2017年02月19日

【昭和の遺伝子】昭和の自動車

「2ちゃんねる」の現役ユーザーはオッサンばかり、という話題が盛り上がっているが、ニュー速プラスの記事などを斜め読みしていると、本当にオッサンばかりなのかな? という気もしてくる(いやまあ、半分くらいは実際にオッサンなのだろうが)。

と言うのも、クルマ関係の話題になると、いまだ「男の癖にAT限定免許はださい」論争が起こったり、ダブルクラッチを知らない世代がいたりするからである。

本当のオッサンは、AT/MTなどにこだわったりしない。AT一択である。昔はAT限定免許などというものはなく、みな、否応なくMTで教習を受けなければならなかった。女性でもMTを運転できるのが当たり前の時代、クルマもMTばかりだったからこそ、ATの楽さは革命的だった。

米を釜で炊くか、電気炊飯器で炊くか、みたいなものである。それは釜でうまく炊いたゴハンは旨い。しかし、日常の中でそこそこ旨い米を炊くなら電気炊飯器で良い。
同じように、いまさらMTにこだわるのは、むしろオッサンではなく、免許取り立ての子どもの方が多いのではと感じるのだ。

ダブルクラッチを知らない子がいたのにも驚いた。昔のMT車はギアのシンクロが貧弱で、シフトダウンの時には、一度、ニュートラでクラッチをつないでひと吹かしし、エンジン回転数をちょいとあげてから下のギアに入れたのである。でないと急激にエンジンブレーキがかかってしまうので、オーバーレブでもしたら、ヘタしたらミッション修理が必要になってしまうこともある。
これとブレーキングをあわせたのが、レーステクニックの「ヒール・アンド・トゥ」なのだが、まあ、ダブルクラッチ程度なら、当時のMT車のドライバーなら誰でもできた。

あいや、別に2ちゃんのユーザー層がオッサンかどうかなどは興味がないのである。
ので、ここでは昭和の時代のクルマの話をひとくさり。

わたしの最初のマイカーは、ダイハツのシャレードターボであった。5速MT。ダイハツというと、今は軽自動車ばかりだが、これは普通車だった。いわゆるリッターカーで排気量は大きくない。が、車重も軽いのでレスポンスよく元気に走ってくれた。
二枚扉で、後部座席に座るときは前席を倒して乗り込む。赤と黒のツートンで、友人が「結城のクルマは黒だったよね」「違うよ赤だよ」と意見が合わないのが面白かった。

まだ、運転席のシートベルトさえ努力義務の時代ではなかったかな。後部座席は二点式。
今のクルマは「パワーなんちゃら」がたくさんついているが、当時のクルマはなんにもなかった。窓も手回しの手動式。ラジオのアンテナも運転席側の上天井についていて、窓から手を出し伸張させる。

わたしはこのクルマが「パワーステアリング」ではなかったので、悪い癖がついてしまった。駐車場などでは、とにかくハンドルが重いので「内掛けハンドル」という握り方で操作してしまうのである。
パワステ当然の現代では、「内掛けハンドル」は、俊敏なハンドル操作を阻害するため、百害あって一利もない。今はだいぶ直ったと思うが、自宅駐車場に戻ってホッとしたときなどに「あれっ、俺、今、内掛けハンドルしてた」と気づくことがあり。いかんなあと反省している。
若い頃に体に染み着いたクセというものは、なかなか取り去ることはできないものだ。

カーオーディオは1DINのカセットデッキ。ノーマルテープしか聞けない代物ではなかったかなぁ。
出始めのCDウォークマンを乗せ、FM電波で飛ばしてラジオで受信するユニットを入れてみたが、サスペンションが悪いシャレードでは音飛びがひどくて実用にならなかった。
当時、ラジオは標準装備だった。そうそう、シガーライターも灰皿も標準装備である。時代を感じずにはいられない。

