2019年08月07日

【日記】イケアにみる印象と実際

 もう10年以上も前になる。私の住んでいる地方都市からちょっと離れたところに、北欧家具の店「イケア」ができたのであった。
 特に家具を買う用事はなかったが、大きなショッピングモールも近いこともあり、その帰りに寄ってみたのである。

 なんとなく、北欧家具店ということで、根拠はなにもなのだが、品質も良く、古いものを大事に大切に使っていく、というような、そんなイメージがあった。
 通して見ていって、洒落た感じの家具が多いのが気に入った。
 日本での対抗店はニトリよりも無印良品という感じがした。なにより、デザインがシンプルでいい。
 いい感じのウォールランプがあったので、書斎での読書用にひとつ購入。家に帰って壁面につけてみると、なかなか具合が良い。


(こんな製品。左右のロッドの長さを調節したり、電灯部分を壁に向けて間接光にできる)

 ブログに載せているいろいろな写真からおわかりいただける方も多いかもしれないが、わたしは「めちゃくちゃ明るい室内」が苦手である。室内の灯りは間接光がよい。このあたり、イケアのウォールランプは「さすが北欧」という感じで良かった。いや、北欧だからということになんの根拠もないのだが、高緯度のイメージでね、あくまでイメージ。

 このウォールランプが、ある日を境に点灯しなくなってしまった。球切れだろうとIKEAへ行って、同じ型番のものを買って交換してみる。これで解決、と思ったら、あら、点かない。よく調べてみたら、なんと付属の変圧器の方が故障していた。


(換えの電球自体はIKEAでもまだ扱っていた。IKEAロゴがおわかりいただけるだろう。今はもうないかも。とはいえこれは規格品だからIKEA以外でも買える製品)

 ムダになってしまった買い物にガックリしながらも、ウォールライト自体はけっこうお気に入りのデザインであるし、イケアは北欧家具の店であるということから、そう廃版などすることもなく同じ製品を売り続けているだろう、修理もできるだろうと思い(イメージ先行。根拠なし)、問い合わせてみると――

「申しわけありませんが、弊社では修理サービスはいたしておらず、変圧器などのパーツのみ販売については行ってない状況でございます。該当のライトは廃番となっております。なにとぞご理解うけたまわりますようお願い申しあげます。これからもニケアをよろしくお願いいたします」

「がーんだな……」
 いや、ショックだったのは、ウォールランプがもう直せないからというより、わたしが勝手に持っていた「イケアは北欧家具の店だから、古いものを大切に使っていく品質もいい製品を出している」というイメージが、根底から覆されてしまったことであった。
 それまで興味がなかったので検索することなどなかっったのだが「イケア 品質」で検索してみると、あらら、あら、ふーん、そうか、そうなのか。

 北欧家具の店、ということで、勝手なイメージを持っていたわたしが悪かったのである。

 これでイケアと縁を切ったかというとそうでもなく、別のウォールランプを二種類購入したり、別の買い物をして、それが不良品で交換などもしている。
「そういう店」だと最初から思ってつきあえば、特段、腹をたてることもない。ウォールランプも「壊れたら修理はできない製品」と納得の上で使っている。

 その昔、わたしはソニー党であった。テレビ、ビデオ、レーザーディスクはもちろん、オーディオ関係や電話機、そのアクセサリまで、全部ソニーで揃えていた。
 今では誰でも「ソニータイマー」という言葉を知っているくらいだが、確かにソニー製品は一年を越えると良く壊れた。昔は街にソニーサービスの事務所があったので、数ヶ月に一回はなにかを持ち込んでいたものだ。

 そんなに故障ばかりするソニーのなにが好きだったのかというと、デザインなのであった。家電家電した他社のそれと違い、ソニーのそれはわりとシンプルで、多機能ではあってもそれを感じさせない美しさがあった。
 今は、ソニーが変わったのか、自分の感性が変わったのか、ソニー製品をそれほど美しいとは思わない。
 今はソニー製品をほとんど持っていないことは、以前「【昭和の遺伝子】VAIOのMPEGはなぜ駄目だったか」に記した。

