2018年03月21日

【映画評】ブルース・オールマイティ

 ジム・キャリーは特別好きな俳優というわけではないのだが、「マスク」や「トゥルーマン・ショー」は大好きである。そしてこの「ブルース・オールマイティ(2003)」もお気に入り。実はけっこう、ジム・キャリー好きなのかもしれない。

 あらすじ――テレビ局ニュースリポーターのブルース・ノーランは、今日のナイアガラの取材こそは、どんな道化でも喜んで演じるつもりだった。なにしろ、アンカーマンの引退にともなって、次こそは自分が、という目が出てきていたからだ。
 ところがその取材中に、ライバルのエヴァンがアンカーマンの座を得たことを知ったブルース。自暴自棄になって、リポートは滅茶苦茶に。そして局はクビになり追い出されてしまう。しかも、やけくそついでに浮浪者を助けたらチンピラどもにリンチされるというおまけつき。



 ブルースは呪う。神はえこひいきしている「神は僕を無視している」、「あんたは職務怠慢だ」と。



 とたん、彼は不思議なポケットベル番号「5502」に呼び出される。無視したブルースだったが、翌日もしつこくこの番号に呼び出され、電話をかけてみると、相手は言った。「出世のチャンスを奪われた? 君より才能のないやつが横取りした? 君はブルースだね。じゃ、君に仕事がある。住所は――」
 ブルースがそこへ行ってみると、そこは外見ボロボロのビルディング。中のオフィスは真っ白でなにもない。清掃人がひとり、働いているだけだ。



 ドタバタの末、この清掃人こそが神≠セと知ったブルース。そして神≠ヘ「文句があるなら君が神の仕事をしろ」と伝えるのだった。



 この真っ白なオフィスのシーンのドタバタが、ジム・キャリーらしくて楽しい。神様役は見てのとおり、モーガン・フリーマンである。
 ところで謎の番号「5502」はなにかキリスト教か聖書由来なのかなぁと調べたが、ちょっとわからなかった。意味があるのかないのか、謎である。

 半信半疑のまま、ビルを飛び出したブルースは、レストランに飛び込んでトマト・スープを注文。そこでモーセのごとく、スープを二つに割るという奇跡を起こす。





 このあたりでもう爆笑である。

 自分が神の力を引き継いだことを知ったブルースは、もうやりたい放題。ブティックのショー・ウィンドウで一瞬にして気に入った服に着替え、前回やられたチンピラを叩きのめし、さらにはスクープをモノにしてテレビ局に復活。特ダネにつぐ特ダネをゲットして「MR.EXCLUSIVE」とまで呼ばれるように。
 さらにアンカーを務めていたエヴァンのろれつを回らなくして、自分がアンカーになるという道筋をつけるのだが――

 ブルースは大切な「神の仕事」を忘れていた。人々の祈りを聞く、という仕事である。頭の中に人々の祈りの声が山ほど押し寄せてくる。
 この祈りを具現化するシークエンスがまた楽しい。最初はファイルボックスだったのを、次はポストイットで整理しようとするが、部屋中が付箋だらけに。



 最終的には――



 オンライン化してしまうのだ(笑)。
 人々の祈りをダウンロードするが、これが朝までかかるというのは、ナローバンドなのか祈りが多すぎるのか。とにかく全部の祈りを全部かなえてしまうという暴挙に出たブルース。
 それでいいと思っていたブルースだったが、人々の祈りに尽きるところはない。街は混乱し暴動が起こり始める。

 自分のせいだ、と悟ったブルースは、例のビルへ。神に会い、助けを請う。
 ここの神のセリフが実にいい。

 神「ブルース。スープを二つに分けたのは奇跡じゃない。それは手品だ。仕事を持っているシングルマザーが子どもとの時間を作る。それが奇跡。ティーンエイジャーがドラッグから離れて学校へ通う。これも奇跡。人々はわたしにいろいろなことを頼る。しかしみな、自分が奇跡を起こせる力を持っている。奇跡を見たいかい? わが子よ。奇跡を起こせ(Be a miracle.)。


