2018年08月29日

【日記】寝相

 結婚してから銀婚式を過ぎた今まで、細君とはダブルベッドで一緒に寝ている。
 世の中の統計によれば、妻の夫に対する不満のベスト2は「夫のいびき」だそうである。
 わたしもいびきをかいているのかもしれないが、寝ているので気づかなーい。だからきっといびきはかいていないと思われる(断言)。

 対して、細君の寝相は悪い! 深夜にドスッドスッとわたしに蹴りが入る。たまにこれは、意図的に日頃の恨みを込めてやっているのではないか? と思って、寝ている頬を押してみたりするが、熟睡している。うーん。
 まあきっと、いい夢を見ているのだろうと思って、わたしは「太刀魚」のように体をピンと延ばして、ベッドの縁に寝ているのである。

 さらに細君は、膝を曲げ、足を立てて寝るのが好きだ。これをやられると、布団が乱れるので、キッチリカッキリが好きなわたしとしてはやめてほしいのだが、「これじゃなきゃいやだー」と細君が抵抗するので仕方なく許すことにした。

 最初のうちは、細君がこの「立て膝」をやっているときに、彼女のかかとにこちらの足をひっかけ、ストン≠ニ延ばしてやるのが楽しかった。膝かっくんみたいな感じである。
 しかしこれ、やられる方は、無性に腹が立つらしい。細君が怒るので、わたしもためしに「立て膝」にして同じようにやってもらったら、確かにこれは腹が立つ。こりゃいいや(笑)。
 最近は、わたしがこの技をやろうとすると、細君も足にグッと力を入れ、足払いをさせまいとする。むきー。つまらない。

 細君に言わせると、わたしの寝相も相当に悪いそうだ。「太刀魚? はぁ?」だそうである。
 細君も相当に腹が立っていたようで、わたしが一人で寝ているところをデジカメで撮って「ほら、こんなに寝相悪いじゃない」と見せてくれたことがある。
 最近の画像修正技術は進んだもので、太刀魚のようにピシッと寝ているわたしが、だらしなく大の字に寝ているのだから始末に悪い。合成だ。合成に決まっている。それでなくても、細君はその手のプロフェッショナルなのである。ワターシ、シンジマセンネー。

 冗談めかして書いているが、細君はいつでもどこでも、寝ようと思えば眠れる人。そして眠りも深い人。それが二人、25年以上、一緒のベッドで眠れているコツなのだろう。わたしの努力はまったくない(いや、太刀魚のようにピシッと寝てるんですけどね)。

 細君が入院して、一人で寝ていたときは、とても寂しかった。のろけるわけではないが、これもやはり習慣である。
 同じベッドで寝ている夫婦と、そうでない夫婦の間で、離婚率が違うのかどうか検索してみると、ダブルベッドで一緒に寝ている夫婦の方が離婚率が高い、という話が最初にでてきてびっくりしている。互いに相手の寝相といびきに我慢できず、ストレスがたまるからなのだそうだ。

 ま、太刀魚のようにピシーッとまっすぐに寝て、いびきのひとつもかかないわたしには、関係ない話ですけどね。

細君注:そんなことはまーったくぜんぜん金輪際ありません!!
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年08月25日

【日記】ストロー廃止は勘弁してくれ

 米スタバが環境保全のためにプラスチックストローを廃止する、というニュースが流れ、あれよあれよという間に、日本のファストフード、レストラン産業でもストロー廃止へ向けて進み始めた、というニュース。
 正直、「勘弁してくれ」と思っているのは、わたしだけなのだろうか。
環境保全≠御旗にされると、どうも筆鋒鈍る方が多いようで、この「ストロー敵視」の流れに反対する、という声はあまり聞こえてこない気がする。

 だが、わたしは改めて言う。「ストロー廃止は勘弁してくれ」。

 わたしはスタバが嫌いではないが、このストロー廃止が環境保全≠ネどのためではなく、経費削減のために行われた方針だろうことは容易に想像できる。
 スタバはマイボトルを持っていくと割引をするサービスをやっているが、これも環境保全のためなどではない。その証拠に、コーヒーを頼んだ客に「店内でお召し上がりでしたらマグにしましょうか?」というような案内をせず、プラカップで出すではないか。
 わたしは吝嗇家なので、CODをもらうとき、一杯目はマイボトルにして、必ずワンモアコーヒーをもらうようにしているが、このとき、いつもマグ指定でもらっている(これも環境負荷を考えると、一概にマグがいいとは言えないという議論があるが……)。まあ、マグでもらうのは、プラ容器でコーヒーを飲むと味が変わる、というのがあるからで、環境保全♂]々を考えての行動ではないのだが。

