2017年02月14日

【カットリク!】真昼の悪魔・その1

フジテレビで2017/02/04から「オトナの土ドラ」枠で始まったドラマ「真昼の悪魔」。
原作はカトリック作家、遠藤周作であるから、それほどひどいカットリク!はないだろうと思いつつ、日本のテレビドラマであるから、どこがどうなるかわからないぞ、という期待をこめて録画していた。

原作は、四人の女医が登場し、その中に一人「悪魔的な行為」をする者がいて、いったい誰がその「悪魔」なのか、というミステリー仕立てなのだが、このドラマではいきなり「犯人は田中麗奈演じる大河内葉子」ということがわかってしまっている。
もっとも原作も完全なミステリーではなく、どちらかと言えばサスペンスだが。

なお、わたしはそういうことに頓着しない書き手であるので、ポロリとネタバレしてしまうかもしれない。このドラマの先行きを楽しみにしていて、ネタバレ嫌いな方は、ここで別ページへGOだ。

さて、原作冒頭は、四谷にあるイグナチオ教会でのミサで、神父が説教をするシーンなので、ドラマでもあのデカく美麗なイグナチオ教会が見られるのか!? とワクワクしていたが、おっと、小さなお聖堂だ。
って、この聖堂、見たことあるーッ!



このカトリック教会は「【カットリク!】新・警視庁捜査一課9係「殺意のロザリオ」」シリーズで出てきた、あの館林教会ではないか。
教会ロケ地の定番リストに入っているのだろうか。ま、東京に近いしね、さいたま教区は。
あと、このカットからわかるとおり、二階の、おそらく泣き部屋から俯瞰撮影ができるという利点もあるのだろう。

さて、いきなりだが、これは、ミサの説教の場面としてはおかしい。
が、「【カットリク!】新・警視庁捜査一課9係「殺意のロザリオ」」に比べれば、神父がちゃんと朗読台から説教をしているのは良い。



上段で「ミサの説教の場面としてはおかしい」と書いたのは、祭壇になにも置いていないからである。
カトリック教会で、祭壇になにも置かず典礼を行う日は確かにある。年に一回の「聖金曜日の祭儀」である(この日はミサではないので「祭儀」という)。
が、司祭の着ているカズラの典礼色が「緑」であることから、この日は典礼暦で「年間」であることがわかる。聖金曜日ではない。というか、聖金曜日の祭儀が日中に行われることはないし、こんなにガラガラのわけがない。これは週日(平日)の日中のミサである。

となると、祭壇になにも置かれていないミサ、というのはありえないのだ。「ローマ・ミサ典礼書の総則」によって、どんなミサでも、祭壇にはマッパ(祭壇布)を必ず敷き、二本あるいは四本もしくは六本(特別な祝日には復活の大ロウソクを入れて七本)のロウソクを置くこと、となっているからである。

カットリク!ポイント64――
カットリク!のミサは、祭壇になにも置かなくてOK!


さすがの遠藤周作原作でも、カットリク!にまみれた日本のテレビ界で映像化されたら、やはりこのていたらく。

いやしかし、ひょーっとしたら、これはミサではなく「黙想会」という可能性も微レ存ではある。「黙想会」なら祭壇になにもないという場合も……。ああそれでも、祭壇が真っ裸ということはないだろうな。普通はマッパの上にカバーまでかける。
もしこれが「ミサではない」のだったら上記「カットリク!ポイント64」は取り下げて陳謝する。

ロケ場所がイグナチオ教会ではなくてガッカリだが、あそこがテレビドラマの撮影を引き受けるようなことはないのだろう。それはそれでホッとしたりも。

ストーリーは、田中麗奈演じるヒロイン女医が、良心の呵責というものがない自分を醒めた目で眺めつつ、いろいろ「悪いことしましョ!」という流れ。
なんだかこう書くと

「【無感動】感情を失った女医だけど質問ある?【無良心】」

132:本当にあった怖い名無し:2017/02/04(土) 03:48:38
初告解…ども…
私みたいな女医でハツカネズミ殺してる腐れ女郎、他に、いますかっていねーか、はは
今日の医局の会話
あの外科部長がマーシーみたい とか あの針痛い とか
ま、それが普通ですわな
かたや私はストレッチャーの上でもがく患者を見て、呟くんすわ
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
好きな音楽 マリア様のこころ
尊敬する人間 ポンティオ・ピラト(虐殺行為はNO)
なんつってる間に4時っすよ(笑) あ〜あ、医局員の辛いとこね、これ


