2019年04月13日

【カットリク!】復讐するは我にあり

 この聖句(聖書の中の一節)をご存じの方は、わりと多いのではないだろうか。
 佐木隆三先生の著作のタイトルにもなっているし、映画化、ドラマ化も同タイトルでなされた。
 もちろん、キリスト教国でも有名な聖句であり、洋画などでも――


(映画「バイオハザード:ザ・ファイナル」より引用)

 のように登場してきたりする。

 わたしが最初にこの聖句を知ったのは中学の頃、小松左京先生の「復活の日」からであった。
「復活の日」は、米ソ冷戦時代に生物兵器の漏出によって、南極に数千名の人間を残したまま世界が滅んでしまうというストーリー。その死滅した世界で、将来的に起こる地震によって発射される核ミサイルが、ビリヤードの球のように次々と米ソ互いに発射されてしまう可能性がある、その一発は南極に向いているかもしれない。という設定で、そのとき、つぶやかれる台詞だ。


(小松左京「復活の日」より引用)

 非常に印象的で、最初に読んだときは「自分が復讐するという強い決意を現した一節」だと思っていた。
 さてこの聖句、実際には新約聖書のパウロ書簡のひとつ、「ロマ12:19」が引用もとなわけだが、パウロ自身は、自分の台詞を旧約聖書を引いて言っているのである。つまり言ってしまえば「復讐するは我にあり」を我々が使うのは孫引きである。
 先にパウロが引用した旧約聖書をみてみよう。ここは日本聖書協会の文語訳で味わっていただきたく。

汝仇をかへすべからず汝の民の子孫に對ひて怨を懐くべからず己のごとく汝の鄰を愛すべし我はヱホバなり (レビ記19:18)


 なんと、原典の旧約聖書では、神は「復讐するな」と言っているのである。
 で、それをパウロはどう引いたかというと――

愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。(ロマ人への書 12:19)


 どうだろう。全文を読むとおわかりいただけるとおり「復讐するは我にあり」の「我」とは、神ご自身のことなのである。

「復讐するは我にあり」――このインパクトのある一節で、「復讐するのは自分。その強い決意を現す聖書の言葉」と思っている方は、けっこう多いのではないだろうか。実際には真逆、復讐心は神に預け、敵を隣人のように愛しなさい」というのがパウロの主張、ひいてはイエスの教え、キリスト教の考え方なのである。

 真の意味を知っていると、上に上げた「バイオハザード:ザ・ファイナル」のナイフにこの聖句が刻まれているのは、実にカットリク!なのである。キリスト教国だからと言って、誰もが聖書に精通しているわけではない、ということは、以前に何度も書いたことだが。

カットリク!・ポイント77――
 カットリク!では「復讐するのは自分だ」と教えちゃったりする。


 余談だが、ミステリを書いているとき、犯人に殺意を持たすために自分が想定できるのは、この「復讐心」だけであった。逆説的に「復讐心」をなくすのはなんと難しいことかと思う。
 神が実際に「我、これに報いん」してくれれば良いのだけれどね。世界はそれほど公正ではないのだ。神の思惑に逆らって。残念なことだが。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2019年02月20日

【カットリク!】神様は乗り越えられない試練は与えない

 東京オリンピック2020を前に、有力アスリートの少女が大きな病を負ったことを告白したことで、そのあたりのマスコミがかまびすしい。
 さらには恒例のごとく、それに対してのインタビューに答えた大臣の言葉尻をとらえ、政権与党の揚げ足取りをしたいだけの野党が失言だ引責だとそればかり。おまえら政策で戦うという気はまったくないのか、と、与党のやり方より、野党のダメダメさにため息が出る。

 相手はまだ十八歳の少女である。そっとしておいてあげるという配慮はないものか。知った顔で「一日も早く治って」などという言葉を発する人々にも、その無邪気なプレッシャーのかけ方にげんなりだ。

 さて、そういったことを切り離して、わたしはこの少女がツイートしたという「神様は乗り越えられない試練は与えない。自分に乗り越えられない壁はないと思っている」という言葉に興味をもった。
 なんとなれば、多くの方はご存じないだろうが、これは聖書由来の言葉なのである。
 原典はこれだ。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず(1コリ10:13より)


 福音書ではなくパウロ書簡であるから、キリスト・イエスの直伝ではない。
 しかも、これはいささか恣意的な引用である。発言のいち部分を引いてたたくマスコミをちょっとまねてみた。
 実際の前後を入れた完全な節はこうなる。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます(1コリ10:13)


