2018年04月05日

【日記】洗濯機給水口の水漏れ

 洗濯機が壊れたので新調したのだが、やってきた業者が、今までの給水栓にジョイントプラグで接続し、テストも完了して数日後、細君が「水漏れするぅ」と報告してきた。



 このプラスチック部品と銀色の境い目から、水がポタポタと垂れてくる。水道の蛇口には、前回、洗濯機を交換したときにつけたアダプターがそのままついており、それを今回、流用したのである(というか、業界標準なのかな? これは)。



 アダプターを外してみると、このタイプの蛇口。調べてみると、本来、このデコボコのついた蛇口にアダプターをつけることは推奨されていないらしい。前の業者が無理やりつけたのだろうか。
 あまりにアダプターを締め付けたために、蛇口そのものに小さな穴が開いてしまっている。そこから水漏れしているのかもしれない。

 だからわたしはソフト屋なんだって。ハード屋じゃないんだって。しかも水周りの工事なんて絶対したくないんだって! と主張したが、他にやる人がいないので、わたしが一応、工事にチャレンジしてみる。



 レンチで蛇口の先端部分だけを取ろうと格闘していたら、蛇口そのものが取れてしまった。こんなこともあろうかと、止水栓を閉めていたので助かった。

 さて、ホームセンターへ行って迷ってしまった。





 蛇口の部分につけて、ワンタッチでアタッチメントをつけられるパーツがいくつもある。さて、どれを買ったらいいものやら。
 プラスチック製と金属製の用途の違いもよくわからない。メーカーは同じだ。値段は長く使うものなので特に考慮はしない。問題はまず、ウチの蛇口につけられるか、だ。

 その場でスマホでいろいろ検索し、迷った末に、プラスチック製の方でいいらしい(しかも水漏れストッパーがついている)ということで、そちらを購入。カクダイというメーカーの「洗濯機用 水漏れ防止ストッパー付きニップル 2サイズ兼用 取付簡単 樹脂製 772-510」という製品である。



 わが家に帰って、なれないレンチを使って、なんとか配管につないでみた。止水栓を開けて、蛇口を回してみる、と――盛大に水が漏れるorz
 こりゃやっちまったか、選択を誤ったか(洗濯だけに)と思ったが、真ん中のプラスチックのプラグを硬く締めると水漏れは止まった。どうやらこのパーツは、この部品のところで二分でき、二種類のアダプターをつけられる仕組みだったようだ。

 早速、細君に自慢する。

 わたし「へへーん。直したぞ」
 細君「さすがー! もうこういうの任して大丈夫だね」

 いーやーだー! だから俺はソフト屋なんだって!!

 こういうのを「クラシアン」とかに頼むと、工事費込みで一万何がし円くらいは取られるらしい。自分で直せばパーツ代だけ、そんなところに頼むのは莫迦らしい、あれはボッタクリだ! という人もいるが、わたしはそうは思わない。本来、技術料というものは高くて当たり前≠フものである。

 わたし個人も、朝飯前≠フ仕事をすると、クライアントに適正な価格よりかなり割り引いた請求をしてしまい、経理にいい顔をされないものだから、これは肝に銘じておきたい。

 今回だって、成功したからいいようなものの、うまくいかなかったら、さらに試行錯誤を繰り返して、配管をダメにしていたかもしれないのだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年04月04日

【回想録】余は如何にしてカトリック信徒を選びし乎

 タイトルでは「選びし乎」と大仰に書いているが、そんなものは人間の目からみた小さなことであって、実際には、神さまがわたしを「おまえはカトリックね」と配置したのである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネによる福音書 15:16)


 なのである。
 それでもわたしは成人洗礼なので、選ぼう≠ニ思えばプロテスタント教会を選ぶこともできた。
 歩いて数分のところに、由緒正しい「日本キリスト教団」の教会があったし、親戚にもプロテスタントの方がいた。
 そんなわたしが、歩いて一時間かかるカトリック教会の方を選んだ≠フには、わりと理論的な判断があった。