 デザインに定評があると言えばアップル社の製品だが、これも自分は、アップルIIの頃から美しいと思ったことがない。どうもアップル社の製品のデザインと自分の感性は性が合わないらしい。
 実はマッキントッシュII Siを持っていた時代もあったが、OS的にも、あの「中身がブラックボックス」的な感じがイヤでメインで使うことは一度もなかった。


(書斎の隅に放置されていたマッキントッシュII Si。自分でもこの記事を書くまで、持っていたことを忘れていた)

 わたしのプログラマ、エンジニア仲間で「マックが好き」と本心から言っている人は一人もいない。これが類友なのか、(本当の意味の)ハッカー連中の本心なのか。まあそれは触れないでおこう。

 モノにつけ人につけ、持っていた印象と実際が違うことなど、珍しくもないことである。
 イケアはイメージ戦略がうまくいった例だと思う。実際の品質は良いとは言えないのに、わたしのような「それでもいいや」という顧客を得ることに成功している。

 ソニーはイメージ戦略はうまくいっていたが、実際の品質の悪さに顧客を手放した例として、アップルは(極めて個人的にだが)イメージ戦略に落とされなかった例としてあげてみた。
 こういうのも人それぞれだろう。だからこそ世界はおもしろいし、うまく回っている。

 わたしが細君に持っていた最初の印象も、実際とは違っていた。
 これはそのうち、別記事で触れよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年08月03日

【日記】本物のお巡りさんを詐欺師扱いしてしまった話

 ある日のこと。実家に帰ってみると、老父が「これから警察がくるから」という。
 話を聞いてみると、なんでも、オレオレ詐欺の亜流の特殊詐欺電話がかかってきて、その件で警察に連絡したので、調書を取りに警官がくるというのだ。

 詐欺電話の概要はこんな感じだったらしい。

 詐欺師「こちら、○○中央警察署生活安全課の××ともうしますが、通帳を落としませんでしたか?」
 ふつう、通帳など持ち歩かないものだが、おり悪く――本当にタイミングというものがあるものだ――父は昨日、通帳を持って街にでていたのだという。
 それで父は少しあわててしまい、通帳が手元にあることを確認し、そこで老母と電話を代わったという。
 詐欺師「ほかにも通帳はありませんか? 実は、先日、特殊詐欺のグループが捕まりまして、そこにあった六十四の通帳の中に、結城(父)さんの通帳があったんですよ」
 母「(怪しいと踏みつつ)通帳なら全部ありますよ」
 そこで押し問答のような感じになり、詐欺師は――
「こちらにご来署いただいてですね、ご確認いただきたいんです」
 と、なぜか家から外に誘導しようとする。
 母はしっかりきっぱりしているので――
「嫌ですよ。雨が降っているのに。○○中央警察署の電話番号はなんですか? あとでこちらから折り返し電話します」
 詐欺師「xxx-xxx-0110です」
 母「じゃああとでかけ直します(チン)」
 ちなみに、詐欺師からの電話は非通知であった。

 そして警察(110番)に電話したら、警官が調書を取りに来るという。そして最初のくだりになるというわけ。
 これは自分もついていた方がいいな、ということで、待つこと十数分。カッパを来た重装備のお巡りさんが玄関チャイムを鳴らしてきた。わたしがインターホンに出て、思わずモニター越しに(ちょっと冗談めかして)「本物ですよね?」と一言言うと、お巡りさんはとてもまじめな顔で「もちろんです」。
 ドアチェーンを開けて玄関へ通すと、カッパを脱いで、丁寧に警察手帳を見せてくれた。

 実家の電話機はダイニングにあるので、そちらへお通しして、調書取りが始まる。だいたい、上記のようなことを説明して――と、そのとき、電話が鳴ったのである。

 顔を見合わせる警官とわたしら家族。これは? ひょっとして?