などという中二病スレな感じだが。実際、そう。ぶっちゃけ原作もそういう話である。

今回の話で、ちょっと「カットリク!」とは違う点で気になった点がひとつ。
虫垂炎で緊急入院した準主人公「難波」が、前に自分のベッドを使っていた患者が隠しておいたメモを見つけて、仲良くなった病院清掃員の芳賀によって、その患者(加納)を見つけてもらい、質問をするシーン。



難波「あの人が加納さんですか」
芳賀「今は心療内科にいるそうです」
難波「心療?」
芳賀「ノイローゼになったって言ったでしょう? 難波さんがどうしてもって言ったから聞いてあげましたけど、ほんと……」
難波「あのー、あの、これなんですけど、これ、加納さんのですか? 僕、今、前に加納さんがいたベッドに入院していて、その引き出しに――」
すると突然、涙を流して苦悶の表情を浮かべる加納。
加納「ここから出してくれ。この病院には悪魔がいる。俺は正常なんだよ、正常だよ。この病院には悪魔がいるんだよ」


えーっとね、「心療内科」は「精神科」ではありません。「ライトな精神科」でも「行きやすい精神科」でもありません。心療内科は「心に原因がある身体の病気」を扱う科。
加納の様子から言って、これは精神科案件である。
きっと、「精神科」と言ってしまうと、どこからかクレームがくるのではということを恐れて「心療内科」にしたのだろうが、これだと逆に、「心療内科」を標榜する医療機関や患者の方からクレームがきてもおかしくないのではないか?

原作ではどうなっていたかな、パラパラパラ……。
モロにこれに該当するシーンはないが、後に難波が「ノイローゼ」として放り込まれる科は「神経科」となっている。時代を感じますなぁ。もちろん「神経科」も「精神科」とは違う。
わたしは、「精神科医療」はちゃんと「精神科医療である」と言うことが、精神病患者への差別をなくす第一歩だと思っているのだが、このあたりは本記事とだいぶ乖離する内容になるので、またの機会があれば。

なんてヨタ話を書いているうちに、ストーリーは進み、大河内女医は教会へ。
えっ、なんで告解室に入っちゃってるの!? 



大河内「わたしは、一年ほど前から、教会に通っています。それで、以前、ミサでされていたお話に興味がありまして」
神父「何の話でしょう」
大河内「悪魔の話です。悪魔はまるで、ホコリのように、目立たず、気づかれず、人々の心にそっと忍び込むと」
神父「確かにそのような話をしました」
大河内「では悪魔という目立たないホコリが、いつの間にか溜まった人間は、どこでわかるのでしょうか?」


お、やっぱり最初の教会のシーンは「ミサ」でしたか。では上記「カットリク!ポイント64」は――


(浦沢直樹「YAWARA!」29巻より引用)
ということで。



原作では神父に相談を持ちかける人物は「女医」とだけ記されているが、ドラマではもう正体が明かされてしまっている。それは良い。が――

今まで何度も何度も何度も何度も書いてきているが、「カトリック教会の告解室でゆるしの秘跡≠受けられるのは、洗礼を受けたカトリック信者だけ」である。
一年通おうが、十年通おうが、洗礼を受けていない未信者は、告解室でゆるしの秘跡≠受けることはできない。

