2018年02月17日

【書評】コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか

 川島良彰「コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか」



 実は、今、出先なので実書が手元にない。のに、なぜこの書評を書きたいと思ったかというと、今いるのがネットカフェで、そこで一杯淹れた「スペシャリティコーヒー」が、まぁまぁこういうところでは美味いかな、と感じ、この本のことを思い出したから。

 実は川島良彰先生には(勝手に)あまりいい印象がなかった。というのも、ビッグコミックスピリッツで連載されていた「僕はコーヒーがのめない」というマンガの監修を先生がなさっており、同マンガの自分的評価が、実に、その、あの、アレだったからなのである。
 一回は打ちきられたかと思っていたら、今調べたら、最終7巻まで出ているとのこと。慶賀慶賀。今、せっかくネットカフェにいるのだから、と、店内検索機で調べてみたら、この店には置いていない。ガックリだ。

「僕はコーヒーが――」の(わたしが感じる)失敗は、美味しんぼにあるようなバトル展開に無理に持ち込もうとし、しかもその展開に工夫がない、という点にあったのだと感じている。


(原作:福田幸江/作画:吉城モカ/監修:川島良彰「僕はコーヒーがのめない」1巻より引用)

 これはわたしが2ちゃんに書いたものだが――

このマンガ
主人公「このゲイシャは欠点豆が多くてダメです……。ハンドソーティングしないと……。云々……」
一同「ふーん、そういうもんなのね」

これが美味しんぼなら
山岡「このゲイシャはダメですね。俺がそこのカルディで買ってきた豆でもっと美味いコーヒーを淹れてあげますよ」
(山岡がキッチンにこもって一時間後)
一同「確かに山岡のコーヒーのほうがうまい」
同僚「くっ……悔しいが確かに俺のゲイシャより味が清々としている」
くり子「マイルドカルディ豆なのになぜ?」
山岡「ハンドソーティングの差さ」

美味しんぼがいいとは言わんけど、もっとドラマで読ませてほしいな。マンガなんだから。


 という感じなのであった(なお同じIDで検索するとIDかぶりでいくつか出てくるが、わたしが書いたのは上のカキコだけなのでよろすく)。
 ちなみにストーリー展開は川島先生がなされているのではなく、あくまで監修。
 その後、川島先生の上書「コンビニコーヒーは、なぜ――」を読む機会があり、読み始めたら実に面白い。なによりこの本は川島先生の自伝でもある。

 川島先生はコーヒー焙煎業者の家に生まれ、小学6年のとき、東京のブラジル大使館に「ブラジルでコーヒーの仕事をしたい」と手紙を出すほどコーヒーへの情熱が溢れる熱血漢。その後、中米エルサルバドルの大学に留学し、国立コーヒー研究所に入所。
 エルサルバドルで内戦勃発後も、爆発の音を聞きながらコーヒー研究を続け、ついに邦人の帰国がやむなくなり、請われてUCC上島コーヒーに入社。その後、ジャマイカ、ハワイ、インドネシアなどでコーヒー農園の開発に積極的に関わる。
 そして、自分が満足できる最高のコーヒーをお客さまに提供するため、UCC上島コーヒーを退社し、株式会社ミカフェートを設立。
 今日もまた「すべてはコーヒーのために」を合言葉に、コーヒーハンターのふたつ名を掲げ、旅を続けていらっしゃる。

「僕はコーヒーが――」も、妙な物語にしないで、川島先生の自伝マンガにしてしまった方が良かったのではないだろうか。

 本書はそのタイトルからしていい。「コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか」。そうそう、とうなずいてしまう。
 わたしは基本、味のわからない味覚音痴だが、ホテルのコーヒーを美味いと思ったことがない。ここ数年は高いだけで美味くないので、もったいなくて飲まないようにすらしていた。
 コンビニコーヒーは安いけれど美味い。コーヒーは美味さ以前に、「飲むシチュエーションが大事」というこは、以前「【回想録】コーヒーの思い出」にも書いたが、それを抜きにしても、やはり「高級店のコーヒーの方が美味く、大衆店の方がまずい」ということはないように思っていた。
 それをコーヒーハンター≠ナある川島先生が、こうやって一発で喝破してくれるのだから心地よい。