 わたしがストロー派なのは、冷たい飲み物はストローで飲みたいから、である。コップから直接飲むと、味が変わるのである。さらには衛生的にも、ファミレスのコップの縁が汚れていることが多いことを経験則的に知っているからである。

環境保全≠フためにストロー廃止に賛成、と言っているお嬢さん。ストローを使わずにコーヒーなどを飲むと、歯が多くの酸と糖にさらされることになるのですよ。歯に色がつくし、歯のエナメル質を溶かして知覚過敏を引き起こす可能性もあるとのこと。
 どうです? ことは環境保全のためならいいことねー≠ニいうような、簡単なことじゃないでしょう?

 せめて、代替で紙ストローを使うような流れに持っていきたいものである。

 もし、ファストフードやファミレスで、ストロー全廃のようなことになったら、わたしは「マイストロー」を持ち歩くことに決めた。

 それにしても環境保全≠御旗にされると、どんなことでも、誰しもが「仕方ないか」と押し黙ってしまうこの流れ、なんとも、気分が悪い。
 そのくせ、日本人は絶滅寸前のうなぎもくじらも喰う。「減ってない」と理屈をつけて喰う。
 そういうお前はどうなんだよ、と言われれば、うなぎもくじらも喰うし、ストローも使うし、割り箸大賛成である。一本筋が通っているのである。環境保全≠ネにそれ、喰えんの? ってことである。

 以前にも別の記事で書いたが、景気をよくしたければ、ゴミの家庭分別はなくすべきだ。家庭で分けさせるのではなく、ゴミ集積場でそれを行う新しい雇用を見いだせば良い。家庭ゴミの分別が、ゴミを出したくないからモノを買わない、という悪循環になっていることを、為政者は再認識するべきだ。
 日本の不景気の始まりと、ゴミの家庭での分別収集のそれは、ほぼ一緒のはずである。

 話がずいぶんブッ飛んでしまったが、ホント、ストロー廃止は勘弁してくれ。他にも、同じことを考えている方がいるなら、声を上げてほしいものだ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年08月22日

【回想録】高校野球

 自分が小学生の頃は、夏の暑い日に、扇風機の風で生ぬるい部屋の空気を攪拌しながら、祖父母と「夏の甲子園」を見るのが楽しみであった。

 別にわたしは野球少年ではなかったし、野球が好きでもなかったが、プレイヤーの真剣さというものは画面越しにでも伝わるものなのである。

 プロ野球と違って、一試合一試合で勝敗が決まる高校野球には、鬼気迫る迫力があり、地元の高校が出ていたりすれば、なんとなくやはり、応援したりするものであった。
 当時、高校球児たちは、確かに自分にとってオトナであった。

 自分が高校生になってみると、不思議な気分である。残念ながらわが校は甲子園どころか一回戦、二回戦敗退ばかりだったが、市民球場に応援に行き、見知ったクラスメイトが、格好良くバッターボックスに立っていたりすると、妙な感じであった。

 たとえて言えば――中学校の同級生が運転するクルマに初めて乗ったときのような違和感、である。わかっていただけるかな?

 わたしは特に同じクラスのM君と仲が良く、M君はバッターボックスで、まるでホームラン予告のようにバットをビシッと前方に向けるのである。なかなか、格好良かった。

 高校を卒業すると、高校野球の少年たちが、自分より年下、ということにびっくりするようになる。いやぁ、みんな、オトナだなぁ、と。丸坊主であどけない表情でも、目標を目指す真剣さがまぶしく、だらけた生活を送っている自分がとても幼く感じたものだ。

 それからしばらくは、高校野球に興味なく過ごし、夏もテレビで応援、というようなことはしなかった。
 ある年、自分が相応に歳を取ってから、高校野球を見て、びっくりしてしまった。
 みんな、子どもなのである。
 いや、当たり前の話なのだが。