 ブルースは心を入れ替え、人々のために、自分ができる等身大のことで協力する。例の「神オンライン」もコンセントを抜き「ブルースは与え、ブルースは奪う」と一言。ここ、ヨブ記 1:21のパロディである。いいなぁ、こういうさりげなさ。
 エヴァンにも、自分がアンカーを退くことと祝辞を述べ、テレビ局の仕事も、今までどおり色モノリポーター≠ニして喜んで続けることにする。

 恋人のグレースが自分のためにどれだけ祈っているかを知ったブルース。高速道路でひざまづいて祈る。トラックにひかれたか、と思われた瞬間、真っ白な空間に。そしてまた神と会う。

 ここからのシークエンス。何度観てもいい。

 神「君には神の輝き(divine spark)がある。君には世界に楽しみと笑顔を与える才能がある。わたしがそう創った」
 ブルース「……自慢かよ(Quit bragging)」
 神「それだよ。それがわたしの言っているsparkだ」


 このブルースのウケが何度聞いてもいい。DVDの字幕だと――



 になっており、吹き替えだと「そうだっけ?」になっているが、やはり邦訳するなら「自慢かよ」が一番ピッタリくると思う。

「真の祈り」というものを悟ったブルースは、大怪我をしながらも現世に戻り、献血運動の会場から軽妙なリポートを送る。「Be a miracle.」の合言葉とともに。

 クリスチャンでなくても楽しめる、かるーいキリスト教入門として(そうか?)お勧めの一本。

 ちなみに、続編で、アンカーとなったエヴァンを主人公とした「エヴァン・オールマイティ」も作られているが、こちらはノアの箱舟を現代風にしたドタバタで、正直、それほど楽しい作品ではなかった。残念。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年03月08日

【映画評】グレイテスト・ショーマン

 いきなりだが、血液型性格診断である。

 A型のあなたは、いつもは慎重ですが、ときとして大胆なときがあります。そんなあなたにはハッピーエンドの映画がお勧め。
 B型のあなたは、有無を言わさない行動力がありますが、それをちょっと後悔するときもあります。そんなあなたには、ミュージカル映画がお勧め。
 O型のあなたは、おおらかですが、実は繊細な感性も備えています。そんなあなたには、シンプルなあらすじの映画がお勧め。
 AB型のあなたは、大勢でいることが好きな反面、孤独を楽しむ術も体得しています。そんなあなたには、破天荒な主人公の映画がお勧め。


 実はこの性格診断、全くデタラメである。
「誰にでも当てはまる曖昧で一般的な性格を、自分に当てはめて納得してしまう」という人間の心理を言ったもので、これを「バーナム効果」という。

 そう、この映画「グレイテスト・ショーマン」の主人公、興行師「P.T.バーナム」の名から取られた心理現象なのである。彼は「we've got something for everyone――誰にでも当てはまるなにか≠ェある」という言葉を残しており、それにちなんでつけられた心理効果なのだそうだ。

 かように、実在のP.T.バーナムは人間心理を熟知した、けっこうな山師だったようである。
 しかし、そのP.T.バーナムを主人公にしたこのミュージカル「グレイテスト・ショーマン」は、じつに素晴らしい映画であった。



 ニャンニャンニャンのネコの日、カルディでネコトートをゲットしたあと、一人でふらりと寄った映画館で本作「グレイテスト・ショーマン」を観て、あまりの良さに感激し、後悔してしまった。細君と一緒に観なかったことを。
 そこで今週の日曜、細君を誘って二人で観劇。わたしが同じ映画に二度足を運んだことは初めてかもしれない(その昔は同じ映画を、劇場を出ない限り何度も観られたが、それは除く)。

