2018年04月15日

【昭和の遺伝子】オールナイトニッポンの思い出

 中高生の頃の深夜は、よく中波ラジオを聞いていた。
 これは部屋にテレビがなかったからという理由もあるが――今の若い人は信じられないかもしれないが――昭和はそのテレビ放送自体、深夜はお休みで砂嵐になっていた時代でもあったのである。

 そんなわけで、受験勉強のおともに流すのは、ニッポン放送のオールナイトニッポンと決まっていた。

 午前1時に始まるのが一部。こちらはけっこうな有名人が受け持っている。それが終わって午前3時に始まるのが二部。こちらはちょっとマイナーなパーソナリティーが担当。
 ここから先は検索などせず、思い出のみで書いているので、事実と違ってもご容赦といういことで。

 月曜日の一部は、中島みゆきさんだった。わたしはこの放送を聞いて、みゆきさんのファンになったのである。一時期(彼女がまだ二十代の頃)のニックネームで「ぺったん」というものがあった。どうやらバストの大きさからきた呼び名だったらしいが、この頃からのファンである。
 彼女の「暗い」歌に比して、その明るい番組内容は抜群に面白かったが、思い出せるコーナーが「家族の肖像」くらいという、自分の記憶力のなさがうらめしい。

 月曜二部はアナウンサー枠ではなかったかなぁ。いやしかし、まだ無名だった頃の伊集院光さんが受け持っていたような記憶もある。
 伊集院さんの放送は、今の彼のご活躍からみなさんご推測できる通り、もう抜群に面白かった。当時のキャッチは「オペラの怪人・伊集院光のオールナイトニッポン」。コメディアンではなく、謎のオペラ歌手、という触れ込みであった。
 今でも覚えているのは、彼がダンボールかなにかをかぶって「自動オペラマシン」となり、路上でやったパフォーマンスの録音とか、あと、「姫」コーナー。これはもう時代を超先取りしていた。
 つきあっている女の子の無理を彼氏が聞く、という内容の投稿コーナーで、体験試乗した機関車を彼女が「動かして」と言ったので、係員の目を盗んで動かして大目玉とか、崖の上にある花を「取ってきて」と言ったので決死の思いで取ってきたとか、そんな内容。
 伊集院さんがハガキを読み上げると、最後に戦国時代の戦の音と「ヒメェーッ」という悲鳴が聞こえて大爆笑、と、そんな感じ。

 ちなみにわたしは伊集院さんと並んでトイレ(小)をしたことがある。あれはクレヨン社のコンサートでのことだった。クレヨン社のこともそのうちに。

 オールナイトニッポンのパーソナリティーは定期的に変わるので、正直、○曜日は誰、というのがなかなか思い出せないのである。これも相性というものがあるので、このパーソナリティーのときは寝ちゃう、この日は二部が面白いから3時まで寝て、起きて勉強しながら聞く、とか、臨機応変にやっていた。
 二部の方は午前3時から朝の5時までである。わたしは6時起床を習慣としていたので(学校が遠いため)、そこまで聞いた日はもう寝ないで朝まで起き通しであった。若いからこそできたのだなぁ。

 当時は120分カセットテープというものがあったので、どうしても眠りに勝てなさそうなときは、タイマーを使って録音などもしていた。ただそれでも、まだオートリバースがなかった時代であるから、4時に目覚ましを掛けて、テープをひっくり返して録音再開である。

 あとお気に入りだったのは、木曜二部の谷山浩子さん。彼女のスイートハニーボイスにはそれは癒やされたものだ。
 一度、ライブの直後にその興奮冷めやらぬ中の放送があり、彼女の持ち歌「カントリーガール」を、スタッフ一同がスタジオの中のものをチャカポコ使って歌ったことがあり、聞いているこちらも深夜に大盛り上がりであった。そのテープは今でも書斎のどこかにしまわれているはずだ。

 これはもう昭和ではないが、裕木奈江さんの放送も楽しかった覚えがある。「言うだけ彼氏」コーナーとか、けっこう好きだった。当時、彼女が不倫ドラマに出たゆえに対する世間のいわれなきバッシングには心を痛めたものだ。
 今は海外でご活躍のようでなによりである。

