はいないだろう。神業のようなメスさばきで人を救い、人間愛をうたいあげる名作である。マンガのカバーには「ヒューマン・コミックス」と銘打たれていた。
これが初期の数巻は、「恐怖コミックス」となっていたのである。
版数を重ねて、それが変更されたかどうかは知らないが、子ども心にも、「このマンガが恐怖コミックス≠ニいうのは違和感あるなぁ」と思ってはいた。
しかし、最初「恐怖コミックス」にカテゴライズした編集者の頭の中には、やはり「家庭の医学」というホラー本の存在があったからこそなのだろう、と思う。
「家庭の医学」は中学の図書館にも置いてあり、みなでわいわいと見たこともあった。
やはり中学生ということで、興味は性♀ヨ係のことになっていく。
っと、ここから先は、ちょっとアダルトなお話。お子さまはお休みください。ねーむれ、よい子よー。
ある日の放課後、中坊が頭を寄せて、必要もないのに、避妊のページをみなで読んでいたのであった。当時の我々は悪ガキで、スキンを自販機で買って水を入れ、ベランダから投げて炸裂させ喜んでいるような子どもであった。別段深い理由でもない。校舎の三階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても……いやそれは違う話。
こんな連中なので、避妊法というものがいくつかあることは知っていた。
さて、みなで繰っていた「家庭の医学」の避妊の項目中には、当時「膣外射精」というものもあり、そのデメリットとして「心理面のみ」と記されていた。
われわれ悪ガキは、頭でっかちだったので、この「心理面のみ」という一文がよくわからなかった。
「これさ、心理的によくないってことは、精神的に、なにかまずいことが起きるってことだよな?」
「やっぱりそういうことになるよなー」
「そうだよ、膣外射精し続けてると、きっと発狂しちゃうってことじゃね?」
悪ガキどもは震え上がった。「膣外射精こえぇー」
この病、ブラックジャックでも治せまいよ。
当時、震え上がった連中のほとんどが、今は数児の父親になっているということは、みな、発狂するようなことはしなかった、ということなのかな(笑)。
今は珍しい「家庭の医学」を書斎の片隅で見つけ、こんなもん、もういらないな、スキャンもせずに捨てるかな、と思ったので、この記事を代わりに書いてみた。
なお、当時はともかく現代において「膣外射精は避妊法ではない」というのが常識になっていることは、最後につけくわえておこう。
やっぱり心理的に悪影響があったからなんだ。発狂しちゃうからなんだ。こえぇー(笑)。
「家庭の医学」とは、辞書のように分厚く、いろいろな病気の症状、症例、治療法などが載っている本の総称である。「家庭の医学」という名のベストセラーがあったわけではなく、各社がいろいろと出していた。まだ印刷機が高い時代で、どの社もパートカラーだったと記憶している。
そして、そこに載っている医学写真が、またグロテスクなのである。「家庭の医学」と銘打ってはいても、中身は奇病珍病不治の病のオンパレードで、「もしこんな病気にかかったらどうしよう」と、恐る恐るページを繰るのが、当時の子どものホラーのひとつであった。
体にできたデキモノの写真とか、顔が崩れた性病患者の写真とかは、特に恐怖の対象であった。
そんな心配をするようなことをしていたわけではない中坊どもが、みな、「もし自分が性病になったらどうしよう」と、恐怖におののいたものだ。
手塚治虫の名作「ブラックジャック」を知らない人はいないだろう。神業のようなメスさばきで人を救い、人間愛をうたいあげる名作である。マンガのカバーには「ヒューマン・コミックス」と銘打たれていた。
これが初期の数巻は、「恐怖コミックス」となっていたのである。
版数を重ねて、それが変更されたかどうかは知らないが、子ども心にも、「このマンガが恐怖コミックス≠ニいうのは違和感あるなぁ」と思ってはいた。
しかし、最初「恐怖コミックス」にカテゴライズした編集者の頭の中には、やはり「家庭の医学」というホラー本の存在があったからこそなのだろう、と思う。
「家庭の医学」は中学の図書館にも置いてあり、みなでわいわいと見たこともあった。
やはり中学生ということで、興味は性♀ヨ係のことになっていく。
