2019年06月19日

【書評】科学者はなぜ神を信じるのか

 三田一郎「科学者はなぜ神を信じるのか――コペルニクスからホーキングまで」。

 わたしは、モーセが海を割り、マリアが処女懐妊し、イエスが湖を歩き、磔刑死ののち復活するということを教えるカトリック信徒で、同時に科学をも信じている。本書の逆説ではないが、「カトリックであるわたしはなぜ科学を信じるのか」ということの矛盾のない答えを、この記事の最後に記したい。



 本書の著者の三田一郎先生は、素粒子論を専門とする理論物理学者であり、同時にカトリック名古屋司教区終身助祭、カトリック東京大司教区の協力助祭でもある。

 大まかに言って(例外はありまくりだが)、カトリック聖職者の出世スゴロクは――

1)修道者あるいは神学生
2)終身助祭(この場合、ここであがり)
3)助祭
4)助任司祭(ここから「神父」となる)
5)主任司祭
6)司教顧問(これはどうかな……)
7)補佐司教(が、司教にあがるかどうかはわからない)
8)司教・大司教
9)名誉司教(事実上の現場引退)
10)枢機卿(バチカンとのパイプ)

 と、まあこんな階段だ。司教は大司教区担当なら呼称「大司教」となるが、大司教と司教のヒエラルキー的な差はない。単に教区の大きさの問題である。
 三田先生の「終身助祭」というのは、「神父になれないことを前提に、一生、助祭を務める」という聖職者である。
 これはぶっちゃけた話、司祭(神父)の人手不足を補うために、妻帯していても聖職者になれる制度を作っちゃおう、という便宜から設定されたものだ。とはいえ、数ヵ国語を話せ、人格も素晴らしく、神学も修めた敬虔なカトリックであり、なおかつ、助祭以外でも収入源がなければなれないという、かなり狭き門だとは聞いている。

「科学者はなぜ神を信じるのか」――これで連想することと言えば、宇宙飛行士は、宇宙で青い地球を見たその後、神の存在を信じるようになる例が少なくないということだ。例えば、アポロ15号のジム・アーウィン。ジェミニ9号、アポロ10号、17号のジーン・サーナン。アポロ16号のチャーリー・デューク、エトセトラ、エトセトラ。
 彼らが信じるようになった「神」の多くは、「アブラハムの神」に限定されず、「創造主はいる」という感覚なのだそうだ。
 わたしは興味を持ってこのことをなるべく調べるようにしているのだが、日本人宇宙飛行士でこういった感覚を持った人は、いまだいないように記憶している(あったら教えてplz)。このあたり、日本人はやはり、どこか特殊なのだなぁ、と思ったりする。

 さて、本書「科学者はなぜ神を信じるのか」。
 コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ディラック、ホーキングといった、物理学史に名を残すそうそうたる科学者たちを例に挙げ、彼らの提唱した地動説、ニュートン物理学、相対性理論、量子論、ビッグバン説を、章ごとに述べていく。
 三田先生の記述は、彼らと「神」との関わりはもちろん記されているが、やはり先生ご自身が科学者で、ブルーバックスの一書というカテゴリ制限もあり、むしろ本書は「わかりやすい物理学史――古典から現代まで――」といった趣だ。

「神」との関わりについては、少なくともニュートン物理学史までの(キリスト教文化圏下の)科学者たちは、同時に敬虔なキリスト教徒であったということを強調し、近代物理学においては、前記、宇宙飛行士の例で書いたように、「アブラハムの神」からは離れ、「創造主」の存在を信じるか否か、という話になっていく。

 本書の冒頭に、三田先生の講義のとき、高校生から「先生は科学者なのに、科学の話のなかで神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と質問された、という例が記されている。
 本書はそれに答える姿勢で、実に丁寧に古典物理学から近代・現代量子論までを説明し、それらを唱えた科学者と、彼らが信じる、あるいは信じない「神」との関わりを説明していくわけだが、読後の正直な印象として、これでは前述の高校生は納得してくれないのではないかなぁ、という感想を持った。
 三田先生は――

不思議な現象に出会ったときに最初から「神様がお作りになったのだ」と言う人は、絶対に科学者ではありません。それこそ、「科学者のくせに神を持ち出す卑怯な態度」であると思います。