 ズブの素人がキリスト教に触れよう、というとき、まず始めてみるのは、「聖書を読むこと」ではないだろうか。
 わたしが若い頃、書店で入手できた聖書は「口語訳」だけであった。そこで検索してみると、どうやら現代の最新の聖書では、大まかに言って「新共同訳」と「新改訳」のふたつの訳が出版されているようなのである。
 これには少々びっくりした。なにしろ、教派は違っても「聖書」は「聖書」。同じだと思っていたのである。カトリックとプロテスタントでも、同じ聖書を使っていると思いこんでいた(一部新興宗教系キリスト教≠ェ独自の訳を使っていることは知っていたが)。

 新共同訳と新改訳、どちらを読もうか瞬間迷ったが、結論はすぐに出た。ここはやはり、伝統ある口語訳を訳出していた日本聖書協会発行の「新共同訳」だろう。しかも「新共同訳」は、カトリック、プロテスタントの共労で翻訳されたとのこと。カトリックにしかない「アポクリファ(旧約聖書続編)」つきのものもある。情報源は多い方が良い。

 あと、深くは触れないが「新改訳」を使っている教派に評判の良くない教会があることを知ったこともある。念のため言っておくと「新改訳」自体はいい訳だと思っている。

 さて、プロテスタントの聖書66書およびカトリックのアポクリファを読み終わっても、わたしはクリスチャンではなかった。ただの「聖書を一度読んだ人」である。
 やはり教会へ一度足を運んで、実際のところを体験してみないとわからないなぁ、という思いがあった。

 そこで、カトリックとプロテスタントがどう分かれ、どちらがどういう主張をしているか、ということを調べてみた。
 カトリックは「聖書と聖伝」をふたつの柱としている。「聖伝」とはつまり教会のシステムそのものだと言ってもいい。
 対してルターの提唱から分派したプロテスタントは「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」を旨としていた。

 最初、プロテスタントの主張は「こりゃあよい」と感じたものである。「聖書のみ――聖書だけ読んでいれば良い」。「信仰のみ――特に慈善などする必要はない」。「万人祭司――みなが祭司なのだから教会の存在すら必要としない」。
 これでクリスチャンを名乗れるのだから、プロテスタント万々歳である。

 日本のプロテスタント教派のひとつに「無教会」という独特なものがあるのだが、プロテスタントをつきつめていけば、結局は「無教会」にならざるを得ないのではないか。論理的なわたしはそう思った。

 ならばどうして、プロテスタント教会というものが存在するのか――それを説明してくれる書籍や牧師先生、ウェブサイトなどを探したが、わたしを納得させる答えはどこにもなかった。プロテスタントでも教会は必要。そればかりである。

 となると、正直、プロテスタントは根本的なところが論理的ではないなぁ、と思った。枝葉末節はけっこう論理的で、そういうところはわたしの性に合うのだが、やはり「教会に通わないとクリスチャンとは言えない」というのは「ルターの三原則」に合っていないと思う。

 いっそのこと「無教会派」になろうかと思ったこともあったが、「無教会派」は「無教会派」で、定期的な集まりを持っているのである。それって結局、教会と一緒じゃん、と内心思ったりもしていた。

 プロテスタントの一部が「間違っている」と拳を振り上げる、カトリックのマリア崇敬や聖人崇敬は、わたしにとってなんのハードルにもならなかった。人間が人間を尊敬するのは当たり前だと思っていたからである。むしろ、イエスと神さまだけを尊敬し、人類の歴史に善なるものを刻んできた人々を「ただの人だから」と軽視するという考えの方が高慢に思えた。

 実際に教会へ行く段になって、けっこう直前まで、プロテスタント教会へ行くか、カトリック教会へ行くかを迷っていたと記憶している。
 しかし、カトリック教会へは、行ってみないとわからないことが残されていた。「聖伝」である。その「聖伝」に触れてみたい、という思いがあり、最終的に、わたしと細君の足はカトリック教会へと向かっていた。

