2020年01月29日

【映画評】ラスト・クリスマス(ネタバレあり)

 実はずっと「心はどこにあるか」というテーマの記事を書こうと思っていたのだが、昨冬のクリスマスシーズン、細君と「ラスト・クリスマス」をデートで観て、まだいろいろまとまっていないけれど、この記事も書きどきなのかなぁ、と筆を執っている。

 あらすじ――ケイトは子どもの頃、聖歌隊のセンターで歌うほどの出来た子であったが、ある出来事を境に、今は乱れた生活を送っている。ロンドンのクリスマスショップで働いているが、家には戻らず友人の家を転々とし、ビッチぶりもあきれたものだ。
 しかしある日、不思議な青年トムと邂逅し、彼はケイトの抱えているいろいろな悩みを解決してくれる。トムに心惹かれていくケイト。しかし彼には、彼女が想像できない秘密があった。それはあの出来事に関係していて――。


 キャッチコピーは、『「ワム!」の名曲「ラスト・クリスマス」に乗せて特別な季節に贈る、とびきりのロマンティック・コメディ!』だ。

 ずいぶん昔、まだ昭和の頃、「結婚潮流」という雑誌があった。これは今の「婚活」をはるかに先取りした雑誌で、当時はちょっとツッコみすぎた内容に驚いたりしたものだ。なにしろ、バブル直前で、みなが「恋愛結婚が一番」と思っていた時代に「医者と結婚する方法」などを載せていた雑誌である。今なら「ふーん」な内容かもしれないが、当時はかなりセンセーショナルであった。

 その編集長であった荒谷めぐみさん(現・荒谷慈さん)と、何度かお話ししたことがあるのだが、その話題の中で今でも思い出せるのが「心はどこにあるか」というテーマだったのである。

 即物的なわたしは、にべもなく「脳でしょう?」と答えたと思う。対して荒谷さんは「わたしは心臓にあると思うなぁ」とおっしゃったのだ。
 わたしはびっくりしてしまった。「結婚潮流」のような、あえて言ってしまえば、ロマンティックとは対局にあるような雑誌を作っている編集長が、心は心臓にあるというのは、なんと不思議なことか。

 しかし、考えてみれば、心は心臓にあるからこそ心の臓なのであり、ハートはheartにあるという考えも、心情的には理解できる。

 あれから何十年もたって、この映画「ラスト・クリスマス」を観て、このエピソードを思いだしたのだった。
 今でも即物的なわたしは、心は脳にあると思っているが、ケイトの心は、脳にだけあったのではないようだ。

 以下ネタバレ入ります。知りたくない方は別ページへジャンプをどうぞ。

 ケイトは実は、荒れる生活をする直前に、心臓移植を受けていたのである。そのときから、自分が自分でなくなったような感覚に耐えられず、自堕落な日々、家族とのいさかい、友人との仲違いなどを続けていたのだった。
 そして、彼、トムこそが、その心臓を彼女に与えたその人だったのである。
 トムはすでに事故で亡くなっていた。そして、ケイトだけに見える幻影だったのだ。

 ケイトはトムに導かれるように、家族と和解し、友人と親交を再開し、ボランティア協会に協力するようになる。
 ボランティア協会で開いたチャリティ・コンサートで歌うケイトが実にキュートだ。ここでワム!の「ラスト・クリスマス」である。

 ♪Last Christmas
 ♪I gabe you my heart

「去年のクリスマス、君にハートを捧げたよ」

 まさかこのハートが「物理的」な暗喩だったとは、なかなかブラックジョーク的な面も持っている映画である。

 見終わったあとの感想としては、細君的には「ふつうのロマンティック・ラブコメディだと思ってたから、切なくて、重くて、うーん、という感じ」だそうだ。
 わたしわたしで、前記のとおり、心はハートにあるという暗喩がなかなか興味深く、いろいろと考えてしまった。

 もう公開は終わってしまったが、恋人とレンタルやテレビで観るなら、まあおすすめかも。
 あなたのハート(物理)には、なにが残りましたか?

 追記:「ふつうのラブコメが観たーい」という細君のリクエストに応えて、今度は「ヲタクに恋は難しい」を観る予定。え、ふつうのラブコメって?
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2020年01月08日

【映画評】この世界の(さらにいくつもの)片隅に

 最近の若い人たちから見ると、「昭和」生まれというだけで、もう「戦争体験者」という感覚なのだそうだ。
 もちろん大げさな話で、わたしは昭和中期の生まれだが、戦争も、戦後の混乱も、実際には体験したことがない。

 しかし、若い人のその感覚は、ある意味、正しいものなのかもしれない。昭和生まれは、本当の「戦争体験者」世代から、直接、戦争中の生活のつらさ、戦後の荒廃した日本の様子を聞き、そして高度成長期になっていく時代とともに育ってきたのだから。
 実際、昭和天皇陛下が崩御なさったとき、わたしの脳裏に最初に浮かんだのは「これでやっと、本当の戦後が終わったのだな」という気持ちであった。

 わたしたち昭和生まれは、いわば、戦争体験者と、彼らを語り部とする間接的体験者であり、そういう意味では「戦争」を中心とした同時代を生きてきたのである。
 わたしが「味音痴」なのも、祖父の「出されたものはなんでも美味いと言って食え、戦争中は――」という教育の賜物であるし、まだ日本が貧しかった時代もおぼろに覚えている。

 昭和は戦争抜きで語れない時代であり、たとえ戦争そのものを知らなくても、いわば「戦争」という原作を読んで育った世代なのだ。平成世代は、その二次創作物を読んで育った、原作を知らない世代なのである。

 くだいて言えば、ファーストガンダムを知らずにガンダムを語る世代とも言えようか(そうか?)。

 年号も令和になり、戦争の悲惨さは、さらに三次創作物から知る時代になる。令和の子たちは、どのような戦争観を持つだろうか。おりしも、ツイッターのトレンドが、海外ではIRAN、WW3だというのに、日本ではテレビドラマの話題だったという話が流れてきたばかりだ。

 ずいぶん前書きが長くなってしまったが、典礼暦で「主の公現」のミサにあずかったあと、細君と「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を鑑賞してきた。



 前作(と言っていいものか)の「この世界の片隅に」を観にいったときの記事は「【映画評】この世界の片隅に」にある。
 このときの記事でも、「かかっているハコが少ない」とこぼしているが、「いくつもの――」もやはりかかるハコが少ない。結局、前回と同じシアターで、しかも一週間遅れで公開であった。
 そんなわけで、やっと時間の都合をつけて、「いくつもの――」を観られたのであった。

 まったく知識のない方のために、本作のことを少し解説すると、本作「いくつもの――」は、前作「この世界の片隅に」の続編ではない。言ってしまえば「完全版」、「ディレクターズカット版」である。前作で思い切りよくカットした原作の部分をつけ加えて、三時間という長い尺の作品として完成させたものだ。

 パンフレットによると「つけ加えたことで、まったく別の話に見えてくる」とうたっているが、正直、そこまで変わったという印象は受けない。変わったというより、深くなった。そのせいで、前観たシーンでも、キャラクターの表情に、さらに意味がつけられた、という感じだ。

 ちょっと驚いたのは、ヒロインのすずさんと、夫の周作さんのベッドシーンが、ワンカットだがあったこと。これは必要なシークエンスなのかもしれないが、少し配慮しても良かったのではないかとも思う。

 逆にこのシーンがあることで、「いくつもの――」は、オトナが鑑賞する映画だ、というメッセージ性も感じた。

 全体の感想そのものは、「【映画評】この世界の片隅に」とそう変わらないので、そちらをお読みいただきたく。
 三時間という長尺なので、観劇前の水分を控えての鑑賞だったが、時間の長さを感じさせないすばらしい出来映え。しかも前作を観ていても、今回、足されたシーンとの継ぎ目がほとんどわからない。

 前作の感想と違ったのは、前作は細君と観劇後、二人とも無口になってしまったのだが、今回は話が弾んだことである。あのシーンはどうだった、あそこはこうだった、あのセリフは良かった、と、二人で並んで歩きながら、話題がつきなかった。
 わたしは、すずさんと周作さんが呉の駅でケンカしているシーンがとても気に入った。今回、付け足されたシーンで、すずさんの怒りがより明確になっているように思う。

 二人の間で、意見が一致したが、どうしようもないね、という結論になったのが、本作のタイトル「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」である。
 正直、ちょっと長くてくどい。「さらにいくつもの」といいつつ、「いくつもの」は言い過ぎだろうという感じもある。
 だからといって「完全版」や「ディレクターズカット版」では商業的すぎるし、もちろん「続編」や「新編」でもない。
 ふたりでああだこうだとアイデアを考えたが、やはり片渕監督がつけた「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」がベターなのかなぁ、という話に落ち着いた。

 前作は記事を書いたあと、作品の持つ良さがじわじわと浸透して、かける劇場も増え、ロングラン上映になったのが嬉しかった。数々の賞も受賞した。カトリック信徒としては、第41回日本カトリック映画賞もとっているのが嬉しい。
 今回はどうだろう。ちょっとそこまでの商業的な大成功はないような気もする。
 が、DVDなどで手元に置いておき、何度も観るなら、前作より今作の方をお勧めしたい。

 そういえば、ハコを出て、映画館の土産物売場に行ったら、本作品のグッズを売っていて、買おうかどうか迷ってしまった。巾着袋はキューブを入れるのにいいかな、という感じだったが――

 細君「でも、ゲンが悪くない?(笑)」
 わたし「そうだねー(笑)」

 というわけで、買わず。あと、紅入れを模した小物入れがあったが、ちょっと大きすぎないか? もう少し小さかったらピルケースとして買ったのに。

 そうそう、パンフレットは1,000円と高いほうだが、読み応えがあるので、本作を気に入った方は、是非ともご購入を。

 家に帰ったら、細君がFire Stickを操作して、アマゾンプライムの「この世界の片隅に」をさっそく流し出したのが草だったw
 二人で「あ、このシーンを足したんだね」、「今日観た方が、このシーン感情移入しやすくなってるね」などと話がつきず、けっこう夜更かししてしまった。

 結局、お勧めコースは、「原作を読む」→「この世界の片隅にを観る」→「いくつもの――を観る」なのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年11月02日

【映画評】イエスタディ

 映画館の番宣でこれのトレーラーを見たとき、「アレッ?」と思った。このアイデアはもう作品化されている。藤井哲夫先生原作で、かわぐちかいじ先生がマンガ化した「僕はビートルズ」がそれだ。


(原作:藤井哲夫/画:かわぐちかいじ「僕はビートルズ」1巻より引用)

 ちなみに、「僕はビートルズ」のストーリーはこんな感じ。

 現代の日本でビートルズのコピーバンドをやっていた四人は、ひょんなことから、ビートルズがデビュー直前の1961年にタイムスリップしてしまう。紆余曲折あって、彼らはビートルズよりも先に、ビートルズの楽曲を演奏して売り出すことにし、世界的な大ヒットとなってしまう。さて、彼らと、ビートルズの運命やいかに――


 もちろんわたしは、本作品の監督や脚本家が、「僕はビートルズ」を見てそれをパクった、などとは言わない。以前から書いているとおり、アイデアは海の水をすくうようなものだからだ。同じビーチで水をすくえば、同じような成分になる。同じ海で同じ魚を穫れば、生なら同じ味がするだろう。
 しかしこの同じ魚をどう料理するかが料理人の腕。その東西の差にがぜん興味が沸いてきた。というわけで、やっているハコも少ないが劇場へ足を運んだ次第。

 あらすじ――ジャックはイギリスの片田舎で、売れないシンガーソングライターをしている。幼なじみのエリーはマネージャーとして献身的に彼を支えているが、二人の距離は微妙な関係。
 今日もショボいステージで歌ったあと、ジャックは弱気になり、エリーに励まされつつ、ひとり自転車で帰路につく。
 と、そこで、世界規模の十二秒の大停電≠ェ起こる。折り悪くジャックはちょうど通りがかったバスにひかれてしまった。
 ベッドで意識を取り戻したジャック。退院祝いでもらったギターを使い、仲間たちの前で、今の気分を歌うつもりでビートルズの「イエスタディ」を歌い出すと、みながシンとする。
「いい曲だわ」とエリー。だが誰も、それがビートルズの曲だとは知らない。からかわれているのだと激怒したジャックは、エリーとなかばケンカ状態でひとり家に戻り、インターネットで「beatles」と検索してみる。しかし出てくるのは「甲虫」ばかり。なんと、この世からビートルズの存在が消えていたのだ。もちろん、その楽曲ともども――。
「あの芸術が失われた世界なんて!」ジャックはなかば状況に巻き込まれるように、ビートルズの楽曲を歌い、そして徐々に話題になり、やがては世界をまきこんだ大ヒットとなっていく。
 反面、ジャックは大きなプレッシャーに潰されそうになりつつ、また、エリーとの間に開いていく溝に悩む。
 さらには、ビートルズを忘れていなかったのはジャックだけではなかった。彼の前に、黄色い潜水艦の模型を持った二人組も現れ――


 ネタバレ記事にはしたくないので、このあたりまでにしておこう。

 さて、年齢的に言えば、わたしはビートルズ世代ではない。わたしの上の上くらいがビートルズに熱狂した世代である。そんなわたしでも、もちろんビートルズの有名な曲は知っている。
 さらには、ビートルズにはちょっと苦い思い出もある。中学のとき、同じクラスの女の子がとてもビートルズが好きで、皆にアンケートをとったことがあったのだ。当時のわたしはクラシック一辺倒だったし、ビートルズの真価のなんたるかを理解していなかったので、ちょっとキツめの答えを書いたような憶えがある。その女の子を傷つけてしまったのではないかと、今でも逆にトラウマなのだ。

 和製の「僕はビートルズ」はコメディではなく、シリアスドラマで、よく調べてあるなぁ、原作の藤井哲夫先生はかなりのビートルズマニアなのだろうな、と思っていたが、今回の映画で評論家が「僕はビートルズ」を酷評していた(らしい)という話を聞いて、「いやあマニアの世界は深いなあ(コナミ館)」と感嘆するばかりだ。

 それくらいのビートルズしか知らないわたしだが、本作「イエスタディ」は楽しめた。ビートルズのあれこれを知っていれば、もっと楽しめたのだろうな、と残念に思う。
 コメディだが感動的なシーンもある。ジャックが大きなプレッシャーの中、大観衆を前に歌った「Help!」は鳥肌ものだったし、イエローサブマリンの二人組とのやりとりや、その後に起こるミラクルには、心が暖まった。

 反面、ストーリー構造としては、「僕はビートルズ」はビートルズ抜きにしてはできない話であるのに対し、本作「イエスタディ」は、主人公を絵描きにして、タイトルを「ゲルニカ」にしても成立する。中身は突然のヒットに巻き込まれた主人公と、微妙な関係にある幼なじみの女性とのラブコメでもあるからだ。
 そういった甘い点は、むしろ、わたしのようなビートルズマニアでない者でも楽しめる、というメリットに傾いているように思う。

 ラストも実に良かった。「僕はビートルズ」のエンディングも余韻があって良かったが、エンディングの軍配は本作「イエスタディ」にあげたい。
 本作「イエスタディ」を観ると、また「僕はビートルズ」を読みたくなるし、「僕はビートルズ」をすでにお読みの方は「イエスタディ」も楽しめると思う。ぜひとも両作ともご鑑賞をお勧めしたい。
 そして、二作とも読み、見終わった後は、ビートルズを聞きたくなることうけあいだ。これも「Hey Jude」を聞きながら書いている。

 それにしてもビートルズがいないと「コーラ」も「タバコ」もなくなってしまう世界(このふたつはビートルズと関係が深いのだそうです。検索ヨロ)、「ずうとるび」もなくなっちゃって、笑点の大喜利はどうなっちゃうのだろう、などと、日本人としては思ったりもして。

 山田くーん、結城さんの座布団、全部持ってって!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年08月31日

【映画評】ゴーストランドの惨劇(ネタバレあり)

 この夏、いきなり「この映画はすごい」と評判が伝わってきた作品。やっているハコは少ないが、幸い、地元では観られたので、細君と鑑賞。

 わたしは映画紹介の記事を書くとき、なるべく既存の資料を使わず、自分の観たとおりを記憶を頼りに書くようにしているのだが、本作はフライヤーからちょっと引用したい。

 僻地に佇む家で、母と双子の娘を襲った凄惨な事件。それから16年後――。姉は精神を病み家に囚われ、妹は家を出て幸せを手に入れた。姉妹がその家で再会したとき、あの惨劇が再び幕を開ける――。
 などという、ありきたりのホラーでは終わらない――。




 すごい自信である。はてさて、見せてもらおうか。「2度と見たくないけど2回観たくなる」という、パスカル・ロジェ監督の鬼才とやらを。



 あらすじ――僻地に引っ越してきた母と娘二人。ヒロインの妹ベスはホラー作家志願の多感な娘。一方、姉ヴェラはリアリストな少女だ。
 引っ越してきたその晩に、恐怖が三人を襲う。女装の変態男と、知的障害があるミツクチの巨漢が家に乱入してきたのだ。娘たちは地下室に逃げ込み、母ホリーンは必死に抵抗。変態男と巨漢を刺し殺して見事に撃退した。
 そして16年の月日が経った。妹ベスはシカゴに上京し、ホラー作家として大成功をおさめていた。結婚もし、子どもにも恵まれ、忙しい日々を送っている。
 昔から使っている、古いタイプライターを使って執筆している彼女のもとに電話が入る。それは姉ヴェラからのものであった。錯乱した様子で「助けて!」と。
 姉ヴェラは母ホリーンとともに、16年前のあの家に住んでいるはず。母に電話をしてもつながらず、ベスは不安にかられ、翌朝、運転手つきのクルマに乗って、あの家へと向かった。
 家につき、母と再会して抱き合う二人。そして話が姉のことになると、母は表情を曇らせる。姉ヴェラは、あの日からずっと精神を病み、今もあの日の恐怖の中、部屋に閉じこもって生きているというのだ――。
 母を思いやり、また、ヴェラの精神障害を治してあげたいと望むベス。一晩眠って、起きてみると、鏡にルージュで「HELP ME!」と記されている。いったいこれは? 心霊現象なのか。ヴェラがやったのか。そしてベスは、やがて残酷な真実をつきつけられることになる。


 さて、いきなりネタバレしてしまおう。まだ本作を観ていないで、ここまでで「観てみたいな」と思った方は、今のうちに先に読み進まず、別ページへ飛ぶことをお勧めする。

 ちょっと緩衝帯のヨタ話を書いておこう。
 本作、確かに「これはやられたな」というトリックが出てきて、もう一度観てみたくなるのだが、その参考になるかと思い買ったパンフにはなんにもそういう情報はなかった。監督のインタビュー記事は読み応えがあるが、それ以外は写真集。それも、伏線やトリックに関するシーンはむしろ慎重に取り除かれている感じだ。



 同日に観て買った「ダンスウィズミー」のパンフは実にサービス精神旺盛だったのに、こちらのパンフはがっかりである。
 しかし、以前にも書いたが、わたしは数年前から、よほど気に入った作品しかパンフを買わなくなった。両作品はそれくらい気に入ったというわけだ。

 さてさて、ネタバレいきますよん。
 最初に違和感を持ったのは、妹ベスが運転手つきのクルマで実家に戻ったシーケンスだった。自分で運転しないのは有名作家だから? と。
 しかしその謎は、このネタバレで解けることになる。彼女が自分で運転して実家に向かわなかったのは、彼女に運転経験がなかったからなのだ。だから描写ができなかったのである。
 つまり、シカゴでホラー作家として成功して、夫と子どもにも恵まれ――というのは、すべてベスの妄想だったのだ。

 実際のベスは、姉ヴェラとともに、16年前のあの惨劇の最中に、まだいたのである!
(最中と言っても、変態男と巨漢は家を根城に出入りしているので、数日は経っている)
 あの日、必死の抵抗をして暴漢二人を倒したとベスが思っていた母親は、実は変態男に首を切られ、あっけなく惨殺されていたのだ……。
 姉ヴェラは妄想の世界に浸っていたベスを守りつつ、巨漢のオモチャにされていたのである。

 ベスが妄想の「成功した作家生活」で、古いタイプライターを使っていたのも、PCで書くという経験がなかったから、それを妄想できなかったからなのである。

 また、冒頭、車中で、ベスが書いた小説を母と姉に読み上げるシーン。ヴェラが「なんで最後はpiss(おしっこ)で終わるのよ」というようなことを言うが、現実でも巨漢に襲われたベスは最後に失禁してしまう、など、数々の対比が行われている。

 この作品、ゴア描写自体はそれほど大したことはなく、音や突然の脅かしでびっくりさせるシーンも多いので、それほど「二回みるのはつらい」という感はないのだが、惹句のとおり「もう一度観てみたくなる」のは確かである。
 なんにせよ、オカルティックな心霊現象ホラーではなく、現実ベースなのが実に怖い。

 見終わってから、つらつらといろいろなシーンを回想してしまう。ベスが妄想に入ったのはどこからなのか。ひょっとしたら、最初の方の雑貨店で、新聞記事を読んだあたりかもしれない、とか。
 ラスト、娘二人は無事救われるのだが、それも妄想なのではないか? とか。
 もし、これから観る方で、地下室の壁に「救急隊の写真」などが貼ってあったら、上記は本当かもしれない。これは心底恐怖である。

 もう一度劇場で――というのは、ハコも上映回数も少ないし、なによりもう上映自体が終わってしまうかもしれないので、この先はDVDが出たら、ぜひ細かく確認していきたいと思っている。

「ゲット・アウト」以来、久々に面白いと感じたホラー映画であった。

 余談:この夏から秋にかけては劇場で観たい映画が多くてうれしい。「トールキン」は必ず観るし、「ゲット・アウト」の監督ジョーダン・ピールの「usアス」も面白そうだ。
 なんて思っていたら「ニノ国」が「ドラゴンクエスト・ユア・ストーリー」よりもある意味すごい出来だとかいううわさ。あああわたし、そういうのに弱いのよ。これも観にいかねばならんかなー。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年08月28日

【映画評】ダンスウィズミー(ネタバレあり)

「【映画評】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(ネタバレあり)・その1」の記事では「ダンス・ウィズ・ミー」とナカグロを入れてしまったが、正確には「ダンスウィズミー」。監督は「ウォーターボーイズ」、「スウィングガールズ」、「ハッピーフライト」、「サバイバルファミリー」等を手がけた矢口史靖さんである。英語をカタカナにしたタイトルにナカグロを入れないのは矢口監督のこだわりなのかもしれない。

 さて、本作は劇場でフライヤーを手に取ったときから「これは観たい!」と惹かれるものがあった。なにより、くるりと回った主演の三吉彩花さんが放っている華が魅力的だったし、なにより、わたしはミュージカル映画好きなのである。
 ミュージカルというだけで点が甘くなる。なぜと言って、ミュージカルは絶対に文章が勝つことができない分野だから。歌って、踊って、観る人をわくわくさせるあの高揚感を、文章で出すのは(しかも散文で)不可能である。



 というわけで、「ハッピーミュージカルコメディ♪」とコピーがつけられている本作。Youtubeで流されていた公式トレイラーもなかなか見事な出来で、もうわくわくして公開日を待っていたのだった。

 あらすじ――ヒロインの勝ち組OL鈴木静香≠ヘ、バスの中で姪っ子に「いきなり踊り出すミュージカルはおかしい!」と熱弁して、まわりの客の注目を浴びてしまうほどのミュージカル嫌い。それは彼女が子供の頃、学校の舞台のミュージカルで大失敗をしてしまったトラウマがあるから。
 そんな彼女、姪っ子と入った怪しい催眠術館で、これまた胡散臭い催眠術師が姪っ子にかけた「あなたは音楽が流れるとミュージカルスターになれる」という催眠のとばっちりを受け、しっかり「音楽が流れるとミュージカルスター」になりきってしまうように。
 そこから先は、音楽を耳にすると、出勤前に、会議中に、デート中にと派手に歌い、踊りまくるようになってしまった。しかも本人はミュージカルスターのつもりでも、ハッと正気に戻ると、まわりはあきれ顔だったり破壊活動の跡のようだったりと、まさしく踊るテロリスト。
 静香は自分を催眠にかけた、あの胡散臭い催眠術師を追いかけ、いろいろな人を巻き込んで、東京から札幌までの珍道中を繰り広げることになる。


 そして実際にスクリーンで観た感想は、実に、実に楽しかった! 以前もなにかの映画評で書いたが、「観ている最中に楽しい映画」というのは、なかなか作るのが難しいものなのである。

 そして本作は、はっきり言って「ミュージカル」ではない。ミュージカルの歌やダンスが、キャラクターの心情を表したり、ドラマの進行を進めたりするのに対し、本作はヒロインやモブが歌い踊っても、それは「ミュージカルのパロディ」であって、心情やドラマ進行を担ってはいないからである。

 そしてミュージカルではない、この「ミュージカルのパロディ」シーンが最高に楽しい。ヒロインを演じた三吉彩花さんは歌い踊る最中ノリノリな上に、指先からつま先まで美しい。スクリーンから彼女の華がほとばしり弾け飛ぶ。

 一気に本作中の「ミュージカルパロディ」に引き込まれるのは、なんと言っても、オフィスで、シュレッダーのゴミが舞う中、集団で踊り歌う「Happy Valley」である。これはトレイラーでも観られるので、ぜひとも未見の方は検索してご覧いただければと。

 ストーリーは途中から、催眠術師「マーチン上田」の元助手(やしろ遊さん演じる斉藤千絵=jと一緒に、東京から北上して彼を追いかけるバディ・ロードムービーになる。ここから先は、大きな仕掛けのダンスなどはなく、ちょっとちんまりしてしまうのが残念と言えば残念。
 途中で合流したchayさん演じる山本洋子≠ェ、元カレの結婚式に「ウェディング・ベル」を歌いながら乱入するシーンがあるのだが、ここではヒロイン静香にも、洋子をサポートしつつ派手に花婿に踊るテロリストぶりを発揮してほしかったところかも。

 なんだかんだとすったもんだがありまして――最後の大団円「タイムマシンにおねがい」のシーンが一番好きだ。ここはカーテンコールなので、今までの登場人物が皆登場する。静香のトラウマも伏線回収して、まさしく「タイムマシンにおねがい」だ。

 劇場が明るくなったあと、隣の細君と顔を見合わせて「楽しかったねー」とうなずきあってしまった。

 この夏は、細君とともに、つらく、悲しい出来事があり、涙の中それを乗り越えてきたのだが、それが一息ついてから観た、この楽しい映画のことを、わたしは一生忘れないだろう。

 笑って流す涙って、いいよね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評