 ストーリーは単純である。主人公バーナムの少年時代から結婚。フリークスを全面に押し出したサーカスの興行師として成功するまでの苦労と挫折と栄光。それでも上流階級の人間に見下される悔しさと、それを見返すさらなる猛進。それによって見失う家族との愛と、それの再発見。そしてサーカスの炎上、崩壊という悲劇の末、フリークスの団員たちも家族であったという発見と、弟子との友情などなど。
 シナリオに、たとえばフリークスに対する深い理解や、マイノリティに対するポリティカルコレクトネス的視線などはほとんどない。
 なにか考察したり、暗喩を紐解いたり、そのような仕掛けがないぶん、批評家受けは悪いだろう。実際、彼らのつけた点はそうよくないという話だ。

 しかし、この映画はそれでいいのだ。
 この骨太のシナリオに、見事な音楽とダンスが華を添える。いや逆だ。音楽とダンスを支えるために、シンプルなストーリーがあると言ってもいい。

 ミュージカルには、音楽とダンスで心情を表すタイプと、シナリオを進行させるタイプの二種類がある。この映画は明らかに後者で、じつにテンポがいいのだ。少年時代から、上流階級の少女との恋、就職、迎えに来て結婚、子どもができるまでを、一気に一曲で表現してしまう。このテンポの良さがじつに心地よい。

 早速、オンラインでOSTを購入してしまった。これが聴き止めることができない。一曲目の「The Greatest Show」から、最後の「From Now On」まで聴き、またリピートして聴いてしまう。
 比べるのはなんだが、同じミュージカルでOSTも買った「LA LA LAND」は、「Another Day Of Sun」「Someone In The Crowd」「Audition」の3曲ばかり聴いてしまうのだが、本作のOSTは入っている11曲全部がお気に入りになってしまった。

 ストーリーは単純と言ったが、けっこう好きなシーンもある。バーナムに批判的だった批評家が、サーカスが炎上、崩壊したあと、バーナムに「わたしが別の評論家だったら、こう書いたろう。人類の祭典≠ニ(意訳)」というシークエンスにはジンときた。
 うちひしがれたバーナムを、フリークスたちが家族としてバーに励ましに来るラスト近くのシーンもいい。
 そして、メインキャラの陰で、バーテンのダンスも出てくるたびにキレッキレである。本当に細かいところまでダンスが見事で、三回、四回と観たくなる映画である。

 バーナムに心を寄せる歌姫リンドの曲「Never Enough」もまたいい。特に頭に常駐しやすい。もうネバネバである(聴けばわかります(笑))。

 わたしはわりと映画を、劇場で観る、家のテレビでDVDで観る、PCでストリーミング視聴するということに、そう差を感じないタイプだが(本当にいい映画は、どんな媒体で観ても心に残る)、本作に関しては、是非とも、是非とも、劇場でやっているうちに観ていただきたいなぁ、と切に願う。

 そしてもうひとつアドバイス。観るときは、なるべく大切な人と一緒に。配偶者や、恋人。これから大切にしたいと願っている人を誘って、並んで観ると感激ひとしおな映画だ。
 観終わったあと、映画館を出て、相手の手を取ってクルクル回って踊りたくなる映画はそうそうない。あぁ、わたしも五十肩の痛みがなければ、映画館近くの港で細君をクルクル回したかった(笑)。

 そして一生の思い出になる映画だと思う。
 もし不幸にして別れてしまっても、「あの映画を観たときは幸せだったな」と、ふりかえって、暖かい気持ちになれるに違いない。

 わたしがこんなに映画をベタ誉めすること、そんなにないでしょ?
 それだけお勧めなんですよ、ホント。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月17日

【書評】コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか

 川島良彰「コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか」



 実は、今、出先なので実書が手元にない。のに、なぜこの書評を書きたいと思ったかというと、今いるのがネットカフェで、そこで一杯淹れた「スペシャリティコーヒー」が、まぁまぁこういうところでは美味いかな、と感じ、この本のことを思い出したから。