 念のために言っておくが、子どものように見えるから悪い、オトナに見えるから良い、というわけではない。これは単に、わたしの立ち位置が変わっただけなのだ。

 子どもの頃は、高校野球の選手たちはオトナだった。同級生のときは、彼らのオトナの一面を見せられてドキッとして、その後しばらくはそれが続くが、自分が完全にオトナになってしまうと、高校球児たちはまぶしいほど、目標一直線の子どもになってしまうのである。

 そう、おそらく、わたしは汚れてしまったのだな。オトナというものに。


(画:中原裕/原作:神尾龍「ラストイニング」44巻より引用。「敗れて悔いなし?」とインタビュアーに訊ねられたときの鳩ヶ谷監督の答え。印象的なシーンだ)

 高校野球というのは、不思議な日本の伝統だなぁ、と思う。それはひとつのサンクチュアリ――聖域――だ。熱射病で倒れても、ケガをしても美談になってしまう。
 高校野球という試練を通ることで、本当は才能があったのに、体を壊してプロに行けなくなってしまう選手もいると聞く。

 特に暑かった今年の夏は、果たしてドーム球場ではない甲子園でこれからも続けるべきか、という議論も出てきたようだが、おそらく高校野球は、灼熱の甲子園のもとで、来年も、再来年も、十年後も行われているに違いない。
 それは前述したが、夏の甲子園、高校野球が聖域だからである。わたし自身(老害発想であることを自認しながら)、夏の高校野球がドーム球場で行われたらちょっとなぁ、と思うところがないではないのだ。

 なんにしろ、日本の夏はここ最近、暑すぎる。夏の風物詩である高校野球が、この先、若い選手たちのために、なにかしら、良い方向に改善されれば、とも願う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年08月18日

【映画評】カメラを止めるな!

 最初は二館上映だったインディーズ映画が、口コミの評判であれよあれよというまに全国拡大公開に。
 とても面白いと観た者誰しもが言うが、どう面白いのかを訊くと口をモゴモゴさせてしまうという不思議な映画「カメラを止めるな!」が、遅ればせながらわたしの住む地方都市でも上映されることになったので、細君とさっそくはせ参じてきた。



 すでに観てきた方のレビューで、だいたいの内容は「ゾンビ映画の撮影に廃墟を訪れたロケチームに、本物のゾンビが襲いかかる」というものだとはわかっている。
「でもね、それ以上に面白いから」
「それ以上? どんな」
「うーん、ごめん。それ以上≠ノ触れると、あなたが観たときにつまらなくなっちゃうから」
 というのが、だいたい個人でもネットでも定番のお答え。
 なんだろうなぁ? ロケ隊が実はすでにゾンビだったとか? などといろいろと妄想たくましくしながら、夕方からの上映に入場。いつもはガラガラな劇場と時間帯だというのに、今日は三分の二くらい埋まっている。口コミというものはすごいものだ。

 さて、答え合わせ。
「カメラを止めるな!」は、「ゾンビ映画の撮影に廃墟を訪れたロケチームに、本物のゾンビが襲いかかる」というものだ。しかし「それ以上に面白い」。とはいえ「それ以上≠ノ触れると、あなたが観るときにつまらなくなっちゃうから」書けない!

 本当に口コミのままである。
 いやしかし、マジにそれ以上書けないのだ。たとえば「よく練り込まれたシナリオ」というごくふつうのほめ言葉でさえ、ネタバレになってしまう(カッコ内は反転で読めます)。

 この面白さを伝えようと、雰囲気を似たような映画で例えようとしている方も多く、その中で挙げられる「サマータイムマシン・ブルース」が、わたしも「雰囲気は似ている」という点で、似ているかな、と思う。

 もうひとつ、これを挙げている方は見かけないが、都井邦彦先生の「遊びの時間は終わらない」(ただし映画の方ではなく小説の方)が、似たような感じかな、とも思う。

 とにかく、伏線の回収がうまい(こう書くだけで、もうネタバレスレスレである)。

 ひとつ言えるのは、以前の記事に似たようなことを書いたが「映画のエンドロールは最後まで観ろ!」ということである。
 この映画に限っては、エンドロール後を観ないということは、面白さの90パーセントを見逃していると言ってもいい。

 そしてエンディング後、劇場をあとにするときは、観ていた皆が不思議な一体感に包まれ、笑顔で、楽しかったねー、と口々に言っているような映画である。ポン!

