2018年05月30日

【昭和の遺伝子】本屋をハシゴ

 Amazonで家に居ながらにして、ほぼ品切れなしで欲しい本を購入できる今の時代、昭和生まれ昭和育ちのわたしでも、忘れてしまったことがあるなぁ、と気がついた。

 それが%title%の「本屋をハシゴ」である。

 今でこそ、欲しい本が本屋になくても「じゃ、Amazonでいいや」と踵を返せる時代だが、昭和の時代には、なじみの書店にない本が、別の書店にある、ということを期待して、次々と本屋をハシゴすることがよくあった。

 売り出されてすぐの本、新聞に紹介された本でも、大型書店に置いていない、ということは珍しくなかった。
 いわんや、新刊で好きになった作家の過去の本など、書店をハシゴして見つけて買うのが当然であった。

 大型書店ばかりでなく、小さな個人経営の書店も多かったので、学校の帰りにバスを使わず書店巡りをしながら帰宅したり、あるいは電車に乗って隣町の大きな書店に行ってみたりして、やっと目当ての本を見つけたときのうれしさ。
 こういう喜びは、Amazonで本を買えてしまう現在では、あまりなくなってしまったのではないかな、というか、わたし自身、忘れてしまっていたな、と思う。

 どこの書店でも扱っていないが、どうしても入手したい本の場合、「取り寄せ」してもらうことになる。
 ところが、この「取り寄せ」がひどかった。個人経営の書店に頼むと、平気で一カ月先とか、まず根本的に「取り寄せお断り」をされたりするのである。
 大型書店で「取り寄せ」の手続きをして、交換の手形をもらっても安心できない。取り寄せ予定の日に行ってみると「残念ながら、その本は品切れ≠ナした」ということも珍しくないからだ。

 出版社によっては、というより、どの出版社も、初版の売れ行きがよくないと、品切れ≠ニいう名の、事実上絶版≠ノしてしまう。なぜ本当の絶版≠ノしないで品切れ≠ノしておくかというと、本当の絶版≠ノしてしまうと出版権≠失ってしまうから、という汚いやり口なのである。

 現在の日本で、過去の書籍を再版せず、この品切れという名の事実上絶版≠ノしている作品は、小説、マンガを含め、膨大な数にのぼる。こういうことをやっている出版社が、「マンガ村」問題で被害者面ばかりしているのは実にうさんくさい。
 マンガ家たちが一致団結して――とならないのは、出版社側にこういう汚い一面があるから、ということを、読者には知っていてほしい、と思う。

 閑話休題。
 今でも覚えているのは、ル・クレジオが書いた「巨人たち」であった。図書館で読み、これは手元に置いておくべき本だと確信して、まずは%title%の「本屋をハシゴ」。どこにもないので、地域の一番大きな書店へ。そこで注文をしたのだが、数週間後、連絡が来たら品切れという名の絶版≠セという。
 たしか、初版が出て半年後のことだ。わたしはその頃、作家ではなかったが(中学生だった)、出版界、こういう名著を簡単に屠るとは、それでいいのか!? と憤った思い出がある。

 今、スマホからAmazonで調べてみたら、中古品だが送料含めて1,000円以内で買える。躊躇せず買ってしまった。756円也。
 これだもの。既存の本屋はもちろん、古本屋も淘汰されていくわけだ。

 思いもかけず「巨人たち」を入手できた喜びで筆が踊るが、むしろ、こういう、古い名作を流通させることこそが「文化」だと思う。
 書店や出版者の衰退は、Amazonを始めとするネット時代から始まったのではない。もう数十年前、わたしが中学生の頃から始まっていて、ネット時代になって露呈しただけなのだ。

「マンガ村」は論外だが、出版社が品切れという名の事実上絶版≠やめて、どんどん電子書籍にしていくなら、応援したい気持ちはある。
 けれど、今のままでは、ね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年05月27日

【昭和の遺伝子】ルービックキューブの思い出

 年がいもなく、「ルービックキューブ」にハマっている。



 いや、「年がいもなく」という表現は正確ではないな。なぜならわたしは、高校生の頃に日本で始まった「最初のルービックキューブブーム」を体験した世代。むしろ「超久しぶりに」というのが正しい。

 当時の「ルービックキューブ」ブームはすごかった。わたしは最初の購入機会は逃してしまったが、幸い、二次販売の情報を得て、けっこうはやく、ツクダの本物を手にしたのではなかったかな。
 確か、朝早く、百貨店の玩具階に並んで、数千円也を払って購入したのである。当時はまだ、パチモノなどは並んでいなかった。

