2017年08月11日

【昭和の遺伝子】夏の海の思い出

 小学生の頃、わたしの両親は、毎年、同じ県にある海水浴場へ、泊まりがけで旅行に連れて行ってくれた。
 のんびりとした時代ではあったが、自分がオトナになってみると、毎年、夏休みに子どもをどこかレジャーへ連れて行くのは大変面倒なことであったろうと思う。父母には感謝しかない。

 遠浅の海は、お世辞にも綺麗とは言えない海水であった。泥が混色し、沈めば数メートル先もみられない。そこに、海草やらゴミやらが浮いたり沈んだりしている。
 砂はたまにガラス片や、缶ビールの蓋(当時は外すタイプであった)が埋もれていたりして、かかとをサクッとやってしまうこともあった。
 今の時代はモラルの低下が云々と言われているが、モラル自体は当時の方がよっぽど低かった。と、わたしは思う。ただ当時はみんな「そんなもんだ」と思っていたから、問題にならなかっただけなのである。それが昭和という時代であった。

 もちろん、砂浜も汚れたものだった。飲み捨てたビール缶、コーラの瓶、ビニールのたぐいからスイカの皮、食べ捨てたトウモロコシの芯などが、山になって捨てられていた。
 しかしみんな「そんなもんだ」であったのである。

 当時の海には、閉口してしまう、あるものが混入していた。クラゲ、ではない。いやもちろん、シーズンオフになればクラゲは大量発生してはいたけれど。
 その「あるもの」とは「重油」である。わたしの県は日本有数の工業港を有しており、そこを出入りするタンカーに張り付いた「重油」が、どうしてか山を隔てた海水浴場にまで流れ着き、体にひっつくのである。
 黒く、べったりとしていていて、粘着力がつよい。皮膚についても、水着についても、ちょっと洗ったくらいでは取れない代物である。
 我慢できないほど体に着いてしまったときは、ベンジンで洗い流すのであった。

 旅行の予定日がちょうど台風とぶつかってしまい、二泊三日、結局宿から出られなかったことがある。父母は残念そうに「ごめんね」と繰り返すのだが、子どものわたしは旅行ができるということ自体が楽しく、特に海に行けなくても楽しかった。雨戸を閉め切った宿の中で、買ってもらった雑誌「小学×年生」の付録などを組み立てて、楽しく過ごしていたと思う。

 だいたい毎年、同じ海水浴場へと行くのだが、都合によって、少し違う場所へ行ったときもあった。
 その海水浴場には、磯場があり、そこの岩を切り取って、四角いプールにしてあったのである。
「おっ、これはいい」と家族皆で行ってみると、「ゾゾゾゾーッ!」
なんと、フナムシが岩のプール一杯に詰まっているのである(このあたり、子どもの記憶なので変質はしているかも)。
 しかも、横に止めた船が波で揺れると、船腹についたフナムシが一斉に移動するのである。うげぇーっ!
 一匹二匹ならともかく、数百数千のフナムシとなると、もう全体がひとつの生物のようなものである。
 這々の体で逃げ出して、砂浜の方へ。今でもあの情景はよく覚えている。

 1975年、沖縄で「海洋博」が開かれ、わたしはその夏、母に連れられて二人で沖縄へと行ってきた。他の家族はなにか用事があってこられなかったのだと思う。
 海洋博はもちろん、ひめゆりの塔や、ハブとマングースが闘うショウなども回るツアーであった。ハブとマングースのショウでは、解説のおじさんが「ハブというやつは性欲が強く、一晩中楽しむんですよ」と言い、囲んでいた数十人の観衆から笑いがあがった。小学生のわたしは、母を隣にして、笑っていいものかどうか悩んでしまった(笑)。

 海水浴の予定はなかったのだが、自由時間に海に行ってみると、これが美しい! わたしが毎年行っている海とは全く違う。水はどこまでも澄み、砂は星の形をしていて美しい。
 これは泳がないのはもったいないよ、と母が言うので、思わず、トランクス一丁で水に入ってしまった。
 沖縄海洋博旅行で、三指に残る思い出である。

 それ以来、沖縄には一回も行っていない。いつか細君を連れて行って、あの美しい海で、数日ゆっくり過ごしたいと思いつつ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年07月03日