 同書を読むと、一度、最高に美味いという川島先生のお店で出している「グラン・クリュ・カフェ」を飲みたくなる。味音痴のわたしでも魂を抜かれるほど美味いのであろうか。

 以前、コピ・ルアクが話題だった頃、お土産で粉をいただいたことがあるのだが、それはロブスタ種で、しかも豆ではなくすでに細挽きしたもので、正直、ドリップしても美味いものではなかった。わたしは別にコーヒーに特段詳しいわけではないが、知らない方は「珍しいだけで良い」と思うのだなあ、と思わされた一件であった。



 この写真はアラビカ種のコピ・ルアクの豆。である。こちらの味はまあまあ。裏を見ると、コーヒープレスで淹れることが推奨されている。サイフォンで淹れちゃうけど。
「味音痴」と言いつつ、コーヒーの味にこだわっている自分がおかしいが、それだけ身近な飲み物だということだ。

 川島先生のコーヒーに対する妥協のなさと同時に、コーヒーを高級飲料として目指さず、値段相応であってもその枠内で最高に美味いものがつくれるはず、という柔軟な姿勢に共感した一冊。
 コーヒー好きは、ぜひご一読を。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月16日

【映画評】ローズの秘密の頁

 正直に書く。
 なんとも、感想の書きにくい映画である。それでもスルーできずに、なにか感じたことを記しておきたいという気持ちが、こうして万年筆を持たせ、原稿用紙に向かわせている。
 あまり脈絡のある感想にはならないかもしれない、と、最初にお断りを入れた上での記事であること、ご了解いただければ。



 以前、なにかの記事でも、聖書に書き込みができる人、できない人の話をしたが、この映画は、四十年の間、無実の罪≠ナ精神病院に入れられていたヒロインが、聖書の隙間に日記を書き入れていき、それを読んだ精神科医が、真実を知っていく――という物語。
 聖書読みとしては、そのあたりになにか面白い仕掛けがあるかな、と多少期待して鑑賞。

 あらすじ――
 第二次世界大戦のまっただ中のアイルランド。精神病院から逃げだし、激流の川べりの岩礁で、出産したての自分の赤ちゃんを石で撲殺した、という罪で、ローズは精神病院に幽閉されていた。ローズ自身は、自分は赤ちゃんを殺していない。赤ちゃんはどこかで生きているし、自分も正常であると主張している。
 時は流れ四十年の月日が経ち、その精神病院が取り壊されることになり、入院患者の再評価のために、高名な精神科医、グリーン医師がローズのもとを訪れる。最初の診断では、ローズに幻覚、幻聴を認め、精神病の診断を認めかけたグリーン医師だったが、ひょんなことから、ローズが自分の聖書に日記≠書き続けていることを知り、それを読み、またローズ自身と語りあうことで、真実を知っていく――。


 なお、鑑賞中、カンのいい人なら、そうそうに「あぁ、そういうことか」というネタバレに気づくことが多い映画だろうとは思うが、それ自体がストーリーの根幹をなしているということもあるので、今回はひさしぶりに、ネタバレは反転して見えないように記した。お読みになりたい方は、マウスで選択するなり、Ctrl-Aするなりしていただきたい。

 劇場が明るくなった後、そこかしこで「いい映画だったね」とささやく声が聞こえてきた(そう、けっこうこの映画、宣伝に比して人が入っていたんですよ)。
 一応は、ハッピーエンドを迎えた、ということになるのだろうか。しかし、このハッピーエンドは爽快感とはほど遠い。ほろ苦い、どこか納得しがたい、すっきりとしないハッピーエンドである。

 わたし自身の鑑賞後の感想は、もちろん、いい映画、物語であったとは思ったが、細君を誘ってもう一度見たいという気分にはなれなかった。

 アイルランドの複雑な教派事情――田舎はカトリックが主流で、都市部はプロテスタントの勢力が強くなっている。物語のヒロイン、ローズは、その都市部から田舎へ越してきたという設定――がバックグラウンドになっているが、それはあくまで舞台装置の域を出ておらず、ストーリー全体を言ってしまえば、村一番の美女がたくさんの男に言い寄られる中、ひとりのプロテスタントの男と恋に落ちる。そこに強硬に横恋慕する男がおり、そいつが、こともあろうにカトリックの神父だった――という、身もフタもないストーリーなのである。