ああそれでも、このシャレードはすでにドアミラーだった。当時、自動車教習所の教習車はみなフェンダーミラーだったが、わたしはこのドアミラーがすぐに気に入った。距離感がつかみやすいからである。もちろん、ミラー調整も手動である。

エンジンは電子制御などではなくキャブレターだったので、冬の朝寒い日にエンジンをかけるときには、チョークを引いてやる必要があった。
バッテリが弱ってくると、翌日、エンジンをかけるだけの余力がないことも。そこで、前日止めたとき、エンジンをしばらく高回転で空吹かしし、バッテリに充電しておくのである。
と、当時の自分は思っていたし、実際にこれをするとしないとでは翌日のエンジンのかかりが違うのだが、今、調べてみると、いろいろな説があるらしい。
なんにしろ共通しているのは、燃料噴射が電子制御の現代の高機能車では意味のないことであるということである。

ちょっと検索してみると、内掛けハンドルも、駐車時のエンジン空吹かしも、もはや意味のない癖や風習なのだが、今の若い人の中にもやっている人がいるというのを読んで、可笑しく思っている。クルマ好きが故に、子どもの頃からお父さんやお爺ちゃんの助手席に乗っていて、そういう変な癖まで引き継いでしまったのだろうか。

このダイハツ・シャレード・ターボでは、よく、後の細君とデートをした。
細君と一日過ごしてから、家に送り、自分が帰宅してみると、たびたび助手席脇にハンカチやらシュシュやらが忘れられているのである。それを拾いながら、「これはなにかのマジナイなのか?」と訝しんでいたのもいい思い出だ。
結婚後聞いてみると、それはただ単に、本当にただ単に、細君が忘れっぽいからだけなのであった。自分はまた、ほかの女性を乗せない為に後の細君がしかけたトラップなのかと思っていた(笑)。ほかの女性を乗せたことなど(家族以外)ないのだけれどね。

結婚後は、細君が実家から持ってきた、細君の祖父がプレゼントしてくれた赤いカローラに乗るようになった。これはAT車であった。
初めてのAT車の運転は心許なく、停車時に幾度か、左足で「スカッ」とクラッチを切る空動作をしてしまったものだった。
しかし慣れてしまうと、冒頭に書いたとおり、ATは楽だ。もうMTに戻ろうという気は起きない。

「男でAT限定免許はださい」論争が起こるたびに、なんだかんだ言っても、男はメカに強くないといけないという価値観が、男にも女にもあるのかな、と思ってしまう。
わたしは、現代っ子らしく男でもAT限定を取る子の方に好感を持つが、女性にも「料理が上手くないと」という価値観がいまだ求められているのと同じなように、まだしばらくは、「男の癖にAT限定免許はださい」という風潮は続くのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年02月06日

【昭和の遺伝子】BCLの思い出

現代は、次期大統領がネットで呟いたことが、瞬時に世界中をかけめぐる時代である。これが良いことか悪いことかはわからないが、便利になったことだけは確かだろう。

わたしが小学生の頃に、海外情勢をいち早く知るためには、その国の放送局が発信している「短波放送」を聞くのが常道であった。
この、海外短波放送を聞く趣味は「ブロードキャスティングリスニング(あるいはリスナーズ)」と呼ばれ、略してBCLと言った。

この「BCL」で懐かしい気持ちになったオッサン連中は多いのではないか。なにしろ当時は、小中高生の男の子の間で、このBCLが、ちょっとしたブームになっていたからである。

もっとも、海外通信社などのテレックスは十分に機能していたので、BCLでマスコミも知らない情報が飛び込んでくることなどはまずなかった。
いや、もちろんあったのかもしれないが、わたしのような小学生が聞く「現地の放送局がサービスでやっている日本語放送」では、そのような火急なニュースはそうそう流れないという面もあるし、第一、本当に紛争地帯からの放送は出力電波が低くて、趣味のBCLラジオで捉えることはまずできなかったのである。

