2017年03月11日

【カットリク!】新興宗教勧誘者のための偽カトリック看破法

最近は「新興宗教」ではなく、ある程度の年月を経たそれは「新宗教」、1970年代後半くらいに登場したものは「新々宗教」という呼び方をするらしい。
が、二千年の歴史を持つカトリックからすれば、プロテスタントすら新興宗教だとのっけから一発、傲慢をかましつつ――(ひでぇ)。

最近はそれら新興宗教も、強引な折伏などをしなくなったせいか、どんどんその信者人口を減らしているとのこと。

先日、細君とファミレスで食事をしていたら、隣の席が明らかに「KS会」の勧誘だった。ネットで聞いていたマニュアル通り、あとからもう一人やってきてニ対一で「東日本大震災がどうたら」「助かるためにはこうたら」言い始めたので、細君と二人、耳ダンボにして聞き入ってしまった(笑)。

この「KS会」は、まさしく新々宗教の部類に入るのだろうが、わたしがカトリック教会の入り口掲示板にポスターを貼っているところに女の子二人連れでやってきて、「これを読んでください」「すごいんです」とチラシを押しつけてきた、なんとも度胸のある宗派である。
(ちなみに、宗教法人の施設は必ず掲示板をつけなければいけない、という法律があるのだそうだ。これ、マメ知識な)
まあ変に無宗教をこじらせた(そう、無宗教にこだわるというのは、実はその者の人格がとても危険な状態におかれている証左なのである)若者よりは好感を持てるので、ありがたくチラシを受け取ってお引き取りいただいた。

さて、前述の「KS会」ほど強引に勧誘する新興宗教はもうそれほどないのかもしれないが、ネットで読むに、勧誘された際「自分、カトリックなので」「家の宗教がカトリックなので」とお断りする、という不届きな「カットリク!信者」がいるという。
そこで、新興宗教勧誘者のために、現役のガチカトであるわたしが、こういった不届きな「偽カトリック」こと「カットリク!信者」をあぶりだすための看破法を伝授したい。

ケース1:「えっと、自分、クリスチャンなので」


まず、カトプロ問わずこう言われたら、こう切り返せ!
「へえー、所属教会はどこですか?」
ここで相手がモニョったり、「今は教会通いはしてないんだけど」などと言ったら「教会に通わなくなったってことは、キリスト教に興味がなくなったか、もうクリスチャンじゃないってことですよね」→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!
所属教会をスラスラ言えるようだったら本物かもしれない、がまだあきらめるのは早い。ケース3を参照せよ。

ケース2:「洗礼は受けてないんだけど、聖書とか読んでて、クリスチャンなんだよね」


こんな戯言を言う相手には、「洗礼を受けてなければいくら聖書を読んでもクリスチャンではないでしょ」→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!
ただ中には、「無洗礼派」や洗礼のない「救世軍」などの教派もあるので注意。もっともそういう相手はかなり理論武装がすごいので、あなたもすぐに「手強い」とわかるはず。
「聖書」という言葉が出たら「なんの訳を読んでるんですか?」といじめてもいい。ここで「新約のほう」とか言ったらそいつはなにもわかっていない偽クリスチャン。→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!
「新共同訳ですよ」「新改訳ですね」とか返されたら本物。「バルバロ訳ですね」「フランシスコ会訳の新しい方かな」ときたらさらにモノホンのカト信者。あきらめるしかない。
もし「新世界訳です」「聖書じゃないけどモルモン書って知ってる?」などときたら、これは相手がまずかった。しっぽを巻いてあなたが逃げろ!

ケース3:「えっと、自分、カトリックなんで」


これはケース1の応用問題。これも「へえー、所属教会はどこですか?」で攻め込むべし。
ここでモニョるようなら偽カトリック「カットリク!信者」だ。→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!
もしスラスラと言えたとしてもあきらめるのはまだ早い。カトリック教会は各地に点在し、その地方のランドマークになっているので名前を覚えているだけかもしれないからだ。そこで追い打ちをかけろ。
「わたしもカトリックに興味あるので知りたいんですけど、その○○教会、今の主任司祭って誰でしたっけ?」
これでモニョるようなら偽カトリック「カットリク!信者」だ。→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!

