2019年06月15日

【昭和の遺伝子】マッチと煙草

 マッチで火をつけた煙草はうまかった。

 喫煙したことがない方は知らないことかもしれないが、煙草というのは最初の一服が一番うまい。そして、火をつけた道具によって味が違うのである。

 火に味なんてあるのかよ、と思われるかもしれない。しかし、確かに味の違いはあった。100円ライターでつけた煙草は微妙にガス臭い。オイルライターはオイルの臭いが鼻につく。そしてマッチでつけた煙草は、枯れ木を燃やしたような、切ないうまさがあった。このあたりは、好みでわかれるとは思う。
 わたしは好んでマッチで火をつけ、煙草を喫んでいた。

 昭和の時代の煙草喫みにとって、マッチはわざわざ店で買うものではなかった。なんとなれば、たいていの喫茶店や食事どころが、自分の店名を入れた広告マッチをお客さんにサービスしていたからである。
 各店、いろいろなデザインをほどこしたマッチを用意していて、それを集める楽しみもあった。とはいえわたしは、なんとなく裸のままだとやぼったく思え、汎用サイズの金属でできた黒いマッチケースにマッチ箱を入れて使っていた。
 ちなみに、マッチ箱の大きさはISO規格で決まっているのである。

 マッチで煙草に火をつけるのは、やはり冬が似合う。コートの襟をたてて、寒風に背を向けて、シュッと一本。火のついたそれを両手でかばいながら、口にした煙草に近づけ吸い込むと、肺になんともいえない安堵感が充満する。
 マッチはパッと振って火を消し、吸い殻ケースの中へ。これも当時、専売公社が「マナーも携帯」という宣伝文句とともに、金属バネの閉じ口がついた吸い殻ケースを配っていたのである。

 店の宣伝マッチで助かったこともある。喫茶店に忘れ物をしてしまい、もらっていたマッチに印刷してあった電話番号へ、公衆電話から問い合わせ。すぐに確認がとれて、取りおきしてもらった。
 今ならスマホで一発検索、すぐに連絡がつくだろうが、当時は店舗の電話番号は公衆電話備え付けのタウンページでもすぐにみつかるかどうかはわからなかった。ましてや、ふらりと入った店名も覚えていない喫茶店が相手では。

 昭和の時代には、煙草を吸わない編集者など少なかったので、名刺がわりにマッチをつくって、それを配ろうかなぁ、などと思ったこともあった。結局、スタンダードな名刺整理ファイルに入らないという理由でやめたのだが。

 この「お店のマッチ」も、だんだんと経費削減の波を受けて、簡単な「ブックマッチ」へと変わっていく。
 ブックマッチの軸は厚紙製で、わたしはいまいち好きではなかった。マッチで煙草に火をつけるという一連の儀式が、どこかさもしいものになった気がしたからだ。

 煙草というのは趣味だから、ただ喫煙できれば良いというわけではない。その人その人の美学≠ェあるのである。いや、あってしかるべきなのだが、長く煙草を吸っていると、結局、100円ライターでいつものマイルドセブンに火をつけ、ただプカプカふかす習慣になってしまうのだ。こうなったら「ヤニ中」と揶揄されても仕方ない。

 煙草をやめてもうずいぶんになる。愛煙家が禁煙に成功すると、今度は熱烈な嫌煙家になるという傾向があるようだが、わたしはまあ、喫煙者に優しい方だと思う。

 今、これを書きながら、エア煙草にエアマッチで火をつける真似をして、一服、吸い込んでみた。肺にまで吸い込み、長く吐き出して、エア灰皿へエア煙草をポンポン。妙に気分が落ち着く気がする。

 こと、煙草に関しては、いい時代に生まれたのかもしれないな、と、思う。煙草がまだ悪役でなかった昭和を経験することができたから。あのうまさをまったく知らないで育った平成、これからの令和の人々は、その点、少し可哀想な気がしないでもない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年03月30日