っと、ここから先は、ちょっとアダルトなお話。お子さまはお休みください。ねーむれ、よい子よー。
ある日の放課後、中坊が頭を寄せて、必要もないのに、避妊のページをみなで読んでいたのであった。当時の我々は悪ガキで、スキンを自販機で買って水を入れ、ベランダから投げて炸裂させ喜んでいるような子どもであった。別段深い理由でもない。校舎の三階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても……いやそれは違う話。
こんな連中なので、避妊法というものがいくつかあることは知っていた。
さて、みなで繰っていた「家庭の医学」の避妊の項目中には、当時「膣外射精」というものもあり、そのデメリットとして「心理面のみ」と記されていた。
われわれ悪ガキは、頭でっかちだったので、この「心理面のみ」という一文がよくわからなかった。
「これさ、心理的によくないってことは、精神的に、なにかまずいことが起きるってことだよな?」
「やっぱりそういうことになるよなー」
「そうだよ、膣外射精し続けてると、きっと発狂しちゃうってことじゃね?」
悪ガキどもは震え上がった。「膣外射精こえぇー」
この病、ブラックジャックでも治せまいよ。
当時、震え上がった連中のほとんどが、今は数児の父親になっているということは、みな、発狂するようなことはしなかった、ということなのかな(笑)。
今は珍しい「家庭の医学」を書斎の片隅で見つけ、こんなもん、もういらないな、スキャンもせずに捨てるかな、と思ったので、この記事を代わりに書いてみた。
なお、当時はともかく現代において「膣外射精は避妊法ではない」というのが常識になっていることは、最後につけくわえておこう。
やっぱり心理的に悪影響があったからなんだ。発狂しちゃうからなんだ。こえぇー(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録
2018年06月20日
【回想録】「まとめサイト」の思い出
今、「まとめサイト」というと、5ちゃんねるの面白い書き込みを抽出して編集し転載、それでアフィリエイト収入を得ているサイトのことを指すことが多い、というか、そういう意味しかなくなってしまった。しかし、もともと「まとめサイト」はそういう意味のものではなかった。
例えば2ちゃん(当時)で祭りが起こる。祭りには最初から参加している者ばかりではないので「今北産業(今、祭りに気がついてこのスレに来た。三行くらいで要約してくれ)」の人も多くなる。
そういう人に「過去ログ読め」というのはちょっと無理な話。2ちゃんねるは999カキコで過去ログ入りしてしまうし、過去ログは「●」がないと読めない。なにより、スレ番号が二桁行くような祭りの過去ログを読んで、それまでの流れを把握するのは大変だ。
そこで、ここまでの経緯や、各種資料、情報などを集約したサイトを、だれかがボランティアでつくることになる。それが、本来の意味の「まとめサイト」だったのである。
祭りも活気がつき始めると「だれかまとめサイト≠ツくってよ」という声が上がってくることは珍しくなかった。
当時はまだジオシティやトライポッドなどの「無料サイト」が活発に稼働しており、匿名でサイトをつくることが容易であった。また、ネットが今ほど普及していたわけではないので、自然、htmlに詳しい人も多く、ゼロから「まとめサイト」をつくることができる人材も少なくなかったのである。。
そして、実はわたしも、いくつかの祭りで、匿名で「まとめサイト」をつくっていたことがあったのである(笑)。
思い出に残るその祭りのひとつは、最初、専門板で起こり、やがてマスコミが取り上げたことで、2ちゃんのメインストリートである「ニュー速プラス」にスレが立ち(ニュー速プラスはマスコミソースがなければスレが立てられない)、加速度的に、いつもは過疎板であるその専門板のスレにニュー速プラスからきました≠ニいう人が多くなっていく。そして祭りはさらに活気づき、騒ぎは拡大再生産されていく、ということになった。
なんだかんだいっても、ニュー速プラスでスレになるのは強いものだなぁ、と思ったものである。あそこにはいろいろルールがあり、マスコミソースが連続して上がらないと記者さんがスレにしてくれない。スレにしてくれないと、祭りが収束してしまう。
