2019年10月23日

【日記】F2Lに開眼した!

(開眼したとは言っていない)

 突然なんのことやらと思われるかもしれないが、六面立体パズル、いわゆるルービック・キューブ≠フ解法のことである。

 さて、去年の五月のオフで畏友R氏の部屋でルービック・キューブに再会し、それ以来ハマっていたのは、このブログの読者の方ならご存知の通り。ところがそれも、10月頃からかな? だんだんと話題にすることが減ってきて、今年の夏までは一切触れていなかった。
 そう、飽きてしまっていたのだ。
 ブログを読み直してみると(「【日記】キューブふたたび」にはsub120と書いてあるが)、なかなかsub90以下(90秒以内にソルブ――六面を揃えること)にならないし、F2Lは「表の見方すらわからない状態」というていたらくで、モチベーションダダ下がり、などとほざいている始末。

 ところが、「【日記】キューブふたたび」の記事で書いた通り、ある特別な朝に、ふと回すともとに戻らない聖域≠ニ化していたキューブを回して、解法を見ながら試してみると、どうやら指が思い出してきて、その朝のうちに六面完成がソラでできるようになっていたのだった。

 そこでキューブ熱が再び燃えてきたと、そういうわけ。

 わたしが通っているジムは、トレッドミルを使いながらYoutubeを見ることができる。そこで、ウォーキングをしながら、Youtubeで解法を教えてくれているユーチューバーの方々の動画を見ることにしてみた。

 喋りが抜群に面白く、ラジオの深夜放送を聞いているように楽しい「はやぼっくり」さん。
 どこかの有名予備校の講師のように理論派で実に丁寧に教えてくださる「ぼうたろう」さん。
 そして、気のいい兄貴が隣でコーチングしてくれるような「YAMI CUBES」さん。
 こんな方々のYoutube動画を見ながら、さらなるタイム短縮を目指し、F2Lという手法を覚えようとしている段階。

 そうそう、キューブ界を知らない皆様には、90秒で六面完成でも「すごーい」のかもしれないが、こんな数字はミスターサタン並の戦闘力なのである。一分切ってフツー。30秒切って速い。トッププロだと数秒、なのである。ここまでくると、もうちょっと異能のレベルだと思うが、とにかくそういう世界なのである。

 ある意味、マラソンに近い。フツーの人は「完走するだけでもすごーい」のかもしれないが、できる人にとって「完走はあたりまえ」。そこから先のタイムを縮めることが大変と、そういう感じ。

 キューブの解法には、往年の「ツクダ式」と、最新の研究が進んでいる「LBL法」があって、わたしが勉強しているのは、このLBL法の方。LBL法の簡易式なら体得したので、90秒以内で六面完成はできる。しかしツクダ式やこの簡易LBL法でも60秒を切れる人がいらっしゃるそうであるから、指の回しとかもまだまだなのだろうな、とは思う。

 ちなみに、簡易LBLでの現在のわたしの記録はこんな感じ。

[Ao5] 1:24.41
[1] 1:33.32
[2] (1:35.08)
[3] 1:15.33
[4] 1:24.58
[5] (1:13.19)

(キューブのタイム記録は、五回ソルブして、一番いいものと悪いものを捨て、残りを平均化して出す)

 LBL法は、CFOP手順というおのおのの頭文字を取った段階で六面を完成していくのだが、簡易法はこのFの部分「F2L」が一番簡略化されているのである。ここは細分化すると41個の手順があるのだが、簡易版だと二個覚えるだけでいい。
 そこで、一番、タイムが縮まると思われる、このF2Lの習得にとりかかったと、こういうわけ。

 いやしかし、ここまでは、前回飽きたときもたどり着いていたのである。しかし当時は、F2Lを方法を書いた教本の図の見方すらわからないという状態であった。とにかくF2Lは、それまでの簡易式からいきなり難しくなるのである。

 そこで話をもとに戻して、ユーチューバーのみなさんの解説動画を見ながら、まるで魔法のようにF2Lしていく様子を勉強していたのである。
 その中でも「YAMI CUBES」さんの動画、「【ルービックキューブ】カンタンなF2Lのやり方(2列目までを早く揃える方法)」を見て、わたしはやっとF2Lのなんたるかに開眼した(開眼したとは言っていない)。