 という結論でまとめていらっしゃるが、それは古典物理の頃から自明のことであったと思うのだ。前記の質問をした高校生も、それはわかっていたように思う(逆に、そう思っていなかったとしたら、高校生としては幼すぎる)。

 よく言われるひとつの例として、「この宇宙は、腕時計をばらばらに分解してすべての部品を真上に投げ上げ、落ちてきたとき、もとの腕時計に戻っているくらいの確率でできた」と言う。ようするに稀に稀に稀に稀に稀に稀に……の偶然なのだ。

 科学者でも理系の人でもない詩人、アナトール・フランスは、まさしく人文的な勘で、次のように書いている。

「人生においては、偶然を考慮にいれなければならない。偶然とは、畢竟、神のことである」(エピクロスの園)


 わたしはこの宇宙が、稀に稀に稀に稀に稀に……の偶然でできたと思っている。つまりそれこそが、神の御業なのだと。
 しかし、偶然を神の業と「信じない」人々にとっては、科学が宗教と矛盾なく共存することは、永遠に不可能なのかもしれない。

 というわけで、あまりまとまりのない感想になってしまったが、本書は科学者よりクリスチャン向けの本として、それも、聖書に誤謬は一切ないという諸派の人々に読んでほしいなぁ、と思う。

 ひとつ、三田先生も前述の高校生も、また多くの人々も見逃している、あることを指摘しておきたい。

 ガリレオは望遠鏡を作って、地動説を発見した。
 同じように、太古のイスラエル民族は、「罪」を発明して、「神」を発見したのである。

「神」は発明品ではない。物理法則と同じように、宇宙の始まりとともにあったのである。それをイスラエル民族は「アブラハムの神」として観測したのだ。つまり彼らにとって「神」は「科学」だったのである。

 近代・現代に住むわれわれは、古典物理学と教会の対立を「科学対宗教」というありがちなストーリーにはめ込むが、当時の人々にとって、これは「科学対科学」という、シンプルな科学論争だったのだ。

 それは近代・現代においても変わらない。相対性理論が証明されても、マクロにおいては古典物理学が通用するように、さらにマクロの領域においては、古代科学である「神」理論もやはり通用するのである。

「神」が科学であるなら、「科学者はなぜ神を信じるのか」という問いに答えるのは簡単である。「神」が科学であるからである。

 これが、「カトリックであるわたしはなぜ科学を信じるのか」という答えである。

 ところで、本題とは関係ないところで大ウケした一文を引用。

 ジェームズ・マクスウェル(1831〜1879:図5-4)は、ファラデーとは対照的な背景を持つ科学者でした。スコットランドのジェントルマン(イギリスでは資産家や貴族の家に生まれて働く必要がなく、好きなことをして暮らせる人のことを「ジェントルマン」と呼びます)にして、最高の教育を受け、特に数学においては超一流の素養の持ち主でした。


 マクスウェル、今ならニートじゃん(笑)。世のジェントルマン諸君、世界を変えるのは君たちかもしれないぞ!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年04月24日

【映画評】魂のゆくえ(ネタバレあり)

 直近の映画館では聖土曜日から掛かるフィルムだったため、その日に観ようと思っていたのだが、用事が入ってしまい、明けて復活の主日、教会で主イエスの復活をお祝いしたあとに、細君と鑑賞。

 観終わった直後の感想……。復活の主日に観る映画ではなかったですな……。せめて四旬節に観れば、もっと違った感想もあったかもしれない。

 それにしても、この、観終わったあとの取り残され感はなんだろう。連想したのは、なぜかデビット・リンチ監督の「イレイザー・ヘッド」だった。

 この記事は中いち日おいて、復活の火曜日に書いているのだが、どうにも感想をまだ言語化できずにいる。
 復活のイエスは、マグダラのマリアに「わたしに触れてはならない」と言ったのだが(ヨハネ20:17)、どうにもこの記事ではネタバレに触れず書くことは不可能そうなので、ネタバレ上等の鈍感なわたしにしては珍しく、タイトルにネタバレ表記をした。


(パンフレットの装丁はやたらカッコいい。原題は「First Reformed」)

