2021年08月11日

【カットリク!】「東京卍リベンジャーズ」

 生まれてこの方、ヤンキー(不良)と縁のない人生を送ってきたこのわたし。ヤンキーマンガやヤクザマンガも、一応、コモンセンスとして斜め読みはしているが、それほど夢中になったという記憶はない。

 だというのに、和久井健先生の「東京卍リベンジャーズ」は、なんとなく<Aマプラで現在放映中のアニメを観て、細君と一緒になんとなく<nマってしまい、さらに映画館で別の映画を観ているとき、実写映画「東京卍リベンジャーズ」番宣のトレーラーを見て、結局、原作未読状態で映画も観てしまい――



 そして今度はなんとなく≠ナはなく確信的に、今出ているマンガ23巻全巻、大人買いしてしまったのだった。

 さて、その11巻、12巻目。教会での対大寿戦≠フシーンにあった、ちょっとしたカットリク!



 強敵、大樹は、熱心なクリスチャンで、「12月25日(クリスマス)の夜は、毎年、教会に礼拝に行く」
 という。



「宇田川キリスト教会」は、もちろん実在しない。
 カトリック教会の場合、「地名+カトリック教会」か「カトリック+地名」教会がデフォなので、これはプロテスタント教会と思われるが、上の絵のバックを見るとステンドグラスがあったりして、カトリック教会をモデルにしたような感じもある。ちょっとカットリク!くさくなってきた。

 なお、カトリックは「礼拝」とは言わず「ミサ」というが、このセリフは大樹のセリフではなく、対するヤンキーの言葉なので、あまり深くはツッコまないことにする。



 黒く塗られているが、祭壇に掲げられている十字架はキリスト磔刑像だ。プロテスタントは磔刑像を用いないので、これはカトリック教会をモデルにしていると思われる。

 そして――



 いやゴメン。12月25日の夜は「聖夜」じゃないんだ、大寿君。
 何度か書いているが、教会の典礼暦の一日は、日没に始まり、翌日没に終わる。
「聖夜」とは「クリスマスイブ」のこと。イブは「前夜」を意味することはご存じの通り。つまり12月24日の日没直後が「聖夜」なのである。
 12月25日は「クリスマス」ではあるが、その夜は「聖夜」ではない。しかも日没後なら、降誕節第1日なのである。

 熱心なクリスチャンが、これを間違えるのはありえない。

カットリク!・ポイント81――
 カットリク!は12月25日の夜も「聖夜」になっちゃう。


 というわけで、次のコマ――



 は、結果的に正しい(笑)。
 さすが無敵のマイキー君である。
 実際にはこのシーン、時計の針が午前零時を過ぎてカッコよく言うシーンなので、本当はただの降誕節第1日であることに変わらず、カトリック(というかクリスチャン)的にはウーンなのだが。

 和久井先生が12月25日の夜をステージに選んだのはよくわかる。12月24日は常識的に考えて信徒が山ほど礼拝orミサにくるわけで、そこでケンカはできない。それで25日の夜を選んだと、そういう裏があるのだろう。絵的にも、大寿君が大勢の信徒とクリスマスを祝っているというのは想像しがたい(笑)。
 しかし、惜しい。惜しいのだよなー。この、12月25日の夜を「聖夜」と呼ぶミスがなければ、「まあこういう教会もあるかもね」で、わたしもスルーしたと思う。

「東京卍リベンジャーズ」は、今、15巻まで読んだところである。一段落ついたと思ったら、また一波乱、の繰り返しだ。
 アニメや映画は、二期や続編があるのか気になるところである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2021年07月24日

【カットリク!】「嫌な顔されながらおパンツ見せてもらいたい」

 の、「シーズン1」エピソード3、「高山マリア(シスター)」編。

 なお、画像はアマプラからの引用だが、キャプチャが(裏技を使わないと)できないので、良い子で面倒くさがりのわたしはスマホで画面撮影することで代用している。モアレがひどいのはそのせい。ご容赦を。
 いうまでもなく、正当な引用は合法である。



 まず、「お聖堂(おみどう)」で祈るシスター。しかしよく見ると、祭壇前に十字架がない。諸般の事情でキリスト教会ではない、ということを表しているのだろう。
 というわけで、これはまごうかたなきカットリク!教会と思われる。