 そうだ。アナウンサー枠で放送されていた、塚越孝さんのオールナイトニッポンもよく聞いていた。塚越さんが2012年にフジテレビのトイレで自殺なさったというニュースを聞いて呆然としたのが、もう6年も前なのだな。時間の流れの速さを思う。

 今はめっきりラジオも聞かなくなってしまったので、オールナイトニッポンの構成がどうなっているのかもわからない。
 それでも、街で、オールナイトニッポンのテーマ曲「ビター・スゥィート・サンバ」を耳にしたりすると、なんとも懐かしく、自分が若かった頃を思い出す。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年04月12日

【昭和の遺伝子】野良犬

 昔はそこかしこに野良犬がいた。
 野良犬はめずらしくなかった。公園には残飯をあさりにきていたし、犬は群れをつくる動物だから、何匹もでグループをつくって、敵対しあっていたりもした。

 あれはわたしが幼稚園生の頃。
 公園で子猫と遊んでいたら、大勢の野良犬に囲まれていた。その唸り声、殺意のこもったギラギラとした目、逆立った毛、今にも飛びかからんとする姿勢。
「殺されるー」と思った(幼稚園生ですから)わたしは、とっさに子猫を抱いて走り出した。
 と、なんということか、野良犬の集団も追いかけてくるのである。それも、もの凄い吼え声を上げながら。
 その数、十数匹はいたろうか(幼稚園生の感想ですから)。子猫を抱いたまま、家に飛び込み、扉を閉めた。
 しばらく、野良犬たちは家の周りを唸りながら回っていたと記憶している(幼稚園生の記憶です)。

 この一件から、わたしは野良犬がとても苦手になってしまった。
 そのときの子猫を飼ったかどうかは記憶にない。犬が、子猫を狙っていたのか、はたまた逃げるわたしを本能的に追っていたのかもわからない。

 野良犬は狂犬病の媒介者となりうる(犬だけではないが)。日本においては、1956年に犬、1957年に猫が感染したという報告以降、狂犬病の発生は確認されていないそうだ。
 わたしが犬に追われた当時は、もう狂犬病の心配はなかったようである。
 しかし、野良犬による咬傷事件は連続していたようで、保健所の対処により、野良犬はどんどんと減っていった。可哀想だが、咬傷事件が連続していたという現実の前には仕方ない。あのとき、わたしも野良犬たちに咬まれて大怪我をしていてもおかしくはなかったのだ。

 昭和バブルの頃には、野良犬はほとんど絶滅していた。
 中には、犬のサカリの時期になると、綱を外して外へ離してしまう無責任な飼い主もいたが、平成の今ではさすがにそういったこともなさそうだ。
 同時に、昔は「犬は外で飼うのが当然」だったのが、今では「大型犬でも室内で一緒に暮らすコンパニオン・アニマル」化したのが大きいと思う。

 野良犬は減ったが、野良猫はまだ見かける。わたしは猫好きなので、猫がクルマのボンネットに足跡をつけたりしていると和んでしまうタイプだが、嫌いな人がいることを否定することはできない。
 悲しい話だが、世の中には動物の命を奪ったり、傷つけたりするのを躊躇しないおかしい人がいて、猫が犠牲になる事件も耳にする。

 猫は犬以上に「室内で飼うのが当然」「不妊手術をするのが当然」という風潮をつくって、保健所の手を借りず、自然に野良猫も見かけなくなる時代が来ることを祈る。

 もし前述の事件で、わたしが犬に咬まれ重傷を負ったとしても、新聞ネタにはならないような時代が昭和であった(犬が人を咬んでも事件にはならないが――というでしょう?)。

 野良猫を見かけなくなるのは淋しい話かもしれないが、平成に続く新しい年号の時代には「そう言えば、野良猫って見かけなくなったねぇ」と言われるようになればよいな、と思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年03月05日

