2019年11月13日

【昭和の遺伝子】デジタル時計

 昭和中期、高度成長期時代には、デジタル時計は繁栄の象徴であった。

 デジタル時計に必須の水晶発振子――クォーツ――が内蔵された時計は、まだまだ高値の花であったし、それをさらに小型化し腕時計にするなどは、技術的にも先の話であった。

 駅の時計もアナログ式で、もちろんクォーツではない。内蔵振り子を使った機械式のものである。
 個人が使う腕時計も、もちろん内蔵振り子を使ったもの。当時はネジでゼンマイを巻いて動力にするのが普通で、腕の動きでゼンマイを自動巻きにする機構が「すごい技術が出たものだ」と感嘆されたものだった。

 それでも、精度はけっこう悪くなかったような憶えがある。もちろんクォーツのように月差数秒のレベルではなく、毎日、NHKの時報を聞いて時間あわせをするわけだが。

 NHKの時報と言えば、気づくと、もう「ピッピッピッポーン」の画面が流れなくなっている。当時は正時前に時計が画面に大映しされ、57秒からピッピッピッポーンと時間を教えて、番組に入ったものだったのだ。

 その後、クォーツはどんどん小型化され、駅の時計もデジタル時計になった。このデジタルの「分」が変わる瞬間が見たくて、子どもたちはその時計を凝視していたものだった。

 当時は液晶技術もまだ出始めで、最初に出たデジタル腕時計は8セグメントの発光式だったと記憶している。これの仕様が苦肉の策だった。ずっと時間を発光しつづけると、電池がすぐなくなってしまうものだから、スイッチを押したときだけ、時間を発光するという代物。
 それでも、満員電車の中、これをつけた腕がつり革を握っていたりすると「おっ!」と皆に感心されたものだった。

 クォーツも液晶も、どんどん進化が進み、もう数年後には、腕時計に使われるくらいに実用化していた。
 わたしが中学校にあがり、最初に腕に巻いた腕時計も、液晶のクォーツデジタルであった。発光式と違い、常に時刻は表示されているが、秒まではわからない。ストップウォッチ機能がついていたが、リセット機能が「ボタンを押し続けるとリセット」という、使いにくいものだった。精度も十分の一秒まで。大抵がそうではなかったかな。
 まだ「軽薄短小」という言葉が生まれていない頃である。

 クォーツ時計は爆発的に売れたので、あっという間に安価になり、機械式時計の生産量をすぐ追い抜いた。当時は冒頭に書いたとおり、デジタル時計は繁栄の象徴であった。

 もちろん、アナログ派も根強く残っていて、「デジタル時計を使うと時間の感覚がわからなくなる」、「時間計算にはアナログがいい」、「いや、なんと言ってもデジタルの方が正確だ」、というような議論がなされていた。
 教育的要素はともかく、この頃は、なんと言っても正確なデジタル時計派の方が優勢だった印象がある。

 デジタル時計が安価になり、置き時計も腕時計もほとんどがデジタル表示化されるようになると、時計業界はクォーツでアナログ表示、という時計をつくるようになる。
 すると揺り返しのように、クォーツのアナログ表示時計が増えてくるようになった。
 駅の時計も、またアナログ表示に戻り、子どもたちは、腕時計の秒針が秒でステップすることに未来を感じたのであった。

 しかし考えてみると、時間というものは切れ目なく流れていくものだから、今は皆が当然のように受け止めている、この「秒針がステップ表示」というものは、正確にはアナログではないのかもしれない。
 高校の頃、担任の教師が持っていた腕時計は、秒針がステップ表示ではなく、珍しくスイープ(切れ目なく回る)タイプで、皆で集まって見学し「おおおー」と声をあげた憶えがある。

 そしてバブルの頃は、むしろクォーツより、正確な機械式アナログ時計がもてはやされるようになったのだから、人間というのは不思議なものだ。
 この風潮は令和の今でも続いているようである。クォーツを使わない機械式で、月差数秒というところに、人間の技術の粋を集めたロマンを感じるのであろうか。

 わたしはプラクティカルな人間なもので、そんな機械式より、クォーツで、電波補正式が一番だと思っているが、盤面に限っては、腕時計は(クォーツの)アナログ派に戻っている。やはり時計はアナログ表示が一番わかりやすい。