 祭壇中央にオステンソリウム、日本語にすると「聖体顕示台」らしきものが見える。となると、この祈りの時間は聖体賛美式?
 しかし、神父がいないということはちょっとあり得ない。

カットリク!・ポイント78――
 カットリク!では「聖体賛美式」をシスター一人でできちゃう。


 しかも、シスターが跪いているのは「内陣」と呼ばれる、会衆席から一段高い場所である。通常、会衆が無遠慮に乗ってはいけないエリアなのである。これはない。

カットリク!・ポイント79――
「内陣」に上ってもヘーキヘーキ!




 やってきた「わたし」に微笑みかけるシスター。やや、カットリク!にはこんなに可愛いシスターがいるのか。思わず「カットリク!・ポイント80――こんなに可愛いシスターはカトリックにいな……」と書きたくなるがゲフンゲフン(まあ、百歩ゆずっても、ロングヘアのシスターはあまりいない)。
 気を取り直して――

 シスター「今日は早いのですね。礼拝にはまだ時間がはやいですよ」


「礼拝」という言い方はカトリックではほとんどしない。やはりこれはカットリク!教会である。

 シスター「なにか深刻な悩みがあるなら、牧師様に相談したほうが」


 これはいにしえのカットリク!ポイントですな。

カットリク!ポイント34――
カットリク!は司祭の呼称が「牧師」。妻帯して子どもをつくっても可!


 シスター「迷える子羊さん一人で思い悩むより、神に告解した方が、平穏を求められます」


 おや、ここは正しい。でも、シスターは聴罪しないので念のため。

 おパンツを見せてほしいという「わたし」のとんでもない願いを、なんと聞いてくれるというシスター。
 そして嫌な顔でおパンツを見せてくれる!



 この蔑みの顔が(・∀・)イイ!!

カットリク!・ポイント80――
 カットリク!のシスターは、嫌な顔でおパンツ見せてくれる!!


 いやそうか? そうなのか? それでいいのか!?

 まあなんだ、カットリク!教会でそれができるからといって、本物のカトリック教会へ来てシスターに「おパンツ見せて」とは言わないように!

 まあ、ババ専ならあるいはゲフンゲフン……。

 神よお赦したまえ。わたし結城、告解に行ってまいります。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2021年06月16日

【カットリク】「シネマこんぷれっくす!」

 えー、今回も小ネタ。しかもカットリクに入れるにはちょっと違うかも、というお話。前にもどこかでちょっと書いたしね。



 ビリー先生著、「シネマこんぷれっくす!」2巻の13話「ガクトと部屋の中の消しゴム」より。
 この話では、映画にまつわる、いわゆる――


(ビリー「シネマこんぷれっくす!」2巻より引用。以下マンガは同書から)

 について扱っている。
 せっかくのいい洋画の原題をクソ邦題にしてしまうのは是か非か、なんてことを映研の皆が、いつもどおり(これが楽しい)あれやこれやと議論しているシーンだ。

 さて、その中で――


(クリックで拡大できます)

 ウーピー・ゴールドバーグ主演の「天使にラブソングを…」について。

 ちょっとコマが小さいので、書き起こそう。

熱川「えーと…そう! 『天使にラブソングを』!(原題…Sister Act)」
花村「ぐ…」
宮川「直訳で「シスターのパフォーマンス」でしょうか…ゴスペルですね…それをこの邦題に…素晴らしいです…」
小津「原題はそのままなんですね」


 そう、この「天使にラブソングを…」。原題を良い邦題にしたと、いろいろなところでとりあげられるのである。

 ところがこれ、キリスト者だと、あんまりそうは感じないのだな。
 なんとなれば、実は英語訳聖書には――


(NIVより引用)

「Acts」という章があるのである!