原作では、冒頭ミサのシーンはイグナチオ教会となっており、あの教会の規模だと未洗礼の未信者を司祭が見分けることはむずかしいと思う。
しかし、本ドラマ程度の大きさの小教区ならば、司祭が、教会によく顔を出している人々が未信者かそうでないかを承知しているのは普通のこと(聖体拝領時にご聖体ではなく祝福を受けるから)。
この女医はあきらかに未洗礼の未信者であることを、神父様は承知しているだろうし、未信者の相談ごとを聞くために司祭がこうやって告解室に相手を招き入れることは絶対にない

「ええー、そうなんだー!」
「じゃ、教会って未信者なフレンズは入れないの?」

いやいや、もちろん教会やミサ自体は未信者なフレンズでもウェルカムである。
が、洗礼を受けていない未信者なフレンズは告解部屋と聖体拝領は「のけものフレンズ」なのである。

「すごーい!」
「おもしろーい!」

いやいや、知能低下してないで、覚えてね。

カットリク!ポイント65――
カットリク!では、未信者が告解室で神父に相談しちゃったりする。


原作では、さすがカトリック作家の遠藤周作、このシーンは「修道会の応接室で相談を受ける」くだりとなっている。女医が未洗礼(クリスチャンではない)であることもきちんと触れられている。
まあ、もしかしたらひょっとして、このテレビドラマ内の設定では「大河内女医は洗礼を受けたカトリック信者」なのかもしれない。逆にそう考えないと、この告解室のシーンはありえない
が、それだと「一年ほど前から教会に通っています」という台詞が矛盾をきたしてしまう。普通、洗礼を受けるまでには、指導司祭のもとで、一年程度、カテキズムの勉強をする期間が必要だからである。

ものすごーくこのテレビドラマ製作者の肩を持って解釈するとしたら「この女医は幼児洗礼で、初聖体も子どもの頃に済ませているが、大人になってからはずっと教会に通っておらず、ここ一年、また通うようになった」という設定なら、まだいける。
遠藤原作にそのような設定がないことは前述の通りだが、今後、上の設定を匂わせたり回想シーンがあるのならウルトラCだ。



こういうシーンが告解室でないと「絵にならない」というテレビ関係者の気持ちはわかる。わかるが、その気持ち自体がもう「カットリク!」信者のそれなのである。

あと、大河内女医がこの告解室で話す内容も、中二病の痛い人レベルの話だ。告解室は「信者が罪の告白と神の赦しをいただき償い方を得る場所」である。人生相談とか、愚痴とかをこぼす場所ではないのである。カトリック信者としては見ていて――


(原作:原田重光/画:瀬口たかひろ「 たまたまオトメ」2巻より引用)

という、なにかムズ痒い気分になってしまう。
カットリク!に洗脳された人々は、ガチカトもこういう話を告解室でしていると思っているのだろうか、と。
まあそれはそれで――

「たっのしー!」

ああ、わたしも知能低下していきそうだ……。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年01月27日

【カットリク!】神ともにいまして

朝日新聞に掲載されている、鷲田清一先生のコラム「折々のことば」。毎回、楽しみに読んでいるコーナーだ。
それの2016/12/25の記事に気になることがあったので、一筆。



God be with you till we meet again
讃美歌405番
「神ともにいまして」という題で知られる讃美歌。


賛美歌「神ともにいまして」は「54年版讃美歌」だと、確かに405番である。ただし、曲名は「神ともにいまして」ではなく、「送別 旅行」である。


(クリックで拡大できます)

しかし、「讃美歌21」だと、これが465番になるのである。曲名もちゃんと「神ともにいまして」となっている。


(クリックで拡大できます)

さらに、これが「カトリック聖歌集」だと――


(クリックで拡大できます)

660番になり、曲名も「かみともにいまして」になっている。

鷲田先生は「54年版讃美歌」をもとに番号を書かれたのだとわかるが、「賛美歌の番号がすべて共通だと思うのは間違いである」。ここで「54年版讃美歌405番」と書かずに「讃美歌405番」とだけ書くのは非常に読者の誤解を招く。