そのときの祭りはテレビのある番組がもとであったので、テレビ番組のワイドショーレベルでは、同業者に遠慮してか、延焼を恐れてかほとんど取り上げなかったと記憶している。
しかし、テレビをたたく週刊誌は、例のごとく「週刊新潮」と「週刊文春」が記事にしてくれた。そのソースをもとにニュー速プラスでは連続してスレが立ち、専門板の該当祭りスレも次々と番号を増していった。
わたし自身は、その祭りについてもちろん自分の意見はあったが、「まとめサイト」の管理人としては、あくまで冷静に、賛成派、反対派、懐疑派、確信派などの意見、資料を集め、右にも左にもそれることなく、公平に読者に提供し、判断は読者が持てるように、と努めていたつもりである。
ところが、ニュー速プラスからのお客さん≠ェ多くなってくると、本当にいろいろな意見を持つ人が多くなってくる。当然荒らし≠熨揩ヲ、スレがだんだんと機能しなくなってくるのである。
そしてあろうことか、(結果的には)祭りの終盤にスレが分断し、それをボヤく地下スレまでできてしまい、賛成派、反対派の意見もごちゃまぜになっていき、どうまとめていったらいいものやら困ってしまった。
それを見ていた名無しさんのひとりが「まとめサイトの管理人さんが困ってるよ(藁」と書いてくれたのが慰めである。
ちょうど前後して、それまで倒れたことがなく健康に自信を持っていた自分に、初めての持病の発作が起こった。
これはちょっと、急を争う病状であったので、急遽、わたしのまとめサイトは更新停止すると書き込んで、スレ住人の皆さんには許していただいた(同じ事件を扱うまとめサイトは、わたし以外にもつくっていらっしゃる方がいたので、わたしひとりが更新停止しても大丈夫だったのである。というか、もともとアフィリエイトもなく、匿名無償のボランティアでやっているものであるから、当時の「まとめサイト」の管理人にはそれなりの敬意を払うのがスレ住民の総意であった時代だった)。
そんな感じで、尻切れトンボで終わってしまったその祭りのわたしの「まとめサイト」だが、確かジオシティでつくって、ずいぶん長い間残っていたという記憶がある(今は消えている)。
今でも振り返ると、少なくとも「祭り」の効果はあった、と思っている。ネットがテレビにケンカを売った序開きの事件ではなかったかなぁ。
そして今や、ネットもひとつの勢力として無視できない大きな力となった。オリンピックのエンブレムの盗作を見抜いた祭りなど、実に感慨深い。
そしてわたしは、めっきり、テレビを見なくなってしまった。白黒テレビとともに幼少期を送り、カラーテレビとともに育ち、プロフィールプロでテレビをつけなかった日がなかったわたしが、今やテレビをまったくつけない日の方がほとんどだ。
テレビでいくら有名な芸人でも、知らない人ばかりである。
とは言え、ツイッターとかを眺めていると、テレビの話題が多かったりして、テレビもまだまだ大衆にとって現役なのだなぁ、とは思う。
話がちょっと飛んでしまったが、もともと「まとめサイト」というのは上記のようなものだったのですよ、と、こうして文字にして、記録に残しておきたいと思って筆を執った次第。
最近の「祭り」は「まとめサイト」をつくるだけの人がいなくなってしまったので、ネットの歴史にログとして残っていないのが残念である。
それだけ、ネットも広く、浅くなってしまったということか。
例えば2ちゃん(当時)で祭りが起こる。祭りには最初から参加している者ばかりではないので「今北産業(今、祭りに気がついてこのスレに来た。三行くらいで要約してくれ)」の人も多くなる。
そういう人に「過去ログ読め」というのはちょっと無理な話。2ちゃんねるは999カキコで過去ログ入りしてしまうし、過去ログは「●」がないと読めない。なにより、スレ番号が二桁行くような祭りの過去ログを読んで、それまでの流れを把握するのは大変だ。
そこで、ここまでの経緯や、各種資料、情報などを集約したサイトを、だれかがボランティアでつくることになる。それが、本来の意味の「まとめサイト」だったのである。
祭りも活気がつき始めると「だれかまとめサイト≠ツくってよ」という声が上がってくることは珍しくなかった。