ケース4:「家の宗教がカトリックなんですよ」


ケース3で所属教会が言えない者が、こうやって逃げようとするときは、こう切り返すべし。
「ケンシンは受けていられるんですか?」
ケンシン――「堅信」はカトリック七つの秘跡のひとつで、大人になった信者が自分の信仰を宣言する儀式である。いい年をしてこれを受けていないカトリック信者はいない。
もしここで「定期検診なら受けてますよ」などというトンチンカンな返事を返すような相手なら、偽カトリック「カットリク!信者」だ。
「そのお年で、堅信を受けていらっしゃらないということは、むしろこれから先、カトリックであることに逡巡してらしてるとお見受けしますが?」とツッコんで→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!

ケース5:「良くわからないけど、家がカトリックなんでダメなんです」


ケース4からの続きでこう抵抗してくる相手には「もう自立していらっしゃる方が、自分の信仰を家が云々って、恥ずかしいと思うんです。だって、信仰って、自分の意志で決めるものじゃないですか。お見受けしたところ、あなたは純粋にカトリックというわけでもなさそうですし、信仰的にはニュートラルですよね」→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!

ケース6:「いや、自分、宗教とか興味ないし」


ケース5からこう来たらしめたもの。「でもあなた、最初はカトリック(クリスチャン)っておっしゃってたじゃないですか。いまさら宗教に興味がないなんて言って、なんで嘘ついたんですか?」
人間、嘘がばれると心理的に追い込まれるものだ。→以降、怒濤の勧誘、レッツ折伏Go!

冒頭で、「無宗教をこじらせた人は、実は人格がとても危険な状態におかれている」と書いたのは、結局のところ、この点に集約されるのだ。
宗教というのは、人生の機微におけるケース・バイ・ケースの系統だったデータベース集であると言ってもいい。無宗教であるということは、そういったことを全部、誰かからの借り物の考えや、自分の頭の中だけで想像した偏った見方のツギハギ集で対応するということなのである。
たかだか数十年生きてきただけの人間が、多くの人間と月日によって組み立てられた系統だった回答集にかなうわけがないのだ。たとえそれが新興宗教であったとしても。

また別の例をあげれば「格闘技」である。宗教とは心の格闘技でもある。ふだん「ケンカなんて野蛮人がやるものだよ」とうそぶいている人間が、格闘技経験者に勝てるわけがないのと同じように、「宗教なんて弱い人間がやるものだよ」と思いこんでいる人が、心の格闘技経験者に勝てるわけがないのである。たとえそれが新興宗教であったとしても。

というわけで、上記の例で言えば、からまれたケンカ相手に「俺、ボクサーなんだけど」などと嘘をつくのが一番危険なように、宗教勧誘に対し「カトリックです」などと嘘をつくのはとても危ない。

よくネットには「宗教勧誘者を撃退してやったぜ」などという弁慶譚があがるが、撃退しようなどという考え自体が危険なのだと知っておいたほうがいい。からまれたケンカは買わないのが一番、である。

もし売られたケンカを買わねば男が(女が)すたるというのなら――ちゃんとひとつの格闘技をまともにマスターしてからにしましょうね、ということだ。

シューキョーをやっている人間ならばわかると思うが、新興宗教はもちろん、たとえそれが伝統宗教であっても、実は「危なさ」を内包しているという点では同じなのである。
「危ない宗教」はよく挙げられるが、本当は「危なくない宗教」などありえないのだ。カトリックだって、プロテスタントメインラインだって、仏教だって「危なくない」わけではない。