 そして縁あって勉強会に出るようになり、洗礼を受け、平均クリスチャン寿命≠フ三年を過ぎて、教会委員までやり、今や立派なカトリックの教会畜≠ナある。

 こういったものは、巡り合わせなのだろう。カトリック、プロテスタントと教派を分けたのは、おそらく神が、選択肢を多くしてくれたということなのだ。どちらが正しい、というものでもない。

 冒頭に「わたしがカトリック教会の方を選んだ≠フには、わりと理論的な判断があった」と書いたが、それは詭弁だ。ふりかえってみれば、そこにはやはり、なにか、運命的なものがあった、としか言いようがない。

 成人洗礼でプロテスタントの洗礼を受けた教会畜≠フ方にも、似たようなストーリーがあるのではないかな、と思う。

 讃えられるは神のわざ、なのである。

追記:タイトルはもちろん、内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎」のパロディである。なんか偉そうだな、と勘違いされる方もいらっしゃるかと一筆。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年04月03日

【日記】ゆるキン△

「ゆるキャン△」が流行っている横で、わたしが体験したのは「ゆるキン△」である。「ゆるいキン肉マンさんカッケー」じゃないよ。ヘイヨウキンキ――併用禁忌のクスリを三ヶ月もゆるゆる飲み続けていたという話。

 五十肩をやって、クスリを飲みまくって痛みに耐えている話は「【日記】五十肩の痛みがひどくて……」に書いた。このうちのひとつのクスリが、なんと持病で飲んでいるクスリと一緒に飲んではいけない、併用禁忌なものだったのである。
 具体的な薬剤名は書かないが、たしかにネットでその薬剤の添付PDFを見ると「あんたの飲んでる持病のクスリとは併用禁忌だからね!」と赤枠で書いてある。

 このふたつを同時に飲むと、五十肩のクスリのAUC(血中濃度の曲線面積)が33倍に上昇。くわえて著しい血圧低下、傾眠、めまい及び精神運動能力の低下が現れる、という。

 33倍である。シャア11人分である。遊びで飲んでんじゃないんだよぉ!(ボコォ。カミーユさんもお怒りです)

 あああ、なんかおかしいと思っていたんだよな。けれど、ちょうど同時期に持病薬の量を上げたところなので、吐き気を始めとする不調は、そちらの副作用で起こっていると思っていたのだ。
 どうにも五十肩のクスリを飲み始めてから、易労性が高くなってしまい、ちょっと起き上がるのもしんどいと感じていた。それもこれも、持病が悪化したゆえだとばかり思っていたし、主治医もそう考えていた(主治医は、わたしが五十肩で飲んでいたクスリの種類を知らない)。一時は入院を勧められたくらいである。

 持病で罹っている病院(専門医)と、五十肩で罹っている病院(総合病院)は違うのだが、どちらも門前薬局で、もちろん、お薬手帳は出していた。まず、五十肩で罹った病院のB薬局で見逃されて手渡され、持病で罹っている病院のA薬局でも三カ月間見逃されていたわけだ。

 今回、「あれっ?」と気づいたA薬局の薬剤師さんの指摘で、実は併用禁忌だということを知らされたのである。
 三カ月間見逃していたA薬局の薬剤師さんも平謝りであったが、それより問題は、最初に併用禁忌のクスリを、医師に疑義照会しないで出し続けていたB薬局である。なんだかなぁ。
 その前にも別の整形医院に五十肩で罹って、ここがあまり信用できない(お薬手帳すら使わない)ので、この総合病院に移ったという話は「【日記】やっぱり五十肩」に書いた。
 しかしこういうことがあると、本当になにを信じたらいいのやら。こちらは、薬剤師さんは勉強をして資格を取った専門家だと思って信頼しているのである。

 やはり、自分が体に取り入れる薬剤は、きちんと調べて納得の上で服薬しないといけないなぁ、と思わされた一件であった。
 昔はそういうことはできなかったが、今はネットで薬剤の効果や副作用、併用禁忌薬を調べるのも容易なのだから。