 どうだろう、あれっ? と思われた方も多いのではないだろうか。「壁」という言葉が出てこないのはもちろん「乗り越えられる」というような正面突破な表現もない。

 パウロは「逃れる道をも備えていてくださいます」と言っているのである。つまり、むしろ相手が「壁」ならば、坑を掘って地下をくぐるとか、穴を穿って通り抜けるとか、あるいは遠回りをして壁の切れ目を探すとか、そういうイメージ。
「神が与えた試練」は、必ず「正面突破で乗り越えられる」わけではなく、むしろチートで「逃れる道」が用意されているよ、と、パウロは言うわけだ。

 わたしも十八の頃は、自分に乗り越えられない壁はない、と思っていた。しかし、人生半分終わった今となっては、パウロのこの言葉の、むしろ後半が身にしみる。神は耐えられない試練に遭わすことはない。しかしその恵みは、正面突破として与えられるものではない、ということに。

 ここで、クリスチャンなら誰でも知っている、「グリフィンの祈り(ある兵士の祈り)」を紹介する。

大きな事を成し遂げるために、力を与えてほしいと神に求めたのに、謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった。
偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよきことをするようにと、病気をたまわった。
幸せになろうと、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、得意にならないようにと、失敗を授かった。
求めたものはひとつとして、与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられた。
神の意にそわぬものであるにもかかわらず、心の中の言いあらわせない祈りは、すべてかなえられた。
私はもっとも豊かに祝福されたのだ


 この祈り(詩)に関しては、春原禎光先生の「キリスト教の有名な祈りと詩」に詳しい。「グリフィンの祈り」の「グリフィン」は、最初にこれを邦訳したのがG・グリフィン神父だったからとのこと。この詩はカトリック界隈では有名な宮崎カリタス修道女会によってメロディがつけられ、「クレド(弱い者の信仰宣言)」という名曲になっている。

 さて、どうだろうか。
 真の祈りとはなにか、神の恵みとはなにかということを想い、心打たれずにはいられない。

 酷なことを言うようだが、この先、前述の選手は、以前のようには世界のひのき舞台でしのぎを削るような活躍はできなくなってしまうかもしれない(もちろん、わたしもそうはならないことを祈っているが)。
 しかし、たとえそうなったとしても、彼女は「神が与えた試練」に耐えることができなかった、というのとは違うのである。

 日本人の祈りは、自動販売機に似ている。おさい銭を入れて、祈れば、自分の願いがそのままかなうと思っている。
 しかし、そういう祈りは間違いだ。現世ご利益信仰は、人を脅して入信させる新興宗教と根っこの部分で変わりがない。
 どんなときでも神がともにいてくださること。そしてどんな状況に陥っても、それが神の恩寵なのだと信じること。それが信仰なのである。

カットリク!ポイント76――
 カットリク!の祈りは、祈れば願いはかなうというご利益信仰。


 なお、某脳筋大臣が言ったという「オリンピックの神様が選手の体を使って」云々というのは、もう噴飯ものでしかない。一神教の唯一神と多神教の神々を混同している失礼さに気づかないあたりも無神経きわまりない(「【カットリク!】編集手帳――ニケのわけがないだろう!」参照)。

 日本人の宗教オンチさにはクラクラさせられることが多いが(特に、自分たちは多神教だから豊かだという誤解)、今回の脳筋大臣の発言の方が、よっぽど「がっかり」である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2018年11月24日

【カットリク!】エデンの檻

山田恵庸「エデンの檻」1巻〜21巻(完結)

カット神父「はいどーもー。カットリク!司祭のカットです」
シスターリク「なんですか神父さま、その某Vtuberみたいなノリ。ええと、確かかもしか修道会¥椛ョのリクでーす」
カット神父「二人あわせて」
シスターリク「カットリク!」
カット神父「なんや君もノリノリやないかい」
シスターリク「だってこうでもしないと、わたしたち、読者の皆さまに忘れ去られているんじゃないかなーと」
カット神父「まあ作者にも忘れられているようなもんだったしね」
シスターリク「がーん」

シスターリク「ま、まあ気を取り直して、本題にいきましょう。山田恵庸先生の『エデンの檻』。飛行機事故で無人島に不時着した中学生たちが――」
カット神父「待ちたまえシスターリク。久々登場ということで、わたしも『エデンの檻』全巻を通して読んで勉強しておいたのだが、君が指摘しようとしているシーンは、ちょっとネタバレに触れていたりはしないかね?」
シスターリク「さすが神父さま、カンがお鋭い。というわけで――」
二人「ネタバレがお嫌な方は、この先のヨタ話で別ページへ飛んでいただきたく」

