2018年06月09日

【日記】「メリタいいよね」

「いい……」


(秋本治「こちら葛飾区亀有公園前派出所」166巻より引用)

 最近、夕食後のコーヒー淹れは、面倒なサイフォンをサボって、ドリッパーで淹れてしまっている。
 以前にも触れたが、コーヒーの味は――

「上手い人がドリッパーで」>「サイフォン」>「下手な人がドリッパーで」

 淹れた順に美味い。ま、何度も書いてますが、わたしは味音痴なので、話半分に聞いていただきたい。

 ところで、ドリッパーには大きく分けて、底に三つ穴があいた「カリタ」のものと、ひとつだけ穴があいた「メリタ」のものがある。わたしが今まで使っていたのは、三つ穴の「カリタ」のものであった。
 で、わたしはドリップが上手くないので、どうにも酸っぱかったり、雑味が多かったりして、あぁ、不器用な自分にドリップは向かないな、と、サイフォンを使っていたのである。

 サイフォンはコーヒー粉の量と浸漬時間、ヘラで回すテクニックさえ守れば、それほど味にブレはない。特別に美味いコーヒーが淹れられるわけではないが、酸っぱくて飲めないような代物になることもない。
 喫茶店で「当店ではサイフォンでの抽出にこだわっています」という店があるが、正直、舌の肥えた今の若い人には、「サイフォンで淹れた」というのは味的≠ノはアドバンテージにはならないのではないか、そう思う。

 逆にサイフォンには、アルバイトでもちょっと修行すれば、そこそこの味で淹れられるというメリットがあるわけだ。わたしのように不器用でも、ね(いやもちろん、一流のサイフォニストが最高の技術で淹れたコーヒーは本当に美味いと思いますよ、と、ちょっとフォローしておく)。

 しかし、ちょっと調べてみると、ひとつ穴のメリタは、そういった不器用な人でも、わりと美味く淹れられるドリッパーらしいのだ。

 というわけで、ひとつ穴のメリタを購入してみた。時代はプラスチック(メラミン?)素材のものが主流のようだが、ここはわたしのこだわりで、陶器のものを選択。


(左がカリタ、右がメリタ、一見、同じように見えますが……)


(上から見たところ)

 うーん、メリタ、ひとつ穴が頼もしい。
 さっそく、このメリタで淹れてみる。
 最初にお湯を注いで蒸らす行程はカリタと同じ。挽いた豆がふっくらと炭酸ガスを出して膨らんだところで、カリタならばお湯を掛け回すのだが、メリタは構わずドバーッっとお湯を注いでしまっていい。

 三つ穴のカリタは、さらに二湯目、三湯目も気を遣って掛け回さねばならない。これにも流儀があって、フィルターに直接掛けないとかいろいろあるらしい。

 が、メリタはいい。お湯が減ってきたら、さらにドバーッ!



 ひとつ穴の底からは、抽出されたコーヒー液がポタポタと垂れてくる。だいたい出が悪くなって、コーヒーサーバーが定量になったら潮時である。
 味は驚いたことに、正直、「メリタで淹れたコーヒー」≧「サイフォン」くらいになっていると感じる。

 正確に言えば、ひとつ穴のメリタは、三つ穴で「濾過式」のカリタと違って、サイフォンと同じ「浸漬式」に入るのだと思う。
 カリタのようにマニアックなテクニックも不要。サイフォンより面倒くさくない。そして味も悪くない。

 というわけで、三つ穴カリタで「あまり美味いコーヒーが淹れられないなぁ」とお嘆きのあなた、一度、ひとつ穴の「メリタ」を使ってみられたらいかがでしょう?
「へぇー、こんなに手軽なのに、けっこう美味いじゃない」とびっくりすること間違いなし、なのである。

 あ、シングルオリジンのスペシャリティコーヒーは、やはりコーヒープレスが一番だと思う。さすがにそんな豆を、メリタやサイフォンで淹れる気はしない。
 もちろん、不器用でなければ、三つ穴カリタでドリップするんだけれども、ね。
 コーヒー教室にでも通ってみようかな。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年06月08日

