2017年10月24日

【昭和の遺伝子】国鉄ストライキの思い出

 現代の「鉄ちゃん」が逆立ちしても体験できない鉄道体験を、昭和の人間たちは持っている。

 そのひとつがタイトルの「国鉄ストライキ」なのであった。
 電車に乗れないことを「電車体験」と言ってしまっていいものかどうかわからないが、あの混乱と困憊の記憶がたまに蘇ると、優しかった上級生の手の温かさも一緒に思いだし、ホッとするという一面もある。

 若い方のために念のために言っておくと、国鉄とはいまのJRである。「日本国有鉄道」を略して「国鉄」。民営化前の公社であり、職員は半公務員であった。
 そもそも半公務員である国鉄職員に「ストライキをする権利があるのかどうか」ということも焦点にされることがあり、根本的にその権利を求めてストをするという「スト権スト」などもあったのであった。

 当時、小学校低学年であったわたしは、あまりそんなことは理解していない。その日、いつも通りバスで駅へ行くと、そこで電車が止まっているので、ただ、困ってしまった。
 今思うと、国鉄がストをしているのにどうして親が登校させたのかが不思議だが、ストが回避できるorできないの線が微妙だったのかもしれない。
 なんにしろ、当時の親の世代に「学校を休ませる」というアタマがなかったのは確かである。
 また、今は新学期のはじめに「つらいなら学校に行かないでウチへおいで」と公共機関がツイートする時代だが、あの頃は補導員≠ェ随所をパトロールしていて、捕まると学校へ連れていかれ叱られる、というのが、子どもたち側の共通認識でもあった。


(弓月光「エリート狂走曲」1巻より引用。こうやって捕まっちゃうわけですよ。今でもある?)

 そんなこんなで、親にも子にも無意識にすりこまれた「なんとしてでも登校させる&する」という気持ちがあったのである。なんという学校畜(笑)。

 人でいっぱいの駅は、客の怒号と駅員の応酬で渦巻いている。
「電車、止まっちゃったの? え、なんで?」と、子どものわたしはあたふたするばかり。
 事故で電車が止まったときは、私鉄に振り替えの切符が発行されたと思うが、このときはそのようなことはなかった。
「どうしよう……」この期に及んでも、家に帰って休むという考えが沸かないわたしに今びっくりである。「待っていれば動くのかなぁ……」

 台詞にすれば冷静なように聞こえるが、実際には半べそだったと思う。
 と、そのとき――

「君も××小の子だね」と、詰め襟のお兄さんから声を掛けられた。わたしの行っていた小・中学生の男の子は制帽をかぶっており、それでわかってくれたのだ。「僕は××中だから、一緒に行こうか」
 見れば、お兄さんと一緒に、自分と同じ小学校の子が数人。その中で、自分は一番小さかった。

「電車でひと駅だから、歩いて行こう。みんなで行けば大丈夫だよ」と、お兄さんはわたしの手を引いてくれた。「歩けるかい?」

 コクコクうなずく自分。お兄さんがとても格好よく、オトナに見えた。
 振り返れば、おそらく彼も中一か二くらいだったのではないだろうか。その年で、駅で困っている同じ学区の小学生を見つけて、こうやって手を差し伸べてくれるのは、なかなかできることではないと思う。

 お兄さんに手を引かれて、チビたちは、いつもは車窓から見る道路を歩いて隣の駅まで。朝からちょっとした冒険気分である。でもこのお兄さんがいれば怖くないなぁ、という気持ちであった。

 ××中は××小よりも先にあるので、お兄さんはわたしたちが校門に入るまで見送ってくれた。一時間目を遅刻、くらいで済んだと思う。
 今思うと、わたしが女の子だったら、ラブコメの第一話のような出会いである。が、 こんなに良くしてもらったのに、薄情なわたしは、お兄さんの名前も学年も聞かず仕舞いであった。はぇーさすが小学生(小並感)。

 ストライキは昼頃に終わり、午後は普通に電車に乗って帰ることができたと記憶している。
 帰宅したら、母から尋ねられた。

 母「恭介、あなた今日、学校行けたの?」
 わたし「行けたよー。電車止まってたけど、歩いて行っちゃった」
 母「えっ、すごいねぇ」
 わたし「うん、親切な××中の人が連れてってくれた」
 母「ええっ、名前とか聞いた?」
 わたし「ううん。全然」
 母「そう――。優しい人がいてくれてよかったね」
 わたし「うん!」