 プロテスタントの男は志願してイギリスの兵士となっており、また戦場へ戻らねばならない。ローズは牧師のもと、プロテスタントの男と結婚するが、それはカトリックが主流の田舎では誰も知らない。これも悲劇のひとつである。

 プロテスタントの男は、田舎者連中に殺されてしまう(これは後にわかる)。しかし、ローズは彼の子を身ごもっていた。
 周囲はそれを、神父の子だとみなし、この醜聞を隠そうとローズを精神病院に幽閉する(というか、その前段階で、神父の画策により、彼女はもう、精神病院に入れられてしまっている)。
 臨月となったローズは病院を逃げだし、そして、「あらすじ」で書いたシークエンスとなる。
 果たして、ローズは自分の子を殺したのか――

 ローズが日記として書き込んでいた聖書≠ヘ、押し花あり、切り抜きあり、一面に絵を描いたページがありと、読むための聖書ではなくなっている。
 最初に「BOOK OF JOB(ヨブ記)」を「BOOK OF ROSE」に書き換えるところ以外は、特に聖書の内容との絡みはない。一カ所だけ、ダニエル書の夢の箇所が雰囲気的に出るだけ。聖書内容との謎かけ、というようなシーンは一切ない。聖書≠熄ャ道具のひとつにしか使われていないのである。
 このあたりが、聖書読みとしてはとても残念。たとえば、子どもが神父の子ではない、ということを、「列王記上21章」あたり――ナボトのぶどう畑のくだり――に書く、などの仕掛けがあってもいいのではないかなぁ、などと思ったりしてしまう。
 この映画の惹句では「半世紀の時をこえ、1冊の聖書が明かす胸震える衝撃と感動の物語」となっているが、別にこれが聖書≠ナなくてもいいというのがなんとも。
 ちなみに原題は「The Secret Scripture」。「秘密の聖書」だ。

 わたしはカトリックなので、どうしても見ていて、横恋慕してくる神父が腹立たしくて仕方なかった。
 帰天されてしまったが、教会の勉強会で仲の良かった年配の女性が、自分に洗礼を授けてくださった司祭が、後にある女性に「転んで」現場を離れさせられてしまったことを、何度も口にしていらっしゃったことを思い出す。彼女にとってそれはとてもショックな出来事だったようで、話すたびに、悔しさが口の端にのぼるのだ。さもありなん、と思う。

 ちなみに、一度、司祭として叙階された神父は、後に女性に「転んで」も、神父の名を奪われたりはしない。洗礼や叙階は、魂に刻印されるものなので(これをカラクテル≠ニいう)、一度つけたら、人間の手で消すことはできないからだ。
 女に「転んだ」神父が授けた洗礼などの秘蹟の有効性も消えたりはしない。
 ただ、もちろん、カトリック教会は「職能団体」としての面もあるので、そういう、女に「転んだ」神父は、もう表舞台に出ることはない。たいてい、地方で飼い殺しである。
 一生をキリストに捧げ、女性を遠ざけ、未婚の誓いを立てた上で神父になるのだから、そういう、女に「転ぶ」司祭なんてそうそういないんじゃないの? と、一般の方は思われるかもしれないが、つい最近も叙階したてのゲフンゲフン、ゴホゴホゴホ――なのである。

 やはりカトリックの神父には、女性関係は清廉でいてほしい。
 人間なのだから、などというのは安っぽい言いわけである。司祭職には、それだけの覚悟を負うだけの価値がある、とわたしは思うのである。

 ずいぶん話が飛んでしまったが、話を映画に戻して、一番のネタバレを書くと――

 ローズのもとに、精神科医グリーン医師を寄越したのは、今は大司教となっていたその神父であった。ローズはもちろん、自分の産んだ子を殺してはいなかった。グリーン医師こそが、あのとき、神父によって秘密裏に養子に出された、ローズの実子だったのである。


