2018年01月10日

【映画評】キングスマン・ゴールデンサークル

 なんちゅうもんを見せてくれたんや……。なんちゅうもんを……。


(作:雁屋哲/画:花咲アキラ「美味しんぼ」8巻より引用。山岡ディスは定番ということで、決して某EP8のことではない、と思う……)

 というわけで、新年一本目は、ずっと楽しみにしていた「キングスマン・ゴールデンサークル」。
「キングスマン(以降無印≠ニつける)」の続編となるわけだが、これほど前作を観ておいて良かった、と思わせる映画はなかなかない。


(日本公開まで待たされました……)

 わたしはけっこう、いきなり二作目を観て、面白かったら一作目に遡って観る、というのが苦にならないタチなのだが、こと本シリーズに関しては、無印→本作の順で観ることを強くお勧めする。

 今回の記事は、まったくネタバレを考慮せずに書くので、「キングスマン無印」「同ゴールデンサークル」を未見の方は、絶対にこの先を読まない方が良い。わたしがここまで言うのは珍しいと思う。この先の「あらすじ」の途中で別記事へぜひ移動していただきたく。

 あらすじ――というか本作のさわり。
「キングスマン無印」で世界を救い、ハリーの遺志を継いで高級テーラーキングスマン=\―実は超国際的スパイ組織――の一員となったエグジー。前回の終わりにいい雰囲気になった王女との仲も続いており、順風満帆である。
 が、その日、店じまいをしての帰り、彼はいきなり暴漢に襲われる。その正体は、前作でキングスマン候補になりながらみじめに失格したチャーリーだった。えっ!? 彼も前作で頭ボーン≠オていたんじゃなかったの!? などと思う間もなく、激しいカーアクション。そしてチャーリーの右腕がなんとサイボーグ化されているのにびっくり。闘いの後、チャーリーを倒しキングスマン基地へ無事帰還したエグジー。今夜は王女と甘いデート。翌日は、王女の家族と会食。ロキシーのメガネサポートもあってウィットに富んだ会話を交わしていたエグジーだったが――。


 次の数シークエンスで、前回あんなに頼もしかったキングスマン基地はミサイルで一瞬のうちに破壊され、一緒に候補生となり闘ったロキシー、さらには愛犬JBまで死んでしまうのである!

 このアンバランスさ!? えっ、いきなり!? である。

「キングスマン無印」ももちろん傑作なのだが、わたしは作中、唯一、(本来、正義の味方側である)ハリーが、教会での乱闘シーンで先に発砲する≠ニころに抵抗があった。
 いくら口が悪い妙な信者連中とは言え、特に悪人とまでは言えない無辜の人間を先に撃つというのに仰天したのである。
 このシーンでうすうす気づいてはいたのだが、「キングスマン」においては、あまたのスパイ映画が金科玉条としている勧善懲悪≠超越している。
 ストーリーの通奏低音に「このキャラクターは善¢、だから○○しない」、「このキャラクターは悪¢、だから××する」という安定感がない。
 数行前にも書いたが、この「アンバランスさ」。これが「キングスマン無印」「同ゴールデンサークル」の魅力なのだ。

 そんなこんなで壊滅したキングスマン組織は、アメリカにある似たような組織「ステイツマン」に助力を求めるが、遡ってみれば、チャーリーのサイボーグ化は「600万ドルの男」のオマージュかと今気づいたり。

 そしてアンバランスさの妙は、前作で新キングスマンとなったロキシーを簡単に殺しておきながら、前作で死んだはずのハリーがステイツマンの技術で蘇生していた、というくだり。
 これは散々、トレイラーで知ってはいたが、ストーリーテリングの王道から言えば、こんなことをする必要は本来まったくない。コレ、ダースベイダーに斬られて霊体化したオビワンが、「帝国の逆襲」でルークに「よっ、元気?」と肉体のまま現れるくらいのありえなさ。それをここまでもう開き直ってやってくれるのだから、このアンバランスさがもう痛快、快感になってくるのである。

 007で言えばQの役割をするマーリンまで、今回、殺してしまうという無情ぶり。ああ、あのシーンは良かったなぁ。よし、ここで「カントリーロード」を掛けよう(ご覧になった方なら頷かれるはず)。