 まぁ、この程度の会話で終わりである。今だったら「どうして名前を聞いておかないの。お礼しないといけないじゃないの」とか、それ以前に「知らない人についていっちゃいけないでしょ」と叱られてしまうかもしれない。

 昭和はなんとも、大らかであった。
 今なら、小学生低学年の子どもが駅で半べそをかいていても、わたしのようなオッサンが声をかけたら「事例」になってしまうだろう。
 インフラ企業のストライキはもちろん勘弁だが、人と人とをつなぐ、昭和時代の大らかさは、もう少し、残っていても良かったかなぁ、と。

 あのときのお兄さんの手の暖かさと優しさは、名も知らず顔も覚えていない今となっても、わたしの中にほんのりと残っているのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年10月17日

【昭和の遺伝子】免許証取得の思い出

 ツイッタラーの間で「自分のクルマに友人を乗せたらお礼をもらいたい」という話題が盛り上がっているという。
 もらいたい派、いらない派のそれぞれの主張に納得できるところもあり面白い。決着はそのときそのときの人間関係もあり、つけようがないと思う。

 昭和の遺伝子を持つわたしの感覚だと、率直に「へぇー、今の若い人は、クルマに乗せてあげたらお礼がほしいと思う人もいるのか」という驚きがあった。
 これは、地域性や世代間格差もあると思う。わたしは、誰しもが二十歳を過ぎたら免許とマイカーを持っているような地域で育った。用事や旅行でも「今回はオレのクルマで、次回は君のクルマで」のように、自然、お互いのローテーションがうまくいっていたのである。だから友人を自分のクルマに乗せたからといって、それで代償が欲しい、とは、はなから考えなかった。

 現代では都市部の青年だと、マイカーはもちろん免許証を持っていない、という人も多くなっているだろう。そういう人に「たびたび足代わりに使われてまったく代償なし」というドライバーの憤りも、もちろんわかる。

 わたし自身は、クルマの中でのお喋りが好きな方なので、免許証を持っていない友人を遠距離で乗せても、全然、代償が欲しいとは思わないクチ。友人が寝てしまっても、まあ疲れているのだろう、と起こしたりはしない。
 そんなだから、金銭とか、食事とかの代償を要求したことはまったくない。
 逆に、ツイッターでの指摘通り、クルマに乗せてあげた代償が必要なのだとしたら、今まで乗せてあげた友人に気まずい思いをさせていたのかな? と、もうしわけなく感じているところだ。わりと「いいですよ、乗ってってよ。送りますよ」と気軽に言ってしまう性分だからである。

 ところで、小・中学から知っている友人が「送っていくよ」と初めて運転席に座ったとき、すごく違和感を覚えませんでしたか?(笑)
 これは面白い感覚だよねー、と、当時、笑いあったものである。今はもう、味わえない。

 わたしは免許を二十一のときに取得した。もちろん、教習所で卒検までがんばり、試験場でペーパーテストを受けて取ったのだ。
 当時はマニュアル車、ノンパワステ、窓もレバーをクルクル回して開け、サイドミラーはフェンダーについていた。

 第一段階ではシミュレータなどはなく、タイヤが空回りする台車に実車を載せたものに乗せられた(あれの名称はなんというのだろう)。そんなだから、エンジンを吹かすと前に飛び出しそうで恐い!
 汗をかきながらギアチェンジの教習を終えて下りると、教官に「うまいね、乗っていたんじゃないの?」と言われた。しばらく、言っている意味がわからずキョトンとしていたことを思い出す。「無免許で乗っていたんじゃないの?」という意味だとわかったのは、教習所からの帰り道で、であった。

 第二段階では、狭い教習所の中で、四速まで入れるのが難しかったようなおぼろげな記憶。S字は簡単だったがクランクには苦労したなぁ。
 第三段階は坂道発進だっただろうか。教官に「半クラにして(坂道で)止めて」と言われ、足が攣りそうになった。

 そして初めての路上教習。教官は鼻歌など歌って気楽な顔をしていたが、こちらは全身に汗びっしょりである。緊張につぐ緊張で、本当にこれからまともに運転できるのだろうか、と自信をなくしたものだ。