 これは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に続いて、福音記者ルカが書いた、キリスト・イエス復活後の、使徒たちの動向、そして主に使徒パウロの宣教の足跡を書いた書である。
 日本語訳聖書だと「使徒言行録」とか「使徒たちの宣教」、「使徒のはたらき」などと訳される。

 つまり、「Sister Act」という原題、これ、英語圏の人間だとすぐに「Acts」を連想し「シスター言行録」かよ、とニヤリとするというわけ。原題を「シスターのパフォーマンス」とは捉えず、「使徒言行録」のパロディとわかるのだ。

 これを知っていると、邦題の「天使にラブソングを…」は、ちょっと押しつけがましく、わたしはいい邦題には感じない。
 かといって「シスター言行録」や「シスターの宣教」がいい邦題かというと、それも違うと思うので、まあこの話題が出たときは「邦題もいいけど、原題は、聖書の使徒言行録≠フパロディで、英語圏の者もニヤリとするタイトルなんだよ」と言うだけにとどめておくのであった。

 小ネタなので、特にカットリクポイントはつけない。

 何度も書くが、こういうカトリック(キリスト教)的ツッコミと、作品の面白さは別物ということで。「シネマこんぷれっくす!」(1〜6巻:完結)は面白いのでお勧め! わたしは花ちゃんがお気に入り。でも映画は字幕派。



 ああー、こんな青春を送りたかったな(笑)。
 という、愛と青春の旅立ちなのでありました。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2021年06月09日

【カットリク】1・2のアッホ!!

 コンタロウ「1・2のアッホ!!」(1〜10巻:完結)

 と言っても、「ジャンプ」黎明期の、この傑作ギャグマンガをご存じの方は、わたしと同世代だろうなぁ……。
 Wikipediaによると、連載開始は1975年となっている。わたしが小学5年生の頃だ。当時のジャンプには「ど根性ガエル」、「トイレット博士」なども連載されていた。

 この「1・2のアッホ!!」が、電書で読めると知って、小躍りして喜び、さっそく購入。


(これはKindle版の表紙で、書店にならんだものとは違う)

 わたしの姉もこの作品の大ファンで――



 こんなセリフ回しに爆笑していた。

 さて、どうしてこの作品を「昭和の遺伝子」や「書評」に回さなかったかと言うと、小学5年生の私が大爆笑したコマを、また見たい! と思ったからだ。それがこのコマ。



 いやこれ、今の若い人はわからなくて、笑わないかもしれないなぁ。

 解説を入れると、当時、早起き(5時頃)をしてAMラジオを聴いていると(東京の場合ニッポン放送)、ベートーベンの「田園」第一楽章にのせて「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も、相手の胸に響かない。聖パウロの言葉より」と流れ、カトリック教会の宣教番組「心のともしび」が始まるのである。

 実は今もこれ、各ラジオ局の早朝や「心のともしび」オフィシャルサイトで聴くことができる。
 興味のがおありの方は、ぜひご一聴を。

 当時、小学5年生のわたしも「カトリック教会がお届する、心のともしび」を、キリスト教の香りを感じながら聴いていたわけである。
 当時は「ああ、聖パウロという人が、こんなことを言っていたのだな」と思い込み、それで、上記の「1・2のアッホ!!」のコマで大爆笑したわけ。

 さて、あ、さて。
 こうやって「聖パウロの言葉より」とカトリック教会の番組で断言されてしまうと、聖パウロが本当に「心に愛がなければ――」と言っていたと思い込んでしまってもしかたない。
 が――聖パウロ、少なくとも、聖書に出てくるパウロは、このような具体的なことは一言も言っていないのである。

 該当するのは「コリントの信徒への手紙一」の13章だろう。引いてみる。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(コリントの信徒への手紙一 13:1)


 おそらくこれを意訳して「心に愛がなければ――」というコピーが生まれたに違いない。

 ちなみに、この「コリントの信徒への手紙一」の13章は、なんちゃって教会の結婚式でも読まれる部分だったりする。
 ちょいとこれも引用してみよう。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
(たいていここは中略される)
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙一 13:4-13)


 なんちゃって教会で、こんな言葉で誓っておきながら、数年後にバンバン離婚していくのだから、聖書の言葉も軽く見られたものだ。
 ま、ここでパウロが言っている愛≠焉A実は男女の性愛を指してはいないのだけれどね。

 閑話休題。

 カットリクとしては小ネタだが、なにしろ、大本のコピー元が「カトリック教会がお届けする、こころの灯」から来ているので、ちょっとカットリクしにくい。ので、今回は紹介のみにとどめる、というところでご勘弁。