【昭和の遺伝子】駄菓子屋の思い出

 わたしが小学生だった頃、家から一分のところに駄菓子屋があった。
 今の子たちにも「駄菓子屋」は通じるのだろうか。わたしが通っていた駄菓子屋とは別だが、今でもそれっぽい店舗が別のところにあり、夕方は子どもたちでにぎわっているようだから、「駄菓子屋」はまだ残っているのかもしれない。
 ただ、遠目に店内を眺めてみると、狭い店内にスタンドアップ型のゲーム機なども置かれているようで、確かに時代は変わっている。駄菓子屋の雰囲気は同じだが。

 わたしが子どもの頃は、当然、コンピュータゲームなどはなかったから、駄菓子屋はそのまま、狭く小さなおもちゃ屋であった。
 思いつくままに、買ったり、食べたりしたものをあげていってみる。

 プラスチックの竹トンボマシン――丸いプロペラ状の羽を糸で回して空中に飛ばす。羽をなくす(飛んで行って屋根に乗ってしまったり)たびにガッカリ。それでも何度も買ったような記憶。

 コンピュータの記憶テープ――当時は、コンピュータの記憶媒体であるパンチングされた紙テープを巻いて、子どものオモチャとして売っていたのである。今なら情報漏出で大変な事態になりそうなものだ。これを持っていると、なんとなく、自分が科学者になったような気分であった。

 指につけて煙がでるネバネバしたもの――これはなんと言ったらいいのか……。人さし指と親指につけて、両指をつけたり離したりすると煙状の糸くずが出てくるという、ただそれだけのもの。こんなものをおもしろいと感じるのだから、子どもというのは自由である。

 銀玉鉄砲――定番。射程距離はどのくらいだったろう。それほどの威力はなかった。今だったら「銀玉が目に入ったら危ない」と、即刻販売中止になるだろう代物。拳銃の方もすぐに壊れて、何度も買いかえた覚えがある。
 消耗品の銀玉だが、四角い小さな箱に入れて売られていたような記憶。

 かんしゃく玉――地面にたたきつけると、バーン! という破裂音ととも(小さく)爆裂する。これを徐行しているクルマのタイヤの前に投げて爆発させるのが定番の遊び方。ドライバーもなれたもので、それで怒られるということはなかった。鷹揚な時代であった。
 空に投げて落ちてくるとかんしゃく玉がなるオモチャ――名前がわからないのでそのまんま。手に乗るロケットのような造形で、先端部にはかんしゃく玉をつぶす仕組みがつけられている。
 これを空に投げると、先端部を下に落ちてくるので、落下してバーン、と、こういう仕様。

 爆竹――まんま爆竹。これについては別記事でも書いたかな(〓)。昭和の時代は、夕方になると駄菓子屋の前で悪ガキどもがパンパン鳴らしていたものだが、今、そんな情景がないところを見ると、現在の駄菓子屋では売られていないのかも。

 リリアン――これは女子の定番ではないかな。毛糸を編み込む小さなオモチャである。わたしも興味本位にやってみたことがあるが、すぐに飽きてしまった。

 ふがし――食べるもの定番。今でも「二木の菓子」とかで売られていると、懐かしさに買ってしまう。大きさのわりに腹にたまらないのは、みなさまご存じのとおり。

 オレンジガム――箱に四個入りで売られていた。というか、今でも売っているが、当時より粒が小さくなったのは、自分が大きくなったからではないと思う。後期にはイチゴガムも出てきたが、わたしはオレンジガムの世代。

 トコロテン――実はわたしは食べたことがなかった。というのも、その駄菓子屋は土間で、トイレのすぐ横でトコロテンを作っており、そういうのを気にする母から「あそこのトコロテンは食べちゃダメ」と言われていたのを守っていたからである。食べたことはないのに、この言葉の印象で強く心に残っているという一品。

 ガチャガチャ――当時にもガチャガチャはあった。20円だったかなぁ。中に入っていたのはなんだっだろう。覚えがない。キンケシはわたしより後の世代。ああそうだ。スーパーカーケシゴムは入っていたな。

 わたしは学区の違う小学校へ通っていたので、近所の子どもたちと駄菓子屋で遊ぶということはなかった。この頃から、おひとりさま大丈夫な精神が養われていたのだな。

 中学になるとこの駄菓子屋へも行かなくなり、そのうち気づいたら閉店して、ふつうの民家になってしまっていた。

 これは平成になって、別の店の話として聞いたうわさだが、老後に、純粋な子どもたちのためにと駄菓子屋を開いたはいいが、万引の多さに子どもたちの悪さを思いしり、ショックでやめてしまった店主がいたとのこと。