 買った季節が正確にいつなのかは覚えていないのだが、姉とコタツで交互にやっていた覚えがあるので、寒い時期なのだったと思う。

 一面を作るのは、みなさんご存じの通り、容易である。しかしそこから先、どうやって作っていったらいいのかが見当がつかない。ガチャガチャ、ガチャガチャと、昼も夜も回し続けたと思う。
 一度、なんとか、隣り合う一面同士、つまり二面は並べることができた。こうやって、一面ずつ作っていくのかなぁ? と先行きに気が遠くなったものだ。

 しかし、あとのいろいろな「解法」を見ると、この方法では結局六面全部はできなかったのだな。

 念のため言っておくと、当時はツクダオリジナルのルービックキューブに「解法」などを記した説明書は、一切、入っていなかった。
 ネットもなく、家庭用テレビゲームもない時代、子ども同士のグローバルなコミュニケーションは、少年マンガ誌の投稿ページくらいしかない時代である。

 もうこりゃダメだ。とてもできたもんじゃない。と、放り出して部屋のオブジェと化して数ヶ月後、本当に意外なところから「解法」が出てきた。

「ガチャガチャ」である。カプセルトイだ。
 それの「当たり品」として、ルービックキューブの「解法」が載った紙切れが入っていたのである。
 わたし自身は「ガチャガチャ」はやらず、その紙切れを、当てた友人から適価で譲ってもらったような記憶がある。

 そして、その景品の「解法」どおりに、ちょっとだけ試行錯誤しながらやってみると、なんと、あれほど不可能に思われた、きれいにそろった六面が目の前に現れたのだった。
 その瞬間の感動は今でも覚えて――と書きたいところだが、いやはや、そのモーメントの様子は、わたしの脳のメモリーから見事に欠落しているのである。
 いや、むしろ、感動より、落胆した、という感情が湧いたことが記憶にある。「なんだ、こんな機械的にクルクル回すだけで、六面が完成してしまうのか」という――。

 一度、手順を覚えてしまえば、あとは記憶ゲームである。何回、六面をそろえたかわからない。手が手順を覚え、六面ぞろえをカップラーメンを作る時間くらいでできるようになった頃、もう飽きて、やらなくなってしまった。
 当時は、キューブを増やした「ルービックリベンジ」や、新しいパズルゲーム「テンビリオン」などが続々と発売されていたが、もう、そういったものから興味はうせていた。

 この記事、長くなったので、【昭和の遺伝子】編は終わり、現代編の次回へ続く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年05月11日

【昭和の遺伝子】夜歩く

 賞をいただいたハイティーンの頃から、20歳前半にかけては、夜、歩くのが好きだった。
 と言っても、夜の繁華街に繰り出して、というわけではない。そういう夜の街とは無縁の生活を送ってきた。
 誰もいない、深夜の住宅街や商店街を、ひとり、ウォークマンを聞きながら歩く。特に目的地があるわけではない、ただ、気ままに深夜の散歩を楽しむのである。

 歩きながら、いろいろと小説のストーリーを考え、構築する。当時のわたしは、家の中にこもっていて、突然なにかアイデアがひらめいて降りてくる、といようなことはあまりなかった。たいていは、歩きながら考えていた。

 歩くことは苦にならなかった。免許も持っていない頃である。移動手段は自転車か歩くしかなかった。そしてわたしは、昼でも、夜でも、歩くのが好きだった。
 予備校生時代は、毎日のように、予備校のある水道橋と、神田の古書店街、そして、秋葉原への道を歩いていたくらいだった。

 酒と煙草がたしなめる歳になると、チョビチョビと酒を飲みつつ、煙草を吸いながら、夜の散歩を楽しむようになった。ちょうど、缶チューハイが流行し始めた頃である。ビールはまだ子ども舌の自分にはうまくなく、瓶の日本酒はアルコール臭が生々しすぎて駄目だった。
 煙草は以前も書いたが、初期はキャビンマイルド、中期はキャスターマイルド、後期はマイルドセブン。吸い殻はちゃんと、吸い殻入れに入れて持ち帰る。当時はやっと「吸い殻は吸い殻入れに」という運動が始まり、カートンで買うとサイフのような吸い殻入れを専売公社がつけてくれたのであった。

 夜の街は、シンと静まり、みなが夢を見ている、その時空間を、ひとり、のんびりと歩いている。寂寞感がよかった。

 そういえば、当時は風営法がまだなかったので、深夜でも開いているゲームセンターがあり、そこで普通のテレビゲーム(確かマッピー)をしていると、店のマスターが寄ってきて、「あちらの台で儲けられますよ」という。覗いてみると、テレビゲームの筐体にお札が入るようになっていて、そこでポーカーだかなんだかができるようになっているのである。違法ギャンブルマシンであった。
 元来、ギャンブルとは無縁のタイプであったので「ほぉ、こういう世界もあるのだなぁ」と感心して、手は出さなかった。