【日記】聖書とネットの微妙な距離

 どうも。「ラブライブ!」を「ヘブライ部!」と空目した結城です。なんでやねん。

 唐突だが、「カトリック教会のカテキズム」、第1部第3項、「聖書」の段には、次のように書かれている。

105 神が、聖書の作者です。「聖書に含まれ、かつ、示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものです」


 聖書の本来の著者は神である――この明快な真実が、この現代においては軽視されているきらいがあるのかもしれない。

 知っている人は知っているが、旧約聖書はラブライ……ヘブライ語で、新約聖書はコイネーと呼ばれる当時の一般的なギリシャ語で書かれている。しかし、これを各国語に翻訳した時点で、翻訳した人や、法人に「著作権」が生じるのである。

 実は、今の日本の主流の聖書である「新共同訳聖書」をウェブサイトに引用する場合、日本聖書協会は「引用は250節以内(下位ディレクトリ全体を含む)」という制限を課している。
 下位ディレクトリ全体を含む、というのは、「そのウェブサイト全体で」と同じ意味のようなものだ。
 例えばこの「いまさら日記」でも、新共同訳聖書を何カ所も引用しているが、実際、合計何節引用しているかは把握していない。将来的に日本聖書協会からクレームがきたら、過去に書いた日記の書き直しをしていかなければいけないかもしれない。

 1954、1955年に発行された口語訳聖書は、公表から50年を経過しているため、日本の国内法により、2005年に日本聖書協会の著作権が切れている。ウェブサイトへの掲載にも制限がないため、過去の日記は口語訳聖書へと書き換えすれば問題はない。

 もちろん、250節うんぬんは、日本聖書協会が呈している「マナー」である。日本の現行法に照らしあわせるなら、「引用」ならば何節だろうが、まったく問題はない。

 このあたりは、日本聖書協会も、ある意味(宣教のため)見て見ぬふり、というところもあるのではないだろうか。

 プロテスタント福音派が用いている「新改訳聖書」になると、もっと条件が厳しく、ウェブサイトに限らず全メディアで「引用聖句は250節以内(表示、非表示に限らず、ネット上、ソフト上などに掲載するテキストデータすべてを含む)」となっている。
 それを超える引用がある場合、出版元に使用料を払わなくてはいけないとのこと。引用で使用料を取るというのは、日本の現行法において「ありえない話」だが、まあ、福音派だからね。
 しかしま、他教派ながら、窮屈すぎやしないかな、と、心配になったりしないでもない。

 話を戻して、新共同訳聖書を口語訳聖書に書き換えるという話だが、これもまた問題があって、カトリックの言葉にそぐわない箇所もあるのである。例えば、「エフェソの信徒への手紙4章5節」。口語訳では――

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。(エペソ人への手紙 4:5)


 となっている。新共同訳では、「洗礼」に「バプテスマ」とフリガナをふっているが、口語訳ではカタカナの「バプテスマ」のままなのだ。
 カトリックでは「洗礼」とは言っても「バプテスマ」という言葉を(英語ミサでもなければ)使わないので、この節を引用するとしたら口語訳は使えない。口語訳聖書には、こういった教派の違いを吸収できない箇所がいくつかある。

 ではこういうときどうするか――わたしが以前、Web制作で関わったカトリック教会のサイトでは、「フランシスコ会訳聖書」を引用することでしのいだ。上の箇所は、フランシスコ会訳聖書だと――

主はひとり、信仰は一つ、洗礼は一つです。


 となるので、違和感はない。

 フランシスコ会訳聖書は、1984年発行改定版では主イエスを「イエズス」と記してあるなど、他の聖書訳との違いがあらわになることもあったが、2011年に発行された「原文校訂による口語訳」では「イエス」に統一され、この点でも引用に使いやすくなった。
 フランシスコ会は、現在、引用にあたって特別なルールを課していないため、日本の国内法に沿っていれば問題が発生しないのも良い点である。
 願わくばこの先、フランシスコ会訳聖書が、電子書籍化などされることがあっても、上記のような妙なルールを課さないことを、聖書の本来の著作者たる神様にお祈りするところだ。