【昭和の遺伝子】ウォークマンの思い出

 今、この原稿は、スマホからBluetoothで飛ばした曲をSoundPEATSのQ12で聞きながら書いている。
 スマホには64GBのMicro SDカードを挿し、それにバッハ全曲集、ショパン全曲集、モーツァルト全曲集、典礼聖歌・賛美歌集、それに好きなポップス集を入れて、気分によってランダム再生したり、通して聞いたりしている。計算はしていないが、もし頭から全曲流していったら、一週間経ってもまだ終わらないくらいのボリュームがありそうだ。
 いやあ、ホント、いい時代になったものである。

 今はそんなふうに言う人もいなくなったが、昭和の時代は、外出中にカセットを聞ける小型音楽再生機器は、ソニー製品でなくても「ウォークマン」と呼ばれていた。もちろん、「ウォークマン」はソニーの登録商標である。「ステープラー」が「ホチキス」と呼ばれてしまうようなものだ。
 ちょっと気を遣う人は、ソニー以外の製品を「ウォーキングタイプ・カセット再生機」と呼んでいた。
 もちろん「ウォークマン」は今でも、シリコンオーディオのブランドとしてソニーから販売されている。

 わたしも昭和の少年・青年だったので、ご多分に漏れずソニー製の「ウォークマン」を購入して楽しんでいたクチだった。
 最初に買ったのは高校生の頃。初代機ではなかった。初代機より少し小型化されたタイプである。まだインジイヤー型のステレオイヤフォンは出ておらず(おじいさんがラジオを聞くような人肌色のモノラルイヤフォンはあった)付属していたのは簡素なヘッドフォンであった。しかしそれもまた、当時は格好良く見えたものだったのである。

 学校に持っていくのは禁じられていなかった(というか、そういう学校は今でもあるのだろうか?)ので、バスの中、電車の中でYMOや中島みゆきさんを聞きながら通学していた。
 この製品は確か単三乾電池二本で稼働だと思ったが、再生可能時間はそれほど長くなく、単一電池二本が入るサブバッテリボックスが付属していた。今で言うモバブーである。
 ただ、そんなに乾電池交換で面倒な思いをした、という記憶はないのである。むしろ今のリチウムイオン内蔵機器の方がバッテリ管理には気を遣うというのが正直なところ。

 まだウォークマンが珍しい頃だったので、学友が「ちょっと聞かして」と言うので快く貸してあげたら、彼の手が滑って床に落としてしまったことがある。自分としては「おいおい勘弁してくれよ」と苦笑したつもりだったが、その学友と隣にいた友人が「そんなに怒ることないじゃないか」と言ったので、けっこう自分の口調が厳しかったのかもしれない、と反省した。
 この事件は30余年以上も前のことだというのに、昨日のことのように覚えている。自分がそれほどキツい言い方をしていないつもりでも、相手にはキツい感じで受け取られてしまうかもしれない、という戒めだ。

 わかっている人はわかっていると思うが、ウォークマン(というよりソニー製品)は消耗品である。
 最初の一台にテープの巻き込みなどが起こり始めたので、二台目のウォークマンを昭和58年に水道橋のキムラヤで購入した。
 今度の機種は、ちょっと奢ってオートリバース&FM視聴可能、なおかつフェザータッチオペレーションな製品を購入。しかしこれは間違いだったと後で悟った。なにしろその分、ちょっと大きめなのである。フェザータッチオペレーションは格好良いが、機械的に再生ヘッドを押し込むわけではないので、なにか不具合があると勝手にヘッドをあげて押し黙る。
 買ってから故障するまでの期間は、前機種よりも短かったと記憶している。

 三台目は、もうソニーにこだわらなかった。というのも、ウォーキングタイプ・カセット再生機」自体がソニー寡占状態から脱して、多種多様なメーカーが出していたし、価格も格段に落ちていたからだ。確か、サンヨーのものを購入したと思う。
 このサンヨーのウォークマンは、未来の細君のクルマの中で役に立ってくれた。というのも、未来の細君のクルマのカセットデッキは早々に壊れてしまい、ドライブ中に音楽を流せなくなってしまったからだ。
 そこで、当時出ていた、シガーソケットから電源を取りつつFMで音楽を飛ばす周辺機器を購入し、それをこのサンヨーの機種につけたのである。
 このサンヨーの機種は実に丈夫だった。車内の高熱や振動にも耐え続け、クルマ自体を廃車するまで使ったと思う。