【昭和の遺伝子】爆竹

 中学生の頃、男子の間で、妙に爆竹が流行したことがあった。
 念のため言っておくと、わたしのいた学校は「荒れた学校」ではない。むしろその正反対、生徒みながその学校の生徒であることにプライドを持っているような学校だったので、校内暴力などは一切なかった。

 それでも、なぜか流行ってしまったのである。爆竹が。

 最初はなにか、体育館で発表した創作劇で使ったのだと思う。銃撃のシーンなどがあり、そこで爆竹を持ってきたやつがいて、(中坊からすれば)大迫力のシーンとなったのがきっかけ。

 流行したのは、爆竹を一個一個外して、なにかにつけて爆発させるという、マイクロダイナマイトのような使い方である。
 石とか、木とかにセロハンテープで巻いたり、アリの巣穴に差し込んでみたりして爆発させては、その威力に驚いたり、逆にあまり効果がないことにガッカリしたものだった。

 あっ、ここからはちょっと、お食事中の方には不向きな話が来るので、ヨタ話のうちに他ページへご移動いただきたく。

 その昔、駄菓子屋が健在な頃は、こういう爆竹だけでなく、小さな火薬を利用したいろいろなグッズを売っていたものだった。オモチャの拳銃で、巻いた火薬を繰り出し撃鉄で「バーン!」と音を立てるものや、火薬をひとつセットして高く放り投げ、道へ落ちてきて「バーン!」と鳴る矢のようなオモチャを思い出す。
 昔は悪ガキが、通り過ぎる車のタイヤの下に、そういった火薬を投げて「バババーン!」と街中に鳴らすことも珍しくなかった。もちろん、ドライバーに大目玉をくらったり、ね。
 もうそういったものは、昭和の遺物になってしまったなぁ。

 さて、さてさて。
 うちの学校は大学のグラウンドとつながっていて、そこに外部トイレがあった。そこに、誰が残したのか、流されていない大便があって、そこに爆竹を仕掛けようよ、という話になったのである。きったねぇなぁ。

 決死隊の一人が、木の枝を取ったものを箸にして、爆竹を一本、被害者ならぬ被害便に突き刺した。導火線もたしか、なにか手を使って長くしたと思う。
 火を着け、扉を閉めて、みな、待避。バーン! やったぜーっ! 恐る恐る現場へ戻ると、大便が大便器の部屋中に散っていたのであった。その威力に、中坊たちは恐怖した。

 みなでゲラゲラ笑いながら、ホースで周囲を洗い流して、ちゃんと清掃はした。いやぁ、本当に莫迦な連中であった。

 この、大便に爆竹を仕掛ける、というイタズラは妙に流行り、以降、この外部トイレだけでなく、道に転がっているイヌネコのウンコにも突き刺して爆発させるという悪行がごく普通に行われることになった。

 最初は慎重だった作業も、慣れてくると手を抜くようになるものだ。爆竹を仕掛けるのに箸を使うことも、導火線を長くすることもしなくなる。
 ある日のこと。イヌのウンコに爆竹を仕掛けたK君、ライターで火を着けたのだが、逃げ遅れてしまった。バーン! と粉砕されるイヌのウンコ。逃げようとした彼の足をそれが襲った。K君は足に着いたそれを、「これはイヌの便じゃない、土だ!」と主張したが、それは明らかにイヌのウンコであった。
「ウンコマン」とあだ名を付けられなかったのは、彼の人徳ゆえか、それとも、明日はわが身の恐怖のゆえか。

 大便への執拗な爆竹攻撃はこのK君事件あたりから収束へと向かった。やはり無差別大便攻撃は人道的にもとると中学生たちも判断したのだ。攻撃目標はより身近な場所へと移った。教卓である。
 しかも今度は時限爆弾であった。蚊取り線香に爆竹を着けて、ペトリ皿かなにかに置いて教卓の近くに隠し、授業中に「バーン!」とやるのである。

 いやこれ、今考えると、とんでもない事件になりそうだ。すぐにネットニュースに載って大問題になってもおかしくない。
 しかし当時、不思議と先生たちは、驚きはしたが、怒りはしなかったのである。なかには時限爆弾の仕組みを聞いて、感心していた先生もいらした。
 そしてこのことで怒られた経験も、一度もない。
 もちろん、そういう校風だったから、というものもあるが、昭和だったからだなぁ、としか言いようがない。