     *     *

カット神父「さて、『エデンの檻』と言えば、やはりあのシーンに触れぬわけにはいかんな」


(山田恵庸「エデンの檻」6巻より引用)

シスターリク「ああ、このシーンですね」
カット神父「そうそう、衝撃的なこのひとコマ。続く台詞が『何がクニだよ、ク』」
シスターリク「神父さま! それ以上、いけない!」
カット神父「ということはシスターリク、この言葉がなにを意味するかご存じなのかな?(ニヤニヤ)」
シスターリク「そういう神父さまこそ、童貞のくせに耳年増なんですね(クスクス)」
カット神父「なっ、なにを言うか。聖書にも童貞は尊いものとして書かれているのだぞ」

 彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。(ヨハネの黙示録 14:4)


カット神父「ま、まあ、カトリック的には童貞≠ヘ性交渉をもったことのない女性にも使われる言葉ではあるからな。童貞マリアなんて使われることもあるしな」
シスターリク「というわけで、全国の童貞の皆さん、いつでも人材不足のカトリック教会は、あなたの司祭召命をお待ちしております。魔法使いになるより現実的ですよぉ!」
カット神父「なんでカットリク!信徒のわれわれがカトリックの宣伝をせにゃならんのだ。さあヨタ話は終わり。本題にいくぞ」

     *     *

シスターリク「物語は飛行機事故で無人島に不時着した修学旅行中の中学生たち、その中の主人公の仙石アキラ君を中心に進みます。ところがこの島、太古に絶滅した恐竜が跋扈する奇妙な場所だったんですね。彼らとの戦いの中で、今まで、特に取りえのない少年と思われていたアキラ君が人心をつかみリーダーとなっていく過程を描いていきます」
カット神父「お色気シーンは満載だが、ヨタ話で紹介した以上の過激なシーンがないあたり、少年冒険マンガとして実に健全だな」
シスターリク「でまあ、ぶっちゃけネタバレなんですが、物語が進むにしたがって、この絶滅動物だちは、過去、その島にいた研究員たちが、いろいろな動物のDNAを合成してつくったらしい、ということがわかってくるわけです」
カット神父「ジュラシックパーク風味ってわけだな」
シスターリク「そしてアキラたちは、ついに謎の中核である施設に侵入。そこで見たのが――」


(山田恵庸「エデンの檻」20巻より引用)


(山田恵庸「エデンの檻」20巻より引用)

カット神父「でかっ! キリスト磔刑像でかっ!」
シスターリク「お聖堂に比して巨大すぎますよねー。どうです。これだけでもうカットリク!じゃありませんか?」
カット神父「まあ、磔刑像だからプロテスタントでないことは確かだな。いいんじゃないの? 十字架がでっかくてもさ」
シスターリク「祭壇や聖柩、十字架の道行きがあるような感じもないんですけど」
カット神父「すさんだ建物の中っていう設定だからなぁ。それだけでカットリク!認定はできんな」
シスターリク「むー。じゃ、このコマはいかがです?」


(山田恵庸「エデンの檻」20巻より引用)

カット神父「ちょっと祭壇のロウソクの数が多すぎる気もするが、なにか特別な日のミサと考えればおかしくはないな。それにほら、なにより日曜にミサ≠ニ書いてある。正真正銘、カトリックじゃないかなぁ」
シスターリク「でもですね、なにか引っかかるんですよ、違和感があるというか――」


(山田恵庸「エデンの檻」21巻より引用)

シスターリク「ここはひとまず置いておいて、この島の製作を企図した財閥の会長が帰天するシーンがありまっす」


(山田恵庸「エデンの檻」21巻より引用)

カット神父「死の直前に病者の塗油でもやったかな。祈りの台詞は口語訳聖書コリント1の15章58節を引用してるね」
シスターリク「どうです? これって帰天のシーンにふさわしい聖句ですか? カットリク!でしょう?」
カット神父「どうかなぁ。故人があらかじめ、この御言葉で送ってほしい、と司祭に願っていたのなら、おかしいとは思わんよ」
シスターリク「ええい、もう、もどかしい! じゃあ。核心いっちゃいますよ!!」


(山田恵庸「エデンの檻」15巻より引用)