どんな格闘技でも、一歩間違えば死につながるのと同じなのである。

わたしはカトリックなのでカトリックをお勧めするが、もし、家の宗教が仏教ナニナニ宗派だというのならば、それも縁であるから、一度、その宗派の教えをいちから学んでみたらどうだろう。

きっと、なにか得られるものがあるはずである。少なくとも「カットリク!信者」になるよりよっぽどいい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年03月07日

【カットリク!】真昼の悪魔・その5

フジテレビの土曜深夜のドラマ枠「オトナの土ドラ」で放映中のドラマ「真昼の悪魔」の「カットリク!」。今回はその五回目、2017/03/04放映分。

このドラマの一回目から、洗礼を受けていない未信者がズカズカ告解室に乱入して「懺悔(ぷ)」をしているというありえない点について、わたしは「【カットリク!】真昼の悪魔・その1」でこう書いた。

ものすごーくこのテレビドラマ製作者の肩を持って解釈するとしたら「この女医は幼児洗礼で、初聖体も子どもの頃に済ませているが、大人になってからはずっと教会に通っておらず、ここ一年、また通うようになった」という設定なら、まだいける。
遠藤原作にそのような設定がないことは前述の通りだが、今後、上の設定を匂わせたり回想シーンがあるのならウルトラCだ。


さて、前回見逃していたのだが、ヒロイン女医の父親の死後のシーンで、こんなカットがあった。



なんと父親はブッキョートである。位牌はよく判読できないが、戒名に「和○○○○○○○信士」と読める。ほかのカットには仏壇もある。ヒロイン女医の家の宗教が仏教で、常識的に考えてヒロインだけが幼児洗礼ということはありえないので、上記のような設定は――


(原作:神尾龍/漫画:中原裕「ラストイニング」42巻より引用)

ヒロインの女医葉子がカトリック未洗礼のノンクリスチャンであることが判明した。なので以降、この点で容赦はしない。

というわけで、今回は冒頭から、ノンクリ葉子女医のどこかでの告白から始まる。



葉子「わたしが初めて患者を死なせたのは、医師になって一年ほどしたときでした。ある手術でわたしがミスをしたと患者が言い出して、ヤブ医者よばわりして、ハッとしたんです。我慢してたんですけど、ふと思ったんです。そうだ。わたしは医者になったんだ。もう我慢しなくていいんだって」
神父「あなたの勇気ある告白に感謝します。神のご加護があらんことを」




なんと、また告解室!
何度も何度も何度も何度も書いてきているが「洗礼を受けていない未信者は告解室でゆるしの秘跡を受けることはできません!」
もういいかげん出禁にしろよこの女! つーか、そんな中二病な話はガルちゃんでスレたててやれっての。

カットリク!ポイント65――
カットリク!では、未信者が告解室で神父に相談しちゃったりする。


さて、その神父が葉子の勤める病院に現れる。



神父「すみません。お尋ねしたいのですが。人間ドッグの申し込みはどちらに行けばよろしいでしょうか」
葉子「ご案内いたします」


いきなり他人行儀な会話で始まるこの不思議。
イグナチオくらい大きな教会ならともかく、この神父が司祭を勤めている小教区くらいの大きさで、「一年くらい通っている」求道者(未信者のことをこう言う)の顔を、司祭が覚えていないということはありえない。
外で他人行儀ということは求道者の事情を考えてそうすることもあるかもしれないが、告解室にまで入れるような相手にそこまでするかどうか。普通に知己のようにふるまうと思う。

勘違いしている人は多いと思うが、イグナチオのように大きな教会は別として、普通の規模の小教区では、神父様に「告解お願いします」とまずお願いしてから、二人でコソコソ告解室に入るものなのである。
まさか皆さん、神父はヒマなとき、いつも告解室にいると思われているのだろうか? ちょっと考えれば、そんなことはないとわかると思うのだが……。
もちろん、クリスマス前や四旬節中の告解シーズンには「何時から何時まで、神父様は告解室にいらっしゃいますので、ゆるしの秘跡を受けたい方はどうぞ」ということもある。しかしそういうときはたいてい「行列のできる告解部屋」となっているのである。未信者が並んでいられるような雰囲気ではない。「あらあなたは洗礼をお受けになってからね」と注意されるのが関の山である。

というかもう、未信者を告解室に招き入れてしまうという最大の矛盾が、この混乱を招いている元凶なのである!