 数年間、毎日ではないが、気が向くと夜歩く習慣を通していて、一回もトラブルに巻き込まれたことはなかった。酔っ払いにからまれたこともなければ、警察官に職質されたこともない。

「夜」ということを抜かせば、よく歩いたのはいい習慣だったと思う。
 今でも歩くのは嫌いではないのだが、やはり歳のせいか、どこまでも歩いて行ける、というような気持ちがなくなってしまった。
 会社を作って営業に回っていた頃は、若い頃に負けないくらい歩いていたものだが、そのうち膝を痛めてしまい、無理がきかなくなってしまった。

 若い頃は、歩きながら、自分はこの二本の足で、どこまでも歩いて行ける。そんなふうに思っていた。

 人生も、そんなものなのかもしれない。
 ふと立ち止まって、後ろを振り返ると、これまで歩いてきた道程のいろいろが思い出されて、あの深夜の寂寞感とはまた違った、喜びと、悲しみと、笑顔と、涙がないまぜになった、不思議な感情に、目を伏せる。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年04月15日

【昭和の遺伝子】オールナイトニッポンの思い出

 中高生の頃の深夜は、よく中波ラジオを聞いていた。
 これは部屋にテレビがなかったからという理由もあるが――今の若い人は信じられないかもしれないが――昭和はそのテレビ放送自体、深夜はお休みで砂嵐になっていた時代でもあったのである。

 そんなわけで、受験勉強のおともに流すのは、ニッポン放送のオールナイトニッポンと決まっていた。

 午前1時に始まるのが一部。こちらはけっこうな有名人が受け持っている。それが終わって午前3時に始まるのが二部。こちらはちょっとマイナーなパーソナリティーが担当。
 ここから先は検索などせず、思い出のみで書いているので、事実と違ってもご容赦といういことで。

 月曜日の一部は、中島みゆきさんだった。わたしはこの放送を聞いて、みゆきさんのファンになったのである。一時期(彼女がまだ二十代の頃)のニックネームで「ぺったん」というものがあった。どうやらバストの大きさからきた呼び名だったらしいが、この頃からのファンである。
 彼女の「暗い」歌に比して、その明るい番組内容は抜群に面白かったが、思い出せるコーナーが「家族の肖像」くらいという、自分の記憶力のなさがうらめしい。

 月曜二部はアナウンサー枠ではなかったかなぁ。いやしかし、まだ無名だった頃の伊集院光さんが受け持っていたような記憶もある。
 伊集院さんの放送は、今の彼のご活躍からみなさんご推測できる通り、もう抜群に面白かった。当時のキャッチは「オペラの怪人・伊集院光のオールナイトニッポン」。コメディアンではなく、謎のオペラ歌手、という触れ込みであった。
 今でも覚えているのは、彼がダンボールかなにかをかぶって「自動オペラマシン」となり、路上でやったパフォーマンスの録音とか、あと、「姫」コーナー。これはもう時代を超先取りしていた。
 つきあっている女の子の無理を彼氏が聞く、という内容の投稿コーナーで、体験試乗した機関車を彼女が「動かして」と言ったので、係員の目を盗んで動かして大目玉とか、崖の上にある花を「取ってきて」と言ったので決死の思いで取ってきたとか、そんな内容。
 伊集院さんがハガキを読み上げると、最後に戦国時代の戦の音と「ヒメェーッ」という悲鳴が聞こえて大爆笑、と、そんな感じ。

 ちなみにわたしは伊集院さんと並んでトイレ(小)をしたことがある。あれはクレヨン社のコンサートでのことだった。クレヨン社のこともそのうちに。

 オールナイトニッポンのパーソナリティーは定期的に変わるので、正直、○曜日は誰、というのがなかなか思い出せないのである。これも相性というものがあるので、このパーソナリティーのときは寝ちゃう、この日は二部が面白いから3時まで寝て、起きて勉強しながら聞く、とか、臨機応変にやっていた。
 二部の方は午前3時から朝の5時までである。わたしは6時起床を習慣としていたので(学校が遠いため)、そこまで聞いた日はもう寝ないで朝まで起き通しであった。若いからこそできたのだなぁ。

 当時は120分カセットテープというものがあったので、どうしても眠りに勝てなさそうなときは、タイマーを使って録音などもしていた。ただそれでも、まだオートリバースがなかった時代であるから、4時に目覚ましを掛けて、テープをひっくり返して録音再開である。