 あと強く感じたのは、こんなことがあったとはいえ、「お薬手帳」は大事、ということだ。結果的に、三カ月間は見逃されてしまったが、「お薬手帳」を薬局に出していなかったら、この併用禁忌の服薬をずーっと続けていた可能性もあったのだ。それを考えると恐ろしい。

 おそらく、普段、健康な方は「お薬手帳? そんなものどっかにいっちゃったよ」、「風邪で医者に罹る都度、新しく作ってもらってるよ」という方が多いかもしれない。しかし持病がある方は、きちんと「お薬手帳」を管理して、持ち歩いた方が絶対にいい。

 さて、ここのところの心身不調が、本当にこの併用禁忌のクスリを飲み続けていたせいか、それとも、持病が本当に悪化していたからなのかは、実はまだよくわからない。人間の体は、そうデジタルなものではないから。
 それでも、心は少し軽くなったかな? という感じである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年04月02日

【日記】妙な営業

 モノカキ商売をやっていると、妙な営業が入ることがある。

 以前、入ってきたのは「卒業校に贈呈するニュース黒板」の営業。ほら、あるでしょう(って、今もあるかはしらないが)、廊下の壁などに掛けられていて、時事ニュースが貼ってある、アレである。
 アレを、わたしの名前入りで、つまり「結城恭介寄贈」と入れて卒業校に贈りますよ、という営業であった。
 電話ではなく、文書ではなかったかな。

 これがけっこう、お値段、高かったと記憶している。5、6万円ではなかったかなぁ。
 これがもっと安かったら、ジョークグッズのひとつとしてプレゼントというのもあったのだが、さすがにこのお値段では「マジ」にならざるを得ず、特にお返事は出さなかった(つまりお断り)。

 最近、わたしの親類の子が、わたしの卒業校を受験すると聞いて、それならあの黒板、頼んどけば良かったかなぁ、などと思ったりもした。
 が、である。学校関係者に聞くと、あの「寄贈黒板」はわりと対処に困る(ところもある)らしい。きっとあのとき、大枚はたいて寄贈しても、今頃は捨てられ燃やされていたことだろうね、と、細君と笑ってしまった。

 一時は「マンション買いませんか?」「石油買いませんか?」の営業も多かった。
「そんなお金ありませんよ」と言うと「××××の本をお書きになっていらっしゃるのだから、そんなことはないでしょう」と言う。そんな個人的なこと、よく調べているなぁと感心しつつ、出版界の内情を話すと「ええっ、そんなに(印税って)少ないんですか」と逆にびっくりされた。世の中には、1,000円の本が一冊売れると、そのほとんどが著者に行くと思っている人がいるらしい。ねーよ、ねーから。そんなこと。少なくとも、旧時代の出版業界では。将来的に電子書籍では変わるかもしれないが。

 他には、これは個人名ではなく会社のほうだが、「看板つくりませんか?」というのがある。「ウチは地域密着型企業ではないので要りません」とお断りする。知っている人は知っているが、看板はけっこう税金関係が面倒くさい(減価償却などがある)のである。

 そういうのではないが、地域の要所地図に名前を載せませんか? という営業がきたことがあった。まるで載せるのが当然というような口ぶりで、費用は一万円だという。これもお断りしたが、お断りされたことにあちらが驚かれたようだった。
 そして、その地域の要所地図には弊社の名前がなぜか載っている(笑)。どうも先につくってから営業に回ってきたらしい。

 記憶が曖昧だが、大手の地図会社が、マップに御社の名前を載せても良いですか? と回ってきたことがあった。このときは「一切お金はかかりません」と最初に向こうから言ってきた。公明正大である。もちろん、喜んで了解した。

 Googleマップはそんなものは回ってこない。まあ、そういうものなのだろう。

 最近は0120からの電話は取らない、と決めているし、面白い営業そのものがなくなった。番号記録をググってみると、みな光コラボとか、押し買い業者とか、そんなものばかりである。

 あぁ、いや、営業メールは多くなった。会社のメアドあてにくるメールの多くが営業メールである。
 今は営業も脚で回るのではなく、電子メールで大量送信、の時代になってしまった、のだなぁ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年04月01日

【日記】ハッピーイースター!