神父「わたくし、近所の教会の神父でして」
葉子「そうですか」
神父「どこかでお会いしましたか? お声に聞き覚えがあるような気がして」
葉子「もう、へたなお芝居やめたらどうですか? 最初からわかってたくせに。いつわりは、聖書で禁じられていないんでしたっけ?」
神父「懺悔にきておられた方ですね。大河内葉子さん」


現役神父が「懺悔(ぷ)」なんて言わねーよ! 「告解」か「ゆるしの秘跡」だバーロー。

カットリク!ポイント65――
カットリク!では、神父が自ら「懺悔(ぷ)」って言っちゃう。


さて、神父と葉子女医は、病院の外で対峙する。



神父「最後に教会にいらしたとき、あなたは言いました。ご自分の父親を殺すつもりだと」
葉子「はい」
神父「実行されたのですか? ここは懺悔室ではありませんが、ここでの会話は外に漏らさないと約束します」
葉子「していません、できませんでした。実行する前に、父がみずから死んでしまったので」


だーかーらー、現役神父が「懺悔室(ぷ)」なんて言わねーよバーロー。

まず、「告解室で信者が話した内容を聴罪司祭が外で話すというのはどうか」と思う方もいらっしゃるかと思うが、葉子は未洗礼のノンクリなので実は問題はない。
このあたりの混乱も、未信者の告白を告解室で聞いてしまうという最大の矛盾からきてしまっているのである。
もちろん、洗礼を受けたカトリック信徒が告解室で話したことを、聴罪司祭が外に漏らすことはありえない。

話は進んで、葉子と婚約者が教会に現れ――

葉子「今度あたし、結婚するんです」
大塚「彼女の希望で、こちらで式をあげさせていただきたくて、さっそくお邪魔しました」




このシーンでも「懺悔」「懺悔」とうるさいが、もういちいちツッコむ気力もない。
大塚婚約者を「懺悔室(ぷ)」へ入れた後、神父を挑発する葉子。
神父様には、カトリック教会で結婚式を挙げたいのなら、結婚講座に通ってからにしろと言い返していただきたかったですな。



あーあ。カトリックの祈り方は、基本「合掌」。もちろん、人や状況にもよるが。こういうふうに握りこむ祈り方はあまりしない。「合掌」でも仏教のそれとは違い、左右の親指を重ねて十字架をつくる、独特の合掌なのである。

カットリク!ポイント66――
カットリク!では、祈りのときに手を握りこんじゃう。


さて……。
ちょっとこれは――太字で改めて書いておいたほうがいいよなぁ。

「カトリック教会の告解室で罪の告白をできるのは、洗礼を受けたカトリック信者だけです!」

「カトリック教会の告解室で罪の告白をできるのは、洗礼を受けたカトリック信者だけです!」

「カトリック教会の告解室で罪の告白をできるのは、洗礼を受けたカトリック信者だけです!」


大事なことなので、コピペ厨レベルで何度も書きました。
本当に、このドラマ後、全国のカトリック教会に、悩みを抱えた未信者が告解室で罪の告白をしたいとやってくるケースが増えそうで憂鬱である。

なお、カトリック作家遠藤周作の名誉のために書いておくが、このドラマ、すでに原作からかなり乖離している。遠藤原作にも「ん?」と思うところなきにしもあらずなのだが、ここまでカットリク!の限りを尽くしてはいないので、念のため。

さすがに「新・警視庁捜査一課9係「殺意のロザリオ」」ほどのカットリク!ではないが、現役ガチカトとして、見ていてつらくなりつつありますよ……。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年03月02日

