2019年11月02日

【映画評】イエスタディ

 映画館の番宣でこれのトレーラーを見たとき、「アレッ?」と思った。このアイデアはもう作品化されている。藤井哲夫先生原作で、かわぐちかいじ先生がマンガ化した「僕はビートルズ」がそれだ。


(原作:藤井哲夫/画:かわぐちかいじ「僕はビートルズ」1巻より引用)

 ちなみに、「僕はビートルズ」のストーリーはこんな感じ。

 現代の日本でビートルズのコピーバンドをやっていた四人は、ひょんなことから、ビートルズがデビュー直前の1961年にタイムスリップしてしまう。紆余曲折あって、彼らはビートルズよりも先に、ビートルズの楽曲を演奏して売り出すことにし、世界的な大ヒットとなってしまう。さて、彼らと、ビートルズの運命やいかに――


 もちろんわたしは、本作品の監督や脚本家が、「僕はビートルズ」を見てそれをパクった、などとは言わない。以前から書いているとおり、アイデアは海の水をすくうようなものだからだ。同じビーチで水をすくえば、同じような成分になる。同じ海で同じ魚を穫れば、生なら同じ味がするだろう。
 しかしこの同じ魚をどう料理するかが料理人の腕。その東西の差にがぜん興味が沸いてきた。というわけで、やっているハコも少ないが劇場へ足を運んだ次第。

 あらすじ――ジャックはイギリスの片田舎で、売れないシンガーソングライターをしている。幼なじみのエリーはマネージャーとして献身的に彼を支えているが、二人の距離は微妙な関係。
 今日もショボいステージで歌ったあと、ジャックは弱気になり、エリーに励まされつつ、ひとり自転車で帰路につく。
 と、そこで、世界規模の十二秒の大停電≠ェ起こる。折り悪くジャックはちょうど通りがかったバスにひかれてしまった。
 ベッドで意識を取り戻したジャック。退院祝いでもらったギターを使い、仲間たちの前で、今の気分を歌うつもりでビートルズの「イエスタディ」を歌い出すと、みながシンとする。
「いい曲だわ」とエリー。だが誰も、それがビートルズの曲だとは知らない。からかわれているのだと激怒したジャックは、エリーとなかばケンカ状態でひとり家に戻り、インターネットで「beatles」と検索してみる。しかし出てくるのは「甲虫」ばかり。なんと、この世からビートルズの存在が消えていたのだ。もちろん、その楽曲ともども――。
「あの芸術が失われた世界なんて!」ジャックはなかば状況に巻き込まれるように、ビートルズの楽曲を歌い、そして徐々に話題になり、やがては世界をまきこんだ大ヒットとなっていく。
 反面、ジャックは大きなプレッシャーに潰されそうになりつつ、また、エリーとの間に開いていく溝に悩む。
 さらには、ビートルズを忘れていなかったのはジャックだけではなかった。彼の前に、黄色い潜水艦の模型を持った二人組も現れ――


 ネタバレ記事にはしたくないので、このあたりまでにしておこう。

 さて、年齢的に言えば、わたしはビートルズ世代ではない。わたしの上の上くらいがビートルズに熱狂した世代である。そんなわたしでも、もちろんビートルズの有名な曲は知っている。
 さらには、ビートルズにはちょっと苦い思い出もある。中学のとき、同じクラスの女の子がとてもビートルズが好きで、皆にアンケートをとったことがあったのだ。当時のわたしはクラシック一辺倒だったし、ビートルズの真価のなんたるかを理解していなかったので、ちょっとキツめの答えを書いたような憶えがある。その女の子を傷つけてしまったのではないかと、今でも逆にトラウマなのだ。

 和製の「僕はビートルズ」はコメディではなく、シリアスドラマで、よく調べてあるなぁ、原作の藤井哲夫先生はかなりのビートルズマニアなのだろうな、と思っていたが、今回の映画で評論家が「僕はビートルズ」を酷評していた(らしい)という話を聞いて、「いやあマニアの世界は深いなあ(コナミ館)」と感嘆するばかりだ。