 あらすじ――主人公トラーは、アメリカの寂れた教会(改革派――カルヴァン派プロテスタント)の牧師である。礼拝のあと、信徒のメアリーがトラーに、夫と話をしてほしい、と願う。メアリーは妊娠中だったのだが、環境活動家である夫マイケルは、こんな時代に子どもを産むということに反対していた。
 翌日、マイケルと話をしたトラー。彼の説得にマイケルは納得した様子はない。二人は再会の約束をして別れた。
 メアリーに呼び出され、トラー牧師は彼女の家に向かう。そのガレージにあったのは、マイケルが用意していた自爆テロ用ベスト≠ナあった。
 そのベストを預かり、マイケルに呼び出されて森林公園へ向かうトラー。そこで彼は、ライフルで自分の頭を打ち抜いて自殺していたマイケルの遺体を発見する――。


 このあたりまでは、新聞の評などにも載っていたので、ネタバレの範疇に入らないのだろう。
 とにかく、淡々と話が進む。正直、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭と教会漬けで疲れた脳が、その単調さにウトウトしかけたことを白状する。マイケルの自殺あたりで、やっと意識が戻ってきた感じだ。

 トラーが牧師を務めている「ファースト・リフォームド教会」は、メガチャーチの「アバンダント・ライフ教会」の傘下であり、上司たるジェファーズ牧師に「きみのところのような観光目的の教会は――」などとくぎを刺されたりするのはおもしろかった。アメリカは純粋なキリスト教国≠ナはなくキリスト文化国≠ナあることがよくわかる。

 トラーは過去に息子を従軍牧師として戦場に送り出し、そこで死なせていたり、それが原因で妻と別れていたり、教会のエスターという女性とどうやら過去になにかあったらしいことを匂わせたり、胃ガンを患っていたりと、やたら暗い背景を負っている。陰キャ中の隠キャである。

 隠キャなので、アバンダンド・ライフ教会に多額の献金をしている企業「バルク社」が、環境破壊に加担していることに、マイケルの影響でクヨクヨ悩んだりする。
 そしてあろうことか、彼が務めるファースト・リフォームド教会の250周年の式典に、バルク社の社長がスピーチをするということになり、悩みに悩んだ上、マイケルの自爆テロ用ベストを着てみたりする。

 しかしその間にも、未亡人となったメアリーとイチャコラして、手を握りあい空中浮遊(イメージ)までしてしまうという節操のなさ。まー、牧師と未亡人だから、問題ないと言われればそうだけれども。

 式典に来てはならない、とメアリーに厳命するトラー。このあたりで観劇者は、「あ、こいつ、式典で社長を巻き込んで自爆テロをやらかす気だな」と覚悟をする。
 が、その式典に、トラーの異常を察知したメアリーがやってきてしまうのだ。それを窓から発見したトラーは、自爆テロベストを脱いで、鉄条網で自らの体を縛り上げ(こういう自分をいじめる行為はあれだ、確かにキリスト教の一部の教派ではあるのだけれども)、祭服に血をにじませながら、式典もブッチしてメアリーと抱き合い激しいチューをする。その周りをカメラがぐるぐる回って、いきなり――

 終劇!

 暗転して、映画本編は終わる。
 正直、目がテン、口あんぐりのままスタッフロールを眺めるわたしと細君。

 5ちゃんの映画板、「単独スレを立てるほどでもない新作映画」スレに、クリスチャンならなにかクルものがあるのかな? といった書き込みがあったが、いや、現役ガチカトの感想が上記ですよ……。

 環境問題と信仰のベクトル差に悩むというサブテーマも、50年前ならともかく、今はもうコケの生えたものにしか感じなかった。

 そして、時間をおいて、振り返ってみた感想は――宗教が宗教の名を借りるだけで宗教として機能していない(日本の仏教と同じだ)世界で、その宗教の教えを守ろうとする不器用な男がもがくブラックユーモア映画なのではないかと思えてきた。
「キリスト教国」ではなく「キリスト文化国」に住む、名ばかりの多くのクリスチャンたちは、このフィルムを観て、どこか後ろめたさを感じるのかもしれない。この映画は数々の賞をとり、アカデミー賞でも脚本賞にノミネートされている。
 今、Wikipediaを見たら「批評家から絶賛されている」とのこと。へーそうなんだ(棒)。