【カットリク!】真昼の悪魔・その4

フジテレビの土曜深夜のドラマ枠「オトナの土ドラ」で放映中のドラマ「真昼の悪魔」の「カットリク!」。今回はその四回目、2017/02/25放映分。
今回は神父も登場しないし、カットリク!はないかと見ていたら、大河内葉子女医が医局で聖書を読んでいるシーンでやってくれましたよ。



大河内葉子「百匹の羊がいて、そのうちの一匹を見失ったとしたら、羊飼いは九十九匹を野原に残して見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」


これは新約聖書より、イエスの「迷い出た羊」のたとえ(マタイ)=Aあるいは「見失った羊」のたとえ(ルカ)≠ナある。

新共同訳から原典を引いてみよう。

「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(マタイによる福音書 18:12) 」

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカによる福音書 15:4) 」


前々回、葉子女医が読んでいたのは、出典不明の「謎文語訳」であったが、前回、芳賀病院清掃員が読んでいたのは確かに口語訳であり、引用も間違いがなかった。
なので今回も、口語訳を引いてみよう。

「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。(マタイによる福音書 18:12)」

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカによる福音書 15:4)」


葉子女医は「見失った」と言っているので、これはルカ15:4である。お読みいただければわかるとおり、正確な引用ではない。こういうのはよろしくない。聖書というのはキリスト信者の「正典(カノン)」である。翻訳によって違いが出るのは仕方がないが、シナリオライターが恣意で略すのは「正典」に対する敬意が落ちていると思う。
上記キャプチャのイメージからはどのあたりを読んでいるかはわからないが――



このカットのしおりの位置、ルカ15:4よりは微妙に中央よりであると思う。日本聖書協会の口語訳聖書で、実際の位置はここになる。



まあそれ以前に、もう引用がいい加減であることは前述の通り。
ちなみに口語訳はすでに日本聖書協会の著作権が切れているので、引用の度を越えた複製も可能である(もちろん、この程度なら引用だが)。どうして前回のように、口語訳聖書そのままを使わなかったのだろう。キリストもんとしては、こういう「素人が聖書を適当に要約した引用っぽいもの」が一番気味が悪いのである。

カットリク!ポイント42――
カットリク!では、聖書の都合のいいところだけを読んじゃう。捏造もしちゃう。


遠藤周作の原作では、こんなシーンはない。
そして、実は女医以外にも黒幕がいたことは最後にチョロっと触れられているだけだが、このドラマでは中盤にしてそれが明らかになってくる。聖書の引用はいい加減だが、まあ楽しんで見ていると書いておこう。



来週は伊武雅刀演じる「正義の神父」様が大活躍のようですよ。ワクワク!
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年02月22日

【カットリク!】真昼の悪魔・その3

フジテレビの土曜深夜のドラマ枠「オトナの土ドラ」で放映中のドラマ「真昼の悪魔」の「カットリク!」である。今回はその三回目、2017/02/18放映分。
おや、また朝日新聞に紹介記事が載っていた。



 教会のざんげ室で父の徳弘(村井国夫)の殺害を予告した葉子(田中麗奈)は、連日、徳弘に料理を作る。


はぁい、先生、今まで何回も何回も注意しましたよね。現代のカトリック教会に「ざんげ室(ぷ)」はありません! あるのは「告解室」です。
あなたが間違うたびに、先生、何度でもお尻ペンペンしますからね! 覚悟してらっしゃい。

実際、こういうラテ欄の文章は、テレビ局が送ってくる内容そのままを掲載しているのかもしれないが、それでも朝日新聞校閲部を通らず紙面に載ってしまうものなのだろうか。
それを置いても、ここ十年ばかりのラテ欄の文章は、記者が書いたものでもずいぶん幼くなっているような気がする。

カットリク!ポイント11――
カットリク!には、カトリックの「ゆるしの秘跡」を模した「懺悔」という謎の儀式がある。


さて、紹介記事に上記のように書いてあったので、また「ざんげ室(ぷ)」でいち記事書かなくてはいけないかと第三話を通して観ていたのだが、なにー、今回は教会も「ざんげ室(ぷ)」も伊武雅刀演じる神父様も出てこないではないか。