今の人は、地球の裏側から(インターネットで)即時に情報が飛んでくることになにも疑問を抱かないかもしれないが、ここでちょっと、考えてみてほしい。電波というものは直線的に飛ぶものである。なのに、なぜ地球の裏側の放送局が発した電波が、日本に届くのだろうか?
答えは「地球には電離層があるから」である。この電離層で電波が跳ね返り、また大地で跳ね返って、また電離層で――を繰り返し、地球の裏側の放送局からでも、電波が直接届くのである。
そういった意味では、サーバで中継に中継を繰り返し情報をやりとりしている今のインターネットよりも「今、自分はエクアドルからの電波を直接捉えている!」と思えるBCLの方が夢があった。

短波放送というが、実際の波長は短くない。十メートル以上はある。わたしが使っていたBCLラジオは、東芝製の「トライX2000」という機種で、本体アンテナは、延ばすと3メートル超はあったのであった。
この機種は「スプレッドダイヤル」というものが売り物の受信機で、キャリブレーション信号でチューナーの目盛りを補正して、目的の周波数を受信しやすくする、という工夫がなされていた。とはいえ結局、アナログチューニングである。
当時、後発だったナショナルの「クーガ」は水晶発信チューニングによるデジタル表示で受信ができ、うらやましかった記憶がある。

地球をぐるっと回ってくる放送であるから、決して受信状態は良いとはいえない。AM、FMラジオのようなクリアなリスニングは望めない。フェージングとノイズの中、なんとか聞き取れる放送も多く、それだけに、受信できたときは格段の喜びがあった。

はたして放送内容は――冷戦時代であったので、各国、イデオロギーの応酬であったような記憶があるが、そんなことはわからない小学生には、あまり意味がないのであった。実際、どんな放送を聞いたのか覚えがまったくないあたり、目的と手段が逆転していたのである。

加えて、ただ放送を聞くのが目的ではなかった。放送を聞いて、逐次SINPOコードというもので受信状況を記録してレポートにし、それを放送局にエアメールで送るのである。
SINPOコードというのは5ケタの数字で受信状態を表現する。最高に受信感度が良い場合は55555。最低の場合は11111。詳しいことはWiipediaなどをヨロ。これを番組の時系列で記していく。
放送局の側も、どこまで電波が届いているのか、リスナーは鮮明に聞けているか、あるいはやっと聞いている状況なのかを知りたいわけで、レポートを送ってくれたリスナーには、お礼を返送することになっていた。それが「ベリカード」である。
つまりは、日本の小中高生は、このベリカード欲しさに短波放送を聞いていたのであった。もちろん、わたしもその一人であった。

いただいたベリカードは、もう書斎のどこかに散逸してしまったが、イギリスのBBC、中国の北京放送、オーストラリアのラジオ・オーストラリア、等々。各国、ベリカードだけでなく、そのお国のちょっとしたサービス品が入っていて、それも楽しかった。北京放送だとパンダの切り絵とかが入っていた覚えがある。
エクアドルのアンデスの声だけは、どうしても受信状態が悪く、レポートを送れるレベルでリスニングができなかった。

逆に、鮮明すぎるほど鮮明に聞こえる海外放送もあったのである。それも中波(AM放送)で。ソ連(当時)のモスクワ放送だ。ここは出力が大きすぎ、関東の地方都市住みのわたしのラジオでも、迷惑なくらい鮮明に受信できるのであった。これもレポートを書いてベリカードをもらったと思う。

もちろん、日本の放送局もベリカードを発行していた。
関東住みのわたしにとって、ニッポン放送はハンディ2石ラジオでも鮮明に受信できる放送局である。
上記にも書いたがSINPOコードは最高によく受信できて55555なのだが、当然、ニッポン放送は常にMAXの55555。それでレポートを送ったら、ちゃんとベリカードを送ってくれた。
小学生の趣味に、なんとも、ありがたいことである。