 なんというかな。「意識高い映画好き」には好評なんだろうな、きっと。

「『魂のゆくえ』って、牧師が主人公のキリスト教映画らしいよ」
「ふーん。じゃあ観にいってみようか」
 てなノリで劇場へ足を運んだ日本に住むガチカトの夫婦にとって、復活祭のおめでたい気分に、陰鬱な影がさしてしまったのは確かである。

 そして翌日、スリランカで復活祭のミサを狙った連続爆破テロがあったことを知る――なんとも、言葉もない。亡くなられた犠牲者の安らかなお眠りと、卑劣な犯行グループのすみやかな逮捕、事件の真相解明を祈るばかりだ。

 平成最後の復活の主日に観た映画、しかもその翌日に爆破テロがあり、状況的に、妙に心に残る映画になったことも確かである。
 DVDまでは買わないが、また観る機会があったら、今度は睡眠をしっかりとってから観るかもしれない。
 あ、でも、復活節、降誕節にはやめておこう、と、心に誓ったり。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年04月10日

【映画評】麻雀放浪記2020

 実を言うと、多少のうしろめたさを持って、この記事を書いている。
 言うまでもなく、この映画「麻雀放浪記2020」に、コカインを使用した容疑で逮捕されたピエール瀧氏が出演しているからである。
 ピエール瀧氏については、声優として「アナ雪」のオラフがうまかったなぁという思いくらいしかなく、電気グルーヴやその他の活動についてはなんの知識もないわたしが語れるなにかを持っているはずもない。
 よって、わたしは本作を、ピエール瀧氏個人や、今回の事件をとりまく状況――東映が公開を決定したことなど――を「応援するつもりで観た」わけではない。和田誠監督の傑作映画「麻雀放浪記」のいちファンとして、この21世紀に「麻雀放浪記」の名を冠した作品が新しく銀幕に映る、ということに期待して劇場に足を運んだのである。



 冒頭の「多少のうしろめたさ」は、コカインなどの麻薬の流通には必ず反社会的勢力がなにかしら絡んでおり、わたしがこの映画に払ったお金が、ほんのわずかでもピエール瀧氏を通して反社会的勢力に流れる可能性があるという事実を無視できないからである。

 今回の事件に関して「被害者はいない」と言っているワイドショーがあって、これには仰天してしまった。麻薬の売買は明らかに反社会的勢力の糧のひとつであり、健全な国家に対する明らかな加害行為である。日本国民ひとりひとりが被害者なのである。
 ワイドショーの出演者やテレビ局は、反社会的勢力に忖度しなければならない理由でもあるのだろうか。それともただの莫迦ばかりなのか。後者であれば、まだ救われるというものだが……。

「作品に罪はない」という声もあるが、それもまた違うだろう。それを言ったら、スポーツにおいてドーピングでつくられた記録にも罪はない。少なくとも「参考記録」として残す価値はある。

 しかしまた、自粛と称して放映、公開を取りやめたりするのも筋違いだと思うのだ。それは臭いものにフタをするというその場しのぎの対策にすぎない。反社会的勢力を見ないことにして、その存在がないことのように振る舞っているだけだ。



 これから書くことは、あくまで夢物語、絶対に不可能であろうことは承知で記すのだが、むしろ、出演者が違法薬物を使用していたとわかった作品は、「著作権フリー」として無償で放映、公開するべきではないだろうか。発表後50年経ったのと同様に扱うのである。そうすれば、誰しもが自由に、対価を払わず観ることができる。すなわち、反社会的勢力に対して、おまえたちには一銭も渡さないという確固とした姿勢を見せるのである。
 もちろん、原因となった出演者に対しては損害賠償請求などを行い、反社会的勢力に流れたカネをカタチとしてでも回収する。

 基本にあるのは、「反社会的勢力にカネを流さない」というシンプルな思想である。善いヤクザやギャングなどというものは、それこそ銀幕の中にだけ存在しているものだからだ。