 今年の「【日記】灰の水曜日」の記事で、他界された川島なおみさんが歌われていた「Ash Wednesday」という曲があることを紹介した。
 その中に「水曜日と重なっているヴァレンタインの日にも」という一節がある、ということを記したと思う。

 実はそのとき、わかっていたのだが――。
 サビの部分がこうなっているのである。

 Darling' イースターまで
 Darling' 待っているわ
 Darling' バラをそえた
 Darling' 絹のドレス


 川島なおみさん……(というか、作詞をした田口俊さん)、灰の水曜日がヴァレンタイン・ディのときは、自動的にイースターが、今日4月1日、つまり「エイプリル・フール」になっちゃうんですよ!

 つまり、実は――エイプリル・フールにヴァレンタインの答えを待っている、という抜けた歌詞になってしまっていたのである。「Darling' エイプリル・フールまで待っているわ」では、なんとも、洒落にならない。

 まあ、生カト信者でもなければ、あんまり安易にカト用語は使わないほうがいいよ、という、悪い一例ではあるかもしれない。

 ところで、わたしは昔っから、「エイプリル・フール」が大嫌いである。
 一時、企業がカネをかけて「エイプリル・フール用サイト」などをつくっていた頃があり、そういうのも「なんとも莫迦莫迦しいことを」と、冷めた目で見ていた。

 今年は「エイプリル・フール」と「イースター」が重なるので、商魂たくましい広告代理店がどちらを推すのかと様子を窺っていたのだが、どうやら「エイプリル・フール」はカネにならないので、やはり「イースター」でいくらしい。やめてくれよ、まったく。クリスチャンじゃない人間に「イースター」を云々してほしくない(「【カットリク!】イースターを流行らせないで!」参照)。

 今年は「イースターエッグ」を模して「卵フィーチャー」でいくようだが、本物のイースターエッグの意味も知らずに「卵、たまご、タマゴー」ではシラけてしまう。



 もともとの「イースターエッグ」の由来は(実は諸説あるのだが、わたしが好きなのは)、どこかの貴族(王様だったかな)が、「キリストの復活などというものは、ニワトリが色の着いた卵を産むくらいありえない」と言い、その年のニワトリが色の着いた卵を産んだものだから、驚いてイエスの復活を信じるクリスチャンになった、というもの。
(この説はおそらくWebではなく活字で読んだのだが、数年前から書斎を探し回っているのに、どうにも原典が見つからない)。

 現代に生きる皆様はご存知のとおり、ニワトリに色の着いた卵を産ませることなどは簡単である。飼料に色を加えればよいだけだ。おそらく、ニワトリの世話係とかがクリスチャンで、そのトリックを使ったのだろうなぁ、などと夢が膨らんだりする。

 ベトナムには「CAFE GIANG」という「エッグコーヒー」が有名な店があり、いままで一切、暖簾分けをしないできたのだが、今年2018年4月、横浜に初めて2号店ができるのだという。
 エッグコーヒーは、まずふつうにベトナムコーヒーをつくって、卵の卵黄とコンデンスミルクを混ぜてできたフォームを上に乗せてつくる。

 見よう見まねで試してみたが――



 うん、けっこう美味しい出来だった。もうちょっとコンデンスミルクを多めにしてもよかったかな、という感じだ。
 まだお客さまにお出しできるような味ではないが、細君と二人なら、これで「ハッピーイースター」である。

 というわけで、世界中のクリスチャンの皆様、「主のご復活、おめでとうございます! 神に感謝! アレルヤ!!」

 えっと、仏教徒の皆さんは、4月8日の灌仏会を祝ってくださいな。ハイ。

(真面目な話、カト側は教皇庁から「2018年灌仏会に際しての教皇庁諸宗教対話評議会から日本へのメッセージ」というのが出て、他宗教ながら「友愛の精神を持って(中略)喜びの挨拶を申しあげ」ているのですよ)
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記