 この記事は、実は令和元年、11月11日に書いている。令和1年11月11日の、ちょうど11時11分を過ぎたところで、そう言えば昭和の時代は――と連想して書き始めたもの。

 今やクォーツの液晶デジタル時計は、百均でも買える時代である。それを手に取ると、少年時代のデジタル時計へのあこがれを思いだし、隔世の念にとらわれずにはいられない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年08月21日

【昭和の遺伝子】夏祭りの思い出

 うちの町内では、夏になると、児童公園で「盆踊り」の夏祭りをするのであった。
 児童公園周りでやるからといって、これがなかなか莫迦にできない。子どもの頃は、それは盛大でにぎやかなものであった。公園周りの道路までずーっと屋台が軒を並べ、普段は夜、シャッターを閉めてしまう商店街も店を開けて、お客さんを呼ぶのである。

 出ている屋台は定番の、綿菓子、金魚すくい、かき氷、射的、やきそばなどのスナック、子どもが好きなお面などの雑貨売りなどなど。
 子どもも大人も、みな浴衣を着て、けっこう楽しんでいたという覚えがある。
 わたしも千円ばかりのお小遣いをもらって、なにを買おうか、なにをやろうかと、姉とぐるぐる児童公園を回って散在したものであった。
「盆踊り」の太鼓はドンドンドン! と迫力があり、周囲の家が振動するくらいである。
 流す曲は、東京音頭とオバQ音頭がエンドレスで、あれは著作権を払ってやっているのかなぁ?
 この頃の盆踊りの祭りは、三夜くらい連続でやっていたような覚えがある。

 もっとも、こんなに盛況だったのは、もう三十年くらい昔の話。時代が進むにつれて、少子化で子どもたちが少なくなったせいか、毎年、ちょっとづつグレードダウンしていくのであった。
 まず、屋台が道路に並ばなくなった。これは道路の使用許可を得るのが面倒ということと、テキ屋を呼ばなくなったせいと思われる。代わりに、町内会の面々がテントを並べて、子どもたちを迎える店を構えるように。しかしこれもやはりプロにくらべればショボい。綿菓子と金魚すくいは、お面売りなどは消えてしまった。

 依然として、祭りの太鼓だけは元気である。ドンドンドンカカカッカ、ドドンがドン! と鳴り続ける。これは町内会に太鼓を打つクラブがあって、年に一度の晴れ舞台、と頑張るから。

 これが町中に響き、前と違って、とてもうるさく感じる。正直、苦痛である。わたしだけが苦痛だったわけではないようで、前は午後六時から十時までドンドンドンとやっていたのが、今は七時から九時頃までで終わるようになった。

 三十年前は、こういう、町内の祭りもそこかしこで行われていて、賑やかなものだった。今は大きな神社やイベント会場でのみ大規模に行われ、町内の祭りは淘汰されていくのだろう。
 大規模ショッピングセンターと商店街のような関係のようだ。

 うちの町内の祭りも、一度、二年に一回にしようと決まったのだが、結局、町内会の飲み会の場にしたいのか、一年に一回は、ショボくても開かれ続けている。

 あああ、これを書いている今も、ドンドンドンカカカッカ、ドドンがドンとうるさいのだ。家が揺れるほどである。わたしは耳の病気をしてから、静寂な空間が好きなのである。
 これを書いたら、耳栓をした上にイヤーマフをして、横になることにする。
 ちょいと短いが、今回はこれにて御免。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年06月15日

【昭和の遺伝子】マッチと煙草

 マッチで火をつけた煙草はうまかった。

 喫煙したことがない方は知らないことかもしれないが、煙草というのは最初の一服が一番うまい。そして、火をつけた道具によって味が違うのである。

 火に味なんてあるのかよ、と思われるかもしれない。しかし、確かに味の違いはあった。100円ライターでつけた煙草は微妙にガス臭い。オイルライターはオイルの臭いが鼻につく。そしてマッチでつけた煙草は、枯れ木を燃やしたような、切ないうまさがあった。このあたりは、好みでわかれるとは思う。
 わたしは好んでマッチで火をつけ、煙草を喫んでいた。