 わたしは知らないが、この爆竹ブームは、中心となってやっていた連中が、ミニチュアの船を作ってプールへと進水させ、中央あたりで爆竹を破裂させ沈没させるというお別れ会で幕を閉じたと聞いている。聞いた話だが、なかなか沈まず難儀したそうだ。

 いやぁ、時効だからといろいろ書いてしまったが、今考えると、本当に犯罪スレッスレである。
 こんな思い出をひとくさり書くと、今の中学生や高校生たちの方が、いろいろ我慢させられていて、大変なのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年03月04日

【昭和の遺伝子】トルコ風呂の思い出

 なんてないよ!
 ないからね!
 本当にないんだから!

 だってその頃、わたしはまだ小中高生である。
 たしか、トルコの青年より、「日本ではトルコ風呂という名前が性風俗施設の名前として使われていてショックを受けました」という新聞投書があり、トルコ風呂が全国的に「ソープランド」に変わったのがわたしが十八になった頃。

 というわけで、「トルコ風呂」の思い出は……あるんだなぁ、しょうもないことだけれど(笑)

 これも今では「威力業務妨害」とかの犯罪になるだろうと思うが、もう時効なので書いてもいいだろう。

 中学生当時、われわれ悪ガキの間で、トルコ風呂に電話を掛けて予約を取るという遊びが流行ったのである。
 わたしの住んでいる地方都市には、そういった風俗が有名な歓楽街があり、誰かが予約用の電話番号を入手してきたのだ。
 で、どこから電話をしたかというと、休み時間に、学校の赤電話(公衆電話)からやるのである。
 ちなみに当時、ナンバーディスプレイなどというものはなく、電話はイタズラし放題の時代であった。
 主犯はF君であったと思う。ターゲットとなったのは、女々(めめ)というトルコ風呂。仮名ではない。実在である。こんなふうに書けるのも、今は存在しないから。

F君「もしもし」
相手「はい、女々(めめ)です」

 全員、受話器の受話側に耳をひっつけて、相手の声を聞いていた。相手は丁寧な男声であった。

F君「あのー、あのー、予約を取りたいんですけど」
相手「はい、ご予約ですね。何時からですか?」
F君「えっと、8時からで」
相手「8時からでいらっしゃいますね。ご希望のお相手はいらっしゃいますか?」
F君「どんな人がいますかー?」
相手「その時間でしたら、×さんとか、○さんとか」
F君「じゃあ×さんで」

 まわりはもう、爆笑をこらえるので大変である。

相手「それでは、8時にお待ちしております」

 電話が切れて、もう全員、腹がよじれるほど笑った。
 いやぁ、本当に悪いガキどもであった。

 これに味をしめて、F君とその仲間たちは、その後何度も同店にニセ予約の電話を入れるイタズラを繰り返したのであった。
 しまいには――

F君「えーっと、胸が大きくて脚の綺麗な人がいいんですけど」
相手「……おまえらいつものイタズラだろ! いい加減にしろ!!」

 ついに相手にバレて怒られガチャギリされてしまった。まあ当然である。当時の電話番の方、悪ガキで本当に申し訳ない。

 さらにその後、F君と仲間たちは、女々の建物の写真を撮りに盛り場まで行って、当時はまだフィルムだったカメラで数枚、同店の写真を撮ってきたのだった。
 現像のとき、写真屋に言った台詞がまた可笑しい。

F君「この写真、ひょっとしたらUFOが映ってるかもしれないんですよ!」

 まあそんな言い訳でもしなければ、中学生がトルコ風呂の写真を現像なんて、ちょっとできない時代ではありましたね。

 というわけで、UFOが映っているかもしれない女々の写真を見せてもらったかどうか、わたしにはその記憶がない。
 バブルを経て、歓楽街も寂しくなり、今は同店もなくなってしまったのは前述の通り。