 わたしが取ると――
 ?「結城さんのお宅ですか?」
 わたし「どちらさまですか?」
 ?「○○中央警察署の△△ともうします」

 こ、これは、詐欺師再びキターッ? 横にいる警官に聞こえるよう、わたしは復唱する。
 わたし「○○中央警察署の△△さんですね」
 横の警官の肩についた無線機がコールを寄越してきたので、彼はサッとそれを手で覆った。わたしもとりあえず芝居を続ける。
 ?「それでですね。さっきの電話ですが、あれは全部、相手の嘘ですから」
 わたし「えっ、さっきの電話は、全部嘘なんですか?」
 ?「はい、そうです。それでですね――」
 ここからの会話が、どうも噛み合わない。こちらは相手を詐欺師と決めつけて、横にいる警官にわかるよう話すのだが、なかなか用件に入ってこないのだ。
「この電話、スピーカホンにできますか?」と、横の警官がささやくので、いよいよ勝負か? とスピーカホンのスイッチを入れる。と――。
 警官「もしもし。こちら○○署の☆☆です。すでに現着しております」
 ?「もしもし。ああ、そうでしたか。それではよろしくおねがいします」

 え? ええー? えええーっ?

 なんと、電話の相手は、本物の○○署の警察官だったのだ。どうも横の警官が無線で署の方に現着を伝える前に、本物の警官が心配してこちらに電話してきたらしいのだ。
 なんとわたしは、本物のお巡りさんを、詐欺師扱いしてしまったのである。
 ガックリしてへたりこむわたし。苦笑する老父母。警官がまじめな顔で、一笑もせず――
「そのくらいの警戒心があった方が、わたしどもの方も助かりますよ」
 と、言ってくれたのが幸い。

 ちなみに、詐欺師が言った番号、xxx-xxx-0110は、○○中央署どころか、ぜんぜん違う病院のそれだった。どうやら最後の0110がそれっぽいのででたらめを言ったようだ。

 というわけで、我が実家の特殊電話詐欺騒動はおしまいである。その後、特になにも悪いことは起こっていない。
 ただ不気味なのは、この詐欺師が、通帳をおとりに、父母を家からおびき出そうと躍起になっていた、という点である。これは新手で聞いたことがある、電話で巧みに相手を誘導し留守にさせ、その間に空き巣に入るという手法の詐欺・窃盗犯グループだったのかもしれない。

 くわばらくわばら。
 特殊詐欺グループも、次から次へと新手の手法を編み出してくるが、粗暴犯になりかねない空き巣、強盗のたぐいは恐ろしい。
 皆さまもお気をつけて――。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年07月31日

【映画評】天気の子(ネタバレあり)

「君の名は。」でスマッシュヒットどころか場外大ホームランをかっ飛ばした新海誠監督の新作ということで、とても注目されている作品。わたしも楽しみに、さっそく細君と観賞してきた。

 これだけの話題作となると、どうしても評者は「作品から見る監督論」、「作品を通しての世界観論」などを論じたくなると思うのだが、「天気の子」においてそれをやることは、むしろ新海監督の罠なのでは、と感じる。作中に「君の名は。」のキャラクターが出てくるのは、スターシステムを取っているだけで、それ以上の意味はない。
 なので、本記事では、「天気の子」以外の新海作品には一切触れない。監督論も意図的に避けようと思っている。