当時はまだジオシティやトライポッドなどの「無料サイト」が活発に稼働しており、匿名でサイトをつくることが容易であった。また、ネットが今ほど普及していたわけではないので、自然、htmlに詳しい人も多く、ゼロから「まとめサイト」をつくることができる人材も少なくなかったのである。。
そして、実はわたしも、いくつかの祭りで、匿名で「まとめサイト」をつくっていたことがあったのである(笑)。
思い出に残るその祭りのひとつは、最初、専門板で起こり、やがてマスコミが取り上げたことで、2ちゃんのメインストリートである「ニュー速プラス」にスレが立ち(ニュー速プラスはマスコミソースがなければスレが立てられない)、加速度的に、いつもは過疎板であるその専門板のスレにニュー速プラスからきました≠ニいう人が多くなっていく。そして祭りはさらに活気づき、騒ぎは拡大再生産されていく、ということになった。
なんだかんだいっても、ニュー速プラスでスレになるのは強いものだなぁ、と思ったものである。あそこにはいろいろルールがあり、マスコミソースが連続して上がらないと記者さんがスレにしてくれない。スレにしてくれないと、祭りが収束してしまう。
そのときの祭りはテレビのある番組がもとであったので、テレビ番組のワイドショーレベルでは、同業者に遠慮してか、延焼を恐れてかほとんど取り上げなかったと記憶している。
しかし、テレビをたたく週刊誌は、例のごとく「週刊新潮」と「週刊文春」が記事にしてくれた。そのソースをもとにニュー速プラスでは連続してスレが立ち、専門板の該当祭りスレも次々と番号を増していった。
わたし自身は、その祭りについてもちろん自分の意見はあったが、「まとめサイト」の管理人としては、あくまで冷静に、賛成派、反対派、懐疑派、確信派などの意見、資料を集め、右にも左にもそれることなく、公平に読者に提供し、判断は読者が持てるように、と努めていたつもりである。
ところが、ニュー速プラスからのお客さん≠ェ多くなってくると、本当にいろいろな意見を持つ人が多くなってくる。当然荒らし≠熨揩ヲ、スレがだんだんと機能しなくなってくるのである。
そしてあろうことか、(結果的には)祭りの終盤にスレが分断し、それをボヤく地下スレまでできてしまい、賛成派、反対派の意見もごちゃまぜになっていき、どうまとめていったらいいものやら困ってしまった。
それを見ていた名無しさんのひとりが「まとめサイトの管理人さんが困ってるよ(藁」と書いてくれたのが慰めである。
ちょうど前後して、それまで倒れたことがなく健康に自信を持っていた自分に、初めての持病の発作が起こった。
これはちょっと、急を争う病状であったので、急遽、わたしのまとめサイトは更新停止すると書き込んで、スレ住人の皆さんには許していただいた(同じ事件を扱うまとめサイトは、わたし以外にもつくっていらっしゃる方がいたので、わたしひとりが更新停止しても大丈夫だったのである。というか、もともとアフィリエイトもなく、匿名無償のボランティアでやっているものであるから、当時の「まとめサイト」の管理人にはそれなりの敬意を払うのがスレ住民の総意であった時代だった)。
そんな感じで、尻切れトンボで終わってしまったその祭りのわたしの「まとめサイト」だが、確かジオシティでつくって、ずいぶん長い間残っていたという記憶がある(今は消えている)。
今でも振り返ると、少なくとも「祭り」の効果はあった、と思っている。ネットがテレビにケンカを売った序開きの事件ではなかったかなぁ。
そして今や、ネットもひとつの勢力として無視できない大きな力となった。オリンピックのエンブレムの盗作を見抜いた祭りなど、実に感慨深い。
そしてわたしは、めっきり、テレビを見なくなってしまった。白黒テレビとともに幼少期を送り、カラーテレビとともに育ち、プロフィールプロでテレビをつけなかった日がなかったわたしが、今やテレビをまったくつけない日の方がほとんどだ。
テレビでいくら有名な芸人でも、知らない人ばかりである。
とは言え、ツイッターとかを眺めていると、テレビの話題が多かったりして、テレビもまだまだ大衆にとって現役なのだなぁ、とは思う。
話がちょっと飛んでしまったが、もともと「まとめサイト」というのは上記のようなものだったのですよ、と、こうして文字にして、記録に残しておきたいと思って筆を執った次第。