 それくらいのビートルズしか知らないわたしだが、本作「イエスタディ」は楽しめた。ビートルズのあれこれを知っていれば、もっと楽しめたのだろうな、と残念に思う。
 コメディだが感動的なシーンもある。ジャックが大きなプレッシャーの中、大観衆を前に歌った「Help!」は鳥肌ものだったし、イエローサブマリンの二人組とのやりとりや、その後に起こるミラクルには、心が暖まった。

 反面、ストーリー構造としては、「僕はビートルズ」はビートルズ抜きにしてはできない話であるのに対し、本作「イエスタディ」は、主人公を絵描きにして、タイトルを「ゲルニカ」にしても成立する。中身は突然のヒットに巻き込まれた主人公と、微妙な関係にある幼なじみの女性とのラブコメでもあるからだ。
 そういった甘い点は、むしろ、わたしのようなビートルズマニアでない者でも楽しめる、というメリットに傾いているように思う。

 ラストも実に良かった。「僕はビートルズ」のエンディングも余韻があって良かったが、エンディングの軍配は本作「イエスタディ」にあげたい。
 本作「イエスタディ」を観ると、また「僕はビートルズ」を読みたくなるし、「僕はビートルズ」をすでにお読みの方は「イエスタディ」も楽しめると思う。ぜひとも両作ともご鑑賞をお勧めしたい。
 そして、二作とも読み、見終わった後は、ビートルズを聞きたくなることうけあいだ。これも「Hey Jude」を聞きながら書いている。

 それにしてもビートルズがいないと「コーラ」も「タバコ」もなくなってしまう世界(このふたつはビートルズと関係が深いのだそうです。検索ヨロ)、「ずうとるび」もなくなっちゃって、笑点の大喜利はどうなっちゃうのだろう、などと、日本人としては思ったりもして。

 山田くーん、結城さんの座布団、全部持ってって!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年08月31日

【映画評】ゴーストランドの惨劇(ネタバレあり)

 この夏、いきなり「この映画はすごい」と評判が伝わってきた作品。やっているハコは少ないが、幸い、地元では観られたので、細君と鑑賞。

 わたしは映画紹介の記事を書くとき、なるべく既存の資料を使わず、自分の観たとおりを記憶を頼りに書くようにしているのだが、本作はフライヤーからちょっと引用したい。

 僻地に佇む家で、母と双子の娘を襲った凄惨な事件。それから16年後――。姉は精神を病み家に囚われ、妹は家を出て幸せを手に入れた。姉妹がその家で再会したとき、あの惨劇が再び幕を開ける――。
 などという、ありきたりのホラーでは終わらない――。




 すごい自信である。はてさて、見せてもらおうか。「2度と見たくないけど2回観たくなる」という、パスカル・ロジェ監督の鬼才とやらを。



 あらすじ――僻地に引っ越してきた母と娘二人。ヒロインの妹ベスはホラー作家志願の多感な娘。一方、姉ヴェラはリアリストな少女だ。
 引っ越してきたその晩に、恐怖が三人を襲う。女装の変態男と、知的障害があるミツクチの巨漢が家に乱入してきたのだ。娘たちは地下室に逃げ込み、母ホリーンは必死に抵抗。変態男と巨漢を刺し殺して見事に撃退した。
 そして16年の月日が経った。妹ベスはシカゴに上京し、ホラー作家として大成功をおさめていた。結婚もし、子どもにも恵まれ、忙しい日々を送っている。
 昔から使っている、古いタイプライターを使って執筆している彼女のもとに電話が入る。それは姉ヴェラからのものであった。錯乱した様子で「助けて!」と。
 姉ヴェラは母ホリーンとともに、16年前のあの家に住んでいるはず。母に電話をしてもつながらず、ベスは不安にかられ、翌朝、運転手つきのクルマに乗って、あの家へと向かった。
 家につき、母と再会して抱き合う二人。そして話が姉のことになると、母は表情を曇らせる。姉ヴェラは、あの日からずっと精神を病み、今もあの日の恐怖の中、部屋に閉じこもって生きているというのだ――。
 母を思いやり、また、ヴェラの精神障害を治してあげたいと望むベス。一晩眠って、起きてみると、鏡にルージュで「HELP ME!」と記されている。いったいこれは? 心霊現象なのか。ヴェラがやったのか。そしてベスは、やがて残酷な真実をつきつけられることになる。