 実は川島良彰先生には(勝手に)あまりいい印象がなかった。というのも、ビッグコミックスピリッツで連載されていた「僕はコーヒーがのめない」というマンガの監修を先生がなさっており、同マンガの自分的評価が、実に、その、あの、アレだったからなのである。
 一回は打ちきられたかと思っていたら、今調べたら、最終7巻まで出ているとのこと。慶賀慶賀。今、せっかくネットカフェにいるのだから、と、店内検索機で調べてみたら、この店には置いていない。ガックリだ。

「僕はコーヒーが――」の(わたしが感じる)失敗は、美味しんぼにあるようなバトル展開に無理に持ち込もうとし、しかもその展開に工夫がない、という点にあったのだと感じている。


(原作:福田幸江/作画:吉城モカ/監修:川島良彰「僕はコーヒーがのめない」1巻より引用)

 これはわたしが2ちゃんに書いたものだが――

このマンガ
主人公「このゲイシャは欠点豆が多くてダメです……。ハンドソーティングしないと……。云々……」
一同「ふーん、そういうもんなのね」

これが美味しんぼなら
山岡「このゲイシャはダメですね。俺がそこのカルディで買ってきた豆でもっと美味いコーヒーを淹れてあげますよ」
(山岡がキッチンにこもって一時間後)
一同「確かに山岡のコーヒーのほうがうまい」
同僚「くっ……悔しいが確かに俺のゲイシャより味が清々としている」
くり子「マイルドカルディ豆なのになぜ?」
山岡「ハンドソーティングの差さ」

美味しんぼがいいとは言わんけど、もっとドラマで読ませてほしいな。マンガなんだから。


 という感じなのであった(なお同じIDで検索するとIDかぶりでいくつか出てくるが、わたしが書いたのは上のカキコだけなのでよろすく)。
 ちなみにストーリー展開は川島先生がなされているのではなく、あくまで監修。
 その後、川島先生の上書「コンビニコーヒーは、なぜ――」を読む機会があり、読み始めたら実に面白い。なによりこの本は川島先生の自伝でもある。

 川島先生はコーヒー焙煎業者の家に生まれ、小学6年のとき、東京のブラジル大使館に「ブラジルでコーヒーの仕事をしたい」と手紙を出すほどコーヒーへの情熱が溢れる熱血漢。その後、中米エルサルバドルの大学に留学し、国立コーヒー研究所に入所。
 エルサルバドルで内戦勃発後も、爆発の音を聞きながらコーヒー研究を続け、ついに邦人の帰国がやむなくなり、請われてUCC上島コーヒーに入社。その後、ジャマイカ、ハワイ、インドネシアなどでコーヒー農園の開発に積極的に関わる。
 そして、自分が満足できる最高のコーヒーをお客さまに提供するため、UCC上島コーヒーを退社し、株式会社ミカフェートを設立。
 今日もまた「すべてはコーヒーのために」を合言葉に、コーヒーハンターのふたつ名を掲げ、旅を続けていらっしゃる。

「僕はコーヒーが――」も、妙な物語にしないで、川島先生の自伝マンガにしてしまった方が良かったのではないだろうか。

 本書はそのタイトルからしていい。「コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか」。そうそう、とうなずいてしまう。
 わたしは基本、味のわからない味覚音痴だが、ホテルのコーヒーを美味いと思ったことがない。ここ数年は高いだけで美味くないので、もったいなくて飲まないようにすらしていた。
 コンビニコーヒーは安いけれど美味い。コーヒーは美味さ以前に、「飲むシチュエーションが大事」というこは、以前「【回想録】コーヒーの思い出」にも書いたが、それを抜きにしても、やはり「高級店のコーヒーの方が美味く、大衆店の方がまずい」ということはないように思っていた。
 それをコーヒーハンター≠ナある川島先生が、こうやって一発で喝破してくれるのだから心地よい。