 この頃、誰しもが経験することだと思うが、他人が運転するクルマに乗ると、とても恐くなるという症状が。運転するほうも「そうなんだよなー、慣れると平気なんだけどね」などとノホホンとしていたりするのが、今思うと可笑しい。

 卒検でも緊張し、わたしは「坂道での後退」と「加速不良」をやらかして、ギリギリの点数での合格であった。
 そうそう、当時は「高速教習」などはなかった。なくてよかったなぁ、と振り返って思っている。きっと、最初の路上教習どころではなくあせっただろうから。

 当時はわたしの住む地方都市に「免許センター」なるものはなく、いくつか分散した試験場のひとつでペーパーテストを受けた。こちらは一発で満点合格だったが、周りに「もう何回も落ちている」という人が幾人もおり、そのことのほうにびっくりしたものだ。

 まだ免許証受付のコンピュータ化が進んでいなかった時代、試験場の周りには「代書屋」とよばれる業者がいくつかあり、そこで免許証の書類を作ってもらって、試験場へと提出するのである。
 初めてもらった免許証は、今の小型のものと違い大判で迫力があった。まだゴールド免許もグリーン免許もない時代、皆、青のストライプである。教習所が免許ケースを贈ってくれたので、それに入れて携行していた。


(おりもとみまな「ばくおん!!」4巻より引用。わたしの母は限定解除*ニ許を持っています)

 免許取得以来、安全運転を続けて、ゴールド免許歴の方が長いが、一度、駐車違反をやらかして、ブルー免許に落ちてしまった(その話は「【日記】自動車免許」「【日記】おかげさまでゴールド免許」に書いた)。
 卒検での「加速不良」といいい「駐車違反」といい、わたしはクルマを「飛ばす」ほうではなく「止める」ほうに問題があるらしい。
 以降、猛反省して、ちょっとの駐車でもパーキングを探して入れるようにしている。今はゴールド免許に復帰した。

 高速での無謀な運転による事故も話題になっているが、クルマの運転というものは、技術ではなくコミュニケーションだと思っている。
 ちょっとネットを見れば、世の中には話が通じない、エキセントリックな方々がいるというのは自明ではないか。
 そういうことを頭の片隅に常に入れて、なにがあっても腹を立てずにスルーが一番、という気持ちでハンドルを握るようにしましょう、ご同輩。
「自分のクルマに友人を乗せたらお礼をもらいたい」かどうかでも意見がわかれる世の中なのだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年10月10日

【昭和の遺伝子】インスタントラーメンの思い出

 おそらくわたしは、同世代の男性と比べて、インスタントラーメンやカップラーメンを多く食べている方だろう。

 ……と書いて、首をかしげた。いや、そんなことはないかもしれない。今は食べても週に一回くらいだし、細君が料理上手料理好きなので、夕飯をカップラーメンで済ませてしまった、などということは、結婚後、十回もなかったはず。

 そう考えると、同世代の男性の平均と同じくらいか、それ以下かな? という程度かもしれない。
 少なくとも、藤子不二雄先生のラーメン大好き小池さんや――


(藤子・F・不二雄「藤子・F・不二雄大全集 オバケのQ太郎」1巻より引用)

 ラーメン大好き小泉さんより食べていないのは確かである。


(鳴見なる「ラーメン大好き小泉さん」1巻より引用)

 みなさんは、初カップラーメンの記憶を思い出せるだろうか? わたしは鮮烈に思い出せる。最初に食べたのは日清の「カップヌードル」だった。
 なんとなれば、母が「発泡スチロールのカップから有害物質が出るかもしれない」と言って。カップから麺その他を丼にあけ、そこにお湯を注いで作ったものを食べたからである。
 今にして思えば、莫迦莫迦しい心配に過ぎないのだが、当時はインスタント食品に偏見も多く、小さな子どもに食べさせるものとして、母が心配するのも無理はなかったのかもしれない。
 味はとても「ジャンキー」で、子どものわたしはとても気に入った。 カップラーメン、インスタントラーメンとのつきあいはその日から始まったのであった。