 とにかく、この動画を見て、F2Lを、手順を覚えることなく、なんとかできるようになったのである。
 それは、手順を覚えた方が速いに決まっているが、今は「なぜそうなるか」を脳に染みこませた方がいい段階なのだろう、と思って、黙々と、この「考えてF2Lをする」方法で六面完成をしている。
 最初は30分かかっていたこの方法だが、三日ばかり練習を繰り返した結果は――

[Ao5] 4:24.40
[1] (20:38.60)
[2] (3:6.27)
[3] 3:7.99
[4] 6:20.74
[5] 3:44.47

(一回目のソルブがひどい……)

 ここまで縮めることができたが、そこから先がなかなか進まない。
 しかし、こうやってF2Lの方法を「考えながら」やっているうちに、ついに「表の見方」がわかったのである。このキューブがパターンなら、あの図を見れば手順がわかる、という感じに。


(永岡書店「保存版 ルービックキューブVer.2.0 完全攻略公式ガイドブックより引用)

 ↑図というのはこんなのね。今まではこの「パターンになる」というのがスッとわからなかったのだ。

 ここから先、手順を覚えるのは大変だが、逆に言えば、手順は覚えればいいだけ、という言い方もできる。まるで雲がかかっていて頂上が見えなかった山の天気が晴れて、ルートが見えてきたような気分である。

「はやぼっくり」さん、「ぼうたろう」さん、「YAMI CUBES」さん、そして他にも、キューブ解説動画をあげてくださっている皆様、ありがとうございます!
 昔は動画教材などというものは、悪徳商法に使われるほど高かったのだが、それが無料で見られるのだから、いい時代になったものだ。

 そんなこんなで、F2L体得に苦戦しているわたし。目下の悩みは、トレッドミルでウォーキングしながらキューブを回して、スタッフに怒られないかということだったり。危ないことはなにもないのだが(スマホを見ながらウォーキングしている人は多い)、注意されると凹むタイプなので、遠慮がちに回したり、トレッドミルのポケットに戻したりしながら歩いている。

 ところで、ルービックキューブなんて、昭和のオワコンだよ、と思っているみなさん、久々に手に取ってみませんか? 最新のキューブはすごいですよ。それにこの趣味、キューブがひとつあれば一生楽しめるリーズナルブルなものなんです(大嘘)。

 そう、大嘘。キューブは増える。キューブ同士で交尾でもしているかのように増える。
 キューブ熱が再開してから、わたしもGAN356i、GAN356X、それにQiYi Valk 3 miniと買い足してしまった。

 特にGAN356iはすごい、以前にもスマホとつながるキューブXiaomi GiiKER Smart Cubeを紹介したが、(【日記】Xiaomi GiiKER Smart Cubeレビュー・その1)、これは三軸立体センサーを内蔵しており、スマホ上でも目視と同じようにクルクル回る。そして、世界のユーザと対戦できたりもする。これはそのうち、別記事で。

 キューブ上級者のブログや情報発信は多いが、わたしのように、子どもの頃ツクダ式でできたけれど、今はすっかり忘れてしまい、初老も過ぎて、久しぶりに手に取って始めた超々初心者の記録は見たことがない。そういう意味で、こういう日記も意味があるかと思い、これからもしたためていくことにする。

 今度は飽きずにがんばるぞ!
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年10月19日

【日記】父の迷言

 わたしの父はもう90歳を越えたが、まだ自分の足二本で旅行を楽しむくらい元気で助かっている。
 頭の方もけっこう明晰で、この歳で、Adobe Premiereを使って動画編集を楽しむコンピュータおじいちゃんだ。

 ただ、最近、耳が遠くなってきたのはいかんともしがたい。わたしも病気をして片耳が遠いので、さぞやつらいだろうなあと思っているのだが、あにはからんや、父は「聞こえないなら聞こえないでいい」というタイプのようで、むしろ周りの方が大声になって気を遣うという感じ。ただ、いい補聴器を作ったので、それをしている間は聴覚も快調のようだ。

 父がコンピュータを使い始めたのは、もともとが8ミリフィルムでムービー作品を作る映像作家だったから、という面が大きい。8ミリフィルムがビデオに駆逐される前に、父はビデオに軸足を移してリニア編集をするようになり、コンピュータでノンリニア編集ができるようになると、すぐさまそれに飛びついたのだった。
 こういうフットワークの良さはわたしにはないものなので(わたしは慣れ親しんだ環境にしがみつく性格)、その好奇心の強さ、新しいものを使おうという意志には、わが父ながら感心してしまう。