シスターリク「どうです。施設内にお聖堂までつくる敬虔なカトリック信者の研究員たちが、DNAを操作して新たな生命を産み出すっていうのはないでしょう!」
カット神父「ま、そりゃないだろうね。カトリックにとって、命≠ヘ神の領分、人間がどうこうできるものではない。ましてやDNA操作なんてのはもってのほかというのが教えだからね」
シスターリク「ほうら、だから『エデンの檻』に描かれている教会はカットリク!なんですって」
カット神父「だけどね、うーん、なんというかな。細部だけを見ればそうなんだけれど、ストーリーを通してみると、研究員たちもカトリック信徒だからこそ、自分たちがDNA操作をして新生物を作り出しているという罪悪感を打ち消すために、聖堂をつくりミサに与って祈っていたというバックグラウンドは納得できないものではないんだな」
シスターリク「えぇー」
カット神父「もちろん現実的には、そんな生命操作をしている施設内の聖堂でミサをあげるカトリック司祭などいないとか、そういうツッコミはあるだろうけれど。これがなんでもありのプロテスタントならもっと説得力あるんだけどね」
シスターリク「だけどそうすると――」
カット神父「そう。最初のコマの――」


(山田恵庸「エデンの檻」20巻より引用)

カット神父「このシーンにインパクトが欠けちゃうんだよねぇ」
シスターリク「プロテスタントの十字架にはキリスト磔刑像はありませんものね」
カット神父「だからこのあたりは、かなり曲解ではあるものの、まあカトリックの聖堂で、何も知らないカトリック司祭を呼んでミサを開いていた、ということにでもすれば、筋が通らないわけでもないんだな」
シスターリク「えぇー」
カット神父「というわけで、『エデンの檻』にカットリク!要素はなし。カトリック認定ということで」

     *     *

シスターリク「悔しい悔しい、いいですか神父さま。わたしたち、『彼岸島』『マリみて』『死星マリア』と、いつも負け戦のときだけ登場させられているんですよ」
カット神父「わたしも悔しいよ。『エデンの檻』は21巻を一気に通し読みしたんだけど、それだけに、謎を残したまま、最後三話で大風呂敷を一気に畳まれてしまって、読み終わったあとの取り残され感がね。オチは漂流教室かよ! みたいなね」
シスターリク「そっちの方ですか」
カット神父「まあ大人の事情がいろいろあるだろう中、大体の風呂敷は畳んで、あとの謎は読者の想像で補えるところまで持って行った山田恵庸先生のストーリーテリング手腕には敬服だね」
シスターリク「なに納得してるんですか。わたしたちの行くところ、カットリク!の負けばかりじゃないですか」
カット神父「まあいいじゃないか。絶対に諦めない心と、信じ合える仲間がいれば、どこだってそこがカットリク!なんだから」
シスターリク「なんでやねん」
カット神父「てなところで文字数も十分足りまして」
二人「ありがとうございましたー!」
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2018年04月30日

【カットリク!】「聖メンバー」への崇敬

 この記事の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存知の方はご提示ください。


「聖メンバー」はキリスト教の聖人であるが、カトリック、正教会、聖公会とも、正式な聖人とは認めていない。

 忘れ去られた聖人として、長い世紀を隔て知られることがなかったが、2001年に「ジャニーズ宣教会(*1)」の稲垣吾郎氏が駐車違反と公務執行妨害で警察に逮捕されたとき、同氏の名が「稲垣メンバー」という「聖メンバー」の洗礼名(*2)付きでマスコミ各社に報道され、「聖メンバー」という聖人の存在が改めて衆目を浴びるようになった。

(*1)「ジャニーズ宣教会」はインターネットへの顔出しを禁じる厳しい規律があり、所属会員がネットに載るときは姿を黒塗りにするというおきてが長らく厳守されていたが、近年になって解禁されており、同宣教会の宣教力の低下を懸念する声がある(誰から?)