 ウォークマンを渡り歩いている間、オーディオはCDの時代に入っており、自分もCDウォークマンを使うようになっていたので、カセットウォークマン時代はここで終わった。

 平成になってから、ウォーキングタイプ・オーディオ再生機はMDになった。これはシャープの製品を選択。MDの思い出は、また機会があったらにしよう。

 今、若者の間で、カセットが再び脚光を浴びているという。正直言わせていただければ「はぁ?」という感じだ。
 カセットの方が音が温かいとか、いちいち巻き戻すのがいいとか、そんなのは全部幻想である(バッサリ)。
 ちなみにわたしは、オープンリールデッキも、ソニーの「Lカセット」も使ったことがある世代である。だから断言できる。今のシリコンオーディオの方がすべての点において勝っていると。

 いや、すべての点とまで言い切ってしまうのは早計か。
 少なくとも、ノスタルジーの点では、カセットに軍配があがるのだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年05月19日

【昭和の遺伝子】レンタルビデオ

もうずいぶん、レンタルビデオ屋さんで映画などを借りるということをしていないのだが、最後に行ったときには、もう「ビデオテープ」は置いていなかった。DVDだけである。
それでも、「レンタルDVD屋」ではなく「レンタルビデオ屋」の名称が今でも残っているのはなんとなく苦笑してしまうが、貸しているのはメディアとしてのビデオプログラムなので、間違いはないのだろう。

今回の記事は、それこそ本物のビデオテープが置いてあった時代の「レンタルビデオ」屋の思い出話。VHSとベータの両方が、まだしのぎを削りあっていた時代のこと。

黎明期のレンタルビデオ屋は、ダークゾーンであった。法的にも、存在感的にも。
映画のビデオテープも、アダルトのそれも、一本が一万数千円していた時代である。それを販売せずレンタルするというのは目利きなアイデアであったと思う。
しかし当時、ビデオは「セル(販売)」が目的で、レンタル業者は著作権的には「法の網をかいくぐって」営業していた。

当然、TSUTAYAのような大きなチェーンはない。みなほぼ、バックがついていそうな個人経営で、それぞれが小さな店舗を構えて、会員を募っていた。
なにしろ、最初に入ったレンタルビデオ屋は、マンションの一室で営業していた。怪しかったが、さほど怖いという感じを受けなかったのは、わたしがまだ若かったからかもしれない。
わたしを含め、当時の若い男の子たち(今のわたしにとって感覚的に20代は青年≠ナはないのである)は、市内あちこちのレンタルビデオ屋の会員証を持っているのが普通であった。なぜって、それぞれの店で品揃えが違うから。A店にはあってもB店にはあるかもしれないからである。お目当てのブツが(笑)。

大抵の店が、一回に借りられるのは二本まで、ではなかったかな。ビデオテープなので、巻き戻して返却する、というマナーもあった。
ビデオデッキがテープを噛み込んでしまい、デッキを分解してテープを取り出して返却した、などという話は、当時、レンタルビデオを利用していた誰しもが一度は経験したことがあるのではないだろうか。

わたしはベータ派だったので、当初はけっこう、寂しい思いをした。レンタルビデオ屋黎明期からVHSとベータは勝敗が決まっていた。ベータの棚は小さく狭く、置かれるビデオも有名作品ばかりで、それもVHSに比べて遅れる始末。こりゃダメだと、ソニーが白旗広告(*1)を上げる前にVHSを買わざるをえなかった。

(*1)いよいよ劣勢になったソニーは、「ベータはなくなるの?」という新聞一面を使った広告を、数日間、連載で出したのである。広告の最後は「そんなことはない。ますます広がるベータの世界」という趣旨でおさめたのだが、消費者にはベータの事実上の敗北宣言と取られ、以降、VHSが趨勢を覇するまでに数年かからなかった。