 ストーリー的な瑕疵としては、記憶を取り戻し正気になったハリーが、ステイツマンウイスキー≠フ裏切りに勘づくなにかの要因が必要だと思うのだが、それもあえて描かないのも、この「アンバランスさ」のゆえか。
 また、このウイスキー≠フ裏切りが、ステイツマンとは無関係な個人主義的しがらみからきているというのも、アメリカ的個人主義の皮肉として面白い。

 少しストーリー全体に目を戻すと、今回の敵は麻薬組織の女ボスなのだが、実は真の悪は(彼女と裏取引もまったくしていない)アメリカ大統領というあたりもひねってある。
 絶妙のバランス、ではなく、絶妙のアンバランスで成り立っているのが、「キングスマン」シリーズなのだなぁ。
 もし三作目があるとして、今回蘇ったハリーが超悪役になっており、エグジーに殺されても、わたしはもう驚かない、ね。

 それにしてもキングスマンの世界ってば、「無印」では人を暴力的にするsimカードで全世界で暴動を起こし、「ゴールデンサークル」では麻薬使用者を皆殺しにするウイルスで大騒動を起こしと、世界的な危機がありすぎである(笑)。
 が、どちらもわが国日本では、三大キャリアメーカーsimの寡占状態と、麻薬使用者の少なさから、けっこう元から災難から逃れている国だったりして、などとも思ったり。ガラパゴスも悪くはないかもね。

 あぁでも「キングスマン・ゴールデンサークル」はこんなに面白かったのに、日本公開は三ヶ月経ってから、なのである(米英公開は2017年9月22日だった)。
 こういうののガラパゴス化は、やっぱり嫌だなぁ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年12月02日

【映画評】鋼の錬金術師(実写版)

 12月1日は映画の日、1,000円で観られるということなので、今日公開で初日動員人数をしゃにむに稼ごうとしている感アリアリの「鋼の錬金術師・実写版」を、細君を誘って観劇に。

 そりゃやっぱりあーた、入場者特典の「ハガレン0」目的ですよ。一冊は裁断してデジタル化するつもりである。



 あまりに有名な名作なので、特にストーリーは書かないが――

 禁断の女体錬成に挑んだTSモノ大好き兄弟が、兄はその代償として片玉を失うとともに割礼されてしまい、弟は魂をオリエント社のラブドールに定着することで生き延びた。以降二人は、失われた弟の体、兄の片玉と包皮を取り戻すために大西ケンジの石を探す旅に出る。


 というような話だったような――おっと、多方面にケンカを売っているような気がするので、これ以上、いけない。

 肝心の映画の内容だが、実に肝臓であった。ストーリーも演出も三星ホテルである。特に焔の錬金術師ことフジヤマ(だったっけ?)を演じたディーン・フジオカが素晴らしい。彼は今後、ディーン・フジヤマに改名するべきだと思う。というか、もうわたしの中ではフジヤマである。
 ふざけて書いているように思えるかもしれないが、観ればあなたも絶対肝臓すると思うので、この冬の一本としてお勧めである。実にジワジワとリバーブローが効いてくる映画である。

 いやしかし、積極的に評価したい点はけっこうあるのだ。ひとつめは、「鋼の錬金術師・第一章」などとしないで、一作できちんと納めたところ(最後の蛇足には目をつぶる)。長い原作のいろいろなところをつぎはぎしながら「あーそういう展開にして、こういうまとめ方にしたのね」という話構成は悪くないと思う。

 ただなぁ。「ちょおま、介抱してる間に攻撃せいよ」とか「あに説明ゆっくり聞いてんだよ」とか、間延びしているシーンが多すぎるきらいはある。これではまるでラジオドラマである。ジェイソン・ボーンだったら10人、ジョン・ウィックなら30人のキルカウントをとっていそうな時間をかけて、やっと一人やっつけるようなペース。

「ハガレン」自体は、それほどファンというわけではないが、2003年からやっていた方のテレビシリーズが、原作とは解離しつつ素晴らしい設定力と独創力で好きだった憶えがあるので、ひょっとしたら実写版も、という期待はあったのであった。
 もちろん、原作も全巻読んでいるが、わたしは上記アニメのオリジナルの設定が好きだ。こういう人は珍しいかもしれない。

 でもね、ほんとにそう悪くないですよ、この実写版(マジにアレな出来だったら、わたしは観てもなにも書かないか、それをネタに別の記事を書く姿勢なのはご存知の通り)。
 おそらく「ハガレン」の実写版として「ハガレン」のファンが観たらガッカリするかもしれない。しかし日本のアイドル映画≠ニして観たら、これはかなりいい点を出せる映画なのではないかなぁ。
(ごらんになった方。逆に、このストーリーと演出でアニメにしたら、と想像してみてください。大失敗作でしょう?)