 同書を読むと、一度、最高に美味いという川島先生のお店で出している「グラン・クリュ・カフェ」を飲みたくなる。味音痴のわたしでも魂を抜かれるほど美味いのであろうか。

 以前、コピ・ルアクが話題だった頃、お土産で粉をいただいたことがあるのだが、それはロブスタ種で、しかも豆ではなくすでに細挽きしたもので、正直、ドリップしても美味いものではなかった。わたしは別にコーヒーに特段詳しいわけではないが、知らない方は「珍しいだけで良い」と思うのだなあ、と思わされた一件であった。



 この写真はアラビカ種のコピ・ルアクの豆。である。こちらの味はまあまあ。裏を見ると、コーヒープレスで淹れることが推奨されている。サイフォンで淹れちゃうけど。
「味音痴」と言いつつ、コーヒーの味にこだわっている自分がおかしいが、それだけ身近な飲み物だということだ。

 川島先生のコーヒーに対する妥協のなさと同時に、コーヒーを高級飲料として目指さず、値段相応であってもその枠内で最高に美味いものがつくれるはず、という柔軟な姿勢に共感した一冊。
 コーヒー好きは、ぜひご一読を。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月16日

【映画評】ローズの秘密の頁

 正直に書く。
 なんとも、感想の書きにくい映画である。それでもスルーできずに、なにか感じたことを記しておきたいという気持ちが、こうして万年筆を持たせ、原稿用紙に向かわせている。
 あまり脈絡のある感想にはならないかもしれない、と、最初にお断りを入れた上での記事であること、ご了解いただければ。



 以前、なにかの記事でも、聖書に書き込みができる人、できない人の話をしたが、この映画は、四十年の間、無実の罪≠ナ精神病院に入れられていたヒロインが、聖書の隙間に日記を書き入れていき、それを読んだ精神科医が、真実を知っていく――という物語。
 聖書読みとしては、そのあたりになにか面白い仕掛けがあるかな、と多少期待して鑑賞。

 あらすじ――
 第二次世界大戦のまっただ中のアイルランド。精神病院から逃げだし、激流の川べりの岩礁で、出産したての自分の赤ちゃんを石で撲殺した、という罪で、ローズは精神病院に幽閉されていた。ローズ自身は、自分は赤ちゃんを殺していない。赤ちゃんはどこかで生きているし、自分も正常であると主張している。
 時は流れ四十年の月日が経ち、その精神病院が取り壊されることになり、入院患者の再評価のために、高名な精神科医、グリーン医師がローズのもとを訪れる。最初の診断では、ローズに幻覚、幻聴を認め、精神病の診断を認めかけたグリーン医師だったが、ひょんなことから、ローズが自分の聖書に日記≠書き続けていることを知り、それを読み、またローズ自身と語りあうことで、真実を知っていく――。


 なお、鑑賞中、カンのいい人なら、そうそうに「あぁ、そういうことか」というネタバレに気づくことが多い映画だろうとは思うが、それ自体がストーリーの根幹をなしているということもあるので、今回はひさしぶりに、ネタバレは反転して見えないように記した。お読みになりたい方は、マウスで選択するなり、Ctrl-Aするなりしていただきたい。

 劇場が明るくなった後、そこかしこで「いい映画だったね」とささやく声が聞こえてきた(そう、けっこうこの映画、宣伝に比して人が入っていたんですよ)。
 一応は、ハッピーエンドを迎えた、ということになるのだろうか。しかし、このハッピーエンドは爽快感とはほど遠い。ほろ苦い、どこか納得しがたい、すっきりとしないハッピーエンドである。

 わたし自身の鑑賞後の感想は、もちろん、いい映画、物語であったとは思ったが、細君を誘ってもう一度見たいという気分にはなれなかった。

 アイルランドの複雑な教派事情――田舎はカトリックが主流で、都市部はプロテスタントの勢力が強くなっている。物語のヒロイン、ローズは、その都市部から田舎へ越してきたという設定――がバックグラウンドになっているが、それはあくまで舞台装置の域を出ておらず、ストーリー全体を言ってしまえば、村一番の美女がたくさんの男に言い寄られる中、ひとりのプロテスタントの男と恋に落ちる。そこに強硬に横恋慕する男がおり、そいつが、こともあろうにカトリックの神父だった――という、身もフタもないストーリーなのである。