大学は、青森の国立弘前大学へ行った。今でこそ石塚千尋先生の「ふらいんぐうぃっち」でおたくにも有名な弘前だが、ネットのない時代、そのイナカ度はわたしに逆カルチャーショックを起こさせたほどだった。
なにしろ当時、テレビの民報は二局しかないし「笑っていいとも」が午後四時からの放送なのである。そして深夜零時をすぎれば放送が終わってしまう。
当時のわたしは、深夜放送を聞きながら文章を書いていたので、寂しさのあまり、愛機トライX2000で東京のニッポン放送を聞くことにしていた。
これがまた、同じ国内だというのに、ノイズとフェージング混じりのひどい受信状況なのである。SINPO25322くらいだった。
もう趣味のBCLはとっくにやめていたが、この感じ、小学生の頃を思い出すなあ、と嘆いたものであった。

短波放送は、インターネットの登場で、人知れず、ひそかに消えていったメディアのひとつであるかもしれない。それが復活するとしたら、第三次世界大戦後の世界であろうかとも思う。
そのような世界は訪れないことを祈る。

ベリカードも捨ててはいないはずなので、もしいつか見つけだすことができたら、このブログで紹介することにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年01月20日

【昭和の遺伝子】図書館一番乗り

うちから歩いて数分のところに、市営の図書館がある。
確か小学低学年の頃だったと思う。わたしはそこの図書館が開館したとき、一番乗りしたのだった。

なぜ、一番乗りができたのか、今となっては謎なのである。平日の午前9時だったはずだ。風邪で病院へ行ってその帰り、だとしたら時間が早すぎる。

学校をサボッて、であるはずがない。わたしはそういう子どもではなかったし、なにより、一緒に母がいたという記憶があるからだ。

図書館の職員から、一番乗りの記念として、一輪のバラをいただいたことを、よく覚えている。

入場を待つ列ができていたわけでもなく、入っていったら、すんなり一等賞だったという感じ。

この図書館ができる前は、近所の公民館の横に、定期的に「移動図書館」が来たのであった。
ワンボックスカーの後部が改造してあり、そこに書棚を設えて、大人向けの本、子ども向けの本を搭載してやってくるのであった。
もちろん、ワンボックスカー一台に積めるだけだから、本の量の多寡は知れている。それでも、新しい本が借りられるのが嬉しく、この「移動図書館」が来るのが楽しみであった。

新しい図書館ができてからは、もちろん、そちらへ通うように。移動図書館もこなくなった。
細君の実家は市の外れの田舎にあり、移動図書館すら来なかったとのことだ。

当時はオンラインシステムなどはなく、本にはそれぞれ、表3の部分に貸し出しカードが刺さっているホルダーと、返却日の判を押すシートが貼ってあった。
利用者は自分の名のついた貸し出しホルダーが二枚もらえる。
借りるときは係りの人が本の貸し出しカードをホルダーに入れて図書館側に保存。そして本には返却日の判を押す、と、こういう手順。

返すときは、逆の手順となる。図書館側に保存した、該当の本の貸し出しカードの入ったホルダーを探しだし、本にそれを戻して返却棚へ、利用者のホルダーはその手に戻る。

こんなふうに、すべて手作業であったから、一度に借りられる本は二冊まで、であった。

市営図書館は市に何カ所かあったが、オンラインシステムなどない時代、それぞれ別個に運営されていたのだと思う。

今でこそネットから市内の図書館の蔵書すべてを検索できるようになっているが、当時は図書館ひとつひとつに大きな蔵書記録棚があり、その図書館の蔵書カードがすべて納まっていて、それを手で繰って目的の本を探すこともあった。
そういったカードもすべて手書きである。オンラインシステムはもちろんワープロさえない時代の図書館管理は、さぞや大変なことであったろう。

オンラインシステムになる以前は、視聴覚資料、つまりはレコードなども置いてあり(CD出現前だ)、クラシックなどをよく借りた。確か、一度に借りられる本は二冊、レコードは一枚という制限があったと思う。
レコードは皆が借りるものだから、中央の穴にヒゲがあり、盤面に傷も多かった。
「ヒゲ」というのはなにかというと、レコードプレーヤーにレコード乗せるとき、目測でスピンドルの上に置いてから手探りで穴に落とす人がいるので、そのとき、中央の穴の周りに傷ができるのである。これを「ヒゲ」と呼び、オーディオマニアは「レコードを大切にしていない証拠」と嫌っていた。