 そんなわけで、父のコンピュータ歴は、年齢に比してそこそこ長い。初めてのPCはソニーのキャプチャボードが載ったマシンで、Windows98だったと思う。OSR2ではなかったはずだ。
 それ以来、マシンを換えOSを換え、Windows2000、XP、Vista、7と使ってきている。ただ、自分でマシンを自作したり、OSを入れ替えたりすることはさすがにできないので、それをやるのはわたしだが。

 動画のノンリニア編集については、わたしが驚くほどPremiereを使いこなして、定期的にビデオサークルの作品会に映像作品を出している。県内のビデオコンテストにも応募して入賞し、森田健作知事から賞状をもらったこともあるので、その腕は本物だ。

 ただ、PC歴は長いが、PCやOSへの理解はそれほど深くはない。そのあたりのサポートは、前述のとおり、わたしが全面的にやっている。
 例えば、父のマシンはWindows98時代から、作業HDDとしてDドライブを切って、ひとつの作品を作り終わったらDドライブのファイルを消せばいいようにしているのだが、父はどのPCにもDドライブがあると思っていたらしく、友人のノートパソコンで動画編集の仕方を教えていて、「このパソコンにはDドライブがないんだ」と驚いていたりした。

 そう、父にはドライブとかルートとかディレクトリとかいう概念はない。いやフォルダはちょっとわかってるかな? とにかく、DOS時代から続くファイル構造というものの根本を理解していないので――

 父「恭介、セーブしたはずのファイルがないんだけど」
 わたし「またCドライブのどっかにセーブしちゃったんじゃないの?(マウスちゃっちゃ)。ほら、ここにある」
 父「ああそうか、またDドライブにセーブするの忘れちゃったんだ」

 ということが頻繁にある。

 数年前、もうガラケーも先が見えてきたし、父母にもスマホはどうだろう? と勧めてみたら、父は意欲満々でそれに臨んだのだった。自分で教室を見つけて通ったり、教本を見て勉強したりして、苦労はあったようだが、どうやら自家薬籠中のものにしたようである。わたし自身、父の薦めでLINEを使うようになり(わたしは既存の技術に固執するタイプなんですよw)、今は家族で便利にLINEを利用している。

 そんな父だが、やはり技術の根本のところは「なんとなく」で理解しているだけのようで、とんちんかんなことを言ってきて驚かせたりする。

 父「恭介、スマホのメールってのは、箱根の山を境に、送れる人と送れない人がいるんだな」
 わたし「えっ!? まさか」

 これは、メールの相手がガラケーで、PCメールを排除しているクソ設定のユーザーが(父にとって)きれいに東西に分かれていたから起きた誤解らしい。
 この誤解は、結局解けたのか解けなかったのか。SMSなら通るということがわかって一段落したのだが、SMSなんぞ早くこの世からなくなってほしいと願っているわたしにとっては苦々しい体験であった(最近はネットサービスの認証にSMSが使われるようになって、本当にいまいましい)。

 先日はこんなことを言ってきた。

 父「恭介。画像ファイルには著作権の観点から(ダウンロードしても)、パソコンから消えちゃうやつがあるんだな」
 わたし「はぁ?」

 詳しく聞いてみると、画面キャプチャした地図をペイントソフトでいじっているうちに、それが真っ白になってしまう体験を二度して、そう思いこんでしまったらしい。
 キャプチャした画像はbmpである。そんなトリックが仕込めるわけがない。が、そんなことはない、とわたしが何度言っても納得はしてくれない。

 どうやら、ペイントソフトでその画像いじっていて、「上書きする」を常に選んでいたものだから、なにかミスで初期画面を呼び出して、それを同じファイル名で「上書き」して「真っ白」になってしまったのを――

「おはようフェルプス君。(中略)なおこのファイルは、著作権上、自動的に消滅する」

 だと思いこんでしまったらしい。

 こんな微笑ましい迷言をのたまう父で、そのたびにわたしは呼び出されてああだこうだと教えたり、直したり、ファイルを探したりしているのだが、こういうことができるうちが幸せなのだなぁ、と思って、怒ることもなく、丁寧に優しく接しているつもりである。

 来年1月14日には、Windows7のサポートが終わる。正月休みに、父のマシンにSSDを入れ、Windows10をインスコする約束をしている。父はSSDのなんたるかを理解していないが「恭介がパソコンを速くしてくれるらしい」とわくわくしているようだ。いや、父よ、CPUは変わらないから、レンダリング時間は同じだよ……。