 以上、たかが「聖書の引用」でも、実はけっこう気を遣うのだということがおわかりいただければ幸い。

 今年(2018年)11月末に出版される、日本聖書協会の新訳「聖書協会共同訳聖書」も、すぐデジタル化したものをだす予定、とのこと。
 こういうネット時代である。願わくば、あまりきつい「マナー」を課すようなことがないように、と、こちらも聖書の原作者である神様にお祈りして、筆を置くことにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年06月07日

【回想録】「べっかん」の思い出

 わたしの行っていた小学校には、子どもたちの間で「べっかん」とよばれる、特殊学級――Just Right!6からは「特別支援学級」と訂正せよ、とアカが入るが、わたしはこの呼び方で育ったので特に訂正はしない――があった。「別館」にあったから、通称「べっかん」。
 要するに、ダウン症などの障害児が通う学級であった。

「べっかん」の子たちと、わたしたち普通学級の子たちは、通常、まったく交流はなかった。唯一、接触があったのは、運動会のときぐらい。
 子どもの感想だから許してほしいが、正直、奇声を発して人を振り回してダンスする「べっかん」の子たちは苦手であった。

 あとは、学校の行き来で一緒になることもあった。
「べっかん」の子たちは妙に人懐こく、というよりは、他人のパーソナルエリアを侵すことを躊躇せず、人のカバンを勝手に開けて中身を持っていこうとしたりするのに閉口したものだった。

 不思議だったのは、こちらがどんどん大きくなって、卒業していくのに、「べっかん」の子たちは、いつまでもずっと同じ子がいるのである。
 のちに、ダウン症の子は(これも子どもの感想だから許してほしい)、表情がみな似通っているので区別がつかず、卒業した子も新入生もみな同じ顔に見えていたのだということを知る。

「べっかん」の子について、友人たちと「なんか自分たちと違うよね」と話していたら、それを聞いていた先生がカンカンになって怒り、「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらったことがあった。
 小学二年生に「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」とビンタをくらわす教師というのも、脳に障害がある教師だと思うが、当時はそういう教師がいい教師≠ニ言われたのも確かな時代だった。
 今のわたしは、おそらく、そのときの教師より十何歳も上の年齢になったが、今でもその教師が言いたかった「本物のべっかん」がなんなのか、よくわからない。

 話はコロッと変わるが、出生前診断で胎児がダウン症であることがわかるようになりつつある現在、人工妊娠中絶で堕胎する、ということが「わりと当然」のように言われているが、これはおかしな文言である。
 というのも、人工妊娠中絶が許される条項の中に「胎児がダウン症であること」というのは含まれていないからである。
 胎児がダウン症で人工妊娠中絶が行えるのは、あくまで「経済的に問題がある場合」であり、「ダウン症イコール堕胎の許可」ではない。

 わたしはカトリックなので、基本は人工妊娠中絶に反対の立場である。それを置いても、「出生前診断で胎児がダウン症だったから人工妊娠中絶する」のは「ウチは貧乏だから」とイコールなのだと肝に銘じるべきだ。

 逆に言えば、ダウン症の子がいる家庭、ダウン症の本人に、手厚い金銭的補助をしない政府のせいとも言える。
 簡単にまとめられる問題ではないが、少なくとも、胎児がダウン症で人工妊娠中絶した夫婦は、自分たちは貧乏人を見下せるほど裕福ではないのだと自戒するべし。「ナマポ」なんて絶対言うんじゃないよ。あなたたちも似たようなものなのだから。

 そんなわけで、わたしは子どもの頃、ダウン症の子と深い交流をしたことは一度もない。
 あの頃「べっかん」の子と、運動会で、通学の行き帰りで、もっと交流を深めることができたらよかったのかもしれない。

 今も、わたしの卒業校に「べっかん」があるのかどうかは知らない。もしかしたら、普通学級に統合されているのかもしれない。ちょっとググってみれば、検索欄に「障害児 お世話係 迷惑」などというサジェストが出てくる時代である。

 小学校二年生の?をビンタして「本物のべっかんってのはそんなもんじゃない」と叫んだO先生。本物のべっかんて、なんですか?
 今でもそう問いたい気分である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年06月06日