最近の「祭り」は「まとめサイト」をつくるだけの人がいなくなってしまったので、ネットの歴史にログとして残っていないのが残念である。
それだけ、ネットも広く、浅くなってしまったということか。
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2018年06月07日
【回想録】「べっかん」の思い出
わたしの行っていた小学校には、子どもたちの間で「べっかん」とよばれる、特殊学級――Just Right!6からは「特別支援学級」と訂正せよ、とアカが入るが、わたしはこの呼び方で育ったので特に訂正はしない――があった。「別館」にあったから、通称「べっかん」。
要するに、ダウン症などの障害児が通う学級であった。
「べっかん」の子たちと、わたしたち普通学級の子たちは、通常、まったく交流はなかった。唯一、接触があったのは、運動会のときぐらい。
子どもの感想だから許してほしいが、正直、奇声を発して人を振り回してダンスする「べっかん」の子たちは苦手であった。
あとは、学校の行き来で一緒になることもあった。
「べっかん」の子たちは妙に人懐こく、というよりは、他人のパーソナルエリアを侵すことを躊躇せず、人のカバンを勝手に開けて中身を持っていこうとしたりするのに閉口したものだった。
不思議だったのは、こちらがどんどん大きくなって、卒業していくのに、「べっかん」の子たちは、いつまでもずっと同じ子がいるのである。
のちに、ダウン症の子は(これも子どもの感想だから許してほしい)、表情がみな似通っているので区別がつかず、卒業した子も新入生もみな同じ顔に見えていたのだということを知る。
「べっかん」の子について、友人たちと「なんか自分たちと違うよね」と話していたら、それを聞いていた先生がカンカンになって怒り、「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらったことがあった。
小学二年生に「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらわす教師というのも、脳に障害がある教師だと思うが、当時はそういう教師がいい教師≠ニ言われたのも確かな時代だった。
今のわたしは、おそらく、そのときの教師より十何歳も上の年齢になったが、今でもその教師が言いたかった「本物のべっかん」がなんなのか、よくわからない。
話はコロッと変わるが、出生前診断で胎児がダウン症であることがわかるようになりつつある現在、人工妊娠中絶で堕胎する、ということが「わりと当然」のように言われているが、これはおかしな文言である。
というのも、人工妊娠中絶が許される条項の中に「胎児がダウン症であること」というのは含まれていないからである。
胎児がダウン症で人工妊娠中絶が行えるのは、あくまで「経済的に問題がある場合」であり、「ダウン症イコール堕胎の許可」ではない。
わたしはカトリックなので、基本は人工妊娠中絶に反対の立場である。それを置いても、「出生前診断で胎児がダウン症だったから人工妊娠中絶する」のは「ウチは貧乏だから」とイコールなのだと肝に銘じるべきだ。
逆に言えば、ダウン症の子がいる家庭、ダウン症の本人に、手厚い金銭的補助をしない政府のせいとも言える。
簡単にまとめられる問題ではないが、少なくとも、胎児がダウン症で人工妊娠中絶した夫婦は、自分たちは貧乏人を見下せるほど裕福ではないのだと自戒するべし。「ナマポ」なんて絶対言うんじゃないよ。あなたたちも似たようなものなのだから。
そんなわけで、わたしは子どもの頃、ダウン症の子と深い交流をしたことは一度もない。
あの頃「べっかん」の子と、運動会で、通学の行き帰りで、もっと交流を深めることができたらよかったのかもしれない。
今も、わたしの卒業校に「べっかん」があるのかどうかは知らない。もしかしたら、普通学級に統合されているのかもしれない。ちょっとググってみれば、検索欄に「障害児 お世話係 迷惑」などというサジェストが出てくる時代である。
小学校二年生の?をビンタして「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」と叫んだO先生。本物のべっかんて、なんですか?