 中学時代から予約電話で鍛えたF君が、大きくなってトルコ風呂からソープランドに変わったお風呂屋さんに行ったのかどうかは、杳としてしれない。

 今でも、この歓楽街の近くを歩くと、「UFOが映ってるかもしれないんです」と言ってカメラ屋に現像を頼んだF君のことを思い、クスリとしてしまう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年02月26日

【昭和の遺伝子】万博の思い出

 わたしは、日本で開かれた「大阪万博」「沖縄海洋博」「筑波科学博」までは皆勤賞であった。
 その後の「花博」、「愛知万博」にも行っておけばよかったと、今になって後悔している。

 大阪万博に行った頃は、まだ本当に小さな子どもだった。日本は経済成長めざましい頃で、誰もが、明るい未来がくると信じて疑わなかった時代であった。
 往復路とも、深夜バスであった。
 本当に子どもの頃にいったもので、「行った」という記憶しかない。「月の石」は見たかどうか、太陽の塔はどうだったか、全然憶えがないのである。
 一緒に行った母は、あまり回れなくてゴメンね、と謝っていたが、なにぶん子どもであるわたしと姉は、万博にこられたことが嬉しくて、そんなことは全然気にならないのであった。

 大阪万博で唯一憶えているのは、たしか観覧車である。これはお弁当つきで、お弁当を食べながらぐるりと一周する、というものだったと思う。
 このあたり、本当は全然違っているかもしれないが、わたしの記憶のみを頼りに書いているのでよしなに。
 トンガ館で「トンガカッチャ」というお土産のぬいぐるみを買い、喜んで帰路についた。
 ふりかえると、「月の石」はやはり混みすぎていて見られなかったのだろうと思う。

「沖縄海洋博」のときは、もう物心ついていたので、多少は憶えている。このときは往復路とも飛行機であった。
 とはいえ、鮮明な記憶が残っているわけではない。たしか、沖縄は日本返還直後で、もう車線も左側通行、バスも左側から乗り降りする仕様に変わっていたと思う。
「アクアポリス」という、要するにちょっとハイテクな「浮島」が売り物で、会場からそちらへ渡って見学したのだが、内容はもうサッパリだ。


(アクアポリスで見た水族館)

 全体的に規模はあまり大きくなく、沖縄という場所で開いたことに意味があった博覧会であったのだろう。

 沖縄は海洋博よりも、ひめゆりの塔や「ハブとマングースの闘いショー」の方がよく憶えていたり。「ハブとマングースの闘いショー」は残酷で、シナリオ通りハブが負けたのだが、ふだん嫌いなヘビがそれでも可哀想であった。

「筑波科学万博」は、当時、よく一緒にデートしていた(笑)畏友H君と訪れた。
 たった一日で行って帰ってきたので、忙しい一日だったが、いろいろなパビリオンを回って、わりと楽しかったことを憶えている。
 しかしWikiPediaを改めて見てみると、たしかに入ったと言えるのはUCCコーヒー館くらい。東芝館、富士通館は見たかなぁ。お土産屋が多く、そういうものばかり見ていたような気がする。

 以上、三館に行った感想なのだが、ふりかえってみると、本当に「行った」という以上の記憶がないのであった。
 当時は当然「デジカメ」はなかったので、思い出をふりかえるよすがもあまりなく、どんどん記憶から消えていってしまっている。今思うとコンパクトカメラを持参して、もっと写真を撮っておくべきだったかと思う。

 ちなみに、1989年に開かれた「横浜博」は将来の細君と行った。しかしこれは「万博」のカテゴリには入らないらしい。このときは、たしか船橋あたりから出ている高速ジェット船で行ったような記憶。ふたりで観覧車に乗ったことはよく憶えている。

 さて、2020年には「東京オリンピック」が開かれるわけだが、これはなにか観覧するべきなのかどうか悩むところだ。わたしはスポーツはまったくと言っていいほど興味がないのだが、「東京オリンピックのあれ見ましたよ」と後年言えるというのは、ちょっと自慢のタネになるかもしれないから。うーん、うーん。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子