 描きようによっては、お涙ちょうだいの二時間ドラマのようなストーリーに陥りそうなところだ。しかし舞台となるアイルランドの自然の美しさ、演じる俳優の細やかさ、聖書という小道具に日記を記していくというアイデアがいい。物語は、美麗で、淡く、切なく、観る人それぞれにいろいろな思いがこもるエンディングを迎える。

 完成度は高いと思う。ただ、万人向けかというと、諸手を挙げてお勧めはできない。
 むしろ、カトリックだプロテスタントだ聖書だ十字架だとか、そういったものとは無縁な方の方が素直に「良い映画だったね」と言えるかもしれない。

 この記事は、観劇後に寄ったスタバで原稿用紙に万年筆で書いたものだが、そのときはどうも脈絡がなく、あまりいい記事にはなりそうもないな、と考えていた。しかし一晩寝かせてみると、まあ、それなりに形にはなったかと、こうしてエディタに打ち込みながらそう思っている。
 ハッピーエンドが爽快でなかったのは、ヒロインの恋人を殺した村人たちが報いを受けるシーンがなかったことと、今は大司教となった神父の苦悩が描かれていなかったからなのだな、と、気づいた。

 そのあたりもまたほろ苦く、観劇後は、スタバのコーヒーに、多めに砂糖を入れてしまったのであった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月09日

【書評】「私の生きた証はどこにあるのか」

 H.S.クシュナー著/松宮克昌訳「私の生きた証はどこにあるのか」。

 副題には「大人のための人生論」とつく。岩波現代文庫オリジナルの翻訳で――

 わたしの人生にはどんな意味があったのか? 人生の後半を迎え、空虚感に襲われる人々に旧約聖書の言葉などを引用し、悩みの解決法を提示。


 と、紹介文には記されている。



 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」は間違いなく名著である。そちらは何度読んだかもわからない。そして、今の時代の人々誰にでも(!)お勧めできるという自信がある。その意味で、わたしはクシュナーに私淑していると思っている。

 ユダヤ教のラビ(聖職者)であるクシュナーは愛息を早老症という病で亡くし、それをきっかけに「なぜ私だけが――」を書いた。しかしその内容は決して悲嘆と愛息への哀悼に満ちた自己憐憫の一冊ではない。ラビ職にある彼が神への護教論へ走ることなく、ごく普通の人々。彼の同じく、人生の不条理、神の不公平≠ノ苦しむ人を慰め、勇気づける、素晴らしい内容の書籍である。

 そのクシュナーが、「なぜ私だけが――」後に書いた、初邦訳となる「私の生きた証はどこにあるのか」が2017年2月16日に出る、というのだから、一年前、わたしは小躍りして喜んだ。
 そしてすぐに入手して、読み始めた――。が、今度は「なぜ私だけが――」に比べて、読むのに実に時間がかかった。邦訳された松宮先生のせいではない。よい翻訳だと思う。それでも、どうしても読み続けることができない。

 半年以上、いつもカバンの中に入れて、読めるときは読む、という感じで読み続けて、読了。
 正直に言おう。前著「なぜ私だけが――」のような感動はなかった。
 これは読むスピードが遅かったからかもしれない、と思い、2018年の正月休みに、休憩を入れずに一気に読んだ。感想は、同じであった。

 さて、この本は、いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」の問題を扱った書だ。それを旧約聖書の「コヘレトの言葉」と相照らすような形で扱い、人生の半分を終えた人間がどう生きるべきか、という内容を描いている。
 まさしく、わたしのような、人生の半分を終え、コップの水が半分になってしまった人間が読むべき書であり、読者ターゲット層であることも間違いない。

 ちなみに「コヘレトの言葉」はもちろんキリスト者として馴染んでいる。それどころか、旧約聖書の中で一番好きな一書だ。これも、何度読んだか、朗読で聞いたかわからない。違う翻訳でもいくつも読んだ。「空の空。空の空なるかな。すべて空なり」という文語訳が好きだ。

 本書は、古代人コヘレトが試みた「全人的な生き方を目指すが挫折していく道程」を、実例や他書名著からの引用などで解説していく。
 わたしがあまり感動しなかったのは、クシュナーの解説が、「コヘレト読み」には当然だったことだからなのかもしれない。