 時代の流れとともに、子どもたちの悪さも、かんしゃく玉を破裂させる悪ガキ的イタズラから、現実的なものに変わっていってしまったのだろうか。

 昭和がいい時代だとは思わないが、当時の駄菓子屋に流れていた鷹揚な時間を思うと、ふと、あの土間の香りに脳裏の嗅覚をくすぐられ、懐かしさにせつなくなる。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年03月09日

【昭和の遺伝子】カップめんの思い出

 わたしがチキンラーメンを好きなことは「【昭和の遺伝子】インスタントラーメンの思い出」に書いた。それだけに、NHKの朝ドラ「まんぷく」を、毎日楽しみに見ている。
 話はチキンラーメンならぬ「まんぷくラーメン」が売れ、いよいよ「カップめん」の開発に取りかかったところ。そういえば、「カップめん」を初めて食べたときの思い出も鮮明に記憶に残っているなぁ、と思い、筆を執った次第。なお、内容は一部上記の日記と重複している。

 日清の「カップヌードル」は、発売当初から爆発的に売れることはなく、最初は販売に苦戦したという。それが日本国中に知れ渡ったのは、あの浅間山荘事件からであった。浅間山荘に立てこもった連合赤軍を包囲していた機動隊の隊員たちが「カップヌードル」を食べている様子がテレビに映り、全国的に「あれはなんだ?」「カップヌードルというのか!」と知られるようになったのだという。連ドラ「まんぷく」でそこに触れるかどうはわからないが。
 わたしも浅間山荘事件はテレビで見ていた。子ども心には、鉄球で家を崩す様子を「はぇー、すっごい(小並感)」と感じるくらい。後に大人になって連合赤軍のルポを読み、当時、通っていた小学校の近くで会議を開いていたことを知り仰天した。
 機動隊の隊員がカップヌードルを食べている様子は、記憶にない。ただ、それ以降、カップヌードルが日本の食卓にのぼるようになったのは確かである。

「カップヌードルが食べたい!」とせがんだわたしに、母はしぶしぶ買ってきてくれたのだが(我が家はけっこう、インスタント食品に厳しい家庭であった)、実際に初めて食べた「カップヌードル」の容器は、カップではなかった。
 禅問答ではない。なんとなれば、当時、カップヌードルはカップの発泡スチロールから体によくない物質が溶け出すという噂があり、そういうのを気にした母が、カップヌードルから中身をドンブリに入れ直してつくってくれたからである。
 今となっては、なんとも杞憂な話だが、当時は粗悪品もあり、母が気にするのも無理はなかった。

 そんな経緯もあり、わたしの脳の記憶域には、初めてカップラーメンを食べた思い出が、鮮烈に残っているのである。それは主食というより、スナック感覚の味で、わたしはすっかり気に入ってしまった。
 それ以降、カップラをドンブリに入れ直してつくった覚えはないので、母もカップラの安全性に納得したか、あるいは面倒くさくなったのかのどちらかであったのだろう。

 日清のカップヌードルが、こうやって爆発的に売れるようになると、ドラマで繰り返される展開だが、似たような商品がいくつもでるように。
 わたしも高学年になったので、自分のお小遣いでそういうものを買えるようになった。

 今でも思い出すのは、「カップライス」である。今はとんとなくなってしまったが、あったのである「カップライス」。お湯を入れて三分でご飯ができる。
 しかしこのカップライス、まずかった。実にまずかった。すぐに市場からなくなってしまった。
 即席ご飯市場は、今はレンチンしてつくる「サトーのごはん」が定番だが、当時はこんな際物もあったのである。

 さらに、現在では平たい器が当然の「カップ焼きそば」も、カップヌードルと同じ形状のカップで売り出されていた。これの湯きりが独特で、箸でフタに穴を開け、そこから湯を出してください、という、今では笑ってしまうような仕様であった。味はけっこう気に入ったのだが、これもすぐに消えてしまったなぁ。