 なんというか、映画本編に触れないで感想を書かなければいけないというのは、なんとも、評者が試されているような映画でもある。

 まだまだ全国上映は始まったばかり。この夏、一本だけ映画を観るのなら、ぜひとも候補の上位に入れてほしい映画。わたしが邦画を褒めるのはそうないはず。
 実はこの映画の前に「未来のミライ」を細君と観ていて、誘ったことをちょっと後悔していたのだが(ま、そういう評価)、細君も「カメラを止めるな!」は十分に楽しんでくれて、点数稼ぎができてうれしかったりする。

 血のりとかはけっこう出てくるし、手持ちカメラで酔いやすいタイプの方はちょっとダメかもしれないが、そうでないカップルなら、デートムービーにもいいかもしれない。
 観終わったあと、「ポン!」の一言で、で二人で笑ってしまうから。約束する。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年08月15日

【日記】箸はきちんと持とう

 まだテレビを見ていた頃、日頃、偉そうに物事を上から目線で言っていたあるクリエイターの食事シーンで、彼が箸を「握り箸」で使っているのを目撃し、とても幻滅したことがある。
 いや、幻滅というレベルでは生ぬるいな。もはや軽蔑に近いレベル。
 端的に「この人は育ちが悪いのだなぁ」「健全な家庭で育ったのではないのだなぁ」と連想してしまうのだ。

 なんて書くと、「箸の持ち方で味が変わんの?」「大きなお世話」という声が必ず上がる。まず、味は変わる。あなたの食べているものの味は変わらないだろうが、見ているこっちの料理がまずくなる。そして、大きなお世話である。少なくとも、わたしのように、箸の持ち方で相手を軽蔑する人がいるということを知るというのは大切なこと、大きなお世話をやいてやりたいのである。

 子どもの頃から、この箸使いだから、いまさら矯正できない、というのは嘘だ。
 わたしは宗教柄、外国人の神父さま方とよく食事をするが、みなさん、すばらしく美しい箸使いである。聞けばみな「日本の文化を愛するため、たくさん修行しました」とおっしゃる。
 箸使いのおかしい「日本人」は、日本人でありながら、日本の文化を冒涜しているに等しい。先の外国人の神父さま方のほうが、よほど日本文化を理解し、大切にしている。

 こんな話がある。
 ハリウッドで、撮影のための模型を作っていたが、その模型の内側に、小さな部品を落としてしまった。スタッフがみな、長いピンセットや、棒に両面テープをつけて取ろうとするが、なかなか取ることができない。
 そこにやってきた日本人スタッフ。長く細い棒を箸のように使って、ヒョイッと部品を取ってしまった。Oh! miracle! スタッフの間で大きな拍手が上がったという。

 こんな細かい技は、握り箸では無理であろう。

 正しい箸の持ち方、というが、実際には上記のように、多種多様な場面で二本の棒を使いいろいろなことができる、洗練された持ち方なのである。適正化され、合理化された持ち方だから「正しい持ち方」なのだ。

 もし、過去に「握り箸でもいいのではないかのう」という考え方をする人々が一定数いたなら、書道や剣道のように「握り箸派」とか「握り箸流」という分岐があり、握り箸もひとつの持ち方として認められていたはずなのである。
 しかし日本の長い歴史の中で、そういう流派ができなかった、ということ自体が、「握り箸は間違っている」という論拠になりうる。

「これは俺の個性だから」で押し通すのならそれでもよい。ただ、一定数、あなたの個性を軽蔑する層がいるということは知っておいたほうがよい。それが原因で人間性を判断することは間違っている、とあなたが叫んでも「ほーん。それで?」と、彼または彼女のあなたへの認識は「面倒くさいやつ」で変わらないだろう。

 腕時計はしなくてもいいと思う。ネクタイピンもしなくてもいい。ハンカチを持ち歩かなくてもいい。それでも、箸の持ち方はきちんとしよう。特にゆとり世代以下の方々に言う。それであなたの本質が誤解されるのが嫌だったら、箸の持ち方を直すくらい、どうってことないでしょう? と。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記