 あとお気に入りだったのは、木曜二部の谷山浩子さん。彼女のスイートハニーボイスにはそれは癒やされたものだ。
 一度、ライブの直後にその興奮冷めやらぬ中の放送があり、彼女の持ち歌「カントリーガール」を、スタッフ一同がスタジオの中のものをチャカポコ使って歌ったことがあり、聞いているこちらも深夜に大盛り上がりであった。そのテープは今でも書斎のどこかにしまわれているはずだ。

 これはもう昭和ではないが、裕木奈江さんの放送も楽しかった覚えがある。「言うだけ彼氏」コーナーとか、けっこう好きだった。当時、彼女が不倫ドラマに出たゆえに対する世間のいわれなきバッシングには心を痛めたものだ。
 今は海外でご活躍のようでなによりである。

 そうだ。アナウンサー枠で放送されていた、塚越孝さんのオールナイトニッポンもよく聞いていた。塚越さんが2012年にフジテレビのトイレで自殺なさったというニュースを聞いて呆然としたのが、もう6年も前なのだな。時間の流れの速さを思う。

 今はめっきりラジオも聞かなくなってしまったので、オールナイトニッポンの構成がどうなっているのかもわからない。
 それでも、街で、オールナイトニッポンのテーマ曲「ビター・スゥィート・サンバ」を耳にしたりすると、なんとも懐かしく、自分が若かった頃を思い出す。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年04月12日

【昭和の遺伝子】野良犬

 昔はそこかしこに野良犬がいた。
 野良犬はめずらしくなかった。公園には残飯をあさりにきていたし、犬は群れをつくる動物だから、何匹もでグループをつくって、敵対しあっていたりもした。

 あれはわたしが幼稚園生の頃。
 公園で子猫と遊んでいたら、大勢の野良犬に囲まれていた。その唸り声、殺意のこもったギラギラとした目、逆立った毛、今にも飛びかからんとする姿勢。
「殺されるー」と思った(幼稚園生ですから)わたしは、とっさに子猫を抱いて走り出した。
 と、なんということか、野良犬の集団も追いかけてくるのである。それも、もの凄い吼え声を上げながら。
 その数、十数匹はいたろうか(幼稚園生の感想ですから)。子猫を抱いたまま、家に飛び込み、扉を閉めた。
 しばらく、野良犬たちは家の周りを唸りながら回っていたと記憶している(幼稚園生の記憶です)。

 この一件から、わたしは野良犬がとても苦手になってしまった。
 そのときの子猫を飼ったかどうかは記憶にない。犬が、子猫を狙っていたのか、はたまた逃げるわたしを本能的に追っていたのかもわからない。

 野良犬は狂犬病の媒介者となりうる(犬だけではないが)。日本においては、1956年に犬、1957年に猫が感染したという報告以降、狂犬病の発生は確認されていないそうだ。
 わたしが犬に追われた当時は、もう狂犬病の心配はなかったようである。
 しかし、野良犬による咬傷事件は連続していたようで、保健所の対処により、野良犬はどんどんと減っていった。可哀想だが、咬傷事件が連続していたという現実の前には仕方ない。あのとき、わたしも野良犬たちに咬まれて大怪我をしていてもおかしくはなかったのだ。

 昭和バブルの頃には、野良犬はほとんど絶滅していた。
 中には、犬のサカリの時期になると、綱を外して外へ離してしまう無責任な飼い主もいたが、平成の今ではさすがにそういったこともなさそうだ。
 同時に、昔は「犬は外で飼うのが当然」だったのが、今では「大型犬でも室内で一緒に暮らすコンパニオン・アニマル」化したのが大きいと思う。

 野良犬は減ったが、野良猫はまだ見かける。わたしは猫好きなので、猫がクルマのボンネットに足跡をつけたりしていると和んでしまうタイプだが、嫌いな人がいることを否定することはできない。
 悲しい話だが、世の中には動物の命を奪ったり、傷つけたりするのを躊躇しないおかしい人がいて、猫が犠牲になる事件も耳にする。

 猫は犬以上に「室内で飼うのが当然」「不妊手術をするのが当然」という風潮をつくって、保健所の手を借りず、自然に野良猫も見かけなくなる時代が来ることを祈る。

 もし前述の事件で、わたしが犬に咬まれ重傷を負ったとしても、新聞ネタにはならないような時代が昭和であった(犬が人を咬んでも事件にはならないが――というでしょう?)。

 野良猫を見かけなくなるのは淋しい話かもしれないが、平成に続く新しい年号の時代には「そう言えば、野良猫って見かけなくなったねぇ」と言われるようになればよいな、と思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子