 さて、いきなりネタバレしてしまおう。まだ本作を観ていないで、ここまでで「観てみたいな」と思った方は、今のうちに先に読み進まず、別ページへ飛ぶことをお勧めする。

 ちょっと緩衝帯のヨタ話を書いておこう。
 本作、確かに「これはやられたな」というトリックが出てきて、もう一度観てみたくなるのだが、その参考になるかと思い買ったパンフにはなんにもそういう情報はなかった。監督のインタビュー記事は読み応えがあるが、それ以外は写真集。それも、伏線やトリックに関するシーンはむしろ慎重に取り除かれている感じだ。



 同日に観て買った「ダンスウィズミー」のパンフは実にサービス精神旺盛だったのに、こちらのパンフはがっかりである。
 しかし、以前にも書いたが、わたしは数年前から、よほど気に入った作品しかパンフを買わなくなった。両作品はそれくらい気に入ったというわけだ。

 さてさて、ネタバレいきますよん。
 最初に違和感を持ったのは、妹ベスが運転手つきのクルマで実家に戻ったシーケンスだった。自分で運転しないのは有名作家だから? と。
 しかしその謎は、このネタバレで解けることになる。彼女が自分で運転して実家に向かわなかったのは、彼女に運転経験がなかったからなのだ。だから描写ができなかったのである。
 つまり、シカゴでホラー作家として成功して、夫と子どもにも恵まれ――というのは、すべてベスの妄想だったのだ。

 実際のベスは、姉ヴェラとともに、16年前のあの惨劇の最中に、まだいたのである!
(最中と言っても、変態男と巨漢は家を根城に出入りしているので、数日は経っている)
 あの日、必死の抵抗をして暴漢二人を倒したとベスが思っていた母親は、実は変態男に首を切られ、あっけなく惨殺されていたのだ……。
 姉ヴェラは妄想の世界に浸っていたベスを守りつつ、巨漢のオモチャにされていたのである。

 ベスが妄想の「成功した作家生活」で、古いタイプライターを使っていたのも、PCで書くという経験がなかったから、それを妄想できなかったからなのである。

 また、冒頭、車中で、ベスが書いた小説を母と姉に読み上げるシーン。ヴェラが「なんで最後はpiss(おしっこ)で終わるのよ」というようなことを言うが、現実でも巨漢に襲われたベスは最後に失禁してしまう、など、数々の対比が行われている。

 この作品、ゴア描写自体はそれほど大したことはなく、音や突然の脅かしでびっくりさせるシーンも多いので、それほど「二回みるのはつらい」という感はないのだが、惹句のとおり「もう一度観てみたくなる」のは確かである。
 なんにせよ、オカルティックな心霊現象ホラーではなく、現実ベースなのが実に怖い。

 見終わってから、つらつらといろいろなシーンを回想してしまう。ベスが妄想に入ったのはどこからなのか。ひょっとしたら、最初の方の雑貨店で、新聞記事を読んだあたりかもしれない、とか。
 ラスト、娘二人は無事救われるのだが、それも妄想なのではないか? とか。
 もし、これから観る方で、地下室の壁に「救急隊の写真」などが貼ってあったら、上記は本当かもしれない。これは心底恐怖である。

 もう一度劇場で――というのは、ハコも上映回数も少ないし、なによりもう上映自体が終わってしまうかもしれないので、この先はDVDが出たら、ぜひ細かく確認していきたいと思っている。