今でもそう問いたい気分である。
要するに、ダウン症などの障害児が通う学級であった。
「べっかん」の子たちと、わたしたち普通学級の子たちは、通常、まったく交流はなかった。唯一、接触があったのは、運動会のときぐらい。
子どもの感想だから許してほしいが、正直、奇声を発して人を振り回してダンスする「べっかん」の子たちは苦手であった。
あとは、学校の行き来で一緒になることもあった。
「べっかん」の子たちは妙に人懐こく、というよりは、他人のパーソナルエリアを侵すことを躊躇せず、人のカバンを勝手に開けて中身を持っていこうとしたりするのに閉口したものだった。
不思議だったのは、こちらがどんどん大きくなって、卒業していくのに、「べっかん」の子たちは、いつまでもずっと同じ子がいるのである。
のちに、ダウン症の子は(これも子どもの感想だから許してほしい)、表情がみな似通っているので区別がつかず、卒業した子も新入生もみな同じ顔に見えていたのだということを知る。
「べっかん」の子について、友人たちと「なんか自分たちと違うよね」と話していたら、それを聞いていた先生がカンカンになって怒り、「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらったことがあった。
小学二年生に「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらわす教師というのも、脳に障害がある教師だと思うが、当時はそういう教師がいい教師≠ニ言われたのも確かな時代だった。
今のわたしは、おそらく、そのときの教師より十何歳も上の年齢になったが、今でもその教師が言いたかった「本物のべっかん」がなんなのか、よくわからない。
話はコロッと変わるが、出生前診断で胎児がダウン症であることがわかるようになりつつある現在、人工妊娠中絶で堕胎する、ということが「わりと当然」のように言われているが、これはおかしな文言である。
というのも、人工妊娠中絶が許される条項の中に「胎児がダウン症であること」というのは含まれていないからである。
胎児がダウン症で人工妊娠中絶が行えるのは、あくまで「経済的に問題がある場合」であり、「ダウン症イコール堕胎の許可」ではない。
わたしはカトリックなので、基本は人工妊娠中絶に反対の立場である。それを置いても、「出生前診断で胎児がダウン症だったから人工妊娠中絶する」のは「ウチは貧乏だから」とイコールなのだと肝に銘じるべきだ。
逆に言えば、ダウン症の子がいる家庭、ダウン症の本人に、手厚い金銭的補助をしない政府のせいとも言える。
簡単にまとめられる問題ではないが、少なくとも、胎児がダウン症で人工妊娠中絶した夫婦は、自分たちは貧乏人を見下せるほど裕福ではないのだと自戒するべし。「ナマポ」なんて絶対言うんじゃないよ。あなたたちも似たようなものなのだから。
そんなわけで、わたしは子どもの頃、ダウン症の子と深い交流をしたことは一度もない。
あの頃「べっかん」の子と、運動会で、通学の行き帰りで、もっと交流を深めることができたらよかったのかもしれない。
今も、わたしの卒業校に「べっかん」があるのかどうかは知らない。もしかしたら、普通学級に統合されているのかもしれない。ちょっとググってみれば、検索欄に「障害児 お世話係 迷惑」などというサジェストが出てくる時代である。
小学校二年生の?をビンタして「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」と叫んだO先生。本物のべっかんて、なんですか?
今でもそう問いたい気分である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録
2018年06月03日
【回想録】ポストペットの思い出
「ポストペット」と聞いて「懐かしいなぁ」と思われたあなたは、実は自分が思っているほどネット歴が長くない。
「ポストペット」が発売されたのは1997年である。たかが21年前だ。30歳のあなたが、当時「ポストペット」を使っていたら「懐かしいなぁ」だろうが、人生半分を過ぎたわたしにとってみると「ポストペット」は、Becky!よりあとに登場してきた新興MUAという印象だったのである。
と書いてから、Becky!の歴史を調べてみると、最初のリリースが1996年となっているので、Becky!も十分、新興MUAではあったか。上記の印象論は訂正しなければならないかも。
わたしの愛用MUAは、2018年の今でもBecky!だが、Becky!の前は、インターネットカメレオン付属の、名も覚えていないMUAであった。