 話を「1・2のアッホ!!」に戻すと、巻数が10巻もあるとは思わなかった。一巻は確かに買って、ボロボロになるまで読んだ記憶があるので、今、読み返してみても、ああ、これ! と懐かしい思い出に浸ることができる。

 作者のコンタロウ先生は、C大生のときにデビューなさって、この「1・2のアッホ!!」の連載を始めたのである。当時わたしは、C大の附属小学校に通っていたので、「ああ、コンタロウ先生と同じキャンパスにいるのだなぁ」と、ちょっと誇らしく思っていたことを思い出す。

 それにしても、読み返すと、これを週刊マンガで書いていたコンタロウ先生のパワーはすごい、と思う。小ネタ、中ネタ、大ネタ、時事ネタてんこもりのギャグマンガである。



 Kindle以外でも読めるようなので、当時の小学生たちがどんなギャグで笑っていたのかを知りたい方は、ぜひとも46年の時を遡って、電書をひもといてみていただきたい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2019年04月13日

【カットリク!】復讐するは我にあり

 この聖句(聖書の中の一節)をご存じの方は、わりと多いのではないだろうか。
 佐木隆三先生の著作のタイトルにもなっているし、映画化、ドラマ化も同タイトルでなされた。
 もちろん、キリスト教国でも有名な聖句であり、洋画などでも――


(映画「バイオハザード:ザ・ファイナル」より引用)

 のように登場してきたりする。

 わたしが最初にこの聖句を知ったのは中学の頃、小松左京先生の「復活の日」からであった。
「復活の日」は、米ソ冷戦時代に生物兵器の漏出によって、南極に数千名の人間を残したまま世界が滅んでしまうというストーリー。その死滅した世界で、将来的に起こる地震によって発射される核ミサイルが、ビリヤードの球のように次々と米ソ互いに発射されてしまう可能性がある、その一発は南極に向いているかもしれない。という設定で、そのとき、つぶやかれる台詞だ。


(小松左京「復活の日」より引用)

 非常に印象的で、最初に読んだときは「自分が復讐するという強い決意を現した一節」だと思っていた。
 さてこの聖句、実際には新約聖書のパウロ書簡のひとつ、「ロマ12:19」が引用もとなわけだが、パウロ自身は、自分の台詞を旧約聖書を引いて言っているのである。つまり言ってしまえば「復讐するは我にあり」を我々が使うのは孫引きである。
 先にパウロが引用した旧約聖書をみてみよう。ここは日本聖書協会の文語訳で味わっていただきたく。

汝仇をかへすべからず汝の民の子孫に對ひて怨を懐くべからず己のごとく汝の鄰を愛すべし我はヱホバなり (レビ記19:18)


 なんと、原典の旧約聖書では、神は「復讐するな」と言っているのである。
 で、それをパウロはどう引いたかというと――

愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。(ロマ人への書 12:19)


 どうだろう。全文を読むとおわかりいただけるとおり「復讐するは我にあり」の「我」とは、神ご自身のことなのである。

「復讐するは我にあり」――このインパクトのある一節で、「復讐するのは自分。その強い決意を現す聖書の言葉」と思っている方は、けっこう多いのではないだろうか。実際には真逆、復讐心は神に預け、敵を隣人のように愛しなさい」というのがパウロの主張、ひいてはイエスの教え、キリスト教の考え方なのである。

 真の意味を知っていると、上に上げた「バイオハザード:ザ・ファイナル」のナイフにこの聖句が刻まれているのは、実にカットリク!なのである。キリスト教国だからと言って、誰もが聖書に精通しているわけではない、ということは、以前に何度も書いたことだが。

カットリク!・ポイント77――
 カットリク!では「復讐するのは自分だ」と教えちゃったりする。


 余談だが、ミステリを書いているとき、犯人に殺意を持たすために自分が想定できるのは、この「復讐心」だけであった。逆説的に「復讐心」をなくすのはなんと難しいことかと思う。
 神が実際に「我、これに報いん」してくれれば良いのだけれどね。世界はそれほど公正ではないのだ。神の思惑に逆らって。残念なことだが。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究