ベータとVHS、画質はベータの方が優れている、というのが常識だったが、今のDVDやハイビジョンから比べれば、どんぐりの背比べだったなあ、と思う。
ソニーを盟主とするベータが負け、ビクターが開発したVHSが覇権を取ったのは、みなさんご存知の通りだが、その大きなきっかけとなったのは、ベータ派だった東芝のVHSへの寝返りである。
その東芝が、まさか巨額な赤字を抱えて日本のお荷物になる日がくるとは、ベータ派だったわたしは愉快愉快――というわけでもなく、これを書くまで東芝が裏切った会社であるということを忘れていたくらいだ。
ま、ソニーももう好きじゃないしね。
国民の誰しもが、東芝がああなったり、シャープがこうなったり、サンヨーがなくなったりするとは思っていなかった時代である。

当時はビデオにコピーガード信号などは入っていなかったので、借りたビデオをダビングする人も多かった。レンタルビデオはグレーゾーンな時代だったが、そこから借りたビデオをダビングするのは明らかに著作権違反である。しかしそれで捕まった、警察が動いた、などという話は聞いたことがない。
ダビングすれば画質は格段に落ちるので、ビデオの発売元はそれほど問題にしていなかったのであろう。それよりも大元の、野放し状態だったレンタルビデオ屋の問題を解決する方が先決だったはずだ。

当時、絵の出るレコード≠アとレーザーディスクはまだまだ普及しておらず、これを置いているレンタルビデオ屋はほとんどなかった。
ちなみにレーザーディスクはパイオニアが盟主であり、ビクターが開発したVHDというライバルがいたが、これはVHDの負けで最初から勝負がついていた。なんとVHDは再生するたびに画質が劣化していくという情けない仕様だったのである。

レーザーディスクは当時、ビデオテープに比べてずばぬけて画質がよく、これがレンタルされてダビングされるようになったら、ビデオの発売元はさぞや頭が痛かっただろう。
が、肝心のレーザーディスク再生機の普及率が低かったので、これも問題にはならなかった。

さて、そんなこんなで、市内の各レンタルビデオ店の会員であった当時の若い男の子たちは、クルマで各店を回っては、良いビデオを探すのが常であった。
友人Y君はレンタルビデオ通で、映画からアニメからあっち方面まで片っ端から見る趣味人だった。

Y君「イーエッチないかなぁ」
わたし「イーエッチねぇ」
Y君・わたし「イーエッチ・エリック!(笑)」

と笑いあったことを思い出す。って、今の人はE・H・エリックをご存知ないか。

そうこうするうちに、ビデオデッキがほぼ全家庭に普及するようになって、レンタルビデオ屋と販売元はなんらかの協定を結んで手打ちとなったのだろう。街からどんどん、小さなレンタルビデオ屋は消えていき、いまやTSUTAYAばかりである。しかしそのTSUTAYAが徳間書店を買う時代がくるとは思わなかったが。

当時、数人で小さなレンタルビデオ屋を回っていたわたしたちに、今の日本の現状を伝えても、絶対に信じやしないだろうなあ、と思う。

レンタルビデオの思い出、といいつつ、ビデオデッキその他の話ばかりになってしまったのは、やっぱりアレですな。レンタルビデオとは切っても切れない関係のジャンルの話はしにくいというところがありましてなw

それに不思議なことだが、あの時代の雰囲気をそのままビデオテープに磁気転写していた若い女性たちの名前を、今こうして思い出そうとしてみても、とんと思い出せないのである。
彼女たちにとってみれば、思い出されない方がいいことなのかもしれない、とも思う。

若い男の子は、レンタルビデオ屋さんの一角で、紳士同士の礼儀を覚える、そんな時代だったのでありまする。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年05月03日

【昭和の遺伝子】運動部>文化部

今の時代は知らないが、昭和の学校には、確実に「運動部>文化部」という序列があったのであった。
運動部に入っている生徒はなんだかんだと贔屓目に扱い、文化部の生徒は、脆弱で根性がないと公言する教師すらいた。
「運動部の生徒はなにをやらせてもがんばるが、文化部の生徒は途中で投げ出してしまう」と言うのだ。まさしく脳筋。ひどい偏見である。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉が無条件に信じられていた時代である。
当時から腺病質だったわたしは、この言葉が大嫌いだった。

こんな言葉が正しいのなら、運動部を辞めようとした生徒のリンチ事件とか、いじめのような新歓シゴキとか、有名高が飲酒喫煙で甲子園辞退など、起こりうるはずがないではないか。これが「健全な精神」の発露とは大したものだ。

逆に、華道部が新入部員を剣山に正座させたとか、美術部がモデルを全裸に剥いて金粉を塗り窒息させたとか(それは都市伝説)、生物部がバイオハザードな微生物をばらまいてアンブレラ社が大騒動とか、そういった物騒な話を、みなさん、お聞きになられたことがあるだろうか?