 最初に出会った思い出が「ドンブリに入れたカップラ」という強烈なものだったのでよく覚えているわけだが、以降、昭和から平成最後の今年まで、食べたカップラの数は数えきれない。

 コストコで日清の「カップヌードル」が安かったので箱買いしたら、味がアメリカ向けになっていて違うのに驚いた。
 映画「マトリックス・リローデッド」で、ネオと集団スミスが闘っているシークエンスがあるのだが、そこで黒人女性がポトリとカップラを落とすシーンがある。それがそのコストコカップヌードルである。


(映画「マトリックス・リローデッド」より引用。この左側に落ちているのがそのカップラ)


(拡大するとこう。けっこうスパイシーだった覚えがある)。

 このカップヌードルは、コーンスープの素を入れてつくると、トロミがついてとても美味かった。カロリーもすごかったわけだが。

 今、スーパーのカップラ売場に行くと、日清のカップヌードルは決して安くはない。半額以下で、量も多い他社製品が買えてしまう。ので、吝嗇家のわたしとしては、ここ数年「カップヌードル」から縁遠くなってしまった。

 それでもたまに、チリトマ、カレー、それにプレーンの「カップヌードル」が食べたくなる。
 わたしのソウルフードのひとつは、間違いなく、日清のカップヌードルなのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年12月12日

【昭和の遺伝子】高輪ゲートウェイはE電の夢を見るか

 東京都港区港南に建設中の、田町と品川の間にできる新駅の名称が「高輪ゲートウェイ」に決まったという。

 新駅名の応募には6万通を越える投票があり、一位は「高輪」の八千余票、二位は「芝浦」の四千余票、三位が「芝浜」の三千余票……と続き、なんと「高輪ゲートウェイは130位で36票だったというからお笑いだ。

 あらかじめの出来レース。最初から結果ありきのアリバイ作りの駅名応募であることは明らかだ。

 ここで思い出すのは、若い人はご存じないであろう「E電」のお笑い草な顛末である。「E電」と書いて「いーでん」と読む。
 昭和62年の国鉄分割・民営化に伴い、国鉄の愛称だった「国電」に代わって国鉄――いや、民営化直後だったので正確にはJR――が一般公募した結果、採用した呼称である。

 このときも、実は「高輪ゲートウェイ」と同じようなイカサマ審査が行われていた。六万弱の応募のうち、一位は「民電」の五千余通。二位は「首都電」で二千余通、三位は「東鉄」……と続く。E電は20位で390通だったのである。
 このあたりの経緯は、Wikipediaの「E電」によくまとめられているので、ご興味おありの方は参照をよろ。

 なんと、順位も得票数も、「高輪ゲートウェイ」は「E電」よりひどいということに、あんぐりとあいた口がふさがらない。

 E電はその発表のあと「これはないだろう」という世論の嵐を無視し、JRのゴリ押しが続いたが、結局、定着しなかったのは、今のみなさまが「E電をご存じない」通り。

 このときは、得票数と採用とのあまりのかけ離れた結果に「JRはまだ国鉄の頃の、官≠フ意識を引きずっている」とよく論評されたものだった。
 あれからもう、四半世紀以上も経っているというのに、同じことをやろうとしているJRにはあきれたものである。

 どうせ「高輪ゲートウェイ」にしたかったのなら、駅名募集などしなければ良かったのだ。なまじ募集などしたから、こういう莫迦莫迦しい結果になる。

 さて、わたし自身は、新駅が「高輪ゲートウェイ」になろうが「高輪」になろうが、正直、どっちでもいいとは思う。
 E電の時代とは違い、ネットで反対署名なども行われているのが新しい動きでおもしろい。これで「高輪ゲートウェイ」が撤回されたらさらにおもしろいが、なんとなく、E電と違ってそれはないだろうな、という予感はある。

「高輪ゲートウェイ」に反対する方たちにアドバイスするとすれば、やはりE電が「普及しなかった」顛末をよく研究すべきだろう。
 要するに「みんなが使わなければいい」のである。
 いくらJRがゴリ押ししても、皆が「高輪駅」と呼び続ければ、それが市民の選んだ名前になる。

 個人的な予想としては、長い駅名は言いにくいので「高輪ゲートウェイ」を略した「タカゲー」あたりに落ち着くのではないかと想像している。

 なんにせよ、応募を募っておきながら、最初から結果ありきで応募者を莫迦にするようなJRのやりかたは気にくわないという気持ちはある。積極的に反対票を入れたりはしないが、「高輪ゲートウェイ撤回」を掲げる運動自体は応援したい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2018年05月30日

【昭和の遺伝子】本屋をハシゴ

 Amazonで家に居ながらにして、ほぼ品切れなしで欲しい本を購入できる今の時代、昭和生まれ昭和育ちのわたしでも、忘れてしまったことがあるなぁ、と気がついた。

 それが%title%の「本屋をハシゴ」である。

 今でこそ、欲しい本が本屋になくても「じゃ、Amazonでいいや」と踵を返せる時代だが、昭和の時代には、なじみの書店にない本が、別の書店にある、ということを期待して、次々と本屋をハシゴすることがよくあった。

 売り出されてすぐの本、新聞に紹介された本でも、大型書店に置いていない、ということは珍しくなかった。
 いわんや、新刊で好きになった作家の過去の本など、書店をハシゴして見つけて買うのが当然であった。

 大型書店ばかりでなく、小さな個人経営の書店も多かったので、学校の帰りにバスを使わず書店巡りをしながら帰宅したり、あるいは電車に乗って隣町の大きな書店に行ってみたりして、やっと目当ての本を見つけたときのうれしさ。
 こういう喜びは、Amazonで本を買えてしまう現在では、あまりなくなってしまったのではないかな、というか、わたし自身、忘れてしまっていたな、と思う。

 どこの書店でも扱っていないが、どうしても入手したい本の場合、「取り寄せ」してもらうことになる。
 ところが、この「取り寄せ」がひどかった。個人経営の書店に頼むと、平気で一カ月先とか、まず根本的に「取り寄せお断り」をされたりするのである。
 大型書店で「取り寄せ」の手続きをして、交換の手形をもらっても安心できない。取り寄せ予定の日に行ってみると「残念ながら、その本は品切れ≠ナした」ということも珍しくないからだ。

 出版社によっては、というより、どの出版社も、初版の売れ行きがよくないと、品切れ≠ニいう名の、事実上絶版≠ノしてしまう。なぜ本当の絶版≠ノしないで品切れ≠ノしておくかというと、本当の絶版≠ノしてしまうと出版権≠失ってしまうから、という汚いやり口なのである。

 現在の日本で、過去の書籍を再版せず、この品切れという名の事実上絶版≠ノしている作品は、小説、マンガを含め、膨大な数にのぼる。こういうことをやっている出版社が、「マンガ村」問題で被害者面ばかりしているのは実にうさんくさい。
 マンガ家たちが一致団結して――とならないのは、出版社側にこういう汚い一面があるから、ということを、読者には知っていてほしい、と思う。

 閑話休題。
 今でも覚えているのは、ル・クレジオが書いた「巨人たち」であった。図書館で読み、これは手元に置いておくべき本だと確信して、まずは%title%の「本屋をハシゴ」。どこにもないので、地域の一番大きな書店へ。そこで注文をしたのだが、数週間後、連絡が来たら品切れという名の絶版≠セという。
 たしか、初版が出て半年後のことだ。わたしはその頃、作家ではなかったが(中学生だった)、出版界、こういう名著を簡単に屠るとは、それでいいのか!? と憤った思い出がある。

 今、スマホからAmazonで調べてみたら、中古品だが送料含めて1,000円以内で買える。躊躇せず買ってしまった。756円也。
 これだもの。既存の本屋はもちろん、古本屋も淘汰されていくわけだ。

 思いもかけず「巨人たち」を入手できた喜びで筆が踊るが、むしろ、こういう、古い名作を流通させることこそが「文化」だと思う。
 書店や出版者の衰退は、Amazonを始めとするネット時代から始まったのではない。もう数十年前、わたしが中学生の頃から始まっていて、ネット時代になって露呈しただけなのだ。

「マンガ村」は論外だが、出版社が品切れという名の事実上絶版≠やめて、どんどん電子書籍にしていくなら、応援したい気持ちはある。
 けれど、今のままでは、ね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子