「ゲット・アウト」以来、久々に面白いと感じたホラー映画であった。

 余談:この夏から秋にかけては劇場で観たい映画が多くてうれしい。「トールキン」は必ず観るし、「ゲット・アウト」の監督ジョーダン・ピールの「usアス」も面白そうだ。
 なんて思っていたら「ニノ国」が「ドラゴンクエスト・ユア・ストーリー」よりもある意味すごい出来だとかいううわさ。あああわたし、そういうのに弱いのよ。これも観にいかねばならんかなー。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年08月28日

【映画評】ダンスウィズミー(ネタバレあり)

「【映画評】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(ネタバレあり)・その1」の記事では「ダンス・ウィズ・ミー」とナカグロを入れてしまったが、正確には「ダンスウィズミー」。監督は「ウォーターボーイズ」、「スウィングガールズ」、「ハッピーフライト」、「サバイバルファミリー」等を手がけた矢口史靖さんである。英語をカタカナにしたタイトルにナカグロを入れないのは矢口監督のこだわりなのかもしれない。

 さて、本作は劇場でフライヤーを手に取ったときから「これは観たい!」と惹かれるものがあった。なにより、くるりと回った主演の三吉彩花さんが放っている華が魅力的だったし、なにより、わたしはミュージカル映画好きなのである。
 ミュージカルというだけで点が甘くなる。なぜと言って、ミュージカルは絶対に文章が勝つことができない分野だから。歌って、踊って、観る人をわくわくさせるあの高揚感を、文章で出すのは(しかも散文で)不可能である。



 というわけで、「ハッピーミュージカルコメディ♪」とコピーがつけられている本作。Youtubeで流されていた公式トレイラーもなかなか見事な出来で、もうわくわくして公開日を待っていたのだった。

 あらすじ――ヒロインの勝ち組OL鈴木静香≠ヘ、バスの中で姪っ子に「いきなり踊り出すミュージカルはおかしい!」と熱弁して、まわりの客の注目を浴びてしまうほどのミュージカル嫌い。それは彼女が子供の頃、学校の舞台のミュージカルで大失敗をしてしまったトラウマがあるから。
 そんな彼女、姪っ子と入った怪しい催眠術館で、これまた胡散臭い催眠術師が姪っ子にかけた「あなたは音楽が流れるとミュージカルスターになれる」という催眠のとばっちりを受け、しっかり「音楽が流れるとミュージカルスター」になりきってしまうように。
 そこから先は、音楽を耳にすると、出勤前に、会議中に、デート中にと派手に歌い、踊りまくるようになってしまった。しかも本人はミュージカルスターのつもりでも、ハッと正気に戻ると、まわりはあきれ顔だったり破壊活動の跡のようだったりと、まさしく踊るテロリスト。
 静香は自分を催眠にかけた、あの胡散臭い催眠術師を追いかけ、いろいろな人を巻き込んで、東京から札幌までの珍道中を繰り広げることになる。


 そして実際にスクリーンで観た感想は、実に、実に楽しかった! 以前もなにかの映画評で書いたが、「観ている最中に楽しい映画」というのは、なかなか作るのが難しいものなのである。

 そして本作は、はっきり言って「ミュージカル」ではない。ミュージカルの歌やダンスが、キャラクターの心情を表したり、ドラマの進行を進めたりするのに対し、本作はヒロインやモブが歌い踊っても、それは「ミュージカルのパロディ」であって、心情やドラマ進行を担ってはいないからである。

 そしてミュージカルではない、この「ミュージカルのパロディ」シーンが最高に楽しい。ヒロインを演じた三吉彩花さんは歌い踊る最中ノリノリな上に、指先からつま先まで美しい。スクリーンから彼女の華がほとばしり弾け飛ぶ。

 一気に本作中の「ミュージカルパロディ」に引き込まれるのは、なんと言っても、オフィスで、シュレッダーのゴミが舞う中、集団で踊り歌う「Happy Valley」である。これはトレイラーでも観られるので、ぜひとも未見の方は検索してご覧いただければと。