以前にも書いたことだが、重要なことなので同じことを繰り返し書く。モーツァルトのケッヘル番号や、バッハのBWVのように、賛美歌にも世界共通の番号がついている、と、日本人の多くは勘違いをしている。実際にはその教派が使う歌集によって、番号はまちまちなのだ。

カットリク!ポイント31――
カットリク!は聖歌と賛美歌は同じで、しかも番号は世界共通だと思っている。


また、「讃美歌」と「賛美歌」は違う。「讃美歌」は歌集の商品名、「賛美歌」は歌そのものを表す。「アイパッド」と「タブレット端末」の違いのようなものだ。よって、

『「神ともにいまして」という題で知られる讃美歌。』

という一文は明らかに「賛美歌」の誤記である。朝日新聞校閲部地味にすごくないよ、なにやってんの!

カットリク!ポイント30――
カットリク!は「聖歌」と「賛美歌」と「讃美歌」の区別がついてない。


なお、内容は、なるほどなー、ためになるなー、と納得。

ところで、なんちゃって教会の結婚式でよく歌われる「いつくしみふかき(カトリック聖歌集なら657番)」も、実は半分葬式ソングだったりする。

この「讃美歌」と「賛美歌」の違い。賛美歌の番号が共通でないこと、さらに本物のキリスト教の結婚式では「永遠の愛は誓わない」ことは日本人の多くが知らないことなので、披露宴のヨタ話としてウンチク垂れたりすると、うるさい奴だと嫌われること間違いなしだ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年01月16日

【カットリク!】マンガで読む名作 聖書 〜福音書の世界〜・後編

「マンガで読む名作 聖書 〜福音書の世界〜」のカットリク!後編。

磔刑死したイエスは三日後に復活し、弟子達の前に現れる。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言って天に昇っていく、感動的なラストシーンである。


(クリックで拡大できます)

イエス「父と子と精霊の名において、あらゆる人々に洗礼を授けなさい。
弟子一同「はい」
イエス「わたしはおまえたちに約束しよう。この世の終わりまで、いつもおまえたちと共にいると――」
『聖書〜福音書の世界〜』完


……じゃねーっつの!
せっかくの感動のシーンが、またもや「精霊」で台無しだ。

カットリク!ポイント49――
カットリク!は「精霊」。「精霊」なんだもん。うぇーん(´Д⊂ヽウェェェン


さて、と。
本書は、マンガが終わったあと、活字で「キリスト教とは何か」という章が設けられている。これも決して悪い内容ではない。が、やっぱりちょっとツッコみたくなるところはあるもので……。


(クリックで拡大できます)

「旧約」とは「旧い約束」であり、唯一神ヤハウェがイスラエル民族との間に交わした契約を指す。


現在、カトリック教会では神の呼び名として「ヤハウェ」や、それに類した固有名詞を使うことは「絶対にない」。カトリック中央協議会からのお達しで、教会にある典礼聖歌集の「ヤーウェ」の上に全部「主」の訂正シールを貼る仕事をしたひとりのわたしが言うのだから間違いない。


(典礼聖歌集57〜8番「神のわざ とわに留まれ」より。訂正してあることがおわかりいただけるだろうか)

このあたりは、カトリック中央協議会のこのページをごらんいただければ理解が深まると思うが、そのページの最後の部分にあるとおり――

1.典礼、聖歌、祈りの中で、神聖四字の形で示された神の名を用いたり、発音したりしてはならない。


つまり、教会内で「ヤハウェ」に類した固有名詞を言うことは絶対にない。

2.教会の典礼で用いるための聖書本文の近代語訳に際して、指針『リトゥルジアム・アウテンティカム』41ですでに定められたことを守らなければならない。すなわち、神聖四字は「アドナイ/キュリオス」と同じ意味のことばである”Lord”, “Signore”, “Seigneur”, “Herr”, “Senor”(主)などと訳さなければならない。