わたしは当時から、問題を起こすのはむしろ運動部の生徒の方で、文化部の生徒は良識を知り、情緒豊かで優しい生徒が多い、と主張していた。

「正直なところな」と、ぶっちゃけた話を漏らす先生もいた。「運動部に入るようなやつは元気が良すぎるから、ヘトヘトになるまでしごいてやってエネルギーを減らして、悪いことをさせないようにするって考えもあるんだよ」
なんとも正直すぎる教育方針だが、実際、他のルートからも「ヘトヘトに疲れさせて性的なことを考える余裕をなくし、不純異性交遊を防止する」という話を聞いたことがある。どこまで本当かわからないが、なんとも、滑稽な話である。

だいたいが、保健体育教育からして科学的ではなかった。有名なのは「運動中に水を飲んではいけない」などの謎ルール。熱中症(当時は日射病と言った)で倒れると「根性が足りない」と、バケツで頭に水をかぶせ、木陰に転がしておく。
食物アレルギーは「偏食」だったし、性教育は「寝た子を起こすな」でほとんど行われなかった。

とにもかくにも、運動部は「努力と根性」を養う善なるところであり、文化部は「怠惰と弛緩」を生む落ちこぼれのいくところ、という雰囲気はあったと思う。

そんなこんなで、中一のわたしも最初は周りの圧力に負け「バスケ部」に入ったのであった。夏の合宿までは頑張ったが、同級生と比べ、小さく細い体ではついていくのもおぼつかない。
秋口になると練習を休むようになり、やがて、部活の教職に呼ばれて、クビを宣告された。
このバスケ部の担当顧問だったI教職は、わたしにしては珍しく、尊敬心のかけらも持てない教職であった。夏合宿のとき、夜、酒を飲み、生徒とマージャンをしていた。教職という権力を笠に着て、それを自分の力だと過信しているタイプだった。
今、自分が、そのときの彼の年を越えてみても、やはりくだらない男だったと思える。
I教職が顧問をしていたバスケ部をクビになったのは、むしろ神の恩寵だったのかもしれず。今でも、わたしをクビにしたときのニヤニヤした薄ら笑いを気味悪く思い出せる。


(井上雄彦「スラムダンク」8巻より引用。安西先生はいい先生ですが、わたしはもう、バスケはいいです)

教師≠ニ呼ぶのも気持ち悪いので、この方については教職≠ニあえて書いた。

バスケ部で懲りたので、もう二度と運動部には入らない、と決めた。中二のときは写真部に入り、暗室でUFO写真や心霊写真を良く焼いた。

顧問の先生も自由にやらせてくれたし、運動部とは全然違うなぁ、という伸び伸びとした雰囲気で、楽しい放課後を過ごした。
当時、デジカメなどは当然なく、一眼レフもオートフォーカス出現前であった。フィルムの現像はカメラ屋さんでやってもらって、部室で焼けるのは白黒の印画紙のみ。赤い電灯と、酢酸臭い部屋は、いい思い出である。

その頃はまだ「帰宅部」という言葉は生まれていなかった。生徒は部活に入っているのが当然、という雰囲気が強かったからだろう。

今でこそ――


(河合克敏「とめはねっ!」1巻より引用)

とか、


(いみぎむる「この美術部には問題がある!」1巻より引用)

とか、


(三上小又「ゆゆ式」1巻より引用)

とか、文化部のマンガは珍しくなくなったが、昭和の時代にそんなものはなく、マンガの世界も運動部ものばかりであった。

平成の今では、「運動部≧文化部」くらいの価値観にはなっているのだろうか?
もし人生をやり直せるなら、あのとき同調圧力に負けてバスケ部に入ったりなどせず、相性のいい文化部で三年やって、なにか成果を出したかったな、などと思ったりする。