なぁんだ、ガッカリ……って、いや別に、世の中にカトリックの誤解を蔓延させる「新興宗教カットリク!」が出てこないことはいいことなんですけどね。わたしも本末転倒だ。

と、思っていたら、最後のテロップのところで――



だんだん怪しい存在感を増してきた病院清掃員の芳賀が、女医なじみの焼肉店で、なんと聖書を読んでいるのである。

芳賀「自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない」


これは出エジプト記21章の15節、17節である(「のろう者」だけならレビ記21:11もあり)しかも日本聖書協会の口語訳だ。


(クリックで拡大できます。今回は出典がちゃんとしている)

前回、女医が読んでいたのは、「【カットリク!】真昼の悪魔・その2」で指摘した通り「謎出典の文語訳」だったが、今回は口語訳。一応、きちんと引用している点は評価したいが、こちらも文語訳なら統一感があって良かったのでは、と思う。
ちなみに文語訳なら「その父あるいは母を撃つものは必ず殺さるべし。その父あるいは母を罵る者は殺さるべし」となる。

そして、次のこのカット、聖書読みなら、「あ、おかしい」とすぐわかることがある。



おわかりいただけるだろうか。これ、「出エジプト記」だと本の開きが真ん中過ぎるのである。
実際に「出エジプト記21章15節(口語訳)」のページを開いたところを横から見てみると――



一目でおわかりいただける通り、旧新約聖書合本のまだまだ最初の方。ドラマのカットのように真ん中ということはない。



そして芳賀は本を閉じる。どうやら古い口語訳聖書のようにも見える。青いしおり紐のあたりは全然「出エジプト記21章」ではない。赤い紐は「イザヤ書」か「エレミヤ書」のあたりかな。もちろん、ドラマのストーリーとは全然関係ない。

今回は前回と違い、ちゃんと「日本聖書協会の口語訳聖書」からの引用だったので、特にカットリク!ポイントはつけないが、こういうディティールの穴がすぐ見つかってしまうあたり、ツメが甘いなあ、とキリストもんとしては残念に思うのである。

ところでこのドラマ、全何話なのだろう。原作では後半にも活躍した神父様は、ドラマではこのままフェイドアウトしてしまうのか。一応、録画予約は入れておこう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年02月21日

【カットリク!】真昼の悪魔・その2

フジテレビで2017/02/04から「オトナの土ドラ」枠で始まったドラマ「真昼の悪魔」。今回はその二回目、2017/02/11放映分である。
おっと、新聞に紹介記事が載っていた。朝日新聞である。



葉子(田中麗奈)は教会のざんげ室で神父(伊武雅刀)に心情を吐露する。


あのね、何回でも何回でも言っておきますが、現代のカトリック教会に「ざんげ室(ぷ)」なんてありませんから! あるのは「告解室」ね。
朝日新聞校閲部、地味にダメだよ。ちゃんとしてよ!

カットリク!ポイント11――
カットリク!には、カトリックの「ゆるしの秘跡」を模した「懺悔」という謎の儀式がある。


さて、ドラマは田中麗奈演じる葉子が「あたしって良心の呵責を感じないんです」という中二病患者特有の症状を発しながら回りに迷惑をかけるというストーリー。



ロールシャッハテストその他を受けて「普通の人間という診断を受けました」って、そういう行動すらも中二病。悪いことするときは邪眼でも発力するんでしょうか。
そして再び、カトリック教会の告解室に乱入して司祭に人生相談。


(良心になんか負けたりしないキリッ! 邪眼発動!?)

これも何度でも書いておくが、カトリック教会の「告解室」で神父に罪の告白をできるのは、「カトリックの洗礼を受けた信者だけ」ですから!