 願わくば神さま、この(面倒ながら)幸せな時間を、少しでも長く感じさせてください、と祈りながら――。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年10月16日

【日記】台風19号の被害に遭われた方にお見舞い申しあげます

 台風15号が、わたしが住む千葉県を中心に猛威をふるって、まだ一カ月も経っていないというのに、今度はこちら側が皆さまの心配をする事態になるとは思わなかった。

 10月12日に日本を通り過ぎていった台風19号の被害に遭われた読者の方がいらっしゃいましたら、深くご同情申しあげます。
 なによりお体とご家族のご無事と、これからのトラブルが少ないことを神さまにお祈りすることしかできないわたしですが、もし15号のときにお見舞いをくださった方の中に被害に遭われた方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。せめて個別にお返事をさしあげたい次第です。
 それ以外にも「おまえの駄文の愛読者だけど被害にあったよ(怒)」という方がいらっしゃいましたら、ぜひフォームメールから。

 わたし自身の被害としては、今回の台風は根城である千葉市にあまり爪痕を残すことはなく、停電も一回、それも短時間で復旧したので、ちょっと拍子抜け、という感じであった。もちろん台風がくる前に、今回は抜かりなく準備をしておいた成果が出たからこそではあるが。
 ただ、ケーブルテレビのジェイコムが、台風の情報が一番ほしい時間帯に放送停止するという事態に陥り、これはけっこう不安であった。
 日頃、テレビはもう見ない、とか言っていても、やはり災害時にはNHKが頼りになる。ま、受信料払っていわけだから、こういうときにこそNHKにはがんばってもらわなければ。

 台風15号は千葉県南部を中心に、猛烈な風を原因とする被害が多かったわけだが、今回の19号は風よりも雨、それも堤防が決壊したりあふれたりの水害が多かったようだ。

 わたしがまだ小学生低学年だった頃、こういう水害は決して少なくなかった。テレビで流れる、水害に遭い、街がプールのようになっている光景を、子どものわたしは、不謹慎ながら少しわくわくしてそれを眺めていたものだった。
 そして、一緒にテレビを見ていた母に言ったのだった。

 わたし「もしこの町がこんなになったら、ぼく、水着に着替えて泳ぎたいな」
 母「やめなさい!」
 わたし「え、なんで?」
 母「こういう水はね、雨水だけじゃなくて、下水もまざってるの。とても汚いの。病気になっちゃうよ」

 はえ〜そうなんだ(粉みかん)。
 その会話で、水害都市で泳ぎたいという衝動ルーチンがあったわたしのファームウェアに、災害で街に満ちた水は汚いので泳げない。というバグフィクスアップデートがあったのである。

 今回、汚水が満ちた街で浮輪を使って泳ぐという蛮勇をふるっていた方がいて、Twitterなどでプチ炎上したようだが、わたし的には、わたしの小学生低学年時代の夢をかなえてくれたヒーローなのであるw。

 ま、その発想自体が、小学校低学年並だという証左でもあるよね。
 でも、でも、でも――ほんとはみんな、小さい頃、やりたかったんじゃないの(笑)。

 冗談はともかく、今回、東日本を襲った台風19号のの爪痕が、少しでも早く癒えることを祈るばかりである。

 台風の思い出を回想録に記そうと思ったが、正直、人生半分終わっている歳だというのに、今回の15号、19号以上に(身の回りの環境で)猛威をふるった台風を経験したことがないことに気づいた。
 もう秋のこの季節に、一カ月の間に連続二発というのも初めての体験である。

 地震も怖いが台風も怖い。願わくば、皆さまがこれからの人生で、これ以上の大きな台風にみまわれませんようにと祈り、筆を置く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年10月12日

【日記】ネットの「被害者叩き」

 パソコン通信の頃にはあまりみかけなかったのだが、インターネットの時代になって、ネットに不思議な力学が見られるようになったような気がする。

 それが、%title%の「被害者叩き」。
 たとえば、歩行者が青信号の横断歩道を渡っていて、クルマにはねられたというような、明らかに歩行者に非がないような事件であっても、一定数「周りに気をつけていない歩行者にも責任がある」、「どうせゆっくり歩いていたんだろう」というような意見が出てくるのである。