 エドを演じた山田涼介さんも熱演が良かったし、ウィンリィを演じた本田翼さんも可愛らしかったし、ヒューズを演じた佐藤隆太さんはハマっていたし、ラストを演じた松雪泰子さんは見事の一言だったし、マスタング大佐を演じたディーン・フジオカはフジヤマだった。

 少なくとも、細君に「ガッジーラ」を誘って観たときよりも、彼女に対して罪悪感を抱かずにすんだので良しとする。
 ちなみに、2003年の「ハガレン」アニメしか観たことのない細君の評としては「まあ、それなりに面白かったよ」でした。

 でもね、帰り道、「この世界の片隅に」を観たときとは違う意味で無言になってしまう二人、なぜなのだろう……。

 とにかくアレだ。「ハガレン0」を配布している間は、1,800円でもファンには価値があると思うから、在庫があるうちに劇場へ急げ、なのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年11月15日

【書評】ウワガキ

 八十八良「ウワガキ」(全4巻・完結)

 自分の想い人には、もう恋人がいる。そんなつらい状況に置かれたら、誰だってふと思う。もし、想い人が恋人と出会う前に自分が告白していたら、うまくいっていたのではないか、と――。
 そのようなif、「もしも」をシミュレートしてみたら、というのが、本作「ウワガキ」の導入部である。

 この記事に関しては、ネタバレ全開かもしれない。もし、ネタバレがお嫌いな方は、あらすじの前に別の記事へ飛んでいただけたら、と。

 しかし本作「ウワガキ」は、ネタバレを知っていても面白い! と太鼓判を押す。なにしろわたし、本作を四、五回は通して読んでいる。そして毎回、文句なく楽しく、また心地よい読後感に浸っているからである。

 あらすじ――
 安治川良男(アジオ)は高校2年生。同級生の照井千秋が好き。ところがある日、罰当番を一緒にしているとき、彼女に既に恋人がいることを知ってしまいガーン。告白前に失恋してしまう。
 ショック覚めやらぬ内に、罰当番を命じた化学の山田先生が、こんなことを言い出した。「研究対象として、照井君と相思相愛になってください」
 そしてなんと、不思議な力で千秋を二人に分裂させてしまう! ひとりは恋人とつきあっている今までの千秋、もうひとりは恋人とつきあっている記憶のない、コピーされた千秋。
 先生は言う。「照井君(千秋)には彼氏との愛を今までどおり育んでもらう。安治川君はコピー千秋を口説く。数ヵ月後、千秋とコピー千秋を融合≠オ、そのときふたりの好きな気持ち≠ェ、彼氏より安治川君に傾いていたら――照井君(千秋)の好き≠ヘ上書きされる」
 果たしてアジオはコピー千秋(後に小秋と命名)の心をつかむことができるのか。変な実験に巻き込まれた千秋の恋の行く末は?
 東京、門前仲町を舞台に繰り広げられる、ちょっと不思議でほろ苦く、そして楽しいラブ・コメディのはじまり、はじまり。


 なんとも、とんでもない導入部だが、この「とんでもない」を読者にサラリと納得させてストーリーに引き込んでしまう飄々とした展開力が素晴らしい。力づくではなく、ストーリーの主眼はそこにはないよ、と、読者の疑問をヒラリとかわす山田先生の台詞が良い。「宇宙人、未来人、異次元人、魔法使い、エトセトラ、エトセトラ。好きに呼んでもらって構わんよ」



 八十八良先生の描線はカッキリとしていてカラリと乾いた風のような絵柄がわたし好み。ヒロインの千秋も可愛らしい。

 コピー千秋こと小秋≠ヘアジオのところへ居候することに。恋人の記憶をなくした彼女はアジオのことがまんざらではない様子。
 対して千秋の方をネタバレしまうと、彼女は実験開始後、そうそうに彼氏にフラれてしまうのである。oops!
 小秋は千秋の双子の妹として学校にも編入。髪をショートにして見分けがつきやすいように。同居生活に学園生活、加えてデートなどもして、彼女の心はどんどんアジオに傾いていく。