 プロテスタントの男は志願してイギリスの兵士となっており、また戦場へ戻らねばならない。ローズは牧師のもと、プロテスタントの男と結婚するが、それはカトリックが主流の田舎では誰も知らない。これも悲劇のひとつである。

 プロテスタントの男は、田舎者連中に殺されてしまう(これは後にわかる)。しかし、ローズは彼の子を身ごもっていた。
 周囲はそれを、神父の子だとみなし、この醜聞を隠そうとローズを精神病院に幽閉する(というか、その前段階で、神父の画策により、彼女はもう、精神病院に入れられてしまっている)。
 臨月となったローズは病院を逃げだし、そして、「あらすじ」で書いたシークエンスとなる。
 果たして、ローズは自分の子を殺したのか――

 ローズが日記として書き込んでいた聖書≠ヘ、押し花あり、切り抜きあり、一面に絵を描いたページがありと、読むための聖書ではなくなっている。
 最初に「BOOK OF JOB(ヨブ記)」を「BOOK OF ROSE」に書き換えるところ以外は、特に聖書の内容との絡みはない。一カ所だけ、ダニエル書の夢の箇所が雰囲気的に出るだけ。聖書内容との謎かけ、というようなシーンは一切ない。聖書≠熄ャ道具のひとつにしか使われていないのである。
 このあたりが、聖書読みとしてはとても残念。たとえば、子どもが神父の子ではない、ということを、「列王記上21章」あたり――ナボトのぶどう畑のくだり――に書く、などの仕掛けがあってもいいのではないかなぁ、などと思ったりしてしまう。
 この映画の惹句では「半世紀の時をこえ、1冊の聖書が明かす胸震える衝撃と感動の物語」となっているが、別にこれが聖書≠ナなくてもいいというのがなんとも。
 ちなみに原題は「The Secret Scripture」。「秘密の聖書」だ。

 わたしはカトリックなので、どうしても見ていて、横恋慕してくる神父が腹立たしくて仕方なかった。
 帰天されてしまったが、教会の勉強会で仲の良かった年配の女性が、自分に洗礼を授けてくださった司祭が、後にある女性に「転んで」現場を離れさせられてしまったことを、何度も口にしていらっしゃったことを思い出す。彼女にとってそれはとてもショックな出来事だったようで、話すたびに、悔しさが口の端にのぼるのだ。さもありなん、と思う。

 ちなみに、一度、司祭として叙階された神父は、後に女性に「転んで」も、神父の名を奪われたりはしない。洗礼や叙階は、魂に刻印されるものなので(これをカラクテル≠ニいう)、一度つけたら、人間の手で消すことはできないからだ。
 女に「転んだ」神父が授けた洗礼などの秘蹟の有効性も消えたりはしない。
 ただ、もちろん、カトリック教会は「職能団体」としての面もあるので、そういう、女に「転んだ」神父は、もう表舞台に出ることはない。たいてい、地方で飼い殺しである。
 一生をキリストに捧げ、女性を遠ざけ、未婚の誓いを立てた上で神父になるのだから、そういう、女に「転ぶ」司祭なんてそうそういないんじゃないの? と、一般の方は思われるかもしれないが、つい最近も叙階したてのゲフンゲフン、ゴホゴホゴホ――なのである。

 やはりカトリックの神父には、女性関係は清廉でいてほしい。
 人間なのだから、などというのは安っぽい言いわけである。司祭職には、それだけの覚悟を負うだけの価値がある、とわたしは思うのである。

 ずいぶん話が飛んでしまったが、話を映画に戻して、一番のネタバレを書くと――

 ローズのもとに、精神科医グリーン医師を寄越したのは、今は大司教となっていたその神父であった。ローズはもちろん、自分の産んだ子を殺してはいなかった。グリーン医師こそが、あのとき、神父によって秘密裏に養子に出された、ローズの実子だったのである。