 惹句には「悩みの解決法を提示」と書いてあるが、それは、ない。
 むしろ、「老いていく中で生まれる悩みの解決方法がないこと、それでも生きていることに意味があると思うことこそが人間の証である」という結論へと収束していく。
 人生の半分が終わった人間のむなしさへの解決方法としては

さあ、喜んであなたのパンを食べ  気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。(コヘレトの言葉 9:7)


 を挙げて、「今を楽しむことだ」と言う。この世界に人間がなしえることで永遠なるものはないのだから、そういった遠くへ目を向けるのではなく、「小さな幸せを積みあげていくことだ」と。
 この結論は、やはりわたしが名著と思い、私淑しているR.カールソンの「楽天主義セラピー(You can feel good again)」でも結論づけられていることだ。

 しかし、「楽天主義セラピー」との違いは「楽天主義セラピー」では、肝心の「今を楽しむ」ことの難しさ、それを乗り越えるノウハウが記されているのにたいし、本著「私の生きた証――」は、単に「今を楽しむことだ」で終わってしまっていることである。

 本書の原著は1986年に発行されている。訳者あとがきには

本書は、「今の時代に古すぎる」と少なからぬ出版社から翻訳を断られ、十余年の歳月が流れました。


 とある。
「今を見つめ、今を楽しみながら生きることが大事」ということは、「ミドルエイジ・クライシス」という言葉すらなかった当時は、それを言うだけで、なにか気づき≠ノなったのかもしれない。しかしそれは言うは易し行うは難しなことであり、いわば、難しいことを承知していながら、それを二十一世紀の今に丸投げしてしまっているわけで、わたしが求めていた「感動」がそこになかったことは仕方ないのかもしれない、と、思う。

 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」も、R.カールソンの「楽天主義セラピー」も、わたし自身が好きすぎて≠るいは影響を受けすぎて≠「て、まだ書評を書けないという面が多々にある。
 実は両書とも、自分で打ち込んで青空文庫フォーマットにし、MHE Novel Viewerでいつでもスマホで読めるようにしているくらいなのだ。

 本書「私の生きた証はどこにあるのか」とは、出会うのが遅すぎたのかもしれない。あるいは、早すぎたのかもしれない。「なぜ私だけが――」でベストセラー作家となり、一躍、世界の有名人となったクシュナーの筆致が、以前と変わらず誠実であり、対象に向かう暖かい目に変わりがないことにはホッとする。

 ミドルエイジ・クライシスに悩むご同輩には、もし、あなたが聖書に親しんでおらず「コヘレトの言葉」を読んだことがないなら、という前提で、「まあ一読の価値はありますよ」とお勧めしたい。

 しかし、この高度情報化社会は、は「小さな幸せ」を積み重ねることすら困難な時代になってしまった。未婚率は右肩上がりになり、妻あるいは夫という家族を得ることさえ難しい時代である。

 石川啄木が「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」と詠んだのは明治時代のことであった。平成の終わりには、それすらも過度な贅沢になってしまったのだ(しかもそのときの啄木は24歳、さらに言えば妻は14の頃から交際していた初恋の人である。それなんてエロゲ?)。

 話をクシュナーの「私の生きた証は――」に戻すと、現代の時代が早すぎて、今のわたしの年齢では、この書を読んで影響を得る何か≠得られていないだけなのかもしれない、とも思う。
 これから先、毎年一回は読んでみよう、と考えている。もしかしたらそのときそのときで、なにか感じるものが違うかもしれないから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月02日

【映画評】恋はデジャ・ブ

 この記事は、やはり2月2日に掲載しないとなぁ、というわけで、わたしの大好きな映画「恋はデジャ・ブ」である。原題は「Groundhog Day」。1993年公開の映画だ。

 あらすじ――
 主人公のフィル・コナーズは気難しい気象予報士。人づきあいも口も悪く、そのような性格だから、逆に人に好かれてもいない。



 2月2日はペンシルベニア州パンクスタウニー(人口6782人の小さな町)で「グラウンドホッグディ(聖燭節)」と呼ばれる記念日。ウッドチャック(マーモットの一種)が冬眠するかどうかで、春の到来を占う伝統的行事である。