 カップラーメン丼あけメイクは、母も面倒だと思ったのか、それ一回だけだった。食の細いわたしが食べてくれるのなら、それはそれで良いと割り切ってくれたのかもしれない。

 わたしは本当に食が細かった。
 小学生の頃は給食だったのだが、主食のパンもおかずも規定の量を食べられず、最後までいつも残されていた。それが苦痛で、さらに食べるのが嫌になるという悪循環。
 土曜は弁当の日だったが、母が愛情を込めて作ってくれた弁当でも食べきることはできず、結局、弁当箱一杯に「牛乳寒天」を作ってもらい、それなら食べきることができたのであった。
 ちなみに、こういうタチであるから、当然と言えば当然のように成長も悪く、身長はクラスで一番低かった。

 こんなわたしでも、「成長期」というものはやってくるのである。遅れてやってきたそいつは、わたしに「食欲」というものがあることを教えてくれた。高校生の頃だ。
 この頃は、早弁こそしなかったが、弁当は全部食べられるようになったし、なにより、家に帰ってから夕食までに腹が減っていて、よくインスタントラーメンを作って食べたのである。

 わたしが料理できないダンスィであったことは前にも書いたが、さすがにインスタントラーメンくらいは作れる。ただし、具なしの素ラーメンだが。
 良く作ったのは「サッポロ一番塩ラーメン」と「カレーうどん」。「塩ラーメン」は今でも伝統の味だが「カレーうどん」の方はスーパーでも見かけなくなってしまった。

 カップの方は、これも伝統の日清の「どん兵衛」が好きだ。同社のカップヌードルも好きだが、これは最近、麺量に比して値段が高く、コスパが悪いのではないか? と思っている。が、たまに無性に食べたくなる。ノーマルのカップヌードルとチリトマが好きだ。

 カップ焼きそばもまたいい。わたしはとても初期のカップ焼きそばを食べたことがある。メーカーは忘れたが、カップヌードルと同じ円柱型で、捨て湯をする穴を「箸でブスッと開けてください」という斬新なものであった。そしてこれは――まずかった(笑)。
 当時のメーカーはカップライスなども試行錯誤していたが、それらも食べられた代物ではなかったと記憶している。

 その後出てきたペヤングなどはとても美味で、これもまた好きに。ごく最近起きたG混入事件はもちろんよろしくないことだが、その後、工場が新しくなり、また食べられるようになったのは良いことだ。

 カップラーメン、インスタントラーメンは、製品寿命が短いものも多い。一時は「つけ麺」ブームがあり、専用の器までつくられる人気だったのだが、すぐに飽きられてしまった。
 お湯なしで作れる「アルキメンデス」とかもあったはず。これは正月、友人皆で砂浜へくりだし、初日の出を見ながら食べた思い出があり、よく覚えている。

 深夜に食べるラーメンと言えば「チキンラーメン」である。



 作家になりたての頃、一人、午前三時のキッチンで丼にこいつを入れて卵を落とし、お湯を注して銀紙で蓋をし、書斎へ持っていく。
 銀紙の蓋を開けても、卵は商品写真のようにうまく固まってはいない。まあ、そういうもんだ、と思いながら食べるのが常であった。

 コクヨのケ-35N原稿用紙にボールぺんてる。広辞苑と岩波の国語辞典。深夜ラジオを聞きながら食べるチキンラーメン。そのうち夜も明けて窓から朝日が入ってくると、そろそろ寝るか、と、床につく昼夜逆転生活。そんな若い日々を、懐かしく思い出す。

 今でもチキンラーメンは、体調が悪く食欲がないとき食べられる、唯一の食事である。健康な人にはちょっとわからないかもしれないが、あれは一種、流動食みたいなものなのだ。
 あのラストエンペラー溥儀も、最期の時に「チキンラーメンが食べたい」と言ったそうである。なんとなく、わかる気がする。

 わたしが最期の時、なにを食べたがるかはまだわからないが、それが高級料理でないだろうことだけは確かである。
 ひょっとしたら、丼に入れたカップヌードルをほしがる、かもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年09月17日

【昭和の遺伝子】給食

 神奈川県大磯町の二つの町立中学校の給食で、大量の食べ残しが続いていることが問題になっているニュース。失礼ながら、笑ってしまった。いったいどれほどまずいのだろう、ぜひ食べてみたい。
「味音痴」のわたしに「まずい」と言わせたら大したものである。

 というか、わたしが通っていた小学校では、「給食がまずい」のは当たり前であった(中学は弁当)。
 学校内の調理場で作っていたので、メニュー自体は温かかったが、なんと、六年間で一度しか「美味い」と思ったことがない。

 第一、コメが出なかった。六年間で一回だけ、チャーハンが出た日があり、クラス中がどよめいたことを覚えている。どよめいたからといって、そのチャーハンが美味いわけではなかった。パサパサでボソボソ。それでも物珍しいという理由だけで、残飯率は低かったと思う。
 その一日以外は、毎日必ず、耳つきのパン二枚とマーガリンとイチゴジャムが出る。これはどんなおかずでも必ずである。そして牛乳も必ずつく。

 パンにシチューはいい。しかし、「どんなおかずにでも必ず」である。パンにミートソーススパゲティ、パンにカレー、パンに春雨サラダ、パンにクジラの竜田揚げ、パンに何かのあげもの、パンに麻婆豆腐、パンに酢豚……。最後の方になると、献立を考える側の「食えるものなら食ってみろ」という悪意すら感じるメニューばかりではないか。
 そこまでの意図はなかったとしても、栄養士が数字だけ合わせた、味のことなど二の次、三の次のメニューであったことは確かである。

 しかし「ほかを知らない」というのは大きい。六年間、わたしを含めクラスメートたちは「給食なんてこんなもんだ」と思いながら食べて成長していたのであった。
 そんなわけだから、大磯町の「食べ残し給食」をニュースで拝見しても「言うほどかね? わりと美味しそうじゃない」と思ってしまったり。

 わたしは戦中世代に「戦争中は美味いものなど食べられなかった。生きるためにまずいものでも何でも食べた。おまえたちの世代は贅沢だ」と言われて育った。だからと言って大磯町の「食べ残し給食」を「贅沢だ。我慢して食え!」とは言わない。憎しみの連鎖はわたしの世代で止めておきたいと思う。
「食育」という言葉を使う人はうさんくさい。ブタに名前をつけてクラスで飼育し、それを屠殺して子ども食べさせるのを「食育」だと言っている人間は莫迦だと思っているが、子どもには美味しいものを食べさせてあげて、本当の意味で「食事は楽しい」という経験をさせてあげるべきだ。わたしが「味音痴」で「食べるの嫌い」なオトナになってしまったからこそ、そう思う。

 六年間で一度だけ「美味い」と思った給食は、五年生の運動会の日に出た給食であった。たしか耳なしパンに甘いクリームが塗られたサンドイッチである。なぜその日に限って、そんなメニューが出たのかはわからない。ひょっとして来賓対策だったのかもしれない。やはりクラス中、美味しさに驚きの声があがった。目の醒める美味さとでも言おうか、「給食でもこんなに美味しいものが出せるんだなぁ」と顔を見合わせあったものである。

「ユリ・ゲラー」ブームのときは、ご多分にもれず、曲がったスプーンが出回ることが多かった。うちの小学校には超能力者が多かったらしい(笑)。

 振り返れば、わたしの「味音痴」と「食べるの嫌い」は、持って生まれた素養に加えて、さらにこの小学生時代の給食で培われたものかもしれない。

 先の大磯町の給食業者は、この先、契約を打ち切られてしまったら大変だろうが、起死回生の手段として、ぜひとも「日本一不味い給食」としてネットで冷凍販売を考えてはいかがだろう。少なくともわたしは買う。買って、自分がどれほど「味音痴」なのかを確かめてみたい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年09月05日

【昭和の遺伝子】体罰はこれを容認してはならない

 体罰はこれを容認してはならない。これは、家庭においても、もちろん学校においても容認してはならない。どのような事情、経緯、相手であろうとも、体罰を行ってはいけない。

 現代だからいけない、昭和の頃なら体罰は良かった、というわけではない。昭和の頃だって体罰はいけなかったのだ。

 わたしは昭和の男であるので、「体罰上等」の学校生活を送ってきた。
 今、わたしに体罰をしてきた教師たちと同じ年代か、それ以上の歳になってわかることがある。わたしに体罰をしてきた教師たちは、みな弱虫で、指導力が低く、薄っぺらいプライドを保とうとしている、人間として尊敬できない者ばかりだった。

 逆に、当時はわからなかったが、体罰を絶対に行わなかった教師たちの方が、今、振り返ってみると「あの先生はいい人だった」「尊敬できる人間だった」「軟弱なようで強い指導力があった」「本当の教師としての矜持を持っていた」とわかる。

 教師には、教育者となるべく教育学部を出た者も多いだろうが、教育学の教科書のどこに「体罰のやりかた」という項目があるのか? 「生徒への効果的な体罰の方法」が記されているのか? 根本的に「体罰は必要である」と書いてあるのか?
 もちろん、そんなものが書いてあるはずがない。

 この記事はもちろん、トランペッターである日野皓正氏が、世田谷区で行われたライブで「ノリすぎた」中学生のドラムスにビンタ等をした事件と、その社会的な反応を読んで書いている。
 日野氏は(一般的に言って)教育者ではないから、これは「体罰」ではない。もっと悪い「傷害事件」である。
 だがことが公になっても警察が取り扱わず(刑事事件として通報されていない)、当の中学生とその親が「あれは仕方なかった」と言っているそうだから(民事でも訴える者がいない)、まわりがどうこう言える問題ではない。
 どうこう言うのなら、警察に電話して「傷害事件が発生した」と通報すればよかったのである。

 本来「体罰」も「傷害事件」なのである。だが、教育者が生徒に暴行を働いた場合にのみ、なぜか「傷害事件」が「体罰」と名を変えて容認されてしまう風潮が、過去には確かにあったし、今でも残っているのだ。もちろん、良いはずがない。

 こういうときは「体罰」という言葉をうまく言い換えるのが一番良い。「教育の名を借りた一方的暴行」というのはどうか。うーん、長すぎていまいち一般化しないか。
 ならば「ハラスメント」である。「エデュケーショナル・ハラスメント」で、「エドハラ」。ううーん、これもインパクト小でダメそうだ。

 なんにしろ、体罰はどんな理由があっても容認されない。
「体罰で育ってきた世代がまともなオトナにならなかったようで否定される気持ちになる」と言っているタレントがいるそうだが、うん。「体罰」を容認している時点で、やっぱりそのタレントはまともなオトナではない。

 わたしがクリスチャンと知ると、ニヤニヤしながら「右の頬を打たれたら左の頬も打たせるんでしょ?」という人がいる。わたしは答える。「ええ。左手でスマホを出して警察に電話しますよ」と。

 聖書を正確に引用すると、こう書いてある。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイによる福音書 5:39)」。
 左の頬を打たせなさいとは書いていない。向けなさい、だ。

 いろいろな説はあるが、ここでひとつ、考えていただきたい。二千年も前から、人間は右利きの人の方が多かったのである。普通に右手でビンタするとしたら、相手の左頬を打つのが当然である。なのにイエスは「だれかがあなたの右の頬を打つなら」と言っている。不思議ではないだろうか?
 実はこれは、主人が奴隷をしかるための打ち方だったのである。つまり、右手の掌ではなく甲の方で相手の右頬を打つやり方だ。

「奴隷」などと言うと、主人がなにをしてもいい存在、回転寿司の地下で機械を回すカッパたちのようなものを想像するかもしれないが、当時「奴隷」は「家畜」と同じであり、「家畜」が大切にされていたように「奴隷」も大切にされていた。その奴隷を傷物にしないために、思い切り打つことができない「右手の甲で右頬をはたく」方法をとるのである。

 逆に言えば、対等な人間関係の中でこのような打ち方をされたのなら、相手に人間として見られてない、ということなのだ。「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というのは「俺を奴隷扱いするな。やれるものなら左の頬を打ってみろ、そうしたらもう――


(福本伸行「賭博黙示録カイジ」5巻より引用)

 という意味なのである。
 だから、イエスの時代から二千年を経た今、もしわたしが右の頬を打たれたら警察を呼んで刑事事件にする。クリスチャンとしてなんら矛盾を感じない。

 話が飛んだが、本来「体罰」も同じだったのである。自分の権力を傘に着て、一方的に生徒を奴隷とみなして打っているのである。いや、二千年前の奴隷が大切にされていたことを思えば、現代(昭和・平成)の体罰の方がもっとタチが悪い。

 わたしは昭和の男だが、ノスタルジーに浸って「体罰は必要」と言っている同世代の人間は、やはり体罰を行う教師と同じで、弱虫で、口ばかりで、人間として尊敬できない者ばかりに感じる。
 もし今まで深く考えず「体罰は必要」と思っていたわたしと同世代の人間は、本当に体罰を行っていた教師が尊敬できる者だったか、いま一度、考えなおしてみていただきたい。本当に尊敬できる教師は暴力をふるっていただろうか?
 いかがだろう?
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子