とはいえ、新興MUAという印象が強かったのは、やはりメールに「遊び要素」が入っていたからである。正直「莫迦なことをやりやがって。妙なことを流行らさないでほしい」という気持ちが強かった。メールは平文で流し、添付ファイルはuuencodeしたものをくっつけて送る、というのが、当時の男らしいインターネットユーザーの常識であった。
しかし、まあ機会があって使い始めてみると、これがけっこう使いやすいのである。ペットがメールを運ぶ、という遊び要素を除外しても、簡単なMUAとして優れていた。
Becky!のようにいろいろな設定をする必要もない。文章を書くエディタも、アドレス帳も必要最小限である。一度、設定してしまえば、直感で使えてしまう。
これは、初心者にはいいな、と、最初の印象を改めた。遊び要素もメールを恐る恐るやっている初心者には向いている。
というわけで、まず姉が始め、わたしが遊び相手として始め、そして、パソコンを始めた父のPCにもインストールした。
老齢の父が、PCでメールを送受できるようになったのは、ポストペットのおかげだと今でも思う。
やがてポストペットはブームになり、わたしはコミケで「ポスペ」関係のゲームやグッズを作って、島の内側の人になったのであった(それまでも、細君のサークルの売り子で島の内側にいたことはあったが)。
ポストペットは、BolandのDelphiかC++Builderで作られていた。これは確かである。なにより挙動がデルくさ≠ゥったし(こういうのは、プログラマは匂いでわかる)、リソースエディタでデータをブッコ抜くことができた。
ペットのキャラクターを使って、インベーダーゲームやパックマンを模したゲームを作ったり、スクリーンセーバを作ったりして、当時のコミケではよく売れた。かなり良いお小遣いになり、売りあげはもちろん確定申告にも雑所得として算入して、それなりに税金も納めたと記憶している。

(ポスペキャラのインベーダーゲーム「ぽすぺーだー」)

(これは「ペット全員集合セーバ」)

(ペットがデスクトップを歩くマスコットソフト)
もちろん、ポストペットを発売しているso-netの著作権を侵害するようなことは一切していなかった。念のため。キャラを使ったこういう二次創作は許可されていたはずである。
他にも売りはしなかったが、メールを送りにいったペットをすぐに呼び戻せる「ペット召喚」――

同時に何匹もペットを飼える(ポストペットは同時起動ができなかった)「Windows版PostPet2001を同時起動可能に」――

などのソフトを作って、自分のサイトに置いたものだった。
ポストペットはその後、ユーザーニーズを外した重い3D化などをして、人気は下がっていった。一人、また一人とポストペット相手は減っていき、わたしもまた、Becky!に戻った(というか、ポスペ相手の人にしかポスペを使わなかったわけだが)。
ただ、とても簡単なMUAとしては、やはり依然として「お勧め」のソフトだよな、とは思っていた。
そのポスペに転機が訪れる。ある日、父から「メールが送られないんだけど……」と相談があり、調べてみると、その日から、プロバイダがメール送信時に、PoP Before SMTPの他に、SMTP認証を入れていやがったのだ。父が使っているポスペは古すぎて、SMTP認証に対応していない。最新Verのポスペは、回りに使っている人もいないのでお勧めできなかった。
仕方なく、本当に仕方なく、父のPCにもBecky!をインストールしてシェアフィを支払い、Becky!の使い方を覚えてもらった。設定はもちろんわたしがやったが、最初からBecky!の使い方を覚えてもらうのは、けっこう大変だった。
こんなことなら、PCを始めた頃から、Becky!一本で行ってもらえば良かった、と嘆いても、あとの祭りである。
そんなこんなで、わたしとポストペットをつないでいた最後の縁は切れ、わたしの脳内でも「回想録」カテゴリに入れられてしまったのである。
24時間、LINEで即座に反応が帰ってくる時代の子には理解できないかもしれないが、まだテレホーダイが精いっぱいの時代、ペットがメールを運んで行き帰ってくる、相手のペットが尋ねてくる、というのはわくわく感があったなぁ、と、今なら思う。
しかしやっぱり、メールはあくまで平文で、htmlメールなんぞもってのほか、添付ファイルはuuencodeで――という男らしさを、今でも貫いている自分なのである。
「ポストペット」が発売されたのは1997年である。たかが21年前だ。30歳のあなたが、当時「ポストペット」を使っていたら「懐かしいなぁ」だろうが、人生半分を過ぎたわたしにとってみると「ポストペット」は、Becky!よりあとに登場してきた新興MUAという印象だったのである。
と書いてから、Becky!の歴史を調べてみると、最初のリリースが1996年となっているので、Becky!も十分、新興MUAではあったか。上記の印象論は訂正しなければならないかも。