 フィルにとっては、田舎町での取材は気が重く、いいかげんなリポートでお茶を濁しておしまいにしたのであった。



 クルーをせかしてさっさと帰ろうとるフィルだったが、天候の急変により大雪で道路は封鎖。仕方なく、パンクスタウニーへ戻って一泊することに。
 翌日、フィルが目を覚ますと――なんということか、また2月2日のグラウンドホッグディの朝である。



 なにがなんだかわからないうちに、既視感を覚えつつ、再びいいかげんなリポートをするフィル。まわりの人々の反応も、昨日と同じである。そして、大雪が降り、再びパンクスタウニーの町に。



 翌日、フィルが目を覚ますと――なんということか、また2月2日のグラウンドホッグディの朝である。
 いったいなんの超常現象か、フィルは2月2日のパンクスタウニーの町に閉じ込められてしまったのだ。


 一日をやり直せる、ということがわかったフィルは、それを利用していろいろ楽しんでみるが、だんだんと「変わらぬ毎日」「変えられぬ日々」に嫌気がさしてくる。

 そんな中でも、同じクルーのリタに心惹かれていくフィル。なんとかして彼女を口説き落とそうとするが、それもうまくいかない。
 やがて自暴自棄になったフィルは、ウッドチャックを盗んでカーチェイスの末、派手に死んでみたり、飛び降り自殺や電気自殺を試みるように。それでも目が覚めれば、無情に2月2日が繰り返される。

 この映画のいいところは、「嫌なヤツ」だったフィルが、人口6782人のパンクスタウニーの人々に毎日毎日毎日毎日触れ続けることによって、「善い人」に変わっていくところ。

 2月2日は永遠に続くのだが、その時間を利用することはできる。フィルは読書をし、ピアノを習い、氷をチェーンソーで削る趣味まで習得していく。
 最初は忌み嫌っていた同級生の保険屋にも優しくなり、ピアノも上達していく。
 寿命で死んでいく老人を救おうと奮闘した日々(同じ2月2日だが)もあったが、それはできない。フィルは本当の優しさを、人生を学んでいく。
「受けるよりは与える方が幸いである(使徒言行録 20:35)」そのままの生き方をしていくようになるのだ。



 そして毎日のリポートをまさしく名スピーチで納め、2月2日に起こっていた町の人々の小さなトラブルを皆救い、夜のパーティでは見事にキーボードを弾く。そんなフィルに、今度は逆にリタが恋をしてしまう。
 このあたりからのシーンが本当に好きだ。リタがパーティにやってきたことに気づいたフィルは、サングラスを外し、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を軽妙なジャズにして弾く。



 そしてリタと結ばれた翌日――日付は2月3日になっている!
 一面の雪景色の中、フィルはリタとともにこのパンクスタウニーに住むことを決めるのである。

 観終わったあとの幸せな感覚がとても良い。
 同じ時間を繰り返すタイムリープものは少なくないが、自分がこうやって、2月2日に閉じ込められたらなにをするかなぁ、と夢想したりするのが楽しい映画だ。
 実際に2月2日を繰り返したフィルは、おそらく数百年以上、その日を生きていることになるのだろう。
 ラスト近くのパーティのシーンでは、むしろフィルに神々しささえ感じるのはそのせいか。

 かなりの映画マニアが構成をやっていると思われる、テレビ東京の「午後ロー」で、2月2日にこの「恋はデジャ・ブ」が流されたことがあった。やるなテレビ東京、と思ったものである。

 もし本作を未見で、レンタル屋さんでみかけたら、ぜひともお手にとっていただきたい。損はしない101分になるはず。さぁ、あなたも2月2日を繰り返してみませんか?
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月01日

【映画評】ジオストーム

「映画評」にしようか、「日記」にしようか迷ったのだが、まぁまぁ面白かったのでこちらで。



 結婚記念日に二人で街を歩いていて、夜の予定(不二家ケーキバイキング)まで時間が空いてしまったので、「なんか映画でも観る?」とフラリと入ったのがコレ。
 本当はデートムービーなのだから「パディントン2」が観られれば良かったのだが、吹き替え版なのがいまいちな上、時間が合わず。デートでディザスタームービーはどうかとも思うのだが、ま、わたしら、わたしの三十歳の誕生日記念に、「劇場版セーラームーン」を観た夫婦ですから(たまたまチケットをいただいていたんですよ!)。