 前置きが長くなった。これでこの「麻雀放浪記2020」が傑作ならば良かったのだが――
 以下、ネタバレ嫌いの方は、あらすじのうちに別ページへとんでいただきたく。

 あらすじ――1945年、戦後の焼け野原に残った雀荘オックスクラブで、後に伝説となる大勝負をしていた坊や哲=B出目徳が九蓮宝燈をあがって死んだ後、ママのユキが入り勝負は続行(このあたりが映画「麻雀放浪記」とは違う)。そして坊や哲も九蓮宝燈をあがる。その瞬間、彼は雷に打たれ2020年の東京へタイムスリップしてしまうのであった。
 2020年の日本は、再び起こった戦争に破れ、ゴリンピック≠熬止となり、過剰な管理社会となっていた。坊や哲はその日本でギャンブラーとしてもがくように生きていくことになる。果たして彼は、もといた1945年に帰ることができるのか――。


 今この記事は、観終わってすぐに書いているのだが、正直「なんだかなぁ」という感想であった。
 いや、面白い。面白くないという話で言えば、面白かったのですよ。まあまあね。少なくとも、観ているうちは飽きなかった。観ていて本当につまらなかった映画は記事にすらしないのがわたしの主義。

 しかし本作「麻雀放浪記2020」を、和田誠版「麻雀放浪記」の続編、リメイク、スピンアウト、パロディ、オマージュとして観ようという方がいらっしゃるのなら、それはやめたほうがいい、と、強くお引き止めする。

「麻雀放浪記2020」には、和田誠版「麻雀放浪記」はもちろん、原作の阿佐田哲也先生に対する敬意はほとんどない。むしろ、それらもはや伝説となった権威を笑い飛ばそうという裏の意志すら感じられる。
 わたしはこういうの、嫌いではないから受け入れられるが、「麻雀放浪記」の根強いファンならば「こんなくだらない作品に『麻雀放浪記』の名を冠するなど許せない」と怒るのではないだろうか。

 ストーリーは本当にいただけない。坊や哲が未来へタイムスリップというだけでカビの生えた発想だというのに、しっかりとしたキールもなく、二転三転する流れだけの物語。
 作中、坊や哲が賭博容疑でお上に逮捕され、街中にあふれていた彼のグッズが破棄されたり、謝罪会見を行ったりするのは、妙に現実と合致した現実のパロディか、と、心の中でツッコミ。
 さらに、麻雀五輪世界大会というのがクライマックスになるのだが、世界大会というくせに、そこへ各選手たちが至るまでの詳しい経緯や背景はまったく描かれておらず、観劇者をおきざりにしたまま、勝負に突入していくというていたらく。

 闘牌シーンも緊迫感がなく、ひりつくような勝負のほてりもない。「ざわ……ざわ……」どころか「シーン……」である。
 ラストのネタバレを書いてしまうが、坊や哲は九蓮宝燈を聴牌するが、あがり牌のウーピンがすでに場に四枚出てしまっている。それをいかさまの「拾い」でツモるのかと思いきや、過去から持ってきてポケットに入っていたウーピンを卓にたたきつけ「ツモ、九蓮宝燈」。おいおいおい、それはあれか? 麻雀マンガでたまにある闘牌シーンのミスをパロッたのか!?

 観るまで知らなかったのだが、「スーパーヅガン」の片山まさゆき先生が「プロット協力」をなさっていらっしゃるとのこと。なるほど、それを知って振り返ってみると、この「麻雀放浪記2020」、どこか片山ワールドっぽい。片山先生の絵が浮かんでくるようなシーンがいくつもある。うーん、それが駄作≠ニ切って捨てられない味になっているのかなぁ。わたしは片山先生のファンなのである。

 今、「麻雀放浪記2020」の公式サイトを見てみると「センセーショナル・コメディ」とうたわれている。そうか、製作者側もそういう意識で作っているのか……。
 うーむ、主演の斎藤工さんは、本作が「構想10年! 念願の企画」なのだそうだが、本当にこれをつくりたかったのだろうか。本当は、正統派の「麻雀放浪記」のリメイクを作りたかったのでは、と、うがった見方をしてしまう。



 話をピエール瀧氏のほうに戻せば、映画の冒頭部に「この映画には麻薬取締法違反の疑いで逮捕されたピエール瀧容疑者が云々」というテロップが流れる。
 ご本人の登場は数カット。特に不愉快ということもないが、うまくカット編集すれば、全然構わないようなシーンであった。
 これをそのまま公開することにした東映の判断を、わたしは支持も不支持もしない。いやまあ、本作が大傑作なら、いや、傑作なら、いやいや、せめて佳作なら、「東映の英断に拍手したい」と書くところなのだが……。