 ざっとあらすじ――西暦2021年の夏。東京は梅雨があけることなく、毎日、ひどい雨が降り続いていた。
 家出して東京へやってきた男子高校生ホダカは、東京で野良生活を送った末に、旅中で知り合った男性、スガのところに居候することになる。またひょんなことから「100パーセントの晴れ女」ヒナと、その弟ナギとも知り合いになっていた。
 インターネットを使い、彼女の能力を使ってイベントなどで「晴れ」を呼ぶ商売を始めた三人。
 だが、その能力は使えば使うほど「晴れ女」の存在を贄としていたのである。
 警察に追われ、雨の街を走り回り、やっとのことでラブホテルに泊まる三人。そこで、ヒナの能力が贄の代償であることを知ったホダカ。そして翌朝、ヒナは消えてしまう。そして東京に突然の夏が訪れる。
 ホダカは警察から逃げ、ヒナが「晴れ女」の能力を得たという廃ビル屋上の神社へ走る。スガの姪ナツミの協力もあり、ホダカが廃ビル屋上神社の鳥居をくぐると、天上でヒナと再会することができた。ヒナの両手を握り、彼女を救うホダカ。
 気がつくと二人は神社の鳥居のところに横たわっている。
 三年後――その間、東京には雨が降り続き、水没している。大学進学のため東京へ出てきたホダカは、ヒナと再会を果たした。
 ホダカは思う。「僕たちは世界のありかたを変えてしまった。でも、僕たちは大丈夫だ」、と。


 東京が長雨で水没する、というモチーフは、けっこうストーリーテリングでは珍しくないように思う。30年以上前、場末の小劇場で観た芝居も、東京が長雨で水没し、最後は雪になるという話であった(細君は「有名な脚本なんだけど」というが、このネット時代でも見つからない)。
 また、安部公房も「水中都市」で都市水没を描いているし、「第四間氷期」も近いかもしれない。
 マンガでも似たモチーフの作品はあったはずだが、パッとは思い出せない。似たようなものとしては――


(大石まさる「環水惑星年代記」より引用)


(吉富昭仁「地球の放課後」2巻より引用)

 などなど。都市が水没するというアイデアは、それだけストーリーテラーには魅力あるモチーフなのだということなのだろう。
 そういえば、こんなアンソロジーも――


(鶴田謙二ほか「日本ふるさと沈没」中表紙より引用。日本の各地が沈没するストーリーを、いろいろなマンガ家がギャグありシリアスありで描いている)

 ということなので、「長雨で東京が水没する」というアイデアは、そうオリジナリティのあるものではない。
 そういうわけではないのだが、「天気の子」を観終わった後の感覚は、どこか既視的な印象であった。
 いやしかし、これは印象であって、「ストーリーがナニナニに似ている」、「設定がアレコレに似ている」というものではない、なにかボワッとした印象の既視感なのである。

 それを言語化するのにしばらく手間取っていたのだが、やがて、ハッと気づいた。
「天気の子」は「18禁エロゲーを全年齢向けに手直しした作品の、ノーマルエンドのストーリー」を体験したときの印象なのだ。「ベストエンド」でも「バッドエンド」でもない。なにかモヤモヤが残る、でも「まあこれでもいいか」という気分にさせるストーリーである。

「天気の子」は、いわば「完成された未完成」作品なのである。
 さらに印象を深めると「エッシャーのだまし絵を立体化したもの」にも見える。一か所(観劇者の視点)から見ると、このだまし絵はたしかにだまし絵として見えるのだが、ちょっと脇にズレて見ると、そのトリックがわかる、というような。


(千葉市科学館にある「立体だまし絵」を許可をいただいて撮影。撮影位置からでのみ、三次元ではあり得ない「だまし絵」が完成する)

 もし、この「天気の子」を「ハッピーエンド」にしようと考えたのなら、ストーリーには、もっと大掛かりな仕掛けが必要になってしまう。たとえばこんな物語――

 東京の天候を自由に操ることを目的とした組織が存在し、その研究所が廃ビルの地下にある。そこで実験中、装置が暴走し、たまたま廃ビルの屋上にいた少女ヒナにエネルギー体が宿ってしまった。それにより、彼女は願うだけで天気を限定的に晴好にする能力を得てしまっていた。
 特異体として彼女を追う組織と、それに巻き込まれて彼女を守るホダカ。ラブホテルで一泊し(ここで18禁版はエッチ)、彼女を組織に奪われてしまう(警察官に組織のスパイがいてもよし)。
 スガの姪ナツミの協力もあって、敵の本拠地廃ビルでヒナと再会するホダカ。ヒナはエネルギー体を変換しないと存在が消えてしまう。