 ストーリーは途中から、催眠術師「マーチン上田」の元助手(やしろ遊さん演じる斉藤千絵=jと一緒に、東京から北上して彼を追いかけるバディ・ロードムービーになる。ここから先は、大きな仕掛けのダンスなどはなく、ちょっとちんまりしてしまうのが残念と言えば残念。
 途中で合流したchayさん演じる山本洋子≠ェ、元カレの結婚式に「ウェディング・ベル」を歌いながら乱入するシーンがあるのだが、ここではヒロイン静香にも、洋子をサポートしつつ派手に花婿に踊るテロリストぶりを発揮してほしかったところかも。

 なんだかんだとすったもんだがありまして――最後の大団円「タイムマシンにおねがい」のシーンが一番好きだ。ここはカーテンコールなので、今までの登場人物が皆登場する。静香のトラウマも伏線回収して、まさしく「タイムマシンにおねがい」だ。

 劇場が明るくなったあと、隣の細君と顔を見合わせて「楽しかったねー」とうなずきあってしまった。

 この夏は、細君とともに、つらく、悲しい出来事があり、涙の中それを乗り越えてきたのだが、それが一息ついてから観た、この楽しい映画のことを、わたしは一生忘れないだろう。

 笑って流す涙って、いいよね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年08月17日

【映画評】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(ネタバレあり)・その2

 の続き。前回はほぼあらすじだけで終わってしまった。

 世間の評では、ラストの「あまりの蛇足さ」に、監督らが独自色を入れたいがための自涜行為だと言われている。ひょっとしたら――

 坂場「うーん、ダメですね。これではただのドラクエになってしまう。わたしは納得いきません」
 下山「では、このストーリー全体がゲームだった、というのはどうでしょうね」
 神地「おもしろい!」
 なつ「ええー……」
 仲「それはね、いい視点だと思うよ」
 坂場「主人公は、バーチャルリアリティでこの映画のゲーム世界を楽しんでいるんですよ。最後にそれに気づかされて、本当の敵に出会う」
 神地「おもしろい!」
 なつ「ええー……」
 坂場「本当の敵というのは、ウイルスで、実はずっと一緒にいたスラリンがワクチンだった、というのはどうですか?」
 神地「おもしろい!」
 なつ「ええー……」


 などという会話が交わされていたのかもしれない。後々のために書いておくと、これは今、NHKの朝ドラでやっている「なつぞら」のパロディである。

 さて、多くの「反ドラクエ ユア・ストーリー派」を敵に回してしまうかもしれないが、わたしは、だいたいのネタバレを知りつつ観ていたので、この結末、うーん、そう悪くはないんではないの? と思ってしまったのだ。

 最近は歳を取ったので、感想を言語化するのに時間がかかってしまうのだが、帰りに寄ったファミレスで細君と話しながら、どうやら心がまとまった。

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」は、宣伝方法を間違えたのである。

 わたしはもう人生半分終わったオトナである。その昔、リアルタイムにドラクエにハマった経験もあるが、今となっては「え、ドラクエ? そんなもんオワコンでしょ?」と思っている。ゲームはもう全然しない。まともなオトナはね、仕事が忙しくて、ゲームになんてハマってる時間はないんですよ。だから公園にたむろするポケモンGO勢に、内心「早くオトナになれ」と毒づいている。そんな層。

 そういう層に向けて、この「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」は作られているのだ。
 観終わったあと「そうだ、そうだよな。あのドラクエを遊んだ時間は、本当に冒険だったんだ」と郷愁を感じさせ、ゲームにハマっているオトナたちに対し「まあそれもいいんじゃない?」と思わせる。そんな映画だったのだ。

 つまり、本作は、はなっから、「ドラクエ好き好き」クラスタに向けて作られた映画ではないのである。
 宣伝で、たとえば「ドラクエを忘れたオトナたちに」とか。「ドラクエはオワコンではなかった!」とか「感動を失ったかつての勇者たちへ――」とか謳えば――うーん、それでもやっぱり、悪評は出てきただろうな。

 なにしろ、わたしがこの作品を見に行った理由が「悪評がおもしろそうだったから」である。最初っから、観劇リストから除外されていたのだ。だって、ドラクエなんてオワコンだと思っていたから。
 わたしのようなひねくれ者でもなければ、そんな層がいまさら「ドラクエ」の映画なんて観るわけがない。

 わたしは本作を佳作とは言わない。しかし駄作ではないだろう。あのラストを含めて良作くらいには感じる。

 不満点があるとすれば、主人公が「ただの青年」とわかるシーケンス(街のVR屋で云々のところ)は実写にすべきだったと思う。そこまでやってくれれば――もっと悪評はひどくなるだろうと思うが――わたしは手を叩いて、やってくれたな山崎監督! と、心中、快哉を叫んだろう。


(宇宙戦艦ヤマト24話「死闘!神よ、ガミラスのために泣け!!」より引用。「やりおったなヤマザキ^h^hトめ」のシーン)

 真面目に製作側の肩を持つとすると、「早くオトナになれ」というのは、なんらかのクリエイションを志し、努力してきたものに、世間が言う呪いの言葉なのである。
 映画監督でも、脚本家でも、小説家でも、マンガ家でも、「その職業につきたい」と言うと、必ず世間は「早くオトナになれ」と言ってくる。
 その言葉を発した「ミルドラース」という名の世間を倒す、というこのお話は、決して製作陣がふざけて創ったわけではないし、むしろ真摯にクリエイターを志したり、またくじけそうなクリエイターを励ますいいシーンだと思うのだ。

「早くオトナになれ」というのは、それだけパワーワードであるし、呪詛の言葉でもあるのだ。
 観劇者が、この言葉にグサリときて反発を覚えてしまったのは、監督を始め製作者側の誤算だったのではないだろうか。

 あとね、作中、これは腹が立った。許しがたい蛮行である。本作を――世間の評よりは――評価している筆者だが、これだけははっきり意見表明しておきたい。

 花嫁はフローラ!!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年08月14日

【映画評】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(ネタバレあり)・その1

 この八月から九月は、劇場で観たい映画がたくさんあって嬉しい。

・天気の子
・アラジン
・ダンス・ウィズ・ミー
・アルキメデスの大戦
・ゴーストランドの惨劇
・ライオンキング
・かぐや様は告らせたい
・HELLO WORLD
・アド・アストラ
・空の青さを知る人よ

 このあたりは劇場で観たいなぁとチェックを入れていたのだが、ここにきてダークホースが現れた。
 チャララチャッチャッチャーン!

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」が現れた。どうする?
 →観る
  観ない


 実はこのタイトル。はなっから観る気はなかった。好きだったドラクエVをベースにしているとのことだが、当時はそれこそ、ステータスカンストまでやりこんだとはいえ「いまさらドラクエ映画!? オワコンじゃないの?」という意識があり、観たいものリストから外していたのだ。

 それが蓋を開けてみれば、なんとSNSでも5ちゃんねるでも悪評の嵐。中には「平成のワースト映画がデビルマンなら、令和のワーストはドラクエ映画」とまで(まだ令和元年なのに)言う人も。
 シアターから出てくる人が葬式の顔。地獄を見た。それをやってはいけないオチ。クソ映画。ドラクエ愛がない。とにかくひどい。戦犯は山崎監督。エトセトラ、エトセトラ。
 わたし、こういうのに弱いんですよw そんなにひどい映画なら、劇場で観て、後々友人に「あれ、公開時に劇場で観たんですよ」と自慢したいから。

 というわけで、暑い真夏の日差しの中、細君となじみのシアターへ。小さい箱で席は埋まっていない。どうやらチビッ子たちは「ワンピース」の方へ行ってしまうらしいですな。いやしかし、この閑散ぶり、SNSの悪評というのは、今の時代、本当に効くらしい。

 全あらすじ(ねたばれいくよーッ!)

 主人公の少年リュカは、父パパスとともに修行の旅を続けていた。目的は宿敵ゲマに連れ去られた母を取り返すこと。パパスはリュカを、かつて世界の平和をもたらした「天空人」の末裔だと信じていた。

 美少女フローラとの出会い、ビアンカとの冒険、(ベビー)キラーパンサーのゲレゲレにも懐かれたり、不思議な青年にドラゴンオーブを見せびらかしたり、ヘンリー王子との邂逅などを経験し、やがて二人は宿敵ゲマに相対。しかしパパスはゲマに殺されてしまう。

 ゲマの奴隷としてヘンリー王子とともに働かされて十年。二人は策謀してゲマの配下を脱出。優しい老人プサンの手助けもあり、ヘンリー王子は故郷の城へ。リュカは母を探す旅に復帰する。

 リュカは旅の途中で、ブオーンという魔物が平和を脅かしている街サラボナへ。そこで美少女フローラと再会する。美少女フローラの父ルドマンは、ブオーンを倒すには、天空人だけが鞘を抜けるという「天空の剣」が必要だと言うが、その天空の剣はブオーンに奪われてしまっていた。

 かつての冒険の相棒、ビアンカとブオーンの居住地へ向かうリュカ。苦戦の末、ブオーンから天空の剣を取り返すが、なんとリュカはその鞘を抜くことができない。自分は天空人の末裔ではなかったのか!? 迷っている暇もなく、闘いで辛勝を収めたリュカとビアンカ。ブオーンを味方にすることに成功した。
 街に戻り、美少女フローラとの結婚に舞い上がるリュカ。しかしそこに老婆が現れ「真の心を知りたければこれを飲め」とクスリを置いていく。リュカは迷った末にそれを飲み、自分が本当に好きなのはビアンカだと気づく。
 美少女フローラの父ルドマンに美少女フローラとは結婚できないと伝えたリュカ。そして宿屋へ戻り、すったもんだの末にビアンカに求婚。二人は結婚することになる。
 宿屋を出るところで、昨夜の老婆に出会い、礼を言うリュカ。二人が去ったあと、老婆は変身を解く。なんと彼女は美少女フローラであった。美少女フローラは、リュカの本当の気持ちが自分にないことに気づき、ひと芝居打ったのである(なお、筆者はフローラ派である(怒))。

 パパスとの居住地に戻り、従者サンチョとも再び邂逅。ビアンカは懐妊し、二人の間に、一子アルスが誕生した。

 話は進み、ゲレゲレとの再会なども経て、宿敵ゲマとついに闘うリュカとビアンカ。しかしゲマの圧倒的な力によって二人は組み伏せられ、リュカは石化させられてしまう。ゲマはビアンカが「なにかと違う」ことに気づき、彼女をさらい、すべての悪の元凶「ミルドラース」の城へと連れていく。
 そこにはリュカの母マーサが、心を閉ざしたまま球形バリアの中いた。ゲマは、実はビアンカこそ「天空人」の末裔であり、マーサと会話し、魔界の門を開けミルドラースを呼び出せ、と命令する。
 マーサとテレパシーで話すビアンカ。しかしマーサは「今回は今までと違うのです」と意味深な言葉を言い、魔界の門を開ける呪文は教えず、怒ったゲマはビアンカをも石化したのであった。

 リュカの石化が解かれたのは、なんと十年(たぶん)もあと、やりとげたのは息子アルスであった。アルスは元気な少年としてサンチョのもとで成長し、父リュカの石化を解く冒険をしていたのだ。
 そこで魔物と相対するアルス、リュカはこれを使え、と間違って「天空の剣」を投げ渡してしまう。するとアルスはその剣の鞘を抜き、魔物を一刀両断してしまった。アルスこそ「天空人」の末裔だったのだ(ま、ビアンカがそうだからね)。

 二人はゲマと闘うために、竜が人の姿を借りているという話がある街へ。そこで以前ヘンリー王子とリュカを助けた優しい老人プサンと出会い、彼こそが竜であることを知る。しかし、ドラゴンオーブがないので竜に戻れないとのこと。リュカが持っていたドラゴンオーブは偽物だったのだ。

 ここは妖精の力を借りる一手だな、というプサンの助言に従って、スライムのスラリンを伴って妖精の国へ行くリュカ。そこで艱難辛苦を乗り越え、妖精の力を借りて、過去の自分に会いに行くことに。そう、子どもの頃、ドラゴンオーブを見せびらかした不思議な青年は、自分自身だったのだ。
 ドラゴンオーブをすり替え、今の時間に戻るリュカ。プサンは竜として復活し、ゲマの待つミルドラースの城へと向かう。
 アルスは母リュカの石化を解き、闘いは開始された。だが多勢に無勢。大勢の魔物に囲まれ旗色が悪い彼らに、突然、力強い味方が現れた。ブオーンと、ヘンリー王子の戦闘部隊であった。彼らに後衛を任せゲマを追い込んだリュカとビアンカ、そしてアルス。
 しかしゲマは、リュカの母マーサの力を利用して、自らを崩壊させながらも、ミルドラースを復活させてしまった。
 魔界の門を封じるには、天空人の末裔が、「天空の剣」を使うしかない。
 ブオーンに投げられ、天空の剣を掲げ、天高く飛ぶアルス。ミルドラースはついに倒された――

 と、リュカの周りの時間が止まった。そこは不思議な空間であった。すべてのものが静止した空間の中で、ミルドラースがついに姿を現す。
「わたしはミルドラースに化身したウイルス。この世界が嫌いなものに仕掛けられた存在だ。君がいるのはバーチャル世界のドラゴンクエストワールドに過ぎない」
 ミルドラースが「テクスチャオフ!」と唱えると、リュカの周りの世界が真っ白に、「グラビティオフ!」、「コリジョンオフ!」次々とゲーム世界のリアルが崩れていく。

「リュカ」はそこでやっと思い出した。これは確かにバーチャルゲームの中だったと。自分は「リュカ」などではない。ドラゴンクエスト好きの名もない青年。街のバーチャルゲーム屋で「ぼく、いっつもビアンカ選んじゃうんですよねー」などと軽口を叩くような、ただの青年だった、と。
 今回のゲームの少年時代が短かったのも、そのとき「少年時代:スキップ」を選んでいたから。またビアンカを即選ばなかったのも、「選択:フローラ」にしていたからだと。

 茫然とする「リュカ」に、ミルドラースの名を借りたウイルスは勝ち誇ったように言う。

「早くオトナになれ!」

「リュカ」はハッとする。「それでも、ゲームの中であっても、ぼくにとっては、大事な現実なんだ!」
 正面からウイルスに立ち向かうリュカ。そこに現れたのは、ゲームの最初から主人公に付き添っていた、あのスライム「スラリン」であった。
「ぼくは君を最初から見守っていたワクチンだ。これを使って!」スラリンの背から「天空の剣」が出てくる。
 リュカはその剣でウイルスを突き刺し、ゲーム世界は再び、リアルなものとなって復活した。

 丘の上を走るアルス。それにビアンカ、ゲレゲレ。このドラクエ世界の平和よ、永遠に――

  Continue your adventure.


 ちなみに筆者は本作を一回しか観ておらず、それも三日前のことなので、詳細などは違っている可能性大であるが、ま、流れとオチ、ということでご了承を。

 しかしなっが! なっがいですな。これを103分の尺に納めたものだから、子どもなどは途中、ストーリーを追えなくて飽きてしまったのではないだろうか。ま、いなかったですけどね、チビッ子たち。
 しかし、ストーリーテリングとしては悪くない。伏線はすべて作中で回収し、きれいな構造体として形をなしている。この世界がゲーム世界だ、というのも、唐突に出てきたものではない。途中、マーサが「今回は違う」と言っているのがその伏線だ。

 で、世間の悪評ぷんぷんは、ラスト部分。このドラゴンクエスト世界がバーチャルリアリティであり、今までのストーリーがすべて「創られたもの」であった、というところに集中している。つまりこれね。


(「トータル・リコール」より引用。マトリックスというよりはこっちのイメージだろう)

 ちなみに細君の感想は「フローラを選ばなかったのは許せない」だそうだ(ウチはそろってフローラ派)。

 この記事もあまりに長くなったので、なつよ、次回に続こう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評