 この先、「麻雀放浪記2020」はパッケージビデオ化されるのだろうか。少なくとも地上波での放映はないだろう。有料放送ではどうだろう。
 そう考えると、「麻雀放浪記2020」を観られるのは、今しかないのかもしれない。

 いろいろな意味で(わたし自身はお値段相当楽しめたが)おすすめはしない「麻雀放浪記2020」だが、観るチャンスは限られているのかもしれない。上映劇場もそう多くはなさそうなので、リスクを冒してでもスリルを味わいたいという方はどうぞ劇場へ足をお運びを。

 だって、ギャンブルってそういうものじゃないですか!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年02月23日

【映画評】翔んで埼玉

「ニャンニャンニャン」の二月二十二日は「ネコの日」、カルディでネコトートをゲットしたその足で細君と映画館へ。去年から楽しみにしていた、本日公開の「翔んで埼玉」を鑑賞したのだった。

 邦画はあまり劇場で見ないのだが、この作品はトレイラーで見たときから「もう絶対観にいく!」と決めていた。なんとなれば、わたしは――

 千葉県人!

 だからである(あれっ)。
 いやいや、埼玉は打倒東京を目指す盟友。その埼玉を極限までディスったこの映画を観にいかないという理由がない。

 というわけで、ネタバレ防止のための緩衝帯。この先、まだ映画「翔んで埼玉」を未見の方で、ネタバレ嫌いの方は、ヨタ話のうちにほかのページへ翔んでいただきたく。
 原作は皆さまご存じのとおり、魔夜峰央先生の「翔んで埼玉」だが、これは実は単巻タイトルではなく、白泉社刊で昭和61年8月初版の「やおい君の日常的でない生活」に収録された三本である(現在、宝島社から出ている「翔んで埼玉」は復刊されたもの)。
 この三本は完結しておらず、けっこう尻切れトンボな感じで終わってしまっている。これは作者の魔夜先生が「埼玉から引っ越ししてしまったので描けなくなってしまった」からだとのこと。
 映画はもちろん、一本完結である。マンガ版が広げた大風呂敷をどうやって畳むのかも興味津々というところだ。
 劇場もノリノリでいろいろなポップが立っている。






(千葉県人にはみそピーでも食わせておけ!)


(トイレにまでw)

 てなところで、ネタバレ緩衝帯終わり。

 ストーリー――というか設定。
 花の都、高層ビルが立ち並び、繁栄ときらびやかな文化を謳歌する日本の首都、東京都。それに比べ、隣接する埼玉、千葉、茨城はひどい差別を受けており、生活は数時代前のもの。通行手形がないと都内へ立ち入ることさえ禁じられている。
 特に埼玉への迫害はひどく、人々は穴居住居に毛の生えたような家に住んでおり、みじめな衣服を身にまとい、雑草を食むような日々を送っていた。
 壇ノ浦百美は、東京の名門校の生徒会長。もちろん、埼玉県人への差別意識は強く、


(魔夜峰央「やおい君の日常的でない生活」収録「翔んで埼玉」から引用)

 という名台詞を吐くほどの埼玉嫌い。
 そんな彼のところへ、麻美麗という名の美少年が転校してきたことから、話は始まる――。


 さてのっけからネタバレだが、このGACKTさん演じる麻美麗は、実は埼玉県人なのである。通行手形制度をなきものにすることを胸に秘め、将来、有力な政治家となれるこの学園に潜伏したのだ。
 しかしひょんなことからそれが二階堂ふみさん演じる百美にばれてしまうのだが、百美はそのとき、麗に恋してしまっている(BL!)。
 そして、ふたりの逃避行が始まった。

 このトンデモ話を「都市伝説」として、リアル埼玉の親子のドライブ道中にFMラジオで流し、幕あいに使うというストーリーテリング手法。よくある手だが、なかなか効果的である。このFMラジオの周波数が79.5(ナックファイブ)であることに思わず笑ってしまう。

 原作と大きく違うのは、埼玉の宿敵として、我が千葉県が悪役として登場してくること。東京に賄賂を送り、「東京ディズニーランド」「東京ドイツ村」「新東京国際空港」をつくっているなどと言われ、まさしくそうだと劇場でクスクス。