つまり、教会内文書や聖書などで「ヤハウェ」に類した固有名詞が記されることは絶対にない。

3.典礼と関連して、ヘブライ語の「アドナイ」と神聖四字のYHWHが代わる代わる用いられる本文を翻訳する際、七十人訳のギリシア語訳とヴルガタのラテン語訳に見られるのと同様に、「アドナイ」は「主」と訳し、神聖四字YHWHには「神」ということばを用いなければならない。


つまり、どうあろうと現代の教会は「ヤハウェ」に類する固有名詞を言ったり書いたり使ったりすることはない。

カットリク!ポイント49――
カットリク!は神のことをドヤ顔で「ヤハウェ」と言っちゃう。



(クリックで拡大できます)

ヨハネは「悔い改めよ。神の国は近づいた」と神の言葉を伝え始めた。人々に対し、皆が罪を悔い、改心することで、神の救いを得ることができると説いたのだ。


はい、ここはもうおわかりですね。そう、「カイシン」違い。

カットリク!ポイント63――
カットリク!は「改心」するけど「回心」はしないのさ。


なお、次のページには――


(クリックで拡大できます)

洗礼を受けたイエスが水から上がると、天が開かれ、精霊がハトのようにイエスに降り注いだ。


マンガだけでなく、解説ページでも「精霊」かよ!

カットリク!ポイント49――
カットリク!は「精霊」。「精霊」ったら「精霊」「精霊」なんだよぅ!


ここまでくると、「精霊」を使用することに確固とした意志を感じないでもいられない。きっと「聖霊」という言葉があることを知らなかったんだろう。
と、思ったのだが――

あれ?
あれれ?


(クリックで拡大できます)

昇天前にイエスが予告していた通り、聖霊が降臨したのである。


「精霊」:これってもしかして?
「聖霊」:わたしたち?
「聖霊・精霊」:入れ替わってるー!?

聖霊降臨についての段落だけは、ちゃんと「聖霊」になっているこの不思議!
しかもその次ページでは――


(クリックで拡大できます)

この出来事をきっかけにサウロはユダヤ教徒からキリスト教徒へと回心し「パウロ」と名を改めた。


「改心」:あれ、わたしたちも?
「回心」:ひょっとして?
「回心・改心」:入れ替わってるー!?

なぜか、この「使徒言行録」の項目ページだけ、「聖霊」「回心」が使われており、正しいキリスト教なのである。

不思議だなぁ……。

「前編」で書いたとおり、このマンガは佐藤ヒロシ先生がお描きになっていらっしゃるのだが、監修者などはまったく記していない。「協力:C&E Store」と記されているのみだが、これは編集プロダクションだろうか。

そして最初に書いてもいるが、本書は基本的に良書である。「聖霊」「回心」の間違いがなければ、キリスト教入門者に自信をもってお勧めできる一冊であった。
それだけに、本当にこのミスは惜しいと思っている。

最終校を、一度、ガチのクリスチャンに読ませるべきでしたねぇ。
まあ、日本には0.5パーセントしかいない絶滅危惧種ですから、仕方ないのかもしれませんが……。

本当に惜しいっ!
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2017年01月15日

【カットリク!】マンガで読む名作 聖書 〜福音書の世界〜・前編

「マンガで読む名作 聖書 〜福音書の世界〜」。
日本文芸社が出版した文庫本で、奥付は2010年7月15日初版発行。
漫画は佐藤ヒロシ先生がお描きになっている。マンガ家の名前がカバー含めて三箇所にしか記されていないのは淋しい。なにか大人の事情でもあるのだろうか。


(クリックで拡大できます)

自前のコミック本ならば迷いもなく裁断しスキャンスナップで自炊なのだが、教会学校からの借り物なので、今回はフラットベッドスキャナも使わず、そーっと開いてカメラ撮影。読みにくくて申しわけない。

まず、この本の内容、良くできているのだ。百点満点で95点をさしあげても良いくらい。新約聖書の四福音書をうまく一本のストーリーにまとめて実にわかりやすいマンガとなっている。
本当、それだけに、細かいが譲れない減点が惜しいのである。

まずは受胎告知のシーン。


(クリックで拡大できます)

ガブリエル「精霊がおまえに降臨し、いと高きお方の力……」
ガブリエル「すなわち神の力がおまえを包むのだ(後略)」


あー、やってしまいましたなぁ。
「【カットリク!】ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド スレッジ・ハマーの追憶」でも既出だが、「精霊」じゃなくて「聖霊」ですよ、キリスト教は!