この図書館で、わたしの目の前で、わたしの本が借りられているのを体験したことがある。読んでくださるのは嬉しい反面、やはりできればご購入いただきたいし、複雑な気分であった。

太陽がギラギラと照りつける暑い夏、手が氷のようになる寒い冬、銀杏が色づく秋、桜が見事な春。この図書館には思い出がいっぱいだ。

そういえば、わたしは小説新潮新人賞受賞の連絡が電話でくるまで、自分が候補に残っていたことすら知らなかった(見ていなかった)のである。
電話連絡をもらって、すぐ飛んでいったのがこの図書館であった。小説新潮のバックナンバーに自分の小説が最終候補として残っているのを見て、ああ、本当だったんだ、と二度びっくり。

市営の図書館がオンラインシステムでつながってからは、一人一回十冊借りられるようになった反面、蔵書を中央図書館に集中するようにしたためか、借りたい本はオンラインで検索しリクエストして取り寄せるようになったため、わたしのなじみの図書館は蔵書がめっきり減ってしまった。
レコードはもちろん、CDも置かなくなり、なんでもかんでもオンラインでリクエスト。それはそれで便利なのだが、図書館の中をうろついて、面白そうな本に巡り会うチャンスは減ってしまった。

この変化、アマゾンと書店の関係に似ているような気がする。

また、オンラインシステムで全市通しての蔵書管理ができるようになったせいか、同じ本の蔵書数が少なくなった。話題の本などを新聞で読み、リクエストしてみると、もう前に数人予約が入っており、手元に届くのはかなり後になる。
リクエスト本が届いてから一週間は図書館に取り置きされ、さらに一人二週間は借りられるから、一人がフルに時間を使うと三週間かかる計算である。五人が前にいたらフルで十五週。へたしたら四ヶ月近く待たねばならない。中にはルーズな人がいて、二週間で返さなかったりするから、さらに手元に届くまでが長くなる。

一度、人気のCDをリクエストしてみたら、六十人以上先客がいたことがあって笑ってしまった。図書館全館では二枚保持しているとのことだったので、半分に割って、それでも三十人待ちである。
あまりにすごい待ち人数だったので、実際にどのくらいで手元に届くかということの興味の方が勝り、ずっとリクエストを入れておいてみた。
確か、手元に届くまで、一年半かかったと思う。
後ろの順番の人に悪いので、一日で楽しみ、すぐに返却した。

中央図書館でも、閉架図書に入れられている本が多くなり、ぶらぶらと古い本を探して読む楽しみは減りつつある。

わたしはリアル書店はめっきり使わなくなりつつあるアマゾン派で、特にそれで不自由していないのだが、図書館に関しては、いろんなコーナーをうろついて、面白そうな本を手にとり中をパラパラ読める環境であってほしいな、とも思う。

図書館に求める感覚が、目的指向型ではないということなのだろう。
オンラインシステム化は便利な反面、少し、淋しい気もしている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年01月13日

【昭和の遺伝子】ポケットベル

ポケットベルを使い始めたのは、かなり早い時期からだった。女子高生たちが使い始めるブームよりは、だが。

初期のポケットベルは電電公社が民営化したNTTのみが出しており、小さい羊羹くらいの大きさだった。電池も単三電池二本が必要だったと思う。いかにもビジネスマンが使う用途用に、ベルトケースが付属していた(いやこれは別売りだったか。記憶があやふやだ)。
ボディは真っ黒けで、スライドスイッチのみ。液晶画面などはない。ただ、呼び出し電波を受信するとピーピーと音が鳴るだけ。バイブはもちろんLEDすらない。スライドスイッチを押すと音が止まる。
いろいろとポケベルが多機能化したのは、かなり後の話だ。