 千葉県人としては、「千葉県人に捕まると穴という穴に落花生を詰め込まれ、死ぬまで漁にかり出される」というあたりで笑ってしまった。まあ、そのとおりなんだけどね。

 全体的に、各県の描写はリアルである。群馬はきちんと秘境、未開の地、UMAの棲む場所として描かれ、千葉は海と落花生と暴走族が跋扈している。そんな中、埼玉の描写は、埼玉県人に遠慮してか、ずいぶん柔らかいものになっていると感じた(ぉぃぉぃぉぃ。
 そして話は進み、埼玉解放戦線と千葉解放戦線がぶつかりあうのだが、実は裏で手を組んでおり、東京都庁へと侵攻するのであった。
 なお、陰の悪者が、東京の小判鮫「神奈川県」というところもリアルである。

 エンディングはハッピーエンド……。いや、ちょっと待てよ、これはむしろ(他県人、地球人にとって)悪夢の始まりではないか? という感じで終わる。

 鑑賞直後に寄ったネットカフェで、マンガを読む細君を横にこれを書いているのだが、まぁまぁ楽しめたかなという感じ。
 埼玉解放軍、千葉解放軍などが立てているノボリに、細かいギャグが書いてあるのだが、それを劇場では確認できなかったのが心残りだ。
 これはむしろ、劇場での大迫力はもちろんだが、DVDなどでストップモーションにして楽しむこともできる映画なのかも。

 劇場では鑑賞記念として「通行手形」ステッカーをいただいた。



 わーい、これで埼玉と東京を行き来できるぞ――って、まず埼玉にいく用事って「交通博物館」見物くらいしかないんだけどね(笑)。

 さて、実際のところ、埼玉県人も千葉県人も、東京都民やそれ以外の地域の人が思うほど、互いのことを意識していない、というのが本当のところではないだろうか。
 ネットなどで両県の対立あおりをはやしたてているのは、本当に東京都民や神奈川県民ではないかなぁ、などと思ったりもしている。
 そのあたりの陰の面もきちんと描いたこの映画版「翔んで埼玉」、なかなか侮れない佳作でありました。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年12月26日

【映画評】ニセコイ

 最近は「クリぼっち」という単語の確立化とともに、クリスマスのカップルを迫害する運動が広がりつつあるようだが、青年時代をバブルで過ごした老害としては言いたい。

「やっぱクリスマスは恋人と過ごすモンっすよ」

 そしてキリストもんとしては、夜は教会へ行ってミサに与る、と。

 というわけで、今年の12月24日のクリスマスイブの昼間(キリストもんの正確さとしては、24日の日没まではクリスマスイブではなく、待降節第四週の最終日≠ネわけだが、まー、一般人に合わせる)、わたしは最愛の細君とともに、映画デートと洒落こんだのであった。

わたし「くるみ割り人形≠ヘもう見ちゃったしねぇ。今ならボヘミアン・ラプソディ≠ェ評判だけど、直子さん、クィーンとか聞かないでしょ?」
細君「アリー・スター誕生≠ヘどう?」
わたし「俺がレディー・ガガに興味ないからなー」

 と、ファミレスのモーニングでいろいろ検討した結果。半ば誘導的に「ニセコイ」実写版を二人で見るという結論に。

 そうだよ、実は俺が観たかったんだよぉお、「ニセコイ」実写版を。

 前評判ではコスプレ大会、学芸会、爆死決定という声が多数の実写版「ニセコイ」。出ている俳優さんが誰かも実はよく知らない。けれど、古見直志先生の「ニセコイ」原作を全巻通し読みしたばっかりだったので、記憶が新しいうちに、あの長いラブコメをどうまとめるか、興味があったのであった。

 ちなみに、わたしも千葉県のYさん(結城)であるが、あの千葉県のYさん≠ナはないw
 その千葉県のYさん≠焉A原作者の古見直志先生も、巷間聞くところお勧めの出来という。これはひょっとして拾いものかもよ、という思惑もあった。