カットリク!ポイント49――
カットリク!は「父と子と精霊」に祈っちゃう。「精霊」って誰?


まさか「聖書」をそのまま扱っている本でこの間違いはいただけない。

次、洗礼者ヨハネの登場シーン。


(クリックで拡大できます)

洗礼者ヨハネ「おまえたちは後悔と改心が本物であることを示さねば神の許しは得られないのだ」


ここの間違いは、ガチのクリスチャンでないとわからないだろうと思う。
正確には「改心」ではなく「回心」。「改心」は単に心を改めることだが、「回心」は神に心を向けることで、微妙だが確実に違うのだ。

ちなみに新共同訳聖書(続編つき)の中に「回心」は6箇所あるが、「改心」はシラ書18:21に一箇所しかない。シラ書はカトリックのみのアポクリファなので、プロテスタントの聖書には「改心」は一箇所もないということになる。

カットリク!ポイント63――
カットリク!は「改心」するけど「回心」はしないのさ。


お次、イエスが生まれ故郷ナザレのシナゴーグでイザヤ書を読むシーン。マンガではなぜか路上で説法をしていることになっているが、そこは大目に見よう。


(クリックで拡大できます)

イエス「主の精霊がわたしの上にある。主は貧しい人々の福音を伝えるためにわたしを…」


ここはイエスがイザヤ書の61章1節を読み上げ、それが今、自分によって実現したと宣言する場面なのだが、もちろん「精霊」が大間違い!

イザヤ書の該当部分は――
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。(イザヤ書 61:1)

となっているし、マンガが参考にしたルカ第4章16節のイザヤ書朗読部分は――

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、(ルカによる福音書 4:18)

となっている。どうしてわざわざ聖書本文で「主の霊」「神の霊」となっている部分を「セーレイ」にしたのか、しかも「聖霊」ならまだ間違いではないのに、わざわざ大ハズシの「精霊」にしたのか、まったく理解に苦しむ。

ちなみにルカ4:18の同箇所の表現は、新共同訳で「主の霊」、文語訳で「主の御靈」、現代訳で「主の御霊」、新改訳第二版で「主の御霊」となっている。
KJVでも「Spirit of the Lord」で、「聖霊」はHoly Ghostだから、ここを「聖霊」と訳すのはやはり違うのだと思う。聖書学者ではないので、コイネーまでは調べる気にはならない。

カットリク!ポイント49――
カットリク!は「精霊」と言ったら「精霊」なの!


さて次はまあどうでもいいっちゃいい部分だが――


(クリックで拡大できます)

イエス「飢餓や病気で大勢の人が苦しんでいた時、預言者エリヤもエリシヤも全員を救うことはしなかった」


うーん「エリシヤ」でも間違いではないのかもしれないが、長年キリストもんをやっていて「エリシヤ」という呼び方は聞いたことがない。ここは「エリシャ」の誤植ではないかなぁ。
ちなみに「エリシャ」の英語読みは「イライジャ」。あと、彼のハゲを指摘してはいけない。ダメ、ゼッタイ。
熊に引き裂かれた四十二人の子供たちに免じてカットリク!ポイントはつけない。

次も解釈によっては――という場面になってしまうのだが


(クリックで拡大できます)

イエス「あなたは…今日…わたしとともに楽園に入る…」

ルカ23:43で、イエスが一緒に磔刑にされた囚人にかけた言葉である。
ちなみに新共同訳だと
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカによる福音書 23:43)

口語訳だと
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカによる福音書 23:43)

文語訳だと
イエス言ひ給ふ『われ誠に汝らに告ぐ、今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし』(ルカ傳福音書 23:43)

どうだろう? マンガのセリフと微妙にニュアンスが違うのがおわかりいただけるのではないだろうか。
イエスは決して「君は死んだらこれから楽園に行くよ」と言っているのではない。十字架に磔にされ、死に瀕して苦しみもがいている「今このとき」ですら、「わたしとともに楽園にいる」と言っている、とわたしは解釈している。

普通に新共同訳聖書を引用すればいいところを、「こんな磔にされていて、今、楽園にいるわけがないじゃん」と編集者が書き換えてしまったのだろうか?