(えすのサカエ「ビッグオーダー」9巻より引用。こんなイメージね)

 すったもんだがありまして(組織自体は悪でも、実はヒナを救おうと動いていたという設定でもよし)、ヒナを普通の女の子として取り戻したホダカ。東京にも晴天がもどり。大団円。


 いやぁ、つまらない話だ(が、どんな名作でも、最初の発想はこんなもの)。ここでは「謎の組織」とか「研究」とかの言葉を使ったが、これは別にオカルティックな別の概念でも良い。為念。

 さて、「天気の子」でも、どこかでホダカの選択肢を違えれば、こういうルートに入って、全貌が見えてきたのである。
 ところが、ストーリーは、わざと「日常の延長線上」を選択し、「100パーセントの晴れ女」という眉唾な設定をだんだんと現実のものにしていくだけで、やがてヒナが消失するという明らかな超常現象からストーリーが急転直下していく。

 もちろん、これはすべて、わざとやっていることなのだ。「完成された未完成」である。

「天気の子」では、主人公を含め、思春期の少年少女の描き方がうまい、と感じた。思春期の少年少女は「完成された未完成」である。彼らはなんでもできる(そう、銃を撃つことだって)。しかし、現実にはホテルに泊まるという簡単なことさえ断られてしまう、なにもできない存在だ。

「完成された未完成」――それこそ、青春そのものではないか。

 結局、ホダカもヒナも、東京が水没したのは自分たちのせいだと思いながら生きていくことになるが、オトナのスガはそんな戯言をとりあったりしない。これも、子どもは自分たちの見ている視界でのみ世界を完成しているが、実際は現実の仕組みを知らず、世界はただそのままに動いている、ということを表しているシークエンスなのではないか。

 おそらく、ホダカとヒナは、将来的には結ばれない。それは二人がオトナになり、二人のせいで東京が水没した、という共同幻想が崩れていくからである。その予感があるからこそ、ホダカは今、「僕たちは大丈夫だ」と言わなければならないのである。

 他作品と比べて論じない、と冒頭に書いたが、わたしは「君の名は。」より、本作「天気の子」を気に入った。だが、興行的には成功するだろうが、評価はどうだろうか。上記の「完成された未完成」ゆえに、本作の持つ魅力が逆にくさされるのは残念に思う。

 ところで、劇場はリュックを背負った中高生でいっぱいであった。ふだん映画館にこないような層が、おとなしくスクリーンを見ているさまは微笑ましい。誰もスタッフロール中に立たなかったのも好ましく感じた。

 でもね、中高生の男子諸君! ヒナちゃんみたいに、手足の長い美少女には、そうそう巡りあえないのだよ。
 だからそういうチャンスがあったら、ノーマルエンドの選択肢を選ばず、勇気を出してベストエンドの選択肢を選ぶのだぞ。


(映画館の立て看より。ヒナちゃんカワヨ)
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年07月27日

【日記】アイデアにパクリはない

 数々の秀作、傑作アニメを生み出してきた、あの「京都アニメーション」で、凄惨な事件が起こってしまった。
 犯人とおぼしき男は「小説をパクられた」という強い恨みで凶行に及んだのだという。しかし犯人は小説家でもなければ、小説をどこかに発表した様子もないとのこと。

 おそらく、プロの小説家、マンガ家、脚本家など、ストーリーテリングをなりわいとしている人々は、この犯人の供述と犯行に、背筋に氷柱が突き刺さる思いをしたのではないだろうか。
 なぜといって、プロのストーリーテラーならば必ず、一度や二度、こういう「おまえの作品は俺のパクりだ」という、かなり強迫的な思考をお持ちの方々からの、脅迫ともクレームとも、あるいは妙に親密なふうを装ったファンレターをいただいたことがあるはずだからである。