昭和の時代、ひとり事務所だったわたしがなぜポケットベルなどを必要としたかというと、実際、特に必要性などはなかったのだが、多機能留守番電話にちょっとおもしろい機能がついていたのでそれを試したかったのである。
そのおもしろい機能を使って考えた、その頃書いていたユーモアミステリ(これも死語ですな)のトリックの検証のため、ということもあった。

そのおもしろい機能とは、留守番電話に録音が入ると、特定の電話番号にかけ直す、というもの。たとえば出先の電話の番号などを登録しておくと、留守電に録音が入れば、そちらへかけ直させることができるのだ。
出先で電話を取ったら、トーン音でパスワードを入力して、録音されたメッセージを聞くことができると、こういう仕組み。

この出先の電話番号をポケットベルの番号にしておくことによって、留守電に録音が入ると出先でポケベルが鳴るようにできるという応用が可能なのだ。
要するに、電話の玉突きゲームである。

ポケベルが鳴ったら、適当な公衆電話に入って事務所に電話をかけ、トーン音の暗証番号を入れてメッセージを聞く。ああまた○○社の××さんからの催促か、さて、事務所に戻るまでに言い訳を考えておこう、と、時間が稼げるというわけ。
いやもちろん、急ぎの用事ならば、出先からでもすぐ連絡を取れる。こっちの方が主眼なわけだが。

単に技術的興味があったから、というのはもちろんあった。当時、月額6,000円くらいではなかったかなぁ。
ポケットベル自体も買い取りではなくレンタルであった。NTTだから、黒電話と同じ扱いなのである。
まだ携帯電話のない時代(ショルダーホン――肩掛け携帯電話――も自動車電話もなかった)、外出中でも自宅の留守電に録音があると聞けるというのは、疑似的かつ原始的な携帯電話のようなもので、「電話の玉突き」がうまく決まるとなかなか楽しかった。

ちょうど今の季節、木枯らしの吹く時期にNTTと契約してポケットベルを受け取り、自分で留守電に録音してみて、留守電が自動的にポケットベルを鳴らすのを確認できたときの喜びはよく覚えている。

後の細君と交際を始めた頃、ポケットベルも多少自由化し、NTT以外でも契約できるようになる。そこで東京テレメッセージで二台契約し、二人で持つようにしてみた。
このポケベルもまだ、液晶などはない過去のタイプであった。ただ、電話番号がいくつか付与できて、それによって音の鳴るパターンを変えられた。
二人の間で「この音の時は緊急」「この音の時は通常」などの符丁を決めて利用していた。

後の細君の住んでいた実家は、わたしの住む地方都市のさらに奥地にある田舎で、今更ながら、よくポケベルの電波が届いたものだと感心している。

話は飛ぶが、東京からタクシーでわたしの住む地方都市へ帰ったとき(時代はバブルだったんですよ! もちろん自費ではない)、家の近くのインターを出たあたりで、運転手さんに突然「ウチのタクシー無線の電波はここまで届きますよ」と自慢されたことがある。本部からは40キロ程度離れていたはず。400メガヘルツ帯くらいのアンテナだったと思う。かなりの高出力だ。
わたしは疑り深いタチなので、こんな若造が長距離をタクシーで帰って、無賃乗車(かごぬけ詐欺)の可能性を疑われたのかなあ、などと思ったりもしたのだが、それはうがちすぎか。もちろんそのときのお支払いは△△社のタクシーチケットのお世話になりました。当時はゴチになりゃした、ぁりゃとぅごぜゃす!