とはいえここは、新約聖書原典のコイネーでも句読点がないので、解釈はいろいろあるらしい。ので、カットリク!ポイントもなしでよしとしよう。

長くなったので記事を分けよう。後編へ続く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究

2016年12月24日

【カットリク!】メリークリスマス

「メリークリスマス!」

ふだん英語ミサに集う信徒の口からは自然にそう出てくるのがちょっと羨ましい。
日本語ミサの信徒だと「主のご降誕おめでとうございます」。あるいは単に「おめでとうござます」が、今夜の教会での挨拶だ。

さて――

「どうして仏教徒の俺らがキリストの誕生日を祝わなくちゃいけないんだよ!」

というようなマンガのシーンを、何度か見かけたことがあるような気がする。気がするのだが――ううーん、書斎の中から見つけることができなかった。

ので、今日のカットリク!は、中村光「聖おにいさん」2巻から。



大家さん「ハデな外人がぎょーさんおったから、追い出したけんど、次やったら出てってもらうかんね!」
仏陀「強い!」
イエス「すみません、大家さん。今日、私の誕生日で……」
仏陀「名前和名にされてるっ!」
大家さん「ほ〜、クリスマスに珍しい……」


きっと、中村先生は承知の上で描いているんだろうな、とは思う。思うのだが、ほかに見つからなかったので、今回、サンプルにあげさせていただいた。

今回のツッコミは――
「12月25日は、イエス・キリストの誕生日ではない」
である。

えっ、じゃあクリスマスクリスマスって、クリスチャンは12月24、25日に浮かれてなにを祝っているの!? という疑問が当然出てくるであろう。

実は、イエスの誕生日は不明なのだ。

12月25日は、あくまで「イエス・キリストの誕生を祝う日」であって「イエス・キリストの誕生日ではない」のである。

なんと例えればよいだろう。そうだ、例えば「成人の日」。あの日を境に、その年にハタチになる誰しもが成人になるわけではなく、それぞれが満20歳の誕生日を迎えて初めて成人になるわけだ。「成人の日」は、「その年の成人を祝う日」であって、その個人が「成人になる日」ではない。

「クリスマス」もそれと同じようなもの。記念日ではあっても、誕生日ではないのである。

ではなぜ12月25日という特定の日になったのか、というと、キリスト教が広がる過程でミトラ教の祭典「太陽神ミトラの誕生日」を取り入れた形でできた習慣というのが一般的な見方である。

「じゃあどうして仏教徒の俺らが太陽神ミトラの誕生日を祝わなくちゃいけないんだよ!」

いや知りませんよそんなこと。わたし仏教徒じゃないし……。

というところで、
カットリク!ポイント62――
カットリク!はクリスマスをイエス・キリストの誕生日だと言っちゃう。


でもいいんじゃないかなぁ。一年で一日くらい、教派宗派国境主義主張越えて、みんなでなにか暖かな気持ちになれる日があっても。

世界中のあらゆる人々に、今夜くらいは、メリークリスマス!

追記:とはいえ淋しい話だが、最近のアメリカでは「ハッピーホリディズ」と挨拶するのも確からしい。うちの老主任司祭が、アメリカ大使館から届いた「Happy Holidays」のカードとチョコレートを見せてくれたときは、さすがに二人で笑ってしまった。なんというか、カトリック教会の神父にこれを送るのはむしろ失礼ではないかとも思うのだが、そのあたりがさすがヤンキー的クックドゥードゥルドゥなプラクティカル感覚なのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究