(*2)キリスト教徒が洗礼をうけたときに与えられる名、霊名、クリスチャンネームとも呼ばれる。多くは尊敬する聖人の名などを取ってつけられる。

「聖メンバ−」の聖人としての逸話は謎に包まれており、盗んだロバを勝手に宿屋に止め、それをとがめた者を無視して逃げる。裸で森を歩くなどの奇行を繰り返していたというが、あるとき、「電波の愛修道会(*3)」のマザー・ソンタクに出会い、キリストに帰依するようになったという(要出典)

(*3)20世紀には、ラジオ、テレビを通じ、その宣教活動は絶大なものがあったが、ネットのある現在、その影響力は格段に落ちているという一部の識者(誰?)の指摘がある。

 しかし、その逸話はもちろん、「聖メンバー」自体の存在すら疑う声が多く、一応、殉教記念日は8月24日となっているが、カトリック、正教会、聖公会ともまったく無視しているのが現状である。

 似たような聖人として「聖タレント」、「聖ショゾク・タレント」、「聖モト・メンバー」「聖ギタリスト」「聖シカイシャ」などの存在も見直されているが、彼らの聖人としての逸話が反社会性という点で「聖メンバー」と共通しており、やはり正式な聖人として認定されてはいない。

「聖メンバー」の存在は上記のように一時注目された後、また忘れられつつあったが、2018年4月26日、ジャニーズ宣教会の山口達也氏が強制わいせつ事件によって書類送検され、同氏の洗礼名がやはり「メンバー」であったことから、再び「山口メンバー」という名がマスコミに流れ、「聖メンバー」の名がネットを駆け巡ることになった。

 しかし現在においても、やはりメンバーという聖人の存在は疑問視されており、この先も、キリスト教界が聖人として認めることはないと思われる。
(一部の例外として、「電波の愛修道会」のマザー・ソンタク派のみが、上記各種聖人の存在を主張している状況である)

カットリク!ポイント75――
 カットリクには「聖メンバー」という聖人が存在する。


 なお、世間の一部に「聖ヨウギシャ」という聖人の存在を信じる声があるが、これは明確に「容疑者」の読み間違いであると思われる。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年10月28日

【カットリク!】腹ペコのマリー

 田村隆平「腹ペコのマリー」1巻〜2巻(以下続刊)

 主人公の美女木タイガは男子高校生。子どもの頃、隣の教会に越してきた女の子、鷺宮アンナに六年間恋している。
 しかしタイガの家は稼業がお寺。告白はもちろん、近づくことさえできずにいた。
 そんなある日、タイガは鷺宮家のとある儀式≠フ生贄として捕らえられてしまう。鷺宮家の先祖は代々マリー・アントワネットに仕えており、その復活を企んでいたのだ。
 儀式直前の夜、二人きりになったタイガとアンナ。勢いに乗じて彼女に恋の告白をした瞬間、雷が落ち、タイガはマリーアントワネットの娘「マリー・テレーズ・シャルロット」に変身してしまう。
 中途半端な召還の結果、いつもは「マリーの体でタイガの心」。空腹になると「タイガの体でマリーの心」になるという妙なことになってしまったタイガ。果たしてこの先、どうなることやら――。


 というお話なのだが、鷺宮家は「新興宗教カットリク!」のエヴァンジェリスト(福音宣教者)であった。



 まず、神父がいて、過去に妻帯しており、娘がいる。

カットリク!ポイント36――
カットリク!は神父だけど結婚できちゃう。子どももつくっちゃう。


 そして、ただの高校生であるアンナが、神父の娘≠ナあるというだけで、告解部屋で信徒の聴罪をしてしまう。





カットリク!ポイント39――
カットリク!では、高校生が現役のシスターになれちゃう。


カットリク!ポイント40――
カットリク!ではシスターも聴罪しちゃう!


 というところで、100パーセントカットリク! なのだが、作中、「教会」は出て来れど、特に「カトリック」とか「キリスト教」とか明記してあるわけではないので、このくらいは全然アリかな、という感じではある。

 何度も記しているが、「カットリク!」であることと作品の面白さはまた別。もとがブッとんだ設定のお話であるのだから、それはそれで楽しめればよしなのである。

 ただ(これも何度も書いているが)、本物のカトリックではありえない、「神父が結婚」、「シスターが聴罪」ということが日本での常識になってしまわないため、念のため、「カットリク!」と指摘しているわけで、そこのあたりはご理解のほど。

 お話はこの先、少年マンガ定番のバトル展開を迎えつつ、どうなっていくのか興味あるところ。田村先生の筆が冴える作品になっていきそうだ。

 冒頭、ミステリアスな美少女だったアンナが正体を見せて壊れていくのがなかなか楽しい。



 からのー↓



 いいなぁこういうの、大好物。
 そういえばこの記事、肝心のマリーの引用を全然していないことに気がついたが、それはぜひとも、「腹ペコのマリー」本編の方を電子書籍が書店でぜひ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究