 描きようによっては、お涙ちょうだいの二時間ドラマのようなストーリーに陥りそうなところだ。しかし舞台となるアイルランドの自然の美しさ、演じる俳優の細やかさ、聖書という小道具に日記を記していくというアイデアがいい。物語は、美麗で、淡く、切なく、観る人それぞれにいろいろな思いがこもるエンディングを迎える。

 完成度は高いと思う。ただ、万人向けかというと、諸手を挙げてお勧めはできない。
 むしろ、カトリックだプロテスタントだ聖書だ十字架だとか、そういったものとは無縁な方の方が素直に「良い映画だったね」と言えるかもしれない。

 この記事は、観劇後に寄ったスタバで原稿用紙に万年筆で書いたものだが、そのときはどうも脈絡がなく、あまりいい記事にはなりそうもないな、と考えていた。しかし一晩寝かせてみると、まあ、それなりに形にはなったかと、こうしてエディタに打ち込みながらそう思っている。
 ハッピーエンドが爽快でなかったのは、ヒロインの恋人を殺した村人たちが報いを受けるシーンがなかったことと、今は大司教となった神父の苦悩が描かれていなかったからなのだな、と、気づいた。

 そのあたりもまたほろ苦く、観劇後は、スタバのコーヒーに、多めに砂糖を入れてしまったのであった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月09日

【書評】「私の生きた証はどこにあるのか」

 H.S.クシュナー著/松宮克昌訳「私の生きた証はどこにあるのか」。

 副題には「大人のための人生論」とつく。岩波現代文庫オリジナルの翻訳で――

 わたしの人生にはどんな意味があったのか? 人生の後半を迎え、空虚感に襲われる人々に旧約聖書の言葉などを引用し、悩みの解決法を提示。


 と、紹介文には記されている。



 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」は間違いなく名著である。そちらは何度読んだかもわからない。そして、今の時代の人々誰にでも(!)お勧めできるという自信がある。その意味で、わたしはクシュナーに私淑していると思っている。

 ユダヤ教のラビ(聖職者)であるクシュナーは愛息を早老症という病で亡くし、それをきっかけに「なぜ私だけが――」を書いた。しかしその内容は決して悲嘆と愛息への哀悼に満ちた自己憐憫の一冊ではない。ラビ職にある彼が神への護教論へ走ることなく、ごく普通の人々。彼の同じく、人生の不条理、神の不公平≠ノ苦しむ人を慰め、勇気づける、素晴らしい内容の書籍である。

 そのクシュナーが、「なぜ私だけが――」後に書いた、初邦訳となる「私の生きた証はどこにあるのか」が2017年2月16日に出る、というのだから、一年前、わたしは小躍りして喜んだ。
 そしてすぐに入手して、読み始めた――。が、今度は「なぜ私だけが――」に比べて、読むのに実に時間がかかった。邦訳された松宮先生のせいではない。よい翻訳だと思う。それでも、どうしても読み続けることができない。

 半年以上、いつもカバンの中に入れて、読めるときは読む、という感じで読み続けて、読了。
 正直に言おう。前著「なぜ私だけが――」のような感動はなかった。
 これは読むスピードが遅かったからかもしれない、と思い、2018年の正月休みに、休憩を入れずに一気に読んだ。感想は、同じであった。

 さて、この本は、いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」の問題を扱った書だ。それを旧約聖書の「コヘレトの言葉」と相照らすような形で扱い、人生の半分を終えた人間がどう生きるべきか、という内容を描いている。
 まさしく、わたしのような、人生の半分を終え、コップの水が半分になってしまった人間が読むべき書であり、読者ターゲット層であることも間違いない。