【日記】教会の席

 プロテスタントの教会は知らないが、カトリック教会は少なくとも、ほぼ基本的に「自由席」である。

 ほぼ基本的に、と書いたのは、そのときどきにより、初聖体があれば「子ども席」、洗礼者がいれば「洗礼者とその代父母席」、巡礼の一団がいれば「巡礼者席」などが作られることがあるから。
 それと、だいたい「聖歌隊ゾーン」「足の不自由な方の優先席」など、毎回同じ領域が暗黙の了解でつくられている。

 そのあたりは雰囲気で察するしかないが、まあ、左右両方とも、真ん中に座っていれば「そこ、わたしの席」と文句を言われることはないだろう。

 その昔、説教台の前は「アーメンコーナー」、お聖堂の右側は聖マリア像が置かれ女性が座り「マリア座」、左側は聖ヨセフ像が置かれ男性が座り「ヨセフ座」と呼ばれた、となにかで読んだことがある。しかし教会歴何十年という妖怪のような(失礼!)古参信者に聞いても「初耳だね」と言うので、これは都市伝説かもしれない。

 さて、基本的に自由席とは書いたが、そこはそれ、毎週同じ教会に行くものだから、座る位置もだいたい決まってくる。いつも座っている場所に座れないと、ちょっと勝手が違って祈りにくかったりする。
 これはわたしのようなロクでもない信者ばかりではなく、年季のはいったシスターでもそうだと聞いたことがあるので、けっこう、お聖堂の席と祈りとはつながっているものなのかもしれない。

 わたしは以前、教会委員で広報をやっていた関係上、ミサの最中にカメラを持って移動することが多かったので、一番後方の隅に座っていた。
 教会委員をやめてからも後方の席にいることが多かったのだが、ある日、精神障害を持った方がミサの最中、わたしの背後に立ってなにか呪いの言葉をずっと吐き続けていたので(!)、次回からは聖堂のど真ん中に座るようにした。
 不思議とそういう方は、ターゲットを決めているわけではないようで、わざわざ聖堂真ん中まで行ってブツブツ言ったりはしない。ターゲットは変わったようで、そのうち、教会に来なくなった。
 その事件以来、わたしと細君は、いつもそこの中央の席に座っている。

 これが主日(日曜日)と週日(平日)のミサだと、また座る席が違うのが面白いところだ。
 週日のミサは出席者が少ない。わたしの所属教会はそこそこ聖堂が広いので、真ん中に集まればいいのに、これが万遍にポツポツと左右、真ん中と、好きなところに信徒が座るのである。わたしも週日ミサだと違うところに座ってしまう。あの心理は説明できない。
 一度、ゲストでいらした神父さまが「せっかくだからみなさん、祭壇の前に集まりましょうよ」と誘ったのだが、信徒全員、顔を見合わせて、やっぱり動かない。神父さまは苦笑して、ごミサを始めたのであった。

 こういう信徒同士の阿吽の呼吸≠フようなものがやはり存在するわけで、初めてカトリック教会へ訪れる、という方は通ぶらないで、受付で「初めてなんです」と正直に言ってしまうのが一番。わたしにもそんなときがあった。
 そのときは「では慣れた信者をガイドにつけましょう」となったのだが、今やその信者が教会通いをやめてしまい、わたしら夫婦が毎週通っているという不思議。
 最初に与ったごミサは、立ったり座ったりするだけなのに緊張の連続だったことを思い出す。

 そんなわけで、いつかあなたにも「ほぼ基本的に自由席だが実はちょっとお気に入り」な教会席ができますように。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年06月05日

【日記】ルービックキューブとユニバーサルデザイン

 久しぶりにハマっている「ルービックキューブ」こと「六面立体パズル」だが、ようやく、解法の紙を見ず、脳力と記憶で六面をそろえられるようになった。

 今のところ、「どん兵衛」はできないが「カップヌードル」はできる時間帯(要するに3分以上5分以内)がアベレージといった感じである。
 3分切れれば御の字。今のところの最高記録は1分48秒だが、こういうのは運もある(途中のステップがたまたま完成形だったので抜かすことができたとか)ので、自慢できる数字ではない。