葉子「じゃあ、もし神様がいるのなら、どうして世の中はこんなに苦しんでいる人ばかりなんですか? どうしてわたしも、こんなに苦しんでいるんですか? 人が苦しむ姿は、わたしに生きている実感を与えてくれるんです。


いやさ、告解室というのは「もし神様がいるのなら」というような人が入る場所じゃないの! 神はいる、と信じているカトリック信者が、聴罪司祭を通して神に罪の告白とあがないの方法を聞く場所なの。

カトリック作家遠藤の原作該当部分をアップしてみよう。


(クリックで拡大できます)

日本人の修道女は女医を応接間に入れて軽く頭をさげた。
「神父さまは間もなく、いらっしゃいますから」


ちゃーんと、「告解室」ではなく「修道会の応接間」になっている。


(クリックで拡大できます)

「信者ですか、あなたは」
「いいえ。クリスチャンではございません」


そう、クリスチャンではないから、教会関係者も告解室に入れたりはしない。応接室で応対するのである。

第一、話している内容が告解室でするようなそれではないのだから噴飯物だ。このシーン、伊武雅刀演じる神父が本物のカトリック司祭だったら「そういうお話はここではなく、外でやりましょう」と言ったはず。

このドラマ、これから毎回、幕間劇のように、この「葉子が神父に中二病的告白をする茶番劇」が挿入されるのだろうか。なんだか暗澹とした気分になってくる。

前にも書いたが、多くのカトリック教会が困っているのである。信者ではないが、心に悩みを抱えた方が、こうやって「ざんげ室(ぷ)」で神父相手に相談をしたいとやってくるケースが、本当に後をたたないのである。
そのたびに「告解室に入れるのは、洗礼を受けた信者だけですよ」「告解室は、そういう話をする場所ではないんですよ」と伝えて、不満気な顔をされるのが心苦しいのである。

これは太字で書いておこう。

「カトリック教会の告解室(「ざんげ室(ぷ)」)に入って、罪の告白をできるのは、カトリックの洗礼を受けた信者だけですから。それと、告解は人生相談ではありませんから! そういうのは2ちゃんねるにでもスレたててやってください」

などとガチカトが頭から湯気を立てている間にストーリーは進み、神父は葉子に聖書を読むように勧める。

女医はなじみの焼肉店で聖書を読むのだが――その訳が出所不明なのが気になる。手に持っている「聖書」は装丁が真っ黒で「聖書」の文字すらない。厚みから旧新約聖書合本ということはわかるが、いまどき、普通に書店で入手できる聖書で、こんな色気のない聖書はそうそうない。講壇用なら三方金でもよさそうだし、いかにもあやしげな小道具である。倉庫の奥にでも転がっていた古い口語訳聖書でも持ってきたのだろうか。あるいは適当な厚い本をそれらしく見せている?
女医はその謎聖書を読んでブツクサ……。



ちなみにわたしは、装丁に「聖書」と印刷されていない、日本聖書協会の旧新約聖書と新約聖書を一冊ずつ持っている。



ふっふふー、実はこれ、発売前のサンプル品をいただいたのである。
この21世紀、普通に書店で手に入る聖書はけっこうおシャレですよ。機会があったら一度、大型書店で覗いてみるのも一興かと。



幼き者の一人を躓かせるものは、首に臼をかけられ、海に投げ込まれるがましなり。


なんと、女医が読み上げたのは文語である。
似たような文脈はマタイ18:6、マルコ9:42、ルカ17:2にある。一応、該当三箇所を挙げておこう。新共同訳である。

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。(マタイによる福音書 18:6) 」

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(マルコによる福音書 9:42) 」

「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。(ルカによる福音書 17:2) 」


「大きな(臼)」という言葉がないことから、女医葉子が読んだ箇所はルカ17:2だと、一応、目安をつけてみる。
では、該当箇所を、現在入手できる日本聖書協会の「舊新約聖書・文語訳」から引用してみよう。