 これが上記のような「あからさまな」事件でなければ、「被害者叩き」は妄想の翼を広げてエスカレートすることになる。

 深夜に女性が被害にあうような通り魔事件があったとすれば、「そんな時間に歩いている被害者が悪い」、「どうせ誘うような服装だったのだろう」、「被害者の方にも隙があった」、「実はなにか、加害者と関係があったのではないか?」、「恋愛関係のもつれじゃないの?」と、報道からはまったくわからない事実までモヤモヤと勝手に頭の中で捏造し、「被害者叩き」をしてしまう人々がいるのである。

 彼らはどういう人々なのだろうか。悪意の固まりなのだろうか。弱者をさらに叩いて楽しむサディストなのだろうか。

 わたしはそう考えない。むしろ、まったく逆の、本当は善人で、真実の正義を信じる、ごくふつうの、善良かつ優しい一般市民であると思うのである。

「公正世界仮説」あるいは「公正世界信念」と呼ばれる概念がある。これは、我々の住む世界は、基本的に正しく正義が行われるようにできており、正しい行いをすればそれは報われ善い果報として実を結び、悪い行いをすれば、かならず因果が巡ってひどい仕打ちを受ける、という誤った#F知バイアスのことである。
 要するに、この世界は「水戸黄門」や「遠山の金さん」のような、見えない勧善懲悪のシステムによって動いていて、正義は必ずことをなし、悪が滅びることは必須であるという固定概念のことだ。

 これは古代の書物である聖書の中にも、同じ誤謬として残されている

煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。
神に従う人は誇らかに喜び祝い 御前に喜び祝って楽しむ。
(詩編68:3-4)


 もちろん、そして、残念なことだが、世界はこの聖書記者が書いたような、正義のシステムで動いてはいないのである。
 聖書というのは奥の深い書物集であるので、それについても触れられている。

何事も同じで 同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも 清い人にも不浄な人にも いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり 誓いを立てる人に起こることが 誓いを恐れる人にも起こる。
(コヘレトの言葉 9:2)


 いわゆる「敬虔な信者」ほど、この「コヘレトの言葉」を忌避する傾向があるのはおもしろい(というか、当然ではある)。
 宗教指導者にとって、「公正世界仮説」ほど、護教に役立つ誤った#F知バイアスはない。信じる者は救われる≠ナある。これは明らかな誤りである。

 わたしは敬虔なカトリック信者とよく言われるが、上記の言葉は、正しくは信じる者は救われている≠ネのである。このニュアンスの違いを明確に教えている宗教は本物である。曖昧にしてごまかす宗教、あるいは宗教指導者はニセモノだ。
 イエスもたびたび、似たようなことを口にしている。

イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
(マタイによる福音書 9:22)


 信じる者に「いいこと」が起きるのではない。信じることそれ自体がすでに「いいこと」なのだ。

 話を、ネットの「被害者叩き」に戻すと、被害者を叩く人々の多くに悪意はなく、むしろ、「この世界は正義で成り立っていてほしい」と思っている善意の人々なのである。だから、「なんの非もない無辜の被害者」というものが存在しては困るのだ。それで、被害者のあら探しをする。小さな傷があれば、針小棒大にそれを拡大解釈して、被害者にも落ち度があったのだとホッとする。そうしないと、この世界が正義で動いているという信念にヒビがはいってしまうからである。

 しかし、繰り返すが、残念なことに、この世界は公正ではない。非常に悲しく、腹立たしいことだが、必ずしも正義で動いてはいない。そうであってほしいものだが、正しい者が莫迦を見て、狡いものが益を得ることが珍しくない社会なのである。

 被害者叩きをする人に「そういう社会なんだからオトナになれ!」と言いたいわけではない。ただ、被害者叩きをする前に、ひとつ、深呼吸をして、「シンプルに一番悪いのは誰か・何か」を考えてほしい、そう思う。

     *     *

 この記事は、ポメラの奥、平成時代にほぼ完成稿として残していたものに手を入れたもの。当時は、書いてみたものの、あまり気にいっていなかったのだろう。
 今回、掘り返して読み直してみると、まあ文意は伝わるかな、とアップしてみることにした。

 令和に入ってから、悲惨な事件、事故が続き、ネットの空気がちょっと変わったかな、と感じることがある。「被害者叩き」も、あまりに悲惨な事件、事故だとやりにくいようだ。

 実際がそうでないからこそ、世界を公正なものにする努力を惜しんではならない。
 ある悲惨な事故における被害者家族の署名運動の結果などを見てもそう思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年10月09日