 というか、スピードキューブをやっている方からすれば、上記の数字は「は!?(笑)」なものだろう。


(鳥山明「ドラゴンボール(完全版)」14巻より引用)

 こんな感じではなかろうか。
 まあいまだ、LBL法の基本の基本を体に覚えこませている段階なので、甘めに見てくださいな。
 ネットなどで調べてみると、この基本だけでもっと秒数は縮められるらしい。きっと、キューブを持つフォームとか、回転の仕方も、シロウト丸出しに違いない。

 ま、こういうのは才能もあるし、ね。
 でも、ヘタの横好きでもやっていて楽しい≠ニいうのは、大切だと思いません? 今のところ、キューブをクルクル回して、なにも見ずに六面完成できるのがとてもうれしく、競技用のものや、キーホルダータイプまで買ってしまった。

 さて――話はちょっと飛ぶが、わたしは間接照明が好きである。あまり部屋が明るいのは好かない。そして、色温度は低い暖色系がいい。
 そんな中で、ルービックキューブを回していると、あぁ、これはユニバーサルデザインではないなぁ、と思ったりする。

 ユニバーサルデザインというのは、簡単に言ってしまえば「できるだけ多くの人が利用可能であるデザイン」である。
「ルービックキューブはユニバーサルデザインではない」という議論は、インターネット初期にもあったような気がするのだが、改めて自分がクルクル回してみると、あぁなるほどな、と納得した次第。

 なにしろ、白と黄色とオレンジ、青と緑がわかりにくい。「アレッ、黄色を入れたはずなのに白が入ってる」ということが何度もある。
 色温度の高い明るいところで遊んでいればわからないが、色温度の低い間接照明のところだと、この「色の差がわからない」ことが顕著だ。ひょっとしたら、わたしには少し色弱があるのかもしれない(今まで、そういった検査で引っかかったことはないのだが)。

 改めて、そのことに気づかされたのは、実は最初からではないのである。
 ルービックキューブの六面組み立ては、最初に「完全一面」という、同じ一色で一面をつくる。これは「LBL法」「ツクダ式」でも同じだ(LBLのF2L法をマスターすれば話は別らしいが)。

 最初、わたしは、キューブの解説書にあったとおり、それを「青色」で行っていたのである。このときは、それほど「やりにくさ」を感じていなかった。
 その後、LBL法の教本を買ってみたところ、これの最初の「完全一面」が「黄色」でつくることになっていた。それに倣って、最初の一面を「黄色」でつくることにしたら、いきなり「やりにくっ!」と感じ、しかも六面完成までのミスも多くなり、タイムも伸びてしまったのだ。

 ルービックキューブを体験したことがある方ならおわかりだと思うが、最初の一面はパターンではなく、頭で考えてつくる。そして最初の方はとりうる手も多い。
 最初に「青色」で一面をつくってから、残りをパターンで追い込んでいくのに比べ、最初に「黄色」で一面をつくるやり方は、まず、最初に「黄色」の一面をつくるのに時間がかかってしまっているのだ! と気づいた、とこういうわけ。

「だからルービックキューブはユニバーサルデザインではないダメなパズルなんだ」と、関係者や、スピードキュービストたちをクサす気はさらさらない。こんなに楽しいパズルはそうそうない。今でも楽しく、クルクル回して喜んでいる。調べてみると、今は視覚障害者用に突起などをつけたルービックキューブもできているらしい。
 本当に良いことだと思う。

「ユニバーサルデザイン」というものは、本気で取り組もうとすると、かなり難しい。わたしも会社でWeb制作ディレクションをする身として、美しさを取るか、ユニバーサルデザインを優先するかで、けっこう悩むことがある。結局は最大公約数的な選択をしてしまうことも多い。
 同じ人でも、環境によっては(わたしのルービックキューブ体験のように)大丈夫だったり、悪影響がでたりする。
 大切なのは、なにより、人間の多様性を容認することなのだ、そう思う。

 まああれだ、LBL法を習得したら、まず最初の一面は、青色でつくることにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記