2017年12月12日

【昭和の遺伝子】町内の映画館の思い出

「【昭和の遺伝子】釣り堀の思い出」を書いていて思い出したのだが、わたしの住んでいた街にはなんと映画館もあったのである。
 しかし残念ながら(?)、ハリウッド大作や名画を上映する映画館ではなかった。やっていたのは、なんと「にっかつロマンポルノ」。

 もちろん恭介少年は、当時、十八歳未満であった。なので「思い出」と言っても、実際に観た覚えはまったくない。

 ただ、その劇場は表にエロチックな看板を立てており、そこがバス通りに面していたので、バスのルートによっては扇情的なそれを見られちゃったりするのである。うっひょー。

 昭和はエロ関係においては、むしろ平成よりゾーニングが厳しかったように思う。というか、ネット時代の今がユルユルすぎる。ローティーンの子どもでも、ググって数クリックでエロ画像が見られてしまうような現状はよろしくない。
 ネットを離れて現実でも、コンビニの書棚にエロマンガが並んでいる状態は異常だとわたしは感じる。
 ああいうものは、やはり野原とか、河原とか、そういところで風雨にさらされてカチカチになった雑誌を、クラスの皆でソーッと覗き見るような、そういう風情がいいのである。これ、老害感覚ですかね?

 閑話休題、町内ポルノ映画館。
 小学生だったわたしは、バスの中からでも、その映画館の看板を見るとオトナに怒られちゃうかもなぁ、などと戦々恐々としながらも、興味津々ではあった。
 バスがそこにさしかかる前から、周りのオトナの目をうかがいつつ、ムッツリとした顔をしながら、目の端にエロ看板を入れて、肌色を堪能するのがたまの楽しみだったのである(笑)。
 ガン見などはできない、そーっと、そーっと目の端に入れて、想像力をたくましくして、記憶するのだが、今になってみると、一本もタイトルを覚えていない。ま、子どもだからね。

 そう、子どもが女性の裸を見ることなど、名画の裸婦像でもなければない。それが昭和というものだった。

 小学生の自分にとって、十八歳というのは、遠い遠い未来、ものすごいオトナであった。とはいえ、自分もオトナになったら、この劇場に堂々と入って、ポルノ映画を観るんだ! などと決意したことはない。自分がそこでポルノ映画を観ている未来など想像もできなかったというのが正直なところ。

 そしてその劇場は――なんということでしょう、わたしがちょうど十八歳を過ぎた頃に取り壊され、お固い銀行に変わってしまったのである。
 というわけで、「にっかつロマンポルノ」を観たことは、劇場でも、ビデオでもないのであった。ポルノとは言え名作も多かったそうで、映画ファンとしては――市内ではちょっと有名だった――その町内ポルノ映画館に入れなかったのは、今となっては残念である。

 わたしの最寄り駅には、「ストリップ劇場」もあった。これも市内どころか市外、県外にも有名であった。確か、黎明期のインターネットでレビューを書いていらっしゃる方がいた覚えがあるので、昭和どころか平成まで残っていたのである。今、この記憶が蘇ってきて、自分で驚いているところだ。
 さすがにストリップ劇場は映画館よりもハードルが高く、行こうという気持ちにはならなかった。
 その劇場はボヤを出して焼け落ち閉店となり、今は住宅街になっている。

 中段でも苦言を呈したが、現代のエロ関係は妙に偏っている。子どもに見ちゃダメ、と言いながら、簡単に見られる場所にそれを置いておくのはおかしい。以前にも書いたが、これは子どもに甘い≠アとなのである。
 オトナが子どもに、エロはオトナの楽しみとたたき込んで、子どもは河原でカチカチのエロ雑誌を眺めて「いいなオトナって」と思わせる程度が良いのである。

 現代の少子化の一因は、このエロ関係が子どもに甘いということもあるのではない――え、なんでって? なんでだろう。ええとね、赤ちゃんはコウノトリさんが運んでくるから、関係ないかもね。えっと、そういう話はママに聞こう、ね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年11月24日

【昭和の遺伝子】昼休み

 自分の「昼休み」に郵便局へ配達物をお願いしに行き、ああそう言えば、と思い出したことがある。

 昔の郵便局には「昼休み」があった。
 うろ覚えだが、午前11時45分くらいから、午後12時30分くらいは、窓口がカーテンを引いて「お休み」してしまうのである。

 郵便局だけでなく、たしか銀行も同じ時間は「昼休み」を取っていたと思う。金融だけでなく、役所などもおなじく「昼休み」を取っていたような記憶があるが、なにぶん、当時わたしは小学生だったので、そのあたりのことはよく覚えていない。小学生が平日昼間、役所に行く用事などはなかった。
 郵便局くらいは小学生でも使ったので、一番覚えているのは、「平日昼間、郵便局は昼休みを取っていた」ということ。
 そうだ、思い出した。小学生の頃の冬休み、もらったお年玉をいそいそと貯金に行ったところ、この「昼休み」にひっかかって呆然とした覚えがあるのだ。そのときに、「郵便局には昼休みがある」ということが強く印象づけられたのであった。

 ただ窓口が閉まってしまうだけで、内部では仕事をしていたのかもしれないが、お客からしてみれば「利用できない」という点では同じこと。窓口にはカーテンが引かれ、紙に書かれた「昼休み中」の札がかけられてしまう。
 第一、当時の郵便局は、「利用者」を「お客」だとは思っていなかった。なにしろ郵便局も「お役所」のひとつだったのである。

 この「昼休み」がいつなくなったのかは定かではない。今、検索してみたが、「そういえば昔、郵便局に昼休みってありましたね」という書きこみはあっても、いつからなくなったのかはわからないという感じだ。

 わたしの感覚では、平成になった頃には確実に「昼休み」はなくなっていた。昭和後期、バブルの頃に廃止されたような気がするのだが、根拠はない。
 札束が宙を舞うバブルの金融狂乱の頃には、昼休みを取る余裕もなくなっていたのだろうか。

「昼休み」というと、わたしは食の細い子だったもので、小学生時代、「給食を残す子はダメ」という指導の下、他の子が遊んでいる昼休み中、ずーっと給食の盆を睨んでいたことを思い出す。もう満腹で、残りのパン一枚を食べることができない。それでも先生は許してくれず、食べきるか、時間切れまで残される。給食係には嫌がられるし、アレは本当に苦痛だった。
「味音痴」はともかく、わたしの「食べるのが嫌い」は、ひょっとしたら生来のものではなく、あの頃の給食教育によって培われたものかもしれない。
 給食の思い出は、また機会を見つけて、別の記事で書こう。

 今この二十一世紀に、郵便局を始めとして銀行やお役所が「昼休み」を取り始めたら大変なことになるだろう。たいていの人は職場のお昼休みに抜け出して郵便局や銀行へ行くものだからだ。きっとツイッターや掲示板で怒号が飛び交うに違いない。
 そんな時間に堂々と休んでいた昔の郵便局は、なんというか「おカミ」であったなぁ、と思う。

 今は郵便局だけでなく、窓口がある会社が、昼休みにそこを閉めているということはまずない。
 それだけ社会が成熟したのか、それとも、日本全体がせわしくなったのか。便利になったのは良いことだが。
 昭和の日本はのんびりとしていた。時間の流れが遅かった。それが必ずしもいいとは思わないが、たまにあの空気感を思い出すと、懐かしく、ホッとした気分になるのも確かである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年11月23日

【昭和の遺伝子】黒い煙に街は栄え

 この記事で、わたしの小・中出身校がある程度わかってしまうかもしれないが、別に隠す必要もないので、それはそれでかまわない。第一、今まで書いてきた「いまさら日記」をチェックしていれば、だいたいどこなのかわかる人にはわかっていたはず。

 さて、わたしの小学校の校歌には、こんな一文があったのである。

♪黒い煙に街は栄え、希望は広がる。


 いやちょっと、現代からすると仰天、の歌詞ではないだろうか。
 わたしが育った地方都市には、その地域の多くの人間が勤める巨大な会社があり、それが「黒い煙」をモクモクと出す業種だったのであった。

 やっと「公害」とか「光化学スモッグ」とかが社会問題として認知されはじめた頃である。水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどを社会の時間に習い、特にイタイイタイ病などは当時のクラス皆を恐怖のどん底に陥れたのだが、それでも体育館に集まって学期始めと終わり、卒業式で歌うのは「♪黒い煙に街は栄え、希望は広がる」なのであった。しかもこのあとに――

♪みーんなみーんな健やかに、楽しく歌って過ごそうよ。


 と続くのだからなんとも、である。
 校歌が制定されたのは、わたしが入学するよりかなり前。きっと当時は、煙突からモクモクと出る黒煙に、人々が豊かな生来、輝かしい未来を感じていたのだろう。
 歌詞を作った人の責任ではないとは思うが、高度成長期の日本のイケイケ路線がどのような雰囲気だったかが、わかるのではないか?

 二十一世紀の今、発展途上国の公害を日本人は嗤ったり、眉をひそめたりするが、日本だって、こういう歴史をたどってきていたのである。

 わたしの住んでいた街は、上記に書いた大企業の城下町だったので、黒い煙に街が覆われ、洗濯物が煤で汚れても、文句を言うものは少なかった。なにしろほとんどの住民が、その大企業の従業員だったし、あるいはその従業員にモノを売る商売をしていたのだから。

 ただそれでも、時代が進むとその大企業と関係のない住民も少なからず住むようになり、大企業相手に訴訟なども起こされるようになった。
 テレビで訴訟のニュースとともに、我が街の様子が映し出されたりもした。子ども心としては「あっ、知ってるところがテレビに映ってる」と、よくわからないまま大はしゃぎであった。

 バブル崩壊後、第二次産業の衰退もあり、その大企業もCI、同業他社との併合などをして時代を乗り越え、以前ほどの隆盛を誇らなくなっている。以前は埋め立て地に広い土地を持ち、正門は警備員が何人も歩哨している状態だったが、今はだいぶその土地も整理して、ショッピングセンターなどに移り変わった。
 ショッピングセンターのスタバを出ると目の前に、塀一枚隔ててその会社の工場が見える状態である。昔の関係者だったら、この開放的な現状にびっくりするのではないだろうか。

 わたしの出身校の校歌が、卒業後、違うものに変えられたのかどうかは知らない。しかし今の時代でも「♪黒い煙に街は栄え、希望は広がる」と歌っているとは思えない。
 ひょっとしたら平成前に新しいものに変えられて、この歌詞は「昭和の遺伝子」になっているのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年11月21日

【昭和の遺伝子】釣り堀の思い出

 やったー!
「とびだせ、どうぶつの森」をコツコツ遊び続け、タイムトラベルもせずに三年、ついに、ついにやりました。







 ご褒美として「きんのつりざお」をいただけましたヤター。
「きんのつりざお」になると、より釣りのタイミングが甘くなる(釣りがうまくなる)という話だが、釣り名人になってからくれるというのは、なんだか、本末転倒なような気がしないでもない。

 現実の釣り体験と言えば、実は子どもの頃、父親と一緒にちょっと釣りをした体験しかない。
 わたしの父は昭和初期の田舎出身なので、子どもの頃、自作の竿で川に行き、釣りを楽しんだそうだ。昔はいろいろな魚が家の裏の川で釣れたものだ、と懐かしげに言う。

 一緒に釣りに連れて行ってもらったのは、海と釣り堀≠ナある。針にエサをつけてもらって、海に浮きを入れたはいいものの、すぐに魚に持って行かれてしまって、釣り自体は「なんだかつまらないなぁ」という感想しかなかった。なにぶん、飽きやすい子どもである。それでも、父と一緒に過ごせる埠頭は楽しく、一日遊んで真っ黒になって帰ったという記憶がある。

釣り堀≠ヘ、家から歩いて五分のところにあった。
 わたしが育った街は、ある大企業の城下町≠ナあり、街全体がショッピングセンターのようなものであった。
 そこの釣り堀も、父に連れられて何度か一緒に行ったのだが、のんびりとした雰囲気が良かったという思い出しかない。わたしはどうも、釣りに興味を示さない子どもであったようだ。

 その頃でも、マンガの「釣りキチ三平」の一巻は読んでいた。作中に出てくる「鮎の塩焼き」の作り方が美味しそうで、大きくなったらやってみたいなぁ、と思っていたが、結局、釣り趣味人にはならなかった。


(矢口高雄「釣りキチ三平」1巻より引用。左下の「青竹焼き」が美味そうです)

 釣り堀の思い出はそれくらいしかないが、そこから流れていた用水路には忘れられない思い出がある。
 まだわたしが小学校低学年、姉が高学年の頃、ふたりで冒険をしに、その釣り堀のちょっと先まで行ってみたのだ。
 姉が用水路の上にかかっている、10センチくらいの幅の足場を使って、ヒョイヒョイヒョイ、と向こう岸に渡っていってしまった。その上で「恭介は危ないからきちゃダメ!」と言うのである。
 わたしは取り残された不安で、えぇー、と思い、ついていってしまった。幅10センチの橋渡り。今なら気分はカイジの鉄骨渡りである。そして案の定――落ちてしまったのだ。
 いきなりバシャンと水が首の上まで来て、喫水線が目の上を過ぎていったのを覚えている。
「この莫迦!」と姉が叫び、すぐに手を伸ばして助けてくれた。
 なんとか助かったからいいようなものの、子ども二人の冒険譚。今、思うと、あのときわたしは死んでいてもおかしくなかったのである。
 昭和はそのあたり、実に鷹揚であった。当時はおそらく、わたしのように莫迦をやって死んだ子どものニュースなどあまり記事にならないから、人知れず、多くの子どもが成長する前に亡くなっていたのではないかな、などとも思ったり。

 昭和が終わる前に、その釣り堀は閉鎖され、土で埋められて駐車場になり、平成になってからはアパートが建てられるようになった。
 今、その地につくられたアパートの住人に、そこは昔、釣り堀があったんだよ、と言っても信じないだろう。

 用水路に落ちたわたしは、ワンワン泣きながら、全身びしょ濡れのまま、姉に連れられて家に帰った。怒られたかどうか、記憶にない。ということは、怒られもしなかったのだろう。
 昭和は、そういう時代であった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年10月24日

【昭和の遺伝子】国鉄ストライキの思い出

 現代の「鉄ちゃん」が逆立ちしても体験できない鉄道体験を、昭和の人間たちは持っている。

 そのひとつがタイトルの「国鉄ストライキ」なのであった。
 電車に乗れないことを「電車体験」と言ってしまっていいものかどうかわからないが、あの混乱と困憊の記憶がたまに蘇ると、優しかった上級生の手の温かさも一緒に思いだし、ホッとするという一面もある。

 若い方のために念のために言っておくと、国鉄とはいまのJRである。「日本国有鉄道」を略して「国鉄」。民営化前の公社であり、職員は半公務員であった。
 そもそも半公務員である国鉄職員に「ストライキをする権利があるのかどうか」ということも焦点にされることがあり、根本的にその権利を求めてストをするという「スト権スト」などもあったのであった。

 当時、小学校低学年であったわたしは、あまりそんなことは理解していない。その日、いつも通りバスで駅へ行くと、そこで電車が止まっているので、ただ、困ってしまった。
 今思うと、国鉄がストをしているのにどうして親が登校させたのかが不思議だが、ストが回避できるorできないの線が微妙だったのかもしれない。
 なんにしろ、当時の親の世代に「学校を休ませる」というアタマがなかったのは確かである。
 また、今は新学期のはじめに「つらいなら学校に行かないでウチへおいで」と公共機関がツイートする時代だが、あの頃は補導員≠ェ随所をパトロールしていて、捕まると学校へ連れていかれ叱られる、というのが、子どもたち側の共通認識でもあった。


(弓月光「エリート狂走曲」1巻より引用。こうやって捕まっちゃうわけですよ。今でもある?)

 そんなこんなで、親にも子にも無意識にすりこまれた「なんとしてでも登校させる&する」という気持ちがあったのである。なんという学校畜(笑)。

 人でいっぱいの駅は、客の怒号と駅員の応酬で渦巻いている。
「電車、止まっちゃったの? え、なんで?」と、子どものわたしはあたふたするばかり。
 事故で電車が止まったときは、私鉄に振り替えの切符が発行されたと思うが、このときはそのようなことはなかった。
「どうしよう……」この期に及んでも、家に帰って休むという考えが沸かないわたしに今びっくりである。「待っていれば動くのかなぁ……」

 台詞にすれば冷静なように聞こえるが、実際には半べそだったと思う。
 と、そのとき――

「君も××小の子だね」と、詰め襟のお兄さんから声を掛けられた。わたしの行っていた小・中学生の男の子は制帽をかぶっており、それでわかってくれたのだ。「僕は××中だから、一緒に行こうか」
 見れば、お兄さんと一緒に、自分と同じ小学校の子が数人。その中で、自分は一番小さかった。

「電車でひと駅だから、歩いて行こう。みんなで行けば大丈夫だよ」と、お兄さんはわたしの手を引いてくれた。「歩けるかい?」

 コクコクうなずく自分。お兄さんがとても格好よく、オトナに見えた。
 振り返れば、おそらく彼も中一か二くらいだったのではないだろうか。その年で、駅で困っている同じ学区の小学生を見つけて、こうやって手を差し伸べてくれるのは、なかなかできることではないと思う。

 お兄さんに手を引かれて、チビたちは、いつもは車窓から見る道路を歩いて隣の駅まで。朝からちょっとした冒険気分である。でもこのお兄さんがいれば怖くないなぁ、という気持ちであった。

 ××中は××小よりも先にあるので、お兄さんはわたしたちが校門に入るまで見送ってくれた。一時間目を遅刻、くらいで済んだと思う。
 今思うと、わたしが女の子だったら、ラブコメの第一話のような出会いである。が、 こんなに良くしてもらったのに、薄情なわたしは、お兄さんの名前も学年も聞かず仕舞いであった。はぇーさすが小学生(小並感)。

 ストライキは昼頃に終わり、午後は普通に電車に乗って帰ることができたと記憶している。
 帰宅したら、母から尋ねられた。

 母「恭介、あなた今日、学校行けたの?」
 わたし「行けたよー。電車止まってたけど、歩いて行っちゃった」
 母「えっ、すごいねぇ」
 わたし「うん、親切な××中の人が連れてってくれた」
 母「ええっ、名前とか聞いた?」
 わたし「ううん。全然」
 母「そう――。優しい人がいてくれてよかったね」
 わたし「うん!」

 まぁ、この程度の会話で終わりである。今だったら「どうして名前を聞いておかないの。お礼しないといけないじゃないの」とか、それ以前に「知らない人についていっちゃいけないでしょ」と叱られてしまうかもしれない。

 昭和はなんとも、大らかであった。
 今なら、小学生低学年の子どもが駅で半べそをかいていても、わたしのようなオッサンが声をかけたら「事例」になってしまうだろう。
 インフラ企業のストライキはもちろん勘弁だが、人と人とをつなぐ、昭和時代の大らかさは、もう少し、残っていても良かったかなぁ、と。

 あのときのお兄さんの手の暖かさと優しさは、名も知らず顔も覚えていない今となっても、わたしの中にほんのりと残っているのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子