 昭和の時代の煙草喫みにとって、マッチはわざわざ店で買うものではなかった。なんとなれば、たいていの喫茶店や食事どころが、自分の店名を入れた広告マッチをお客さんにサービスしていたからである。
 各店、いろいろなデザインをほどこしたマッチを用意していて、それを集める楽しみもあった。とはいえわたしは、なんとなく裸のままだとやぼったく思え、汎用サイズの金属でできた黒いマッチケースにマッチ箱を入れて使っていた。
 ちなみに、マッチ箱の大きさはISO規格で決まっているのである。

 マッチで煙草に火をつけるのは、やはり冬が似合う。コートの襟をたてて、寒風に背を向けて、シュッと一本。火のついたそれを両手でかばいながら、口にした煙草に近づけ吸い込むと、肺になんともいえない安堵感が充満する。
 マッチはパッと振って火を消し、吸い殻ケースの中へ。これも当時、専売公社が「マナーも携帯」という宣伝文句とともに、金属バネの閉じ口がついた吸い殻ケースを配っていたのである。

 店の宣伝マッチで助かったこともある。喫茶店に忘れ物をしてしまい、もらっていたマッチに印刷してあった電話番号へ、公衆電話から問い合わせ。すぐに確認がとれて、取りおきしてもらった。
 今ならスマホで一発検索、すぐに連絡がつくだろうが、当時は店舗の電話番号は公衆電話備え付けのタウンページでもすぐにみつかるかどうかはわからなかった。ましてや、ふらりと入った店名も覚えていない喫茶店が相手では。

 昭和の時代には、煙草を吸わない編集者など少なかったので、名刺がわりにマッチをつくって、それを配ろうかなぁ、などと思ったこともあった。結局、スタンダードな名刺整理ファイルに入らないという理由でやめたのだが。

 この「お店のマッチ」も、だんだんと経費削減の波を受けて、簡単な「ブックマッチ」へと変わっていく。
 ブックマッチの軸は厚紙製で、わたしはいまいち好きではなかった。マッチで煙草に火をつけるという一連の儀式が、どこかさもしいものになった気がしたからだ。

 煙草というのは趣味だから、ただ喫煙できれば良いというわけではない。その人その人の美学≠ェあるのである。いや、あってしかるべきなのだが、長く煙草を吸っていると、結局、100円ライターでいつものマイルドセブンに火をつけ、ただプカプカふかす習慣になってしまうのだ。こうなったら「ヤニ中」と揶揄されても仕方ない。

 煙草をやめてもうずいぶんになる。愛煙家が禁煙に成功すると、今度は熱烈な嫌煙家になるという傾向があるようだが、わたしはまあ、喫煙者に優しい方だと思う。

 今、これを書きながら、エア煙草にエアマッチで火をつける真似をして、一服、吸い込んでみた。肺にまで吸い込み、長く吐き出して、エア灰皿へエア煙草をポンポン。妙に気分が落ち着く気がする。

 こと、煙草に関しては、いい時代に生まれたのかもしれないな、と、思う。煙草がまだ悪役でなかった昭和を経験することができたから。あのうまさをまったく知らないで育った平成、これからの令和の人々は、その点、少し可哀想な気がしないでもない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年03月30日

【昭和の遺伝子】駄菓子屋の思い出

 わたしが小学生だった頃、家から一分のところに駄菓子屋があった。
 今の子たちにも「駄菓子屋」は通じるのだろうか。わたしが通っていた駄菓子屋とは別だが、今でもそれっぽい店舗が別のところにあり、夕方は子どもたちでにぎわっているようだから、「駄菓子屋」はまだ残っているのかもしれない。
 ただ、遠目に店内を眺めてみると、狭い店内にスタンドアップ型のゲーム機なども置かれているようで、確かに時代は変わっている。駄菓子屋の雰囲気は同じだが。

 わたしが子どもの頃は、当然、コンピュータゲームなどはなかったから、駄菓子屋はそのまま、狭く小さなおもちゃ屋であった。
 思いつくままに、買ったり、食べたりしたものをあげていってみる。

 プラスチックの竹トンボマシン――丸いプロペラ状の羽を糸で回して空中に飛ばす。羽をなくす(飛んで行って屋根に乗ってしまったり)たびにガッカリ。それでも何度も買ったような記憶。

 コンピュータの記憶テープ――当時は、コンピュータの記憶媒体であるパンチングされた紙テープを巻いて、子どものオモチャとして売っていたのである。今なら情報漏出で大変な事態になりそうなものだ。これを持っていると、なんとなく、自分が科学者になったような気分であった。