 ちなみに「コヘレトの言葉」はもちろんキリスト者として馴染んでいる。それどころか、旧約聖書の中で一番好きな一書だ。これも、何度読んだか、朗読で聞いたかわからない。違う翻訳でもいくつも読んだ。「空の空。空の空なるかな。すべて空なり」という文語訳が好きだ。

 本書は、古代人コヘレトが試みた「全人的な生き方を目指すが挫折していく道程」を、実例や他書名著からの引用などで解説していく。
 わたしがあまり感動しなかったのは、クシュナーの解説が、「コヘレト読み」には当然だったことだからなのかもしれない。

 惹句には「悩みの解決法を提示」と書いてあるが、それは、ない。
 むしろ、「老いていく中で生まれる悩みの解決方法がないこと、それでも生きていることに意味があると思うことこそが人間の証である」という結論へと収束していく。
 人生の半分が終わった人間のむなしさへの解決方法としては

さあ、喜んであなたのパンを食べ  気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。(コヘレトの言葉 9:7)


 を挙げて、「今を楽しむことだ」と言う。この世界に人間がなしえることで永遠なるものはないのだから、そういった遠くへ目を向けるのではなく、「小さな幸せを積みあげていくことだ」と。
 この結論は、やはりわたしが名著と思い、私淑しているR.カールソンの「楽天主義セラピー(You can feel good again)」でも結論づけられていることだ。

 しかし、「楽天主義セラピー」との違いは「楽天主義セラピー」では、肝心の「今を楽しむ」ことの難しさ、それを乗り越えるノウハウが記されているのにたいし、本著「私の生きた証――」は、単に「今を楽しむことだ」で終わってしまっていることである。

 本書の原著は1986年に発行されている。訳者あとがきには

本書は、「今の時代に古すぎる」と少なからぬ出版社から翻訳を断られ、十余年の歳月が流れました。


 とある。
「今を見つめ、今を楽しみながら生きることが大事」ということは、「ミドルエイジ・クライシス」という言葉すらなかった当時は、それを言うだけで、なにか気づき≠ノなったのかもしれない。しかしそれは言うは易し行うは難しなことであり、いわば、難しいことを承知していながら、それを二十一世紀の今に丸投げしてしまっているわけで、わたしが求めていた「感動」がそこになかったことは仕方ないのかもしれない、と、思う。

 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」も、R.カールソンの「楽天主義セラピー」も、わたし自身が好きすぎて≠るいは影響を受けすぎて≠「て、まだ書評を書けないという面が多々にある。
 実は両書とも、自分で打ち込んで青空文庫フォーマットにし、MHE Novel Viewerでいつでもスマホで読めるようにしているくらいなのだ。

 本書「私の生きた証はどこにあるのか」とは、出会うのが遅すぎたのかもしれない。あるいは、早すぎたのかもしれない。「なぜ私だけが――」でベストセラー作家となり、一躍、世界の有名人となったクシュナーの筆致が、以前と変わらず誠実であり、対象に向かう暖かい目に変わりがないことにはホッとする。

 ミドルエイジ・クライシスに悩むご同輩には、もし、あなたが聖書に親しんでおらず「コヘレトの言葉」を読んだことがないなら、という前提で、「まあ一読の価値はありますよ」とお勧めしたい。

 しかし、この高度情報化社会は、は「小さな幸せ」を積み重ねることすら困難な時代になってしまった。未婚率は右肩上がりになり、妻あるいは夫という家族を得ることさえ難しい時代である。

 石川啄木が「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」と詠んだのは明治時代のことであった。平成の終わりには、それすらも過度な贅沢になってしまったのだ(しかもそのときの啄木は24歳、さらに言えば妻は14の頃から交際していた初恋の人である。それなんてエロゲ?)。

 話をクシュナーの「私の生きた証は――」に戻すと、現代の時代が早すぎて、今のわたしの年齢では、この書を読んで影響を得る何か≠得られていないだけなのかもしれない、とも思う。
 これから先、毎年一回は読んでみよう、と考えている。もしかしたらそのときそのときで、なにか感じるものが違うかもしれないから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評