この小さき者の一人を躓かするよりは、寧ろ碾臼の石を頚に懸けられて、海に投げ入れられんかた善きなり。(ルカ傳福音書 17:2)


おおっと、全然違いますねぇ……。
ただ、ページの開き具合から、読んでいる箇所的には、大体ルカ福音書のあたりかな、というところで違和感は感じない。このあたりは製作者を誉めておきたい。偶然かもしれないが。

しかし、このシーン、葉子は右ページの上あたりを読んでいるが、「舊新約聖書・文語訳」の該当ページは「左下」なのである。わたしは「舊新約聖書・文語訳」を四冊、「新約聖書・文語訳」を一冊持っているが、ルカ17:2は(昭和25年の版以外)左ページ下段で統一されている。


(クリックで拡大できます)

これは偶然ではない。日本聖書協会は聖書の版をすべて同じ段組で作成しているのだ。プロテスタント教会などで、牧師先生が「では113ページ左下、ルカ十七章を見てみましょう」と言ったとき、信徒が全員、すぐに該当ページを出せるようにという配慮なのである。

よって、このとき葉子が読んでいる聖書が、現在入手できる日本聖書協会の「舊新約聖書・文語訳」ではないことは確実である。

カトリック教会の神父が渡したと考えると、これはバルバロ訳? いやしかし、バルバロ訳は口語なので違う。となると文語のラゲ訳か。
ラゲ訳はネットに載せてくださっている方がいらっしゃるので、調べることができる。該当箇所はこうだ。

石磨を頸に懸けられて海に投入れらるるは、此小き者の一人を躓かするよりは、寧彼に取りて優れり。(路加の耶蘇基督聖福音書17:2)


ぜーんぜん違う。
彼女が読んだ聖書、いったいなんの訳なのかわからないのである。

実はこの箇所、遠藤原作だとこうなっている。
「これら幼き者の一人を躓かせる者は、大いなる臼にかけられ、海に投げ込まれるがましなり」

よく読むとこれは、上記福音書の三箇所を組み合わせているのだ。「大きな臼」はマタイ、マルコにあるが、「ましである」はマタイ、ルカ。しかしマタイだとすると「深い海」となっているのでマタイそのものではない。

種明かしをすると、遠藤原作では、これは聖書の正確な引用ではない。女医が以前、ミサで聞いた聖書の言葉として、うろ覚えのような形で想起されているのである。

念のためにつけ加えておくと、上記からわかるとおり、本物の聖書中の訳は統一して「小さな者」「小さい者」「小さき者」のような表現を用いており、「幼き者」のように必ずしも子どもを示唆していない。唯一マタイだけ前段に、この「小さな者」が子どもであるという文脈がある。
要するに遠藤原作のこの一節、本物の聖書から引くと、該当節のかなり無茶なまぜこぜになってしまうのだ。

それをこのドラマでは、無理矢理、聖書を読むシーンとして再現してしまったものだから、妙なカットリク!になってしまったのである。

結論を言うと、葉子女医が読み上げた一節は、本物の聖書にはない。

カットリク!ポイント42――
カットリク!では、聖書の都合のいいところだけを読んじゃう。捏造もしちゃう。


ドラマは原作と違い、女医の父親なども登場して、なにか家庭問題で確執でもあるかのような雰囲気だ。

最後にまた、「ざんげ室(ぷ)」に乱入して神父様を挑発する女医。もういい加減、出入り禁止にしろよ、といいたいところだが、誰でもウェルカムな教会だからね、仕方ないね。でも「ざんげ室(ぷ)」には出禁にしたほうがいいと思うよ。マジで

予告だと来週は「ざんげ室(ぷ)」のシーンはない感じ? カットリク!がないならばこのシリーズもこれでおしまいである。
原作だと、実はこの神父が準主人公の難波を救うために最後に活躍するのだが、ドラマ的には(カットリク!な点には目をつぶって)、けっこう面白い翻案だと思うので、来週も一応、録画予約を入れておこう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究