【日記】腎臓バンク

 細君のおともで、献血センターに来てこれを書いている。昔はわたしも、スケジュールを組んで献血可能回数の限界ギリギリまで献血をした「献血マニア」だったのだが、病気をして、献血ご遠慮のクスリを毎日飲むようになってしまったため、ここにくるのは、細君が献血をするときのおともばかりになってしまった。

 本当は早く病気を寛解させてクスリをやめ、また献血ができればと願っているのだが、こればかりはなかなか思うようにならない。
 献血センターでは、おともでついてくる人を邪険にしたりはせず、暖かく「お待ちくださいね」と言ってくれるが(なにしろ、献血一回であちらは数万円? のもうけになるとかの話。キイハナ)、やはり肩身は狭いので、隅っこの方でチビチビと無料コーラを嘗めながら、こうやって書き物をしている。

 そんなこんなでツラツラと過去を振り返っていたら、自分は高校生の頃、腎臓バンクに登録していたことを思い出した。
 今でこそ、免許証の裏に「臓器提供の意志」を記入する欄がある時代だが、当時は今のように医療全体の移植システムが統一されておらず、腎臓バンク、角膜バンクのように、組織がバラバラになっていた。
 腎臓バンクの仕組みも簡単で、特に医療機関で適合型などを調べることもなく、ただ、「死後、腎臓を提供する意志がある」というカードを発行するだけだった。

 わたしは、別に自分の死後、カラダがどうされても構わないと思っていたので、少しでも人の役に立てるならと、この腎臓バンクに登録し、カードをいただいたのである。
 このカードは硬質カードで、安っぽいものではなく、まだなにもしていないのに、若いわたしはなんとなく、人の役に立てたような気がしてうれしかったものだ。

 さて、細君とおつきあいを始め、結婚を意識しはじめた頃、「自分はこんなものに入ってるんだよ」と、腎臓バンクのカードを見せたところ、彼女が、「えっ」という表情を見せたのである。
 聞いてみると、わたしが死んだあとに、カラダを解剖されて臓器を見知らぬ誰かに提供される、ということに、説明できない不安を感じる、ということらしい。
 そんなことに頓着しないわたしはびっくりしてしまった。当時はカトリックではなかったが、死後の世界があるとしても、それに死んだ肉体が関係してくるとは思っていなかったし、なによりこれは善行であるという確信があったから、褒められこそすれ、否定的な思いを抱かれると思っていなかったからである。

 ただ、このことでなにか言い争ったり、姿勢の違いでケンカになったという覚えはない。
 わたしは、愛する細君が「いやだなぁ」と思うのなら、と、素直にカードにハサミを入れて、それを捨てたのであった(登録、と言っても、こうすれば無効になる程度のシステムであった)。

 まだ、脳死判定や、それに付随しての臓器移植の問題がマスコミの俎上に乗る前の出来事であった。
 それが、上にも書いたが、今や免許証の裏に臓器移植の意志を記せる時代になったのだから、ずいぶんとわれわれの意識も変わったのだと思う。

 わたしは、脳死は人間の死であると思っているし、それにともなって臓器移植のドナーとなることに、賛成の立場である。
 逆に細君は、今でもちょっと(かなり?)抵抗があるという考え。
 わたしは、もし自分が死んだとして、その臓器のひとつでもが、どこかの誰かの中で生きているとしたら、それは細君の生きる希望にもなると思うのだが(逆もまた同じで、細君が死んだ場合に、誰かの中で細君の臓器が生きていたら、わたしの希望になると思う)、細君はそうは感じないのだという。

 これはどこまで行っても平行線になると思う意見の相違なので、互いに相手を説得しようとはしていない。わたしも細君の意見を無視してまで自分の臓器移植をと願っているわけではないので、現状、免許証の裏に、なにもチェックを入れていない状態だ。

 カトリック的にはどうなのだろうな、と、ザッと調べたことがあるが、脳死による臓器移植を、良い、と断言している文献も、悪い、と一刀両断している教義もなかった。
 信仰宣言の中には「からだの復活を信じます」という一文があり、日本の火葬文化も特別に赦されているものだと聞いたことがあるのだが、そのあたりで、あまり触れられたくはない事象なのかもしれない。

 ちなみに、献血、輸血に関して、カトリックはなんら禁忌はない。
 昔はJW(エホバの証人)をからかって「エホバの商人」などというショートショートを書いていたわたしだが(最後に「ただし、一滴の血も輸血してはならぬ」というオチw)、今は、JWはJWでそれなりに見識があると思っているので、いちがいに揶揄したりはしない。
 わたしもそれだけ、オトナになったのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記