振り返ってみると、わたしはバスケ部一年中退だし、その後、写真部、高校で生物部、非公認電算部と、男臭い部活ばかりやっていたので、可愛い後輩に「先輩!」と呼ばれたことがないことに気づいた。これは悔しい。

というわけで――


posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年03月21日

【昭和の遺伝子】おニューの靴の儀式

「【日記】加水分解」で、スマホケースのベタベタを耐水ペーパーで削ったら、もともとの塗装まで剥げてしまってワロタ、けれど使い込んだ味がむしろイイ――というようなことを書いていて、思い出したことがある。

わたしが高校へ通っていた頃までは、新しい靴を下ろして学校へ履いていくと、悪友たちが「儀式」と言って、わざと踏んで汚すのがならわしであった。
こんな風習は、もう二十一世紀の今、滅んでしまっているだろうなぁと「新しい靴 儀式」でググってみると、多くはないが、まだそういうことをやっている子どもがいるという話を読むことができて、嬉しくなってしまった。
主に運動部に残る風習らしいが、わたしたちの頃は、文化部運動部帰宅部の別なく、「新しい靴は踏んであげる」のが、周りの者の務めであった。

そう、これは嫌がらせなどではないのである。おろしたての靴をそのまま履いているのはむしろ恥ずかしいこと。それを汚して「履き慣れた感」を早く出すのに協力してあげるという友情だったのである。
この感覚、今の若い人にはおわかりいただけるだろうか。いや、ご理解くださる方も必ずいらっしゃると思う。わざと汚し穴を開けたダメージジーンズ≠熹р轤黷トいるくらいなのだから。

以前、なにかで読んだのだが、昔の日本人、特に江戸っ子は、新しいモノをそのままひけらかして使い出すようなことはしない。わざとある程度汚してから人目につく場所に出すのものだ、という話を聞いたことがある。江戸っ子にとって、新しいモノは決して自慢にはならず、むしろ使い込み、エイジングの効いた品をさりげなく出す方が「いなせ」だったのである。

とは言えやはり、この「使い込んだモノがいい」という感覚は、今の時代、だいぶ希薄になってしまっているかもしれない。
なにしろ、日常で使うモノの「新品→故障などでダメになる→捨てる→新品」のサイクルが短くなった。古いモノを直して使おうとしても、修理代の方がかかるから新品を買ってくれと、お店の方から断られてしまうような時代である。

子どものような顔つきだったタレントさんが、成長して大人の顔になると「劣化した」とネットで言われてしまう昨今はどうかと思う。若さだけがタレント性の取り柄ではないはず。いい歳の取り方をして、それが表情に出ている方も多いはずだ。
モノも人間も、本当にいい使い方、使われ方、生き方、生かされ方をしていれば、歳を重ねるにつれ、自然といい味が染み出してくるものである。
いやしかしこれに関しては、いい味を出すどころか、加水分解してベタベタになるラバー塗装のように、年齢に比例してくだらない因襲をまとわりつかせるタイプの人間もいるので、必ずしも「古い人間が良い」とは言えないものではあるが。

人生も半分を越えて、日々細々と周囲を見つめながら生きてみると、本当に長持ちするモノは少ない、ということに気づく。
昔は「ブランド」というものは、そういう「長持ちするモノ」への称号だった。今はただのお飾りになってしまっている。本来「ブランド」にこだわるような人が、新しいモノを次々と購入するのは滑稽なことなのだが、現代人はそれを忘れてしまった。


(写真は四十年使い続けている文庫本の革カバー。ハンドメイドの一品だ。エイジングがいい味を出しているでしょう?)


(こちらも珍品なのでついでに。Google社のロゴ入り文庫本カバー。まあやっぱり、新しいモノもいいよね)


(これは細君ハンドメイドのブックカバー集。サイズに合わせていろいろ作ってくれた。感謝。これも長く使っていきたい)

最初に戻って、「おニューの靴を踏んであげるという儀式」がまだ残っているというのは、エイジングに価値を見いだす価値観が細々とでも続いているのだなあ、と、ホッとしたりする。
わたしはコレクターではないので、ただ使わないで古くなってしまったモノには価値を見いだせない。置物には興味がない。使っていて、いい味が出てきたモノが好きだ。
そういうモノに囲まれて生き、往生を遂げられたら幸せだなあ、と思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子