 指につけて煙がでるネバネバしたもの――これはなんと言ったらいいのか……。人さし指と親指につけて、両指をつけたり離したりすると煙状の糸くずが出てくるという、ただそれだけのもの。こんなものをおもしろいと感じるのだから、子どもというのは自由である。

 銀玉鉄砲――定番。射程距離はどのくらいだったろう。それほどの威力はなかった。今だったら「銀玉が目に入ったら危ない」と、即刻販売中止になるだろう代物。拳銃の方もすぐに壊れて、何度も買いかえた覚えがある。
 消耗品の銀玉だが、四角い小さな箱に入れて売られていたような記憶。

 かんしゃく玉――地面にたたきつけると、バーン! という破裂音ととも(小さく)爆裂する。これを徐行しているクルマのタイヤの前に投げて爆発させるのが定番の遊び方。ドライバーもなれたもので、それで怒られるということはなかった。鷹揚な時代であった。
 空に投げて落ちてくるとかんしゃく玉がなるオモチャ――名前がわからないのでそのまんま。手に乗るロケットのような造形で、先端部にはかんしゃく玉をつぶす仕組みがつけられている。
 これを空に投げると、先端部を下に落ちてくるので、落下してバーン、と、こういう仕様。

 爆竹――まんま爆竹。これについては別記事でも書いたかな(〓)。昭和の時代は、夕方になると駄菓子屋の前で悪ガキどもがパンパン鳴らしていたものだが、今、そんな情景がないところを見ると、現在の駄菓子屋では売られていないのかも。

 リリアン――これは女子の定番ではないかな。毛糸を編み込む小さなオモチャである。わたしも興味本位にやってみたことがあるが、すぐに飽きてしまった。

 ふがし――食べるもの定番。今でも「二木の菓子」とかで売られていると、懐かしさに買ってしまう。大きさのわりに腹にたまらないのは、みなさまご存じのとおり。

 オレンジガム――箱に四個入りで売られていた。というか、今でも売っているが、当時より粒が小さくなったのは、自分が大きくなったからではないと思う。後期にはイチゴガムも出てきたが、わたしはオレンジガムの世代。

 トコロテン――実はわたしは食べたことがなかった。というのも、その駄菓子屋は土間で、トイレのすぐ横でトコロテンを作っており、そういうのを気にする母から「あそこのトコロテンは食べちゃダメ」と言われていたのを守っていたからである。食べたことはないのに、この言葉の印象で強く心に残っているという一品。

 ガチャガチャ――当時にもガチャガチャはあった。20円だったかなぁ。中に入っていたのはなんだっだろう。覚えがない。キンケシはわたしより後の世代。ああそうだ。スーパーカーケシゴムは入っていたな。

 わたしは学区の違う小学校へ通っていたので、近所の子どもたちと駄菓子屋で遊ぶということはなかった。この頃から、おひとりさま大丈夫な精神が養われていたのだな。

 中学になるとこの駄菓子屋へも行かなくなり、そのうち気づいたら閉店して、ふつうの民家になってしまっていた。

 これは平成になって、別の店の話として聞いたうわさだが、老後に、純粋な子どもたちのためにと駄菓子屋を開いたはいいが、万引の多さに子どもたちの悪さを思いしり、ショックでやめてしまった店主がいたとのこと。

 時代の流れとともに、子どもたちの悪さも、かんしゃく玉を破裂させる悪ガキ的イタズラから、現実的なものに変わっていってしまったのだろうか。

 昭和がいい時代だとは思わないが、当時の駄菓子屋に流れていた鷹揚な時間を思うと、ふと、あの土間の香りに脳裏の嗅覚をくすぐられ、懐かしさにせつなくなる。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年03月09日

【昭和の遺伝子】カップめんの思い出

 わたしがチキンラーメンを好きなことは「【昭和の遺伝子】インスタントラーメンの思い出」に書いた。それだけに、NHKの朝ドラ「まんぷく」を、毎日楽しみに見ている。
 話はチキンラーメンならぬ「まんぷくラーメン」が売れ、いよいよ「カップめん」の開発に取りかかったところ。そういえば、「カップめん」を初めて食べたときの思い出も鮮明に記憶に残っているなぁ、と思い、筆を執った次第。なお、内容は一部上記の日記と重複している。