 対して、彼氏にフラれてしまった千秋も決意する。自分の彼にたいする好き≠フ気持ちは失わない。失恋しても好き≠ネ気持ちが消えてしまったわけではない。融合≠フとき、彼氏への好き≠ネ気持ちで上回ってみせる、と。

 一方、アジオはバイト先で頼りになる男性、和也と知り合う。なんと彼は千秋の元カレ。この和也が、決して悪い人ではないのである。彼もずっと想い人がいたのだが、バイト先の女の子(千秋)から告白され、それで想い人のことを忘れられるかとつきあったが――という顛末。
 悪い人ではない、と書いたが、ちょっと男目線かもしれない。この和也、想い人から心を向けられて、それで千秋をフッたのだから。

 その事実を知ったとき、アジオも激昂。小秋とのデート前だというのに――



 千秋の想いを知った小秋は、自分がアジオから身を引くことを決意。そうすれば融合≠フとき、千秋の和也への想いが上書きされることがないから、と。アジオも千秋を大事に思っている。そこで――



 こりゃあ小秋ちゃんもキュンときますなぁ。

 話は佳境に入り、謎の山田先生を追っている組織とともに修学旅行へ――。


(修学旅行の予備部屋でふたりきり。「ウワガキ」屈指の名場面)

 敵の組織に追われながら、融合≠フ準備を急ぐ山田先生。遊園地で追いつ追われつのアクションシーンが続く。追い詰められたアジオと千秋&小秋。そこで我を失った追手のひとりが拳銃を発砲。



 アジオをかばって、千秋が撃たれてしまったのだ。
 駆けつけてきた山田先生が、撃たれた千秋を救うために、小秋との融合≠試すが、機械にエラーが出てしまってうまくいかない。融合≠ナはなく上書き≠ェできずに失敗してしまうのだ。
 山田先生は一言。「千秋君、安治川君の事、好きになってるね?」



 千秋の想いも和也から離れ、アジオのことが好きになってしまっていたのだ。
 ということは? 上書きではなく? 融合すると、どうなるの?


(好きの足し算! アジオ、男冥利につきますな)

 緊迫した中にも、とてもユーモラスで、ニマニマしてしまうシークエンス。この一連のコマ運びは、何度読んでも楽しいところ。

 ラストは計算されつくした大団円。
 融合した千秋&小秋に「なにせアタシふたり分で、アジオの事好きだからな」と言われ「俺もふたり分好きだから」と返すアジオ。これもキュンときますわなぁ。



 実に実に読後感が良い。街中でこんなキスをしている高校生カップル、普段なら「許せん(嫉妬)」だが、隅田川の中央大橋でこんなに絵になる二人に祝福を!

 ところで、アジオが好きになったのは千秋なのか小秋なのか、ちょっと気になりません?
 それがわかるのがこの後の番外編。これがまた読者サービスの一本、スラップスティック色満載で楽しい。本編の「一分でも一秒でも早く」の伏線まで回収して、読者は心の底から満足できること間違いなし。

 四巻という長さで、急ぐことも間延びすることもなく、遊び心も満載で、読後感はホッコリ。引用が多くなってしまうので貼れなかったが、ほかにも名シーン、グッとくるシーケンス、楽しいサイドストーリー。そして、登場人物みなが、本心から悪い奴ではないことも特記しておきたい。
 八十八先生のサービス精神がつまったこの「ウワガキ」。ラブコメ好きなら絶対に読んで損しない作品。お勧めです。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年11月04日

【書評】キリスト教は「宗教」ではない

 竹下節子「キリスト教は「宗教」ではない」

 今まで数々の「キリスト教の本」をご執筆していらっしゃる竹下先生の新著が「キリスト教は「宗教」ではない」というタイトルなのだから、これは手にとって読んでみたくなる一冊。



 サブタイトルには「自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜」とつけられている。

 個人的な理由であまり精読している時間がなく、竹下先生の言わんとするところを誤読している可能性もあるのが歯がゆいが、いささか挑発的な、この「宗教」ではない≠ニいう一文は、むしろイエスの教えが「宗教」的ではなかったからこそ、「キリスト教」が普遍宗教に変わっていったのだという根源的なロジックを、世界史から逆に読み取っていこうという大胆な試みを反映したものだという感想。

 本書は、原始キリスト教を「イズム」として捉えることから始まる。イエスの教えは本来、普遍的な「生き方マニュアル(イズム)」であり、もともとのユダヤ教だけではなく、宗教というもの自体からの自由を得ることだったのだ、と。

 日本人のほとんどは(エセ)仏教徒だが、仏教は宗教というより哲学だ、と言われると「そうだよな」とうなずく人も多いのではないだろうか。
 原始キリスト教もまた、仏教と同じような面があった、ということである。

 章は進み、世界史の中で「イエスの教え」が「キリスト教」になり、普遍宗教として成熟していく様子が詳説される。それが可能だったのは、まさしく「キリスト教が宗教≠ナはない」ロジックだったからだと。隣人愛という普遍的な利他意識が通奏低音にあったからこそ、普遍宗教たり得たという視点は、意外と、どころかキリスト者であるとむしろ盲点になっているような気がする。

 実に読み応えがあるのは第四章「宣教師たちのキリスト教」である。
 日本の戦国時代に訪れた宣教師たちは、ちょっと斜に構えた歴史好きに言わせると「日本の隷属化を目指した」などと揶揄されるが、実はもっともっと純粋だったのだ、という例が豊富に載せられている。
 また、この章にある――

 言い換えると、キリスト教は、「普遍宗教がカルチャーとしてしか表現できない」ことをヒエラルキーの頂上において自覚した珍しい宗教である。


 という一文は、まさしく「目からウロコ」の気づきであった。

 そして、本書を閉じ全編を通して思うのは――竹下先生、本書は実は、竹下先生の信仰告白本でしょう、ということだったり。

 タイトルが挑発的ではあるが、この一作はまさしく、竹下先生のキリスト教へ深い理解と、キリスト・イエスへの愛がにじみ出ている労作なのだと。
 その愛は教派を越えて――と書きたいところだが、少々(かなり?)カトリック寄りに感じるところも、カトリックのキリスト者として嬉しい。

 正直、今まで拝読していた竹下先生の本の中で、「ちょっと読みにくいな」というひっかかる部分があったりしたのだが(個人的に読書がつらい環境だったことが原因。これは先生の責任ではない)、「この本は先生の信仰告白本なのだ!」と気づいてからは、読み進めるのが実に楽しくなった一冊である。

 あと、とても面白かったのが、バッハの――

聖金曜日のライプツィヒで『マタイ受難曲』が初めて演奏された時には、最初のコーラルの時点で一人の婦人が「主よ、あなたの子らを守りたまえ、これではオペラ座か劇場にいるのと同じです」と叫んで教会を出て行ったという逸話が残っている。


 という話。ちょうどバッハのカンタータを流しながら本書を読んでいたので、大ウケしてしまった。

 いつの時代にも反動はあるが、キリスト教はその「反動」をこそ好意的に受け止めるイエスの教え(イズム)があったからこそ、二千年の歴史を刻んできているのである。

「宣教の沼地」日本にいるキリスト者としては、「宗教」であるキリスト教に満足して、その根源である「信仰・希望・愛」を見失っているのではないかと内省させられる。

 ノンクリはもちろん、むしろキリスト者にお読みいただきたい一冊である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2017年09月20日

【書評】カルト村で生まれました。

 高田かや「カルト村で生まれました。」
 高田かや「さよなら、カルト村。」

 読んで、これは「書評」で取り上げたいなぁと思いつつ、どう切り込んでいいものやらと思いあぐねていた二冊。
 例えて言えば、最近は普通になった「中身がシーリングされたハガキ」が剥がしにくくて、ヘタしたらベリベリと中身まで破ってしまいそうな、そんな感じ。

 これは、著者、高田カヤ先生が「カルト村」で生まれ育ち(「カルト村で生まれました。」)、その村を出る(「さよなら、カルト村」)までのマンガレポートである。
 実際には「カルト村」で生まれてから19歳になるまでの記録とのこと。

 作中には一切出てこないが、この「カルト村」とは「ヤマギシ会」のことである。
 ご存知ない方のために解説を書きたいが、「批評本」を数冊読んだだけのわたしは、公平なスタンスからは書けないかもしれないので、ネットのソースをポインタする。

幸福会ヤマギシ会公式ホームページ
Wikipediaの幸福会ヤマギシ会のページ

「カルト」とは言え、宗教団体ではない。むしろそれとは正反対。この日本内で「共産主義をがんばっている生活共同体」である。農業、牧畜を基盤とした自給自足を目指す共同体であり、モノを個人が所有することを否定している。


(「教祖様!!」「怪しい礼拝!!」「拉致!! 監禁!! マインドコントロール!!」などはありませんでした、とのこと)

 ただ、高田先生のマンガを読めばわかるとおり、この日本の中で完全に原始共産主義を貫くことはできず、実社会からパンの余りものを「家畜のエサ」として貰ったり(そしてそれを食べる子ども)、実社会と軋轢を生まないよう擦り合わせをしながら村を運営しているようである。

 内容はマンガレポートであり、主に子どもの頃、高田先生がお持ちになられた生活の感想がそのまま描かれている。
 ほのぼのした絵柄もあって、読んでいるうちに、あれっ? これ、それほどカルトではないなぁ……という気分になってきてしまう。

 たとえば、村では食事は昼夜二回だけで、子どもはいつも腹をすかせており、その子どもは親と離れて暮らす(子どもたちだけで集めて育てられている)。
 子どもであっても相応の労働を強いられ、学校に関しては義務教育なので、実社会の学校へと通う。
 学校が終わったら、即、村へ戻り、また労働。共同風呂、皆で食事、夜のミーティング。そして就寝。その繰り返し、である。
 自分のもの、として所持できるのは、自分にあてがわれた引き出しの中のもののみ。下着などは別だが、衣服も共用で、実社会へ「晴れのお出かけ」をするときは、子どもの世話係が衣服を集めた部屋からみつくろってくれる。

 とにかく、高田先生の子ども時代は「お腹をすかせていた」らしく、食事関係の話が多い。
 また、子どもへの体罰も普通に行われていたことが描かれている。



 これは現代の実社会から見れば、明らかに子どもへの虐待である。
 だが――こう書いてきて、どうもわたしは、これが「カルトだ!」と怒りに胸のうちを震わせることができないのである。
 なんというか、「こういう社会もアリかなぁ……」と感じてしまったのだ。
 少なくとも、システムとしてこれが機能しており、子ども一人ひとりを「面倒見ている」点では、実社会でネグレクトをしている現代の一部の親などに比べればまともである。



 親と子を離して育てるシステムも批判はあろうが、これも「自分のキャリアのために」仕事を辞めず子どもを保育園、幼稚園にあずけて働き続ける現代人が、一方的に批判できることだろうか?

 続刊の「さよなら、カルト村。」の方で、最初は村に残って生きていくつもりだった高田先生も、紆余曲折あり、実社会へと出て働くことにする。
 それでもやはり、村で育った「世間ずれ」してない成年になりたての子どもであるので、少しズレたところはあったようで、出会い系サイトに登録し、そこで知り合った方と結婚することになるというハッピーエンド。
 ここで出会った、初めてメールを送った相手であり、のちの夫の「ふさおさん」がとても良い方であったから良かったものの、実社会においては、かなり危うい人生のスタートであったと感じる。



 通して読んできてみると、日本に実在する「カルト村」というより「共産主義のどこかの外国で生まれ育ちました」というような雰囲気がほのぼのと漂う。こういう感想は危険なのだろうか。いやしかし、わたしが何冊か読んできたヤマギシ会の批判本より、子どもの目線で書かれた本書二冊は、よほど真実に近いのではとも思う。

 ヤマギシ会は本書タイトルのように、日本の実社会からは「カルト」と言われてしまっているわけだが、これからの日本が突入しようとしている歪んだ貧困社会から見ると、ヤマギシ会のシステムは、最後のセーフティネットコミュニティになる可能性を孕んでいるかもしれないのである。

 最後に思ったのは、ヤマギシ会の「カルト」は宗教ではないなぁ、ということ。むしろ水と油の存在である。
「【書評】無宗教こそ日本人の宗教である」で、著者の島田裕巳先生はかつてヤマギシ会にいたという話を書いたが、やはりそのあたりも島田先生が「宗教学者」ではなく「宗教評論家」としてスベッている証なのだな、と改めて感じた。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評