 あらすじ、というか設定――凡矢理高校に通う高校生、一条楽は、実はヤクザ集英組≠フ一人息子。組員たちからは二代目≠ニ期待されているが、本人はヤクザを継ぐ気はない。そんな彼が住む街に最近幅を効かせてきたのがニューヨークのギャング組織ビーハイブ=Bこのままでは両者がぶつかりあい、一触即発の事態になってしまう。そこで集英組の組長とビーハイブのボスは、互いの息子と娘を恋人同士≠ニいうことにして、子分たちの抗争を納めようともくろんだのであった。すなわち、ニセの恋人同士「ニセコイ」の誕生である。


 ところで、わたしは基本的に「メインヒロイン推し」である。「メインヒロイン」であるというだけで、推しパワーが三割あがる。もちろんアイマスでは「ののワ」さん推しである。うー、わっほい!
 そして本作「ニセコイ」のヒロイン千棘=\―ちとげ。すごい名前だよね――ちゃんが可愛いんだこれがまた。設定は金髪碧眼だが、日本語もペラペラという設定。
 ビジュアルも可愛いのよこれがまた。


(古味直志「ニセコイ」22巻より引用)

 あ、違った。


(古味直志「ニセコイ」22巻より引用)

 違うってぇ!


(古味直志「ニセコイ」12巻より引用)


(古味直志「ニセコイ」25巻より引用)

 ああ、カワユス! これが本作のヒロイン、千棘ちゃんなのですよ。
 そして映画では彼女を、中条あやみさんが演じている。コスプレ大会の名に恥じず、金髪、碧眼で。金髪はヅラなのかなぁ。地毛を染めて金髪にしているのだろうか。碧眼はカラーコンタクト? CG処理? そのあたりはよくわからないが――正直、原作の千棘ちゃんの可愛らしさに及ばないというのが感想。

 これは中条あやみさんの責任ではあるまい。彼女は本当にハーフなのだそうだが、それでも、やはりどこか無理があるのである。
 もちろん、ほかの役者さんたちもみんな無理がありまくり。大コスプレ大会である。主人公、楽のヘアピンが痛いw 千葉県のYさんは満足なされたそうだが、マリーのヘアスタイルも変だ。
 一番まともなのが、小野寺小咲を演じる池間夏海さんだが、それでもやっぱり、ヘアスタイル、ちょっと変!
 マンガの実写を「絵面通りに再現」すると、こんなに無理がでるのだなぁ、と嘆息せずにはいられない。

 もっとも、こうして評を書いているからには、積極的に良かった、と感じた点も多々あるのである。
 まず主役の楽を演じた中島健人さん。確かに演技はちょっと棒だが、これが、劇中劇の「ロミオとジュリエット」の舞台に乗ると、いきなり颯爽と輝き出す。さすがジャニーズの方だなぁ、と感嘆である。
 それとストーリーも、ジャンプ連載最長のラブコメである「ニセコイ」のいいところを取捨選択して、いらないエピソードや人間関係は思い切りよくバッサリと切り、初見の観劇者を二時間を飽きさせない、密度のある物語になっている。

 細君は「ニセコイ」原作を読んでいなかったので、どんな感想になるか興味を持っていたのだが、「きれいにまとまっていたんじゃないの?」ということであった。

 原作「ニセコイ」も、ハーレム展開から風呂敷を畳む段になって、それぞれのヒロイン推し勢から作品評価が落ちていったようだが、最後に楽のハートを射止めた千棘ちゃんはメインヒロインというだけで、ゴリ^h^h5割増しの魅力があるからしかたないのである。

 いやほんと、原作のストーリーも、あれだけ長いラブコメ、ハーレム展開にも関わらず、最後は見事にまとまっていると感じる。やっぱりメインヒロインは8割増しだからね、仕方ないね。

 と、いろいろ書いてきたところで、万人にお勧めかというと、んー、まあ、なんだ。あなたとあなたのメインヒロインの仲がもう盤石なら、このクリスマスシーズン(キリストもんとしては、一月のエピファニー(主の公現)≠ワでは降誕節なのである)にネタとして観るのはアリかもしれない。
 見終わったあと、原作ファンなら突っ込み合戦、そうでないならコスプレ大会の感想戦と、けっこう話は弾むと思う。すくなくとも、わたしら夫婦はそうだった。

 そしてあなたも、目の前の彼女をもっと大切にしたいと思うかもしれない。
 だってあなたのメインヒロインは、メインヒロインというだけで10割増しなんだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評