 日清の「カップヌードル」は、発売当初から爆発的に売れることはなく、最初は販売に苦戦したという。それが日本国中に知れ渡ったのは、あの浅間山荘事件からであった。浅間山荘に立てこもった連合赤軍を包囲していた機動隊の隊員たちが「カップヌードル」を食べている様子がテレビに映り、全国的に「あれはなんだ?」「カップヌードルというのか!」と知られるようになったのだという。連ドラ「まんぷく」でそこに触れるかどうはわからないが。
 わたしも浅間山荘事件はテレビで見ていた。子ども心には、鉄球で家を崩す様子を「はぇー、すっごい(小並感)」と感じるくらい。後に大人になって連合赤軍のルポを読み、当時、通っていた小学校の近くで会議を開いていたことを知り仰天した。
 機動隊の隊員がカップヌードルを食べている様子は、記憶にない。ただ、それ以降、カップヌードルが日本の食卓にのぼるようになったのは確かである。

「カップヌードルが食べたい!」とせがんだわたしに、母はしぶしぶ買ってきてくれたのだが(我が家はけっこう、インスタント食品に厳しい家庭であった)、実際に初めて食べた「カップヌードル」の容器は、カップではなかった。
 禅問答ではない。なんとなれば、当時、カップヌードルはカップの発泡スチロールから体によくない物質が溶け出すという噂があり、そういうのを気にした母が、カップヌードルから中身をドンブリに入れ直してつくってくれたからである。
 今となっては、なんとも杞憂な話だが、当時は粗悪品もあり、母が気にするのも無理はなかった。

 そんな経緯もあり、わたしの脳の記憶域には、初めてカップラーメンを食べた思い出が、鮮烈に残っているのである。それは主食というより、スナック感覚の味で、わたしはすっかり気に入ってしまった。
 それ以降、カップラをドンブリに入れ直してつくった覚えはないので、母もカップラの安全性に納得したか、あるいは面倒くさくなったのかのどちらかであったのだろう。

 日清のカップヌードルが、こうやって爆発的に売れるようになると、ドラマで繰り返される展開だが、似たような商品がいくつもでるように。
 わたしも高学年になったので、自分のお小遣いでそういうものを買えるようになった。

 今でも思い出すのは、「カップライス」である。今はとんとなくなってしまったが、あったのである「カップライス」。お湯を入れて三分でご飯ができる。
 しかしこのカップライス、まずかった。実にまずかった。すぐに市場からなくなってしまった。
 即席ご飯市場は、今はレンチンしてつくる「サトーのごはん」が定番だが、当時はこんな際物もあったのである。

 さらに、現在では平たい器が当然の「カップ焼きそば」も、カップヌードルと同じ形状のカップで売り出されていた。これの湯きりが独特で、箸でフタに穴を開け、そこから湯を出してください、という、今では笑ってしまうような仕様であった。味はけっこう気に入ったのだが、これもすぐに消えてしまったなぁ。

 最初に出会った思い出が「ドンブリに入れたカップラ」という強烈なものだったのでよく覚えているわけだが、以降、昭和から平成最後の今年まで、食べたカップラの数は数えきれない。

 コストコで日清の「カップヌードル」が安かったので箱買いしたら、味がアメリカ向けになっていて違うのに驚いた。
 映画「マトリックス・リローデッド」で、ネオと集団スミスが闘っているシークエンスがあるのだが、そこで黒人女性がポトリとカップラを落とすシーンがある。それがそのコストコカップヌードルである。


(映画「マトリックス・リローデッド」より引用。この左側に落ちているのがそのカップラ)


(拡大するとこう。けっこうスパイシーだった覚えがある)。

 このカップヌードルは、コーンスープの素を入れてつくると、トロミがついてとても美味かった。カロリーもすごかったわけだが。

 今、スーパーのカップラ売場に行くと、日清のカップヌードルは決して安くはない。半額以下で、量も多い他社製品が買えてしまう。ので、吝嗇家のわたしとしては、ここ数年「カップヌードル」から縁遠くなってしまった。

 それでもたまに、チリトマ、カレー、それにプレーンの「カップヌードル」が食べたくなる。
 わたしのソウルフードのひとつは、間違いなく、日清のカップヌードルなのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子