 あらすじ――
 全世界規模の異常気象が起き始めた二十一世紀、このままでは世界が滅ぶと(なんだってーっ!)全世界規模で協力し、宇宙から全世界規模で気象をコントロールするシステム「ダッチボーイ」がつくられた(話はえぇ!)。全世界の科学者たちが協力してつくったシステムだが、オリエント工業は参加していない(たぶん)。
 このプロジェクトに深く関わっていたのが、科学者であるジェイクと、文民官吏のマックス。二人の仲は決して良くはなく、衝突することも多かった。
 このダッチボーイが代表国アメリカから全世界に移譲されることが決まったのに並行して、ダッチボーイ自身が原因の異常気象が起こり始める。アフガニスタンの村がひとつ、村人も含めてカッチンコチンに凍ってしまったことを皮切りに、香港では異常な熱波、東京にはでかい雹がボコンボコンと降ってくる。
 果たしてダッチボーイは故障したのか、いやそれとも、裏に陰謀があるのか?
 兄弟は宇宙と地球で反発しあい、協力しあい、真相をつきとめ、全世界規模で発生しつつある「ジオストーム」――地球上のあらゆるところで同時発生してしまう大嵐――を防ぐために、両者ともが命がけで闘っていく。


 とまあ、これに弟側のラブストーリー風味(彼女が大統領のSP)をふりかけて、あとは特撮すごいでしょ、の映画である。

 異常な熱波で地表が溶けビルがドミノ倒しになるのはまだわかる。大きな雹が当たって人に穴が開く、というのももちろんわかる。しかし、異常な冷波が時速5キロくらいで押し寄せてきて、それに触れると人間が蝋人形のようにカチンコチンになってしまうというのは、なんとも、「デイ・アフター・トゥモロー」症候群というか、「ねーよ」というところだが、熱帯ビーチで楽しんでいたカップルのうち、海パン一丁の男が瞬間冷凍され、彼女が逃げて助かるあたりで「すごく楽しい!」のでよし。
 報われないな、海パン男。瞬間冷凍だったから、あとでうまく解凍すれば生き返るのかも(ねぇよ)。

 なお、地球上おそらく静止軌道あたりにネットのように張り巡らされた「ダッチボーイ」システムが、どのように気象をコントロールしているかなどの科学的考証は、ほーんのちょっと(セリフで二、三触れるくらい)しか行われていない。

「気象コントロール装置」というSFネタは25年以上前に、わたしも使ったことがある。「ヴァージンナイト・オルレアン」という作品である。



 このときは、リアルな20世紀の地球上に中世ヨーロッパの国「ファーランド」が孤立して存在している、という設定をつくるために、二次大戦中に造られた気象兵器によって、地球上のある箇所に常に猛烈な台風が吹き荒れており、その目の中に小国ファーランドがあるというのが大まかな設定。もちろんもっと細かい設定は施してあった。



 その気象兵器の原動力となっているのは常温超伝導で、それを実現したのが「まだ誰にもみつかっていない鉱石(ヴァージナイト)」、ヒロインの設定とダブルミーニングになっていたのである。



 いやぁ、懐かしいな。
 わたしのアイデアは、いつも早すぎる。

 このとき、その本の表紙と挿絵を描いていたのが、未来の細君だったのである。

 話を「ジオストーム」に戻すと、そういったSF考証は上記の通りほとんどないと言ってもいい。一瞬セリフで「あそこの冷波は音波振動で――」と触れるくらいである。そのあたり、「考えちゃいけない、感じるんだ」という映画ということで。

 結局のところ「USA! USA!」な映画である。兄と弟は和解し、大統領を巻き込んだ派手なカーアクション(運転するのは弟の彼女だが、これがまた絵になる)。そして意外だが予想できる、まれに良くあるみたいな真犯人、というオチ。

 結婚記念日に観て、二人で観劇後「ヴァージンナイト・オルレアンのことを思い出したねぇ」などと感想を言いあわなかったら、おそらく記事にはしなかったろうこの映画。
 でもまぁ、DVDで楽しむには十分すぎる内容ですよ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評