昔はお守り代わりに◎◎社のタクシーチケットを持っていて、いざというときに使ったりしたわけだが、今はそういう景気のいい話はぜんぜんないですな。
某アニメ会社の誰それさんが、実家に帰省するとき会社のタクシーチケットを使って帰って怒られた。その額数十万円とか。そんな時代の話である。「怒られた」で済んでしまうのだから、今の人はびっくりだろう。

はて、なんの話だったか。そうそう、ポケベル。
細君と結婚して同居してからは、それほど使わなくなったねぇ、ということで、ポケベルも解約してしまった。テレメッセージの本体は買い取りで、今でもジャンクボックスのどこかに埋まっているかもしれない。

それと前後するように、女子高生のポケベルブームが到来。筐体は小さくなりさらに液晶画面がつき、簡単なメッセージが送れるようになる。
恋人同士がポケベルを持ち合うのも普通のことになり、細君に「あなたはなんにつけても、いつも時代を先取りしすぎなのよね」と言われたのであった。

本当はショルダーホンも自動車電話も試したかったんだけれどもね! さすがに手が出ませんでしたよ、と。

実は、最初期のショルダーホンは、けっこうポケベルと縁があったりしたのだが……長くなるので、その話はまた機会があるときにでも。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2017年01月03日

【昭和の遺伝子】お正月の思い出

さて、正月三が日も今日でおしまいなので、今日は昭和のお正月の思い出なんぞをひとくさり。

昭和の正月は、端的に言って、静かだった。
街にクルマが走っていないし、店も開いていない。空気はシンとして肌寒く、落ち着いていた。
そう、クルマが走らないから、排気ガスも上らず大気は清浄となり、わたしの住んでいる地方都市から、はるか先の富士山までが見えるのだった。

元日はどこも店を閉めていた。お年玉をもらってすぐに使いたくても、近所のオモチャ屋はなんと一月七日までシャッターを閉めていたのである。
そういう、のんびりした時代であった。

元日ではなかったかもしれないが、獅子舞が回ってくることもあった。これはかなり古い思い出だ。子どもの頭をカプッと噛んでもらって、いくばくかのお礼をさしあげるのである。
わたしは噛まれる側であったわけだが、泣いた覚えがないから、だいぶ大きくなっていたのだろう。

一月二日は、繁華街のデパートが初荷で、その年の干支にちなんだ小物を先着何名か様でくれるのだった。
わたしはバス通学で定期持ちだったので、毎年、我が家でその小物をもらってくる係であった。置物や絵馬が多かった記憶があるが、蛇年は蛇の抜け殻だったことをよく覚えている。

お正月の楽しみといえば、テレビでやる「新春かくし芸大会」だ。これは紅白ではなく、東西で戦うのである。
西城秀樹の片輪走行とか、堺正章が食器を乗せたテーブルクロスを引き抜く芸とか「もうかくし芸ちゃうやろ」というような出し物で始まり、中でも楽しみだったのは、外国語劇であった。

しかしこの番組も、自分が大人になるに従ってあまり面白いと感じなくなり、やがてテレビそのものを見なくなっていたら、いつのまにか終了していた。今調べてみたら、2010年に終わっているとのことだ。

そうそう、元日は新聞も楽しみであった。特集号が何部も入り、それはそれは厚く、濃い内容であった。
街の喧噪がない静かな中、お正月の太陽を浴びながら、窓際でみかんを食べつつ、ゆっくりと新聞を読むのが定番であった。

今は一月四日になれば、もう、お正月の気分も抜けてしまうが、時の流れが遅かった昭和では、一月十五日の成人の日(昔はこの日に固定であった)までは、まだ正月気分が残っていた。

新年になると「今年こそは」と目標を立てるタイプではないが、やはりそんな数日を過ごすとメンタルなフィルタとなって去年の澱もじょじょに取れ、次第に、さあ、今年もそろそろやりますか、という気持ちになってくるのである。

一月一日からもう普通に店が開いてしまう現代からすると、そういうのんびりフィルタは、もう、昭和の遺物なのだろう。気分もデジタル時代というわけだ。

というわけで、明日からはこの「いまさら日記」も通常運行である。
今年の目標は特にないが、今のところの目標は、3月20日の春分の日まで生き延びること。
まずは「灰の水曜日」までがんばりますか……って、あら、今年の灰水は3月1日と遅いのだなぁ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子