 わたしも、何度か似たような経験がある(「【回想録】著者近影」参照)。
 また、以前にも書いたが、統合失調症の方が書いたアイデアノートを拝見したことがあり、そこには、「エヴァンゲリオン」から「マトリックス」、萌えアニメから流行歌、パソコンのソフトから関連商品まで、数センテンスのメモの走り書きがあり、彼はわたしに――
「これ全部自分のアイデアがパクられたものなんですよ!」
 と、早口に訴えたのだった。

 また、別の人だが、やはりちょっと強迫的な方に、今、どんなアイデアを考えているんですか? と聞かれたとき、わたしが暖めていたアイデアのひとつを話すと「それ、どっかで聞いたことがあるなぁ」と答えてきたのである。
「それ、どっかで聞いたことがある」から「それ、俺が考えたアイデア」までは、たったの数歩である。わたしはゾッとしてしまった。

 ひとつ言っておくが、わたしはわたしが話したアイデアがわたしが考えた唯一無二のものだとは思っていない。「【日記】人は自分の経験内でしか物事を語れない時期がある」でも書いたとおり、アイデアというものは海の水をすくうようなもので、わたしが考えたアイデアを、すでに誰かが形にしていてもおかしくはないのだ。だから、本当に四方八方にアンテナをのばして情報を蓄えている方なら「それ、○○でもうやってますね」と指摘してくれる。
 た・だ・し、「どっかで聞いたことがあるなぁ」などという曖昧かつ失礼な言い方はしない。繰り返すが「どっかで聞いたことがある」→「俺の頭ん中で聞いたことがある」→「あっ、それ、俺のアイデアだったじゃん」までは、ほんの数ステップなのである。

 この事件の犯人は、おそらくかなりの確度で統合失調症だと思われる。統合失調症の者が計画的犯罪を行うことに違和感を持つ方がいらっしゃるようだが、精神障害と知的障害は違うということに留意されたい(「羊たちの沈黙」のレクター博士は、精神障害者であっても知的だったでしょう?)。統合失調症も病症末期なら人格も荒廃するくらいにひどくなるが、そうでないなら、陽性期に計画犯罪をすることは十二分に可能である。

 統合失調症を患う人は、実は珍しくない。100人の人間がいれば、一人はこの病にかかるという統計は有名である。ただし、その上で、きちんと医療機関にかかる者、となると、グンと数字が減るのではないだろうか。

 わたしに統合失調症患者を差別する意図はない。ただしそれは、きちんと医療機関に通い、主治医の指導のもと、服薬を怠らない、病識のある患者のみに、である。
 今はいいクスリも出ていて、服用を怠らなければ病気も寛解し、社会復帰もできる時代なのだから。

 最後にとどめをひとつ。
 この日本では「アイデア」は著作権で保護されない。著作権は作品にのみ発生する権利であり、ノートに発想メモを走り書きしたり、誰かに話しただけの「アイデア」は、誰も守ってはくれない。つまり、アイデアにパクリはないのだ。
 悔しかったら、拙速でもいいから、なにか作品の形にするしかないのである。
 本来、著作権は発表せずとも自然発生するとされているが、このインターネット時代、しかも、htmlを使わずとも小説やマンガを発表できるフィールドがある現在、自分のHDDにだけ入れておいた(という)作品≠ナ著作権を主張するのは無理がありすぎる。

 とにかく「そのアイデア、どっかで聞いたことがある」としょっちゅう感じる方、「世の中の作品はおれのアイデアのパクリばかりだ」と始終感じるという方は、お願いです。その作品をつくったクリエイターに思考を集中させず、まずはちゃんとした精神科にかかってください。そして出されたお薬を、きちんと毎日、服用してください。

 うつ病は「こころの風邪」というキャッチフレーズで、患者が精神科にかかるハードルを低くしたが、統合失調症も「こころのガン」などと銘打って、「手遅れにならないうちに治療をしよう」というムーブメントを起こせないものだろうか。
 そのためにも「あなたの隣にも、統合失調症の人は確かにいる」という、しごく当たり前のことを、もっと喧伝してもいいのかもしれない。

「京都アニメーション」の悲劇に対して、わたしができる精一杯のことは、こんな拙文を書くことしかないのだが、それでも少しは、これから同じようなことが起きないための抑止力になればと思って書き連ねてみた。

 被害者の安らかなお眠りと、一刻も早い治癒。加害者の命が助かり、事件の全容が明らかになることを、今は、心より願う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年07月24日

【日記】ペトリコール

 こう長い梅雨が続くと、雨のにおいに風情もなにもなくなってしまう。狭いバスの中でも、撥水衣類や傘のにおいに慣れて、俳句の季語にもなりはしない。
 やはり天気は晴れがいい。昔は暑い季節が苦手だったが、今は夏が好きだ。もちろん、冷夏の方が過ごしやすくていいけれど。

 わたしと細君が交際を始めた頃は、会うたびにいつも雨で、お互い、どちらが雨男、雨女なのかと苦笑したものだった。

 夏の暑い日などに、突然降ってくる雨には、独特のにおいがある。これを「ペトリコール」と呼ぶ。Wikipediaによると、1964年に作られた造語とのことだから、けっこう新しい言葉だ。ギリシャ語で「石のエッセンス」を意味するのだという。

 実は、カトリックの初代教皇である使徒、聖ペトロも、ギリシャ語で「岩」という意味である。ペトリコールは「ペトロの汗」でもあるわけだ。
 ペトロは古いクリスチャンだとペテロと言ったりもする。もとの名はシモン。イエスに「ケファ(石)」というニックネームをつけられ、それのギリシャ語訳で「ペトロ」と呼ばれるようになったのである。

 英語のピーター、フランス語のピエール、イタリア語のピエトロ、ドイツ語のペーター、スペイン語のペドロ、ロシア語のピョートル。これらもみな、もとは「ペトロ」に由来している。

 カトリックは洗礼を受けると洗礼名、堅信を受けると堅信名、そして修道者になると修道名をつける。これらは過去の数多くの聖人からとることが多いわけだが、修道者(司祭)レベルになると、わりとポピュラーな聖人から取ることが多くなってくる。特にペトロとパウロは二派に分かれるくらいの人気である。

 ペトロはパウロに比べると、ずいぶんと人間くさい。有名なのは、イエスに「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告され、そのとおりにしてしまったこと。
 このとき、ペトロは――

 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイによる福音書 26:75)


 まるでそのシーンが目に浮かぶような場面である。
 先に「ペトリコール」を「ペトロの汗」と呼んだが、「ペトロの涙」としたほうが詩的かもしれない。

 イエスの磔刑死と復活後、ペトロは使徒のリーダーとして、力強くその福音を伝える者となったわけだが、それでも食事禁忌の件で、生けるイエスに会ったこともない使徒(ただし自称(笑))パウロに怒られたりして、実に人間くさい。

 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。(ガラテヤの信徒への手紙 2:11)


 この主語(わたし)はパウロである。
 このときの様子を、レンブラントが描いたとされるのが「賢者の対話」という一枚だ。



 そんなペトロの人間的な弱さを好きな司祭が、これを修道名にしているような気がする。

 ちなみにパウロは「小さき者」を表すギリシャ語だが、パウロ本人は(手紙では)態度がでかいし、やたら小難しい理屈を並べるのが好きなタイプである。
 パウロについて書きたいことはまだまだあるが、それは別の機会に。

 夏の夕立ちで「ペトリコール」を感じたら、2000年前の人間くさい初代教皇のことを思い出していただければ幸いである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記