わたしの愛用MUAは、2018年の今でもBecky!だが、Becky!の前は、インターネットカメレオン付属の、名も覚えていないMUAであった。
とはいえ、新興MUAという印象が強かったのは、やはりメールに「遊び要素」が入っていたからである。正直「莫迦なことをやりやがって。妙なことを流行らさないでほしい」という気持ちが強かった。メールは平文で流し、添付ファイルはuuencodeしたものをくっつけて送る、というのが、当時の男らしいインターネットユーザーの常識であった。
しかし、まあ機会があって使い始めてみると、これがけっこう使いやすいのである。ペットがメールを運ぶ、という遊び要素を除外しても、簡単なMUAとして優れていた。
Becky!のようにいろいろな設定をする必要もない。文章を書くエディタも、アドレス帳も必要最小限である。一度、設定してしまえば、直感で使えてしまう。
これは、初心者にはいいな、と、最初の印象を改めた。遊び要素もメールを恐る恐るやっている初心者には向いている。
というわけで、まず姉が始め、わたしが遊び相手として始め、そして、パソコンを始めた父のPCにもインストールした。
老齢の父が、PCでメールを送受できるようになったのは、ポストペットのおかげだと今でも思う。
やがてポストペットはブームになり、わたしはコミケで「ポスペ」関係のゲームやグッズを作って、島の内側の人になったのであった(それまでも、細君のサークルの売り子で島の内側にいたことはあったが)。
ポストペットは、BolandのDelphiかC++Builderで作られていた。これは確かである。なにより挙動がデルくさ≠ゥったし(こういうのは、プログラマは匂いでわかる)、リソースエディタでデータをブッコ抜くことができた。
ペットのキャラクターを使って、インベーダーゲームやパックマンを模したゲームを作ったり、スクリーンセーバを作ったりして、当時のコミケではよく売れた。かなり良いお小遣いになり、売りあげはもちろん確定申告にも雑所得として算入して、それなりに税金も納めたと記憶している。

(ポスペキャラのインベーダーゲーム「ぽすぺーだー」)

(これは「ペット全員集合セーバ」)

(ペットがデスクトップを歩くマスコットソフト)
もちろん、ポストペットを発売しているso-netの著作権を侵害するようなことは一切していなかった。念のため。キャラを使ったこういう二次創作は許可されていたはずである。
他にも売りはしなかったが、メールを送りにいったペットをすぐに呼び戻せる「ペット召喚」――

同時に何匹もペットを飼える(ポストペットは同時起動ができなかった)「Windows版PostPet2001を同時起動可能に」――

などのソフトを作って、自分のサイトに置いたものだった。
ポストペットはその後、ユーザーニーズを外した重い3D化などをして、人気は下がっていった。一人、また一人とポストペット相手は減っていき、わたしもまた、Becky!に戻った(というか、ポスペ相手の人にしかポスペを使わなかったわけだが)。
ただ、とても簡単なMUAとしては、やはり依然として「お勧め」のソフトだよな、とは思っていた。
そのポスペに転機が訪れる。ある日、父から「メールが送られないんだけど……」と相談があり、調べてみると、その日から、プロバイダがメール送信時に、PoP Before SMTPの他に、SMTP認証を入れていやがったのだ。父が使っているポスペは古すぎて、SMTP認証に対応していない。最新Verのポスペは、回りに使っている人もいないのでお勧めできなかった。
仕方なく、本当に仕方なく、父のPCにもBecky!をインストールしてシェアフィを支払い、Becky!の使い方を覚えてもらった。設定はもちろんわたしがやったが、最初からBecky!の使い方を覚えてもらうのは、けっこう大変だった。
こんなことなら、PCを始めた頃から、Becky!一本で行ってもらえば良かった、と嘆いても、あとの祭りである。
そんなこんなで、わたしとポストペットをつないでいた最後の縁は切れ、わたしの脳内でも「回想録」カテゴリに入れられてしまったのである。
24時間、LINEで即座に反応が帰ってくる時代の子には理解できないかもしれないが、まだテレホーダイが精いっぱいの時代、ペットがメールを運んで行き帰ってくる、相手のペットが尋ねてくる、というのはわくわく感があったなぁ、と、今なら思う。
しかしやっぱり、メールはあくまで平文で、htmlメールなんぞもってのほか、添付ファイルはuuencodeで